初恋
久しぶりに二人きりの食事を終えて食器を片づけていると、後ろからウィルに声をかけられた。
「ねえ、エマ。エマは今、幸せ?」
「もちろん。」
「我慢していることはない?」
ウィルはルイスの言葉を聞いて、自分より私のことが気にかかってしまったらしい。
「もう、ルイスの言ったこと分かってないのね。私の心配をしていたんじゃ駄目じゃない。ウィルこそどうなの?」
洗い物の手を止めずに背中越しに言い返すと、そうだなあ、とゆっくり考えるようにウィルが呟くのが聞こえた。
「幸せなんだと思うよ。」
自分のことではないような調子で彼は言う。
「我慢していることは?」
「一つだけある、かな。」
ウィルの言葉が意外に思えて、思わず振り返ると彼は小さく笑っていた。
「何?」
問いかければ、笑顔のままウィルは恐ろしいことを言った。
「ずっと言い出せなかったんだけど、結婚して欲しい人がいるんだよね。」
その言葉にうっかり手に持っていた木べらを落っことしてしまった。
「え?」
ウィルの幸せを応援できたらいいと思っていたのに、心の準備が足りていなかった。彼が結婚を望むなら、私はこの家を出て笑顔でそれを見守ってあげなければならない。思ったよりも早くやってきた別れの気配に指先まで冷たくなる。優しいルイスを私がどうしても弟以上に思えなかったように、ウィルにとっても私はどうあがいても娘以上になれないのか。先ほどウィルに問われたときには確かに幸せだと感じていたはずの今があっという間に崩れ去った。私がウィルのためにしてあげられることが彼の傍を離れることだなんて、彼を一人にしないと誓ってきた私にとって現実はひどく皮肉なものだ。
「ねえ、エマ。」
これ以上聞きたくないと思うのに凍りついた私はその場を立ち去ることも、耳を塞ぐこともできない。ウィルはいつもの食卓で微笑んだまま私を覗きこむようにして続けた。
「僕のお嫁さんになってくれないだろうか。」
嘘かと思った。
頭よりも体の反応の方が余程早くて、さっきまで冷たくなっていた指先から顔や耳まで一気に燃えるように熱くなった。だからきっと顔が真っ赤だったんだと思う。ウィルは昔みたいに、いたずらっこのウィルみたいに笑った。
「嘘。だってウィルはずっとアンナが好きだったじゃない。」
思い浮かんだことを考えもせずに口に出したら、ウィルは優しい顔になった。子供たちに向けるのとは違う大人の男の人の顔。
「うん、そうだね。大好きだった。でも、それは随分、昔のことだよ。」
「もういいの?」
恐る恐る問いかけるとウィルはこっくりと頷いた。
「アンナは姉であり妹であり大事な兄弟だよ。でも、それだけなんだ。あの教会でアンナは俺達の天使みたいだっただろう?」
胸がちくりとするけれど言う通りだから頷いた。私達の天使。突然に現れて優しく私達を守ってくれた特別な人。
「でも今はね、この家の天使は君なんだよ。ここに一人で暮らしている時、気持ちはずっと遠くにいる皆のことを思っていて、ここにいる俺はきっと抜け殻みたいだったと思う。エマが帰って来てくれてから、この家は本当の家になって、俺はやっと安心していられる居場所を見つけられた気がするんだ。だって、ただいまって言って帰ってきたら、毎日おかえりって言ってくれる人がいるんだよ。それがどんなに幸せなことか。当たり前に家で迎えてくれる人がいるってことが。自分のことを考えていてくれる人がいるってことが。エマには分かるでしょう?」
もちろん分かる。一度は家族を失ったから、いつでも自分の味方でいてくれる人、いつでも自分を思ってくれる人がどれほど貴重か私達は良く知っている。
「でも、他の人。」
声が震えて言葉が続かない。でもウィル、あなたを家で待っていてくれる人ならきっと他にもいるわ。昔から村の娘には人気だったもの。そう言うつもりで途中まで言いかけると、気持ちは伝わったようで、ウィルはため息をついた。
「他の女を勧められるのは傷つくな。」
それから真っ直ぐにこっちを見る。
「ねえ、エマ。誰でも良いわけないだろう。君だから言うんだよ。いつも自分のことより他の誰かのことばかり考えてしまう優しい君だから言うんだよ。苦しいときでもずっと俺を励まして支えてくれた君だから言うんだよ。」
胸が苦しい。
大好きだった。ずっとずっと。貴方のそばにいられるならなんだって良かった。こんな優しい言葉いらなかったのに。
「困る?」
穏やかに問いかけられて短く答えた。
「困るわ。」
ウィルは私の目を見つめて静かに聞き返してくる。
「どうして?」
「そんな風に優しくされたら甘えてしまうもの。焼きもちも、やくかもしれないわ。」
ウィルは、それはそれは嬉しそうに笑った。
「それはいいね。」
何がいいのか分からなくて、どうしてかと問い返すとウィルは私の方に歩み寄ってきて言った。
「ずっと君にもっと甘えてほしいと思っていたから。」
ふわりと頭に大きな手の感触があって控えめに抱き寄せられる。十年前よりも重みの増した手。
「エマは泣き虫なのに俺の前で泣かなくなったから。孤児院で別れて以来、辛いことも辛いと言わなくなったから。ずっと心配だった。」
だって、私は皆のお姉さんだもの。弱いところを見せたらいけなかったのだもの。声にならなくて首を横に振ると、ウィルは背中をとんとんと宥めるように叩いた。
「頑張っているのは知ってるよ。でも俺の前でまで無理しないで。誰か一人くらい甘えられる人が必要だろ。」
じゃあ。
甘えていいのなら。
「ウィル。」
こみ上げる涙で喘ぎながら顔を上げると、ウィルは「うん?」と聞き返してくる。
「私を絶対、一人にしないで。離れていかないで。」
もう一人ぼっちは嫌だ。ずっと誰にも言えなかった我儘。
「うん、ずっと一緒にいるから。」
ぎゅっと抱きしめられて私は初めてウィルの背中に腕を回して彼を抱きしめた。絶対に離すもんかと想いを込めて。
「君を残していなくなったりしない。約束だ。」
夜半過ぎ。久しぶりに二人で小さな灯りの前に寝転びながら、いつからそんなことを考えていたのかと聞いてみた。これまでずっと私に対して父親か兄のような態度を崩さなかったのに。
「エマが帰ってきた日に綺麗になったって言っただろ?本当にしばらく合わない間に子供から大人になっちゃったみたいで驚いた。でも中身は変わっていなくて、優しくて頑張り屋のエマのままだったから、ほっとして、嬉しくて。すぐに、もうどこにも行かないで欲しいと思うようになったよ。」
「そんなに前から?」
ちっとも気がつかなかった。だって今と同じように並んで寝転んで、そのまま寝入ってしまったりしていたじゃない。私がそう言うとウィルは苦笑いを浮かべた。
「あれは、結構辛かったなあ。俺のことを信じてくれているってことだろうけど、まるで父親か兄扱いだもんな。」
それはこちらも同じことだったのに。私達は隣り合って同じようにどきどきしながら、同じように失望しながら過ごしていたのか。なんだか拍子抜けしてしまう。私がクッションに顔を埋めてこっそりため息をついていると、ウィルが声を少し硬くして続けた。
「でも、ルイスがエマに会えるようになるまでは知らせられなかった。」
「ルイス?」
彼の気持ちに気がついていたのかと驚いて声が少し裏返った。うしろめたいことがあるわけではないけれど、なんとなく落ち着かない。おどおどし始めた私を見て、今度はウィルが呆れたようにため息をついた。
「ルイスがエマを好きなことなんて、あの事件がある前から分かってたよ。それこそ十年前から。」
だからこそ、自分の気持ちが私に向いていると気がついてからも、せめてルイスが村へ戻ってくるまでは決して口に出すまいと思っていたのだと彼は言う。
「だってそうでなければ、ずるいだろう?あいつの手の届かないところで。」
私はずるいかどうか分からなくて複雑な気持ちのまま頷いた。男同士のことは今でも良く分からない。
「そう思って遠慮してた。帰って来れば相変わらずエマ一筋のままだから、余計言い出せなくなっちゃって。それなのに、あいつときたら俺のいない留守にちゃっかり告白したとか言うし。その上、いつまでも健気なエマを放っておくなんてバカだとか言って殴るし。もうあっちの方がよっぽど体格もいいんだから手加減してくれればいいのに。」
思い出したようにお腹のあたりを撫でるウィルの様子に私はがばりと起き上がった。ルイスが人を殴るなんてよっぽどのことだ。でも二人が喧嘩しているところなんて見た覚えもない。
「殴られたの?いつ?」
「エマに気付かれないように顔を避けるあたり、ずるいよなあ。」
ウィルはぶつぶつ言って答えてくれない。
「でも、確かに俺は馬鹿だったかもな。」
不意に大地の色の瞳がこちらを向いて寝転んだままのウィルとピタリと目が合う。
「ルイスに背中を押してもらわなきゃ、好きなんだって言えなかった。ごめん。甘えてた。」
「甘えて?」
どういう意味か分からなくて首をかしげると、ウィルは目を細めて笑う。
「なんだか、ずっと傍にいてくれる気がしてたんだ。」
もちろん、そのつもりだった。ウィルを決して一人にさせないという私の決意は伝わっていたらしい。彼は少しでも心強く思ってくれていただろうか。少しでも嬉しいと思ってくれていただろうか。今、問えば答えは分かっている気がした。けれど問いよりも涙の方が先に溢れて私は束の間、言葉を失う。彼は私の頬に触れて涙を拭うと、そのまま私の頭を胸に抱きかかえた。少し早い気がする鼓動の音。それよりもっと早い私の鼓動。
「ずっと傍にいる。」
シャツの胸を握りしめて言うと、頭の上で知っているよとウィルが笑った気配がした。
その晩、私は久しぶりに今では年下になってしまった兄の夢を見た。
お兄ちゃん。私の初恋、応援してくれてありがとう。最後まできっと見届けてね。
これにて完結です。読んでいただきありがとうございました。




