宿屋の娘 一
四部以降に戦争(殺人など)の描写が含まれます。
うちは、代々宿屋だ。大河枝地帯の南側では一番大きい町ユルペンニアの、際の、景色の良い所に建っている。町壁の外の丘も、ザーザン河の大元も、遠くのネルフーリの森も見えるのだ。その中でも一番景色のいい四階の角部屋には、ずうっと長いこと、お客さんがいる。
お客さんは、魔法使いだ。
銀の長い髪で、女の人のように編んでいるけれど男で、川のような緑色の目をしている。とてもきれいなのだけど、いつも小難しい顔をしていて、実際難しいことを考えていて、あんまり愛想がない。
でも町の人にはすごく尊敬されてる。とてもすごい魔法使いで、困ったときに話をしにいけばいい答えが返ってこないことはないし、未来のことも遠くのこともお見通し。東の隣町に行ってくると言って、普段着で朝出て行って晩には帰ってくる。分流を渡って森を通って戻って来たなんて絶対ウソだと思うのに、ついでに隣町のおじさんからの手紙を貰ってきたりする。
とても変な人だ。あんまり笑わないし、あんまり怒らないし、泣いたとこは見たことがないな。けっこう長いつきあいだけど。友達より長いけど。だってこの人、私が生まれたときからうちに居るんだもの。
でも、私はこんなにおっきくなったのに、この人は大人のまんま。おじさんにもおじいさんにもならない。魔法使いはそういうものだっていう。そういう約束なんだって。誰との約束なのかは教えてくれない。
服だっていつもあまり変わらなくて、上着はずっと同じ、長い変なのを着てる。土色の、ふかふかですべすべのそれがないと、空が飛べないんだって。
私は一度だけ、この人が飛んでるとこを、見たことある。おつかいから帰ってきたとき、おっきな鳥がうちの屋根に止まったなと思って見てたら、その鳥が器用に窓を開けて部屋に入ったところ。慌てて階段を上がって部屋を開けたら、そこには鳥なんかいなくて魔法使いが一人、椅子に座ってるだけ。追いだしたの? それとも、食べたの? って聞いたら珍しくおかしそうな顔をして、はじめて、魔法のことを教えてくれた。いつもは腰に結んでいる上着の袖に腕を通して頭まで被ると、鳥になれるんだって。
鳥になってみてとせがんでみたけど、やってくれなかった。その後は一度も見てない。
魔法使いは今、私が運んできた、私の作ったスープを食べてる。
……この人の魔法のことはよく知らないけど、この人のことはちょっと知ってる。食べるのが下手で、いっつも、パンを先に食べ終わってしまうの。今日もスープは半分ぐらい残ってるのに、パンはもうない。
「手伝いをした?」
彼が顔を上げてこっちを見た。スープに浮いたネギの輪っかをつついてる。
「見てたの? 魔法?」
「味が違う」
身を乗り出して訊くと、首を振られた。そんなことには魔法を使わないのだって。
じゃあどんなときに、どんなふうに、どんな魔法を使うのかしら。せっかく魔法使いなのに、あんまり使わないのはもったいないと思う。
「おいしくない?」
「そうでもない」
話はあまり長続きしない。魔法使いがすぐに、本を閉じるように終わらせてしまうから。だから私はいつも掴みどころを探さなくちゃならない。
そうでもないって、どうなの。
「夜に、稚児の落書きのような珍妙な生き物を見つけたら、近寄るのではないよ」
言う前に、スープを食べきった彼は皿を差し出した。一緒に言葉が出てきたので、きょとんとしてしまう。
「特に、蜥蜴には」
「とかげ?」
「大きな、黒い蜥蜴だ。星の目を持つ。夜に住むものの中でもっとも恐るべき眷属だ」
皿を受け取って聞き返すとうなずいた。言いながら彼は、もう外に出る支度をしている。あの上着を着て、ベルトを止めて、靴を履きかえている。
壁にかけてあった緑色の草を編んだ網を掴んで続け、私のほうを向く。変な網よりきれいな色の、川底のような色の目が二度まばたきをした。
「肝は灼熱と極寒とを癒し、皮は闇に身を溶き、目は道を明るく照らし諸々の邪悪から魂を護る。そして何より尾は――箒星の速さで千里を駆けることができる」
魔法使いの言葉はいつも難しい。きっと、簡単に言う気がないのだと思う。でも、伝えたいことだけは簡単に言う。
だからつまり、この話の肝ってやつは、トカゲの肝がどんなものかとかそういう話では無くて、トカゲに近づくなという、ただそれだけのこと。
あとは、私が訊きそうなことを先回りしてぺらぺらと喋っているだけ。いつも私が、魔法使いがなにかの名前を出すと、それが何で、何に使えるのかを尋ねるから、それを先に喋っているのだ。
「効用は多いが、彼奴は危険に過ぎる。我々でも簡単に狩れる手合いではない。御生の月が近い今時期はお前たちの目にも見えるようになるから、注意するのだ」
そうして喋るだけ喋って、本を閉じるように話を終わらせる。
緑の網を持って、同じように並んでいる中身の違う袋を、選んでいないようにさっと持って担いで、魔法使いはドアに向かって歩き出す。私は皿を両手に後ろについた。
「……狩りに行くの? 今日は何を捕まえるの? トカゲ?」
「石の下の小人から歯を引っこ抜いてくる」
「なにそれ、怖い。何に使うの?」
魔法使いは狩りをよくする。空を飛べるのは上着の力であるように、魔法使いの魔法は、魔法使いでは無くて、魔法使いが捕まえる獲物の力なのだという。魔法使いはその力の使い方を、教えてもらった人なのだって。誰に? ってことは、やっぱり訊いても教えてくれなかった。
小人の歯では何ができるのか。彼は教えてくれそうだったけれど、ドアを開けた途端、教えてくれなくなった。ああもう、間が悪いんだから、お母さんったら!
「イダ! お客さんの邪魔をするんじゃありません。食事を運んだら部屋のお掃除をなさいと言ったでしょう、もう……」
廊下にいたお母さんが魔法使いと、その後ろで彼の裾を引いていた私を見つけて声を上げた。隠れようとした私の背中は彼に押し出されて、お母さんに引っ張られた。これではもう、小人の話は無理だ。
お母さんがいると、魔法使いは私の質問に答えてくれなくなる。そもそも質問もできなくなってしまう。お母さんは私が彼のところに居ると、手伝いをしなくなるから怒るのだ。それに、魔法使いを困らせちゃいけないとも怒る。
お母さんは町の誰より魔法使いを尊敬していて、何故だか感謝していて、私にも感謝しなさいって言う。詳しいところは彼と言わない約束をしたからって教えてくれないけれど、私は一度、魔法使いに助けてもらっているらしい。
全然覚えてないから、私が赤ちゃんのころのことなんだろう。もしかしたらお母さんのお腹にいたころのことかも。大昔だ。
「町長が呼んでいますの。会ってくださいます?」
私を引っ張ったお母さんが、魔法使いを見上げて言った。ちょっと困ったような声だった。
「なにかあったのっ?」
お母さんに訊いても答えがないことは知っている。から、言ったあとで千里眼の魔法使いを見た。彼は右目を閉じてうなずいていた。見てる。見えてるんだ。
答えを待っては居られなかった。お母さんに早く行きなさいと背を叩かれてしまった。私は台所に皿を置いて、箒を持って二階の掃除をするしかないらしい。階段をちょっと降りたところで耳を澄ましてみたけれど、二人の話は全然聞こえなかった。
何があったかは知らないけれど、彼は、きっと行くだろう。断ったことなんてないんだから。狩りより先に行くかしら。




