歪んだ気持ち
アンナは何日もずっとお医者様のそばで治療してもらっていて会うことができなかった。一日移動がお休みの日に騎士様が私達をアンナのところへ連れて行ってくれたけれど、やっと会えたアンナは体も顔も腫れていて、ひどいのはすぐ分かった。
お父さん、お母さん、お兄ちゃん。それにアンナまでいなくなってしまうの?
怖くて、怖くて。少しでもそのことを思ったら涙が出た。縋るようにウィルを見れば、青褪めて唇を噛んでいた。ああ、やっぱり悪いんだ。強く握られた拳の白く浮き出た関節にウィルの怒りややるせない思いを感じた。必死に立ち直って来たのに、どうしてこうやって私達から次々と大事なものを奪って行くの。村に戻った中であの日モンスターに襲われたのはアンナ一人。どうして、アンナなの。避難所を出る直前になって、私を召使い代わりに引き取ると言い出した遠縁のおじさんやおばさんじゃなく、アンナをいやらしい目で見ていた村の男じゃなく。どうして私の大事な人ばかり。
肩が震えて、声を上げて泣きそうになるのを我慢していたら肩をゆるく引き寄せられた。肩に乗せられた軽い手。反対の肩にぶつかった薄い胸。私の肩に手を置きながら円い瞳でアンナを見下ろしているのはルイスだった。
「アンナ、頑張って。」
誰も一言も出せないでいた大きな馬車の中で、ルイスの穏やかな声がぽとりと木の実が落ちるみたいに静かに降ってきた。
「絶対良くなる。だから頑張って。」
ルイスは真剣な眼差しで苦しい呼吸を繰り返すアンナに声をかける。
「良くなる?」
もう一度、絶対良くなると言ってほしくて思わず聞き返してしまった。ルイスは私に視線を向けた。彼の瞳には、静かな言葉とは裏腹に切実な願いがあった。
「信じなきゃ。信じなきゃ叶わないから。」
それを聞いてショーンが短く叫んだ。
「信じても。信じても叶わないことだって!」
私達は皆知っている。信じても、頭がおかしくなりそうなほど願っても、叶わない願いがあること。
「それでも、信じなきゃ叶わない。」
もう一度静かに、でもしっかりとルイスが言う。いつものおっとりしたルイスじゃないみたいに真っ直ぐに強い瞳でショーンを見ている。また静かになってしまった空間を次に破ったのはウィルだった。
「そうだな、ルイス。アンナを応援してやらなきゃな。俺達がアンナのことを信じてあげなくちゃ。」
かなり無理やりに笑顔を作って、ウィルが笑う。
「きっと、ちゃんと俺達の話を聞いてるぞ。起きたら、私のことを信じてくれなかったのかって怒るかもしれないな。ほら、励ましてあげよう。」
ウィルが「アンナ、頑張れよ」と言うと小さな子供たちも次々と続いた。私も声を出したいのに喉まで震えて声にならない。
「エマ、頑張って。」
励ます相手は私じゃないのにルイスは泣き止めない私の背中をさすってくれる。私はなんとか頷いてアンナに向かって「頑張って。」と呟いた。こんな小さな声じゃきっと聞こえない。思い通りにならない声がもどかしくて手を伸ばしてアンナの手を握った。むくんでいる熱い手を少しでも冷ますように自分の体の冷たいところを探しては、自分の手を冷やしてアンナの手を握り直した。
アンナ。負けないで。お願いだから元気になって。ウィルを一人にしないで。私達を置いて行かないで。
神様、お願いだからこれ以上私から家族を奪わないでください。アンナを返して下さい。
神様はきまぐれだ。
今度は私のお願いを聞いてくれた。夜明けとともに綺麗な司祭様が来て、たちどころにアンナを治してくれた。怖い顔のお医者様が「チビ共」と私達を呼んでくれて駆けつけるとアンナは息も楽そうで、顔や体の腫れもすっかり良くなっていた。どんな病も治してしまうという司祭様の治癒の祈りの話は聞いたことがあったけど、本当にこうやって病気を治すところを見たのは初めてだった。嬉しくて、また涙が出そうになる。けれど良かったね、と言いあいながら段々と心の底で湧きあがる思いがあって、私はそれを誰にも知られないように何度も押し殺した。
神様。祈りが届くのなら、どうしてお父さんやお母さんを助けてくれなかったのですか。
司祭様。どうしてあの日、私達の村に騎士様と一緒に駆けつけてくれなかったのですか。
お兄ちゃんはきっとさっきのアンナみたいに苦しんだ。そして助からなかった。(アンナは助かったのに!)
司祭様がいたら、お兄ちゃんともう一度会えたかもしれない。
そうしたら、私と一緒にまだあの村の家で当たり前の生活を続けられていたかもしれない。
こんなことを口に出したらいけない。思ってもいけない。それは分かっているのに、暗い思いはしつこく私の心を食らい尽くそうとする。素直にアンナの無事を喜べない自分が嫌で嫌でたまらない。私は薄情だ。さっきまであれほどアンナを救ってほしいと思っていたのに、良くなったと分かった途端に彼女の幸福を妬んでいる。私は欲張りだ。願いが一つ叶ったら、あれもこれもと思ってしまう。
皆の目を盗んで一人になって鞄からお母さんの手紙を取り出した。
「お母さん。助けて。」
私が嫌な子になってしまわないように。せっかくみつけた新しい家族の一員で居続けられるように。優しい気持ちを思い出せるように。
私はじっとして足が痺れるまでしゃがみこんでいた。気持ちはいつまでもぐちゃぐちゃで私は泣きたくなる。こんな自分でいたくない。こんな嫌な自分のまま、皆に会いたくない。
「エマ?もう行くよ。」
とうとうウィルが探しに来た。急いで手紙を鞄にしまう。何故か彼に見せてはいけない気がした。
「具合悪い?昨日あまり寝てないだろう。馬車に乗せてもらうかい?」
「ううん、大丈夫。ごめん、すぐに行くから。」
ウィルに背中を向けたまま早口に答えても、ウィルから返事は無くて背中から立ち去る気配もしない。
「エマ。」
とん、と背中に手をおかれたときに気持ちを見透かされたと思って血の気が引いた。
嫌だ、嫌だ。こんな私を見ないで。
私を嫌いにならないで。
「無理をしないで。少し休ませてもらった方がいい。アンナがいない分、エマにみんな甘えていたから疲れただろ。」
変な笑いが出た。醜い心の中を見透かされていなかった安堵と、こんな私はアンナの代わりになんかなれないという自嘲の入り混じった気持ちの悪い笑い。
私の心は醜い。いつでも温かくて優しいアンナとは全然違う。ウィルだったら気がついているでしょう。あなたが、どんな目でアンナを見ているか私は知っているわ。あなたが眩しそうに憧れて見つめるあの人と私は全然違う。
自分でも思っても見なかったような恐ろしい心の声。けれど歪んだ気持ちは確かに私の気持ちだ。
「エマ?」
醜い嫉妬とアンナの無事をただ喜んで新しい家族の一員で居続けたいという気持ちが入り混じって、暴れて、胸が裂けてしまいそう。私は心の中で、もう一度だけお母さんを呼んだ。
暗くてドロドロとした気持ちに負けてしまわないように頑張るから、私を助けて。
「大丈夫。ごめん。ほっとしたせいかちょっと眩暈がしたけど、もう平気だから。」
今度こそ振り返って、なんとか笑って見せる。笑顔で胸を張って。
本当に無理しないでくれよ、というウィルに頷き返して待っている私の小さな家族の元に戻った。子供達はみなアンナがもうすぐ傍に戻ってくるからと機嫌が良くて手がかからない。いつものように一番後ろを歩く私の横でルイスだけがなぜか気遣わしげにしていた。
それから何日かして、アンナが本当に私達のところへ帰ってきた。小さい子供達は皆アンナの周りをじゃれ回る。ウィルは病み上がりのアンナの体調を気にして、お母さんの心配をするうちのお父さんみたいに、年中アンナに大丈夫かと聞いている。
ウィルにとってはアンナが奥さんと思ったのは間違いじゃない。きっとウィルはアンナが好きだ。彼はずっとアンナを目で追っている。アンナが笑うと一緒に笑っている。それは避難所にいたときから薄々気がついていたこと。今はそれがとても分かりやすくなっただけだ。
アンナが元気になって良かったね、ウィル。でも、もうすぐお別れで寂しいね。
私は心の中だけで声をかけた。まるで自分に言い聞かせるように。本当に心から迷いなくそう思えるように。
あと少し、一緒に居られる間なるべく楽しくいようね。なるべくたくさん話して、これから王都でひとりぼっちになってしまうアンナが寂しくないようにしようね。
とうとう、アンナとお別れの日。
「皆、今日まで本当にありがとう。たくさん助けてくれて。いろんなことを教えてくれて。ずっと一緒にいてくれて。皆が仲良くしてくれて、家族みたいで、とっても嬉しかった。これからは司祭様の言うことをよく聞いて、いい子にしてるんだよ。会いに来るから、ね。」
ちょっとだけ泣くのを我慢したのか、声を詰まらせて挨拶してから、一人ずつに大好きよ、元気でね、会いに来るからね、とアンナは声をかける。
「頑張ってね、エマ。」
「アンナも。」
私はとても素直な気持ちでアンナに向きあうことができた。あの日感じた暗い思いが消えたわけではないけれど、アンナを恨みに思う気持ちはちっとも湧かなかった。どう考えてもアンナは私にとって大事な大事な母親代わりで、そしてお友達だった。そう思えることが嬉しかった。
最後にウィルと握手をしたアンナは急にバランスを崩してウィルの胸に倒れ込んだ。驚いたように少し固まっていたけど、ぎこちなく立ち上がると頬を染めてしばらくウィルを見つめていた。
その様子に、胸が苦しくなって目を逸らした。だけど、苦しいなんておかしい。二人が仲良くしている方がいいに決まっている。二人は私の大事な家族で、アンナは私のこれからのお手本。そう、それでいい。
何度も振り返り、振り返りして手を振りながらアンナは去っていった。これから彼女は王都で騎士様のお家に住み込んで働くことになっている。記憶喪失のせいなのか、生活のことも含めて知らないことの多いアンナが急に働くのはとても心配だったけど、お世話になる先の騎士様はとても良い人だから、きっと大丈夫だと信じている。
アンナの姿がすっかり見えなくなるまで、明日からのアンナにたくさんの仲間ができて幸せに過ごせますようにと祈った。