家族
座りこんでいた石段が徐々に冷えて来てお尻が冷たくなっても、涙は止まらなくて私は動けなかった。
ふわっと体の右側が温かくなったと思ったら、ウィルが腰を下ろしたところだった。皆もう寝たと思っていたのに。
「自分で騎士様に家族のことを聞きに行ったって聞いた。」
少し怒ったようにウィルが言う。
「教えてくれたら一緒に行ったのに。一人で聞くのは辛かっただろ。」
私は涙で喉が詰まっていて声も出ない。それが分かっていて返事は期待していなかったみたい。ウィルは私の背中を何度か叩いて、良く頑張ったなって言ってくれた。
「エマ。たくさん泣いて良いんだよ。悲しいのは大好きだったからだから。でも、一人で泣いたら駄目だ。」
それからウィルは私は一人じゃないんだからと言ってくれたけれど、私は素直に聞けなかった。
「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、もういない。私の家族、もういないんだよ。ずっと一緒にいてくれる人、もういないんだよ。」
だから寂しい。だから心細い。だから怖い。
私が首を横に振ると自分の赤茶色い髪が目に入った。お母さんとそっくりのこの髪。纏まりにくくて、お兄ちゃんにぼさぼさだってよくからかわれた。それで私が泣くと、お兄ちゃんは慌ててお母さんを呼んできて、お母さんが魔法みたいに上手に編んでくれた。ここに来てからは自分で結っているからお母さんが編んだように綺麗にできていない。そのみすぼらしい様子が、今のちっぽけな自分に重なって思える。
嗚咽がこみ上げて私はまた膝に顔をうずめた。
「エマ。俺も一人ぼっちになったよ。アンナも一人ぼっちだ。他のチビ達も。」
私が泣き疲れた頃に、ウィルが静かに話しかけてきた。
「皆で集まって、もう一回家族を作ろうよ。俺がお父さんになるから。エマがお姉さんで、みんな兄弟でさ。それでずっと一緒にいよう。」
ウィルの言葉の意味が分からなくて、私はぽかんと顔をあげた。ウィルがお父さん?だってウィルはまだ15歳じゃない。そんなの全然分からない。
でも、ウィルはにっこり笑っていた。
「皆で一緒に、頑張ろう?」
私の頭の上に置かれたウィルの手はお父さんやお兄ちゃんよりも軽い手だけど、私よりずっと大きくて温かかった。その手で私の顔を自分の肩に埋めるようにウィルは私を引き寄せる。私はまだ骨の浮いた細い彼の肩の温もりに縋るようにしがみついた。じっと傍にいてくれるその温かさに守られていると感じて、ようやく真っ暗な世界に一人で放り出されたような恐怖がほんの少しだけ小さくなった。
次の日の朝、目が開かないほど瞼の腫れた私を心配して他の子供達は口々にどうしたのかと聞いてきた。なんと言い訳すればいいのか分からなくて困っていると、パンパンと手を叩く音がした。
「みんな、朝ごはん終わったらお外でウィルを手伝ってあげて。今日はいい天気だから敷物を干してふかふかにするわよ。」
やってきたのはアンナで、子供達を外へ追い出しながらさりげなく私だけ水場に連れて行ってくれた。ぎこちない手つきで井戸を漕いで冷たい水をためると私に顔を洗わせて、冷えた布で目を冷やしてくれる。アンナはどうして泣いたのかとは聞かないで、ただ「ウィルに聞いたわ」とだけ言った。芝の上で、私は目の上に冷たい布を乗せたまま静かに隣り合って座っていたけれど、やがてアンナが口を開いた。
「私も皆の家族に入っていいかしら。ウィルがお父さんなら、私はお母さん、できるかな。」
できるかな、と聞きながら私の手をぎゅっと握ったアンナの手は温かい母の手のようであり、何かに縋ろうとする子供の手のようにも思えた。
何かを考えるよりも前に私はその手を力いっぱい握り返した。ウィルの薄い肩、アンナの細い手。二人だってまだ15歳や16歳で、きっと不安がたくさんあってたまらないだろうに私に手を差し出してくれる。私の悲しみを受け止めて見守って、一緒に立ち上がろうと励ましてくれる。その勇気に引きずられるように私は顔を上げた。温くなってしまった布が顔から落ちて照れたように微笑んでいるアンナの顔が見えた。初めて見る年相応の彼女の顔。私は、そのとき自分の悲しみを一瞬忘れてこの孤独な少女を支えたいと思った。
「できるよ。私も一緒に頑張る。」
そう言うとアンナはきゅっと一度私を抱きしめた。
それから、アンナはふわっと微笑んでポケットに手を突っ込む。
「そうだ、エマ。見て、いいものがあるの。ウィルが騎士様に櫛をいただいんですって。」
ひょいとポケットから取り出した櫛は騎士様の持ち物だったみたいで、こんな田舎ではみないくらい良い細工の綺麗な櫛だった。私の目が釘付けになったのが分かったんだろう。アンナは櫛を目の前にかざしていたずらっぽく微笑んだ。
「気が利くと思わない?こういうものが、女の子には必要よね。見るだけで元気が出るわ。」
本当にその通りだ。私は何度も頷いた。
「髪、結い直そうか?」
アンナに問われて私は自分の髪に目をやった。相変わらず上手に結えていない私の髪。
まだ湿っていた布で髪の汚れを拭って、アンナがゆっくり髪を結い直してくれる。時間をかけて丁寧に。私は目を閉じてお母さんの手を思い出した。わずかに違う力加減が悲しくてせっかく止まっていた涙がまた流れた。どうしたってまだ家族は恋しい。お母さんの手が恋しい。
「できたよ。どう?」
小さな手鏡でみれば、きちんと編み込まれている。思わず髪に沿わせた指が震えた。何もかも同じじゃない。だけど、私は前に向いていく準備がひとつできたような気がした。瞼の腫れが少しは良くなって、髪もきちんと結い直して、私はアンナと何度か笑顔の練習をした。私の新しい弟と妹達を安心させるために。
後から考えたら、あの櫛が急にあの日に出てきたのだって私を励ますためにウィルが借りて来てくれてたのだと想像できる。騎士様達の間を駆け回って私を喜ばせそうなものを探し出して来てくれたに違いない。ウィルは言葉だけでなく次の朝から本当に娘を育てるように、私を大事にしてくれたのだ。
それからの日々の中で、一体どれだけウィルとアンナに救われたか分からない。毎朝目を覚ませば一番に笑って「おはよう」と言ってくれる。それだけのことがどれほど嬉しかったか。何があっても決して面倒がることなく私達と向かいあい、泣けば泣きやむまで、癇癪を起こす子供も落ち着くまで、必ず傍にいてくれた。本当にウィルとアンナがお父さんとお母さんの代わりになって、私達は子供ばかりの新しい家族を作って何とか自分達を支え合うことができた。彼らが前を向いている姿に憧れて、勇気づけられて、私も挫けそうな心を奮い立たせることができた。
村はずれの教会で暮らした時間は、たった半年。今から思えばそれほど長くはない。けれど家も家族も友達も色んなものを失くした私達がゆっくりと傷を癒した特別な半年だった。今でも夏の日差しを受けて教会の中庭を駆け回るみんなの顔や、小さい子供を肩車しているウィル、木の下で昼寝をしてしまった子に膝を貸してあげながら、そんな私達を見守っていてくれるアンナの顔をはっきり思い出すことができる。
私が本当に子供でいられた最後の時間だった。