胸の軋み
アンナへの手紙にはウィルがいる間に教会に会いに来てほしいと書いた。ウィルがアンナに会いたがっているのは間違いないと思ったから。その手紙は無事にアンナに届けられたと聞いたけれど、ウィルが教会を離れて、別の町の学校へ進む日までアンナは会いに来られなかった。
「仕方ないよ。まだ一年も働いてないんだ。休みだって取れないだろう。それにアンナ一人で旅は危ないし。」
夜、誰もいない礼拝堂で私と並んで腰かけたウィルは苦笑いして首を横に振る。誰より一番アンナに会いたいくせに強がりだ。
ウィルは明日にはここを出て、学校の寄宿舎に入る。そうしたら一年くらいは学校に通ってそれから先生になるのだ。とてもお似合いの良い職業だと思う。
「ウィル。頑張って、良い先生になってね。きっとなれると思うから。」
「ありがとう。チビ達のこと、よろしく頼むな。」
よろしく頼むと言われて、思わず笑みがこぼれる。この半年頑張った甲斐がある。ウィルに子供達のことを頼まれた。私も少しは役に立つと思ってくれたかな。
「もちろん。任せておいてよ。」
胸を張ったら、ウィルは目を細めて笑った。
「何その顔。おじさんみたい。」
「おい、おじさんって。」
傷つくなあ、といって頭を掻きながらウィルは笑う。でも本当にお父さんみたいな目で私を見ていたと思う。その視線にチリリとどこかが痛んだ。
「エマが卒業する前に一度くらいは会いに来られると思うよ。でも、何かあったら遠慮なく手紙寄こして。すぐに飛んで来るから。」
無理な癖にそんなことを言う。でも、もしかしたら、ウィルなら、本当に駆けつけてくれてしまうかもしれない。
「分かった。」
きっと手紙は書かないけれど、私は頷いた。これからは、ウィルは自分のことだけ考えてほしい。これまでの一年、何もかもを私達のために捧げて来てくれたから。もう我慢しないで欲しい。
「でも、とりあえずは自分の青春を取り戻しておいでよ。かわいい彼女でも作ってさ。」
そう言ったら、ウィルは目を丸くしてから珍しい苦笑いを浮かべた。
「頑張るよ。」
「ふふふ。そうそう。頑張って。」
言いながら、胸が軋む。その理由を知らない振りをして私は笑ってウィルを励ました。ウィルは、はは、と乾いた声をあげて笑う。それから何を話せばいいか分からなくなってただ彼を見ていると、ウィルは手を膝の上で軽く組んで少し俯いた。黒い髪がぱらぱらと零れてウィルの横顔を隠してしまう。
「はあ。寂しくなるなあ。」
ぽろりと彼が呟いたとき、背筋が震えた。それが何でか、しばらくしてから分かった。あの日以来、ウィルが弱音を吐いたのを初めて聞いたからだ。私は思わず彼の背中に手を添えた。
「ウィル。離れていても私達、ずっと家族だよ。ねえ、そうでしょう。ずっと一緒にいて、一緒に頑張るんでしょう?」
彼を励ますためか、私の不安を拭うためか。私がそう言うとウィルはこちらに顔を向けた。長い前髪越しに見える焦げ茶の瞳からは感情は読めなかったけれど、いつもよりも潤んで見えた。
「離れていても、ずっと一緒だから。」
私がそう言うと、ウィルの目が笑った。
「そうだね。家族だもんな。」
自分の言葉がウィルを笑顔にしたことは嬉しくて、それなのに家族という言葉にまた胸がぎしりと軋みを上げた。けれど私はそれには耳を塞いで、ただ頷いた。
私達は小さな家族。私の唯一の居場所。そこにヒビを入れて失ってしまうことがまだ何よりも怖かった。
翌朝、皆で乗合馬車の停留所までウィルを見送った。誰もが目を赤くして涙を堪えて彼の門出を祝う言葉をかけた。
「ウィル、頑張ってね。」
「今までありがとう。」
「次に会う時には俺の方が大きくなってるからな。もう簡単に拳骨なんかされないからな。」
「ウィル、帰ってくる?」
まだ孤児院を出る意味が分かっていない幼い子達は不安げに旅支度のウィルを見上げる。その一人ひとりにきちんと話をして、ウィルは旅立っていった。
ウィルを乗せた馬車がすっかり見えなくなった頃、ネルがとてとてと馬車の消えた方へ駆けだした。
「ああ、駄目よ。ネル。」
抱きあげるとむずがる様に唸り声をあげる。家族がいた頃からウィルに一番懐いていたネルにとってウィルの姿が見えないことは不安でしかたないのだと思う。
「うー。うー。」
唸りながら目一杯に小さな手を伸ばしてウィルの言った方を指す。
「うん。ウィルね、おでかけしたんだよ。遠くに行くからしばらく会えないんだよ。でも良い子でお留守番できるでしょう?」
ネルは私の顔を見てきょとんとした顔をする。
「一緒に待ってようね?」
ずっとウィルが戻ってこないので、やっとウィルが戻らないことを理解したらしいネルは大きな口をあけてすうっと息を吸った。
大泣きする。そう思った。けれどネルは顔を馬車の去っていった方へ向けると真っ赤にして眉を寄せて大きな声で叫んだ。
「うぃるー!」
立ち去り難くずっとウィルの消えた方を向いていた全員が目をまん丸にして振り返った。
「ネル?」
「うそ、ネルが喋った。」
もしかしたら、一生話せないかもしれない。お医者様からもそう言われていたのに。ネルは何度も何度もウィルの名前を呼んで、そして泣いた。
私は火の玉みたいに熱いネルを抱えたまま、どうしたらいいかも分からなくて一緒に泣いた。皆も泣いていた。ネルが私達皆の気持ちを引き受けて叫んでくれたようで。ネルは行かないでって言いたかったのかもしれないし、ありがとうって言いたかったのかもしれない。頑張って言おうとしたのかもしれない。その全部だったかもしれない。とにかく、その叫び声には小さなネルの気持ちがいっぱい籠っていた。
ウィル、ウィル。ネルが初めて喋ったよ。あなたの名前を呼んだよ。ねえ、聞こえた?
ウィルの背中を見て、一番ちびのネルが大きな大きな一歩を踏み出したから私達も負けていられない。次にウィルに会う時には、あなたがびっくりするくらいに皆大きくなっているから。だから心配しないで行ってきて。そして必ず帰って来て。