反省
山の出口が見えてくる頃に松明の光が目に入った。
人だ。きっと村の誰かだろう。私を探しに来てくれたのかもしれない。
ほっとしてほんの少し走る速度を緩めた。それでも向こうが夜道を走っているのか松明の光はあっという間に近づいてきた。とうとうそれが誰だか顔が見分けられる程になる。
ウィルだ。
嬉しくなったのは僅かのことで、彼が真っ青で恐ろしい表情をしていることまで見えるようになると、先ほどまでとは違う恐怖で私の脚は凍りついた。
「馬鹿!」
すぐ傍まで近づいてくるとウィルは聞いたこともないような大きな声で怒鳴った。その瞬間に私の頭は真っ白になってしまう。怖くて、哀しくて、申し訳なくて、安心して。
「馬鹿。エマ。」
もう一度、苦しそうにそう言ったウィルの声がどうしてか自分の後ろ側から聞こえた。
「馬鹿。」
両肩が軋むくらい抱きしめられてやっと体の感覚が戻ってきた。ウィルに抱きしめられているから、頭を抱えられているから、彼の声が耳の後ろから聞こえるらしい。
「無事で良かった。」
息を吐くように掠れた声でそう言うとウィルは腕を緩めた。私の頭はまだぼんやりしていてウィルが何か問いかけている言葉は聞こえるのに、その中身を理解することができない。
ああ、心配させた。謝らなくちゃ。
心のどこかで、そう思うのに声はおろか表情さえ上手に扱えない。僅かに震えたままの手を意味もなく握り合わせた。それでも震えの治まらない私の手をウィルはぎゅっと握ってくれた。骨ばって温かい大きな手。そこからじんわりと熱が伝わって、やっと喉や舌が動かせるようになった。
「ウィル。」
名前を呼んだら、ウィルは「うん」と言う。
「ウィル。ごめん。ごめんなさい。」
暗い山を、ウィルが、ルイスがどれほど恐れているか私はちゃんと知っていたのに。心配させた。家族を失うことを誰より一番恐れている癖に、私はどうして二人の心配をもっと重く受け止めなかったんだろう。約束の時間を過ぎても帰って来ない私をどんな思いで待っていてくれただろう。
「うん。」
ウィルはただ頷いて、視線を落とした。目を逸らされてしまったことが悲しくて、泣くまいと思っても涙がこみ上げる。自分が悪いのだから、ここで泣いたらいけない。
口を開けば涙を堪え切れなくなると思って、私は黙ったままウィルの手を強く握り返した。
「籠、もらうよ。」
やっと顔を上げたウィルはそう言って少し強引に私の背中から籠を下ろさせた。走り回ったから少し減ってしまったけど積み上げられた青い花は十分残っている。良かった。ちゃんと残っている。私はそう思ったのに重い籠を見下ろしたウィルは苦い顔をして私を見下ろした。
「エマ。こんなもの捨てて来てしまって良かったのに。」
「え?」
ウィルは私をじっと見下ろす。苛立ったような瞳にどうしても怖れが出る。私はウィルに本気で怒られたことが無かったと、そのとき初めて気がついた。
「君の命は、こんなものよりずっと重い。」
ウィルに返せる言葉もなくて、私はただ彼を見つめ返した。籠を捨てればもっと早く走れただろうと今なら分かるけれど、さっきまではそんなことも思いつかなかった。そんなこと言ったらそもそも青い花を摘むのは明日にして今日はさっさと山を下りていれば良かったのだ。私はウィルの言う通り大馬鹿だ。
俯いたままの私に、これ以上言っても無駄だと思ったのかもしれない。ウィルは籠を背負うと、松明を持っていない方の手で私の手をひいた。
「帰ろう。」
たった一言、そう言ってウィルはゆっくりと歩き出した。ついていこうとして一歩目で体がぐらりと揺れた。足首から背中に突き抜けるように鋭い痛みを感じて思わず悲鳴が漏れる。
「痛っ。」
足首がずきずきと疼く。さっきまで走っていたことが信じられないくらい。きっとどこかで足を捻ったんだろう。ウィルはしゃがみこんで蹲っている私を覗きこんだ。
「エマ、どうした?」
その目には先ほどまでの苛立ちは一つも残っていなくて、ただ不安と焦りだけが見えた。
「足を捻っちゃったみたい。」
必死で痛みに気が付いていなかったとはいえ、一度立ち止まるまでは走れたのだからきっと歩くくらいはできるはず。これ以上、ウィルに迷惑をかけたくなくて、立ち上がろうとするけれどやっぱり痛くて尻持ちをついてしまった。もう一度地面に手をついて立ち上がろうとしたところで膝の裏と脇の下に腕を差しこまれた。
「ちょっ、ウィル。重いよ。」
ただでさえ、重たい籠を背負ってもらっているのに私まで抱えたらウィルの細い体が折れてしまう。私が慌てて止めても、もう遅い。私はウィルに抱え上げられてしまっていた。
「大丈夫だよ。」
ウィルは心配ないというように首を振るともう松明は諦めたようで足で火を押し消してしまった。離れて見える村の弱い灯りを頼りに村に向かって歩き出す。ウィルの胸に頭をもたれさせていると、無事に帰って来られたという安堵がようやく感じられた。いきなり怒鳴られてすっかり動転していた気持ちも段々落ち着いてくる。
「ウィル。ごめんね。心配かけて本当にごめん。」
「本当に。心配した。」
それが真実だと言うのは先ほどのウィルの青い顔を見れば間違いようが無い。そう思って、不意に思い出した。昔、アンナが森の中でモンスターに襲われた日もウィルは同じように真っ青な顔をして村の入り口でアンナを待っていた。私は足を捻っただけだったけれど、あの日アンナは本当にモンスターに遭って怪我をしてそのまま命を落としかけた。それを彼が思い出さなかった訳が無い。どんなに不安だっただろう。何度謝っても、ウィルが感じただろう恐怖を拭える気がしないけれど、私はただ「ごめんなさい」と繰り返した。
暗くて表情は良く分からないけど、ウィルの小さなため息が聞こえた。
「ごめん。」
今度はウィルから謝られたけれど、ウィルには謝らなきゃならないことなんて何もない。
「どうして?ウィルは何も悪くない。」
問い返すと、ウィルは僅かに首を横に振った。
「怒鳴ったし。」
「そんなの、私が悪いんだもの。」
誰だって怒るだろう。それだけ心配してくれたと言うことなのだから謝ることじゃない。
「エマが、いい加減な気持ちで遅くなったり寄り道する子じゃないってことは分かってるのに。エマだって夜の山に一人で怖かっただろ。こんな怪我までして必死に帰ってきたのに。一番に怒鳴りつけるなんてどうかしてた。」
「心配してくれたからじゃない。それに、本当に心配させた私が悪かったのよ。」
私が怖い思いをしたのも、怪我をしたのも自業自得だ。
「何よりエマがこんなに遅くまで山で働かなきゃいけないのは、俺のせいだよ。」
どうしてそうなるのか。私は暗がりでウィルの表情を読み取ろうと目を凝らした。目を伏せた苦しそうなウィルの横顔は本気で自分を責めているように見えた。
「そんなことない。」
はっきりと言い返したけど、ウィルは「そんなことあるよ」と小さく答えた。
「俺が、もっとしっかり家族を支えられたらエマは危ない山の中になんて入らないでいい。俺が自分の好きなことばかりするから、その分エマがお金の心配をして。」
「そうじゃない!」
叫ぶようにウィルの言葉を遮った。それ以上聞きたくなかったから。
「ウィルのせいじゃない。絶対ウィルのせいじゃないんだから。」
確かに、村の子供の先生というのはお金にならない。お金にはならないけれど子供達の面倒をウィルが見ている間に村の大人は畑仕事に精を出すことができる。その成果の食べ物や薪や色んなものをきちんと貰っているし、子供たちが勉強して立派な大人になれば村はだんだん豊かになって、それがいつか私達皆に帰ってくる。ウィルの仕事は大事な仕事だ。それに彼が昔から目指していた仕事を諦めなかったから、私やルイスや他の子供たちは遠慮なくやりたい仕事を選べる。ウィルが私達のために稼ぎのいい、けれど全然楽しく無さそうな仕事をしていたら私達も同じようにしてしまっただろう。私が薬師になったのは村でウィルの傍にいるためでもあるけれど、それだけじゃない。お母さんみたいな体の弱い人を助けてあげる仕事がしたいと私なりに夢があって目指したんだから。だからウィルが自分を責めるようなことは何にもない。
「私は、私がなりたくて薬師になったわ。私は、私がそうしたくて村に帰って来たの。ウィルと一緒にいるの。私がそうしたいの。」
彼の腕を掴んで一生懸命に話しかけるとウィルは少し戸惑ったように私を見下ろした。迷うような沈黙。これ以上、何と言えば分かってくれるだろう。
それからウィルは黙り込んで歩き続け、私はどんな言葉を重ねればいいのか分からずに同じように口を閉ざした。無事に村の入り口まで辿りつくとルイスが松明を掲げて待っていた。泣きそうな表情でウィルの腕の中の私を見下ろして、頬に指を這わせる。ぴりりとした感触がして、頬に傷があることが分かった。
「心配させてごめんね、ルイス。迷子になっちゃって。」
見上げればルイスは真っ赤な目で私を睨んだ。
「許さないから。戻ってこなかったら、絶対許さなかったから。」
変な言い回しだけれど、彼の気持ちは十分伝わって私は改めて申し訳なくて仕方なくなる。何度目になるのか、ごめんなさいと謝る。ルイスは帰ってきたからもういい、と言ってもう一度私の頬を撫でた。また違うところがピリっと痛んで随分傷だらけなんだと思い知らされる。
ルイスは腕を差し出して私を受け取ろうとしたのに、ウィルは構わず私を抱え直した。それからウィルが背中を少し揺するようにすると、ルイスはただ小さく笑ってウィルの後ろ側に回った。籠の方をルイスに持ってもらうらしい。私の方が籠よりも重たいのだから、体格のいいルイスに私を任せた方がいいように思うけれど、迷惑をかけっぱなしの私が口を出すことでもない。せめてウィルが歩きやすいように大人しくしていようと彼の腕に頭を預けて目を閉じた。
「もう、この足じゃ山は無理だろうし。エマは今年はもう村から出るの禁止ね。」
「しばらくは家からも出ないでほしい。」
頭の上で二人が言い交わすのに反論の言葉は一つも思いつかなくて、私は黙って二人の言いつけを受け入れた。
「迷惑掛けてごめんなさい。」
謝ると、一斉に大きなため息が降ってきた。
「迷惑なんか何もないよ。」
ルイスが言う。
「ただ心配しただけだよ。死ぬほど。」
「本当に死ぬほど。」
これは本当にこの冬は家から出してもらえないかもしれない。それだけのことをしでかしたのだから仕方ないのだけれど。
「ごめんなさい。」
萎れていると、私を抱えているウィルの腕に少し力が入れられた。
「本当に反省して。」
「はい。」
素直に頷くと、彼はようやく笑った。その笑顔をみたら許してもらえたような気がしてほっとしてしまった。思わず涙をこぼすと、ウィルとルイスは急に慌て出した。
「痛い?家に帰ったらすぐ手当てするから。」
「エマも怖かったよね。ごめん、怒ってばっかりで。もう大丈夫だから。」
優しくされると余計に心が弱くなる。少しでも涙を隠したくてウィルの肩に顔を埋めた。その頭に大きな手がぽんと乗せられる。両手で私を抱えているウィルではないから、きっとルイスの手。
言葉はないけど二人が私を慰めようとしてくれるのが伝わって来て、私は本当に深く深く反省した。
こんなに私を思って、心配してくれる人がいるのだから、自分のことをもっと大事にして心配をかけないようにしよう。優しい二人を二度とこんなことで怒らせないで済むように。
私の決意と、それを上回る二人の過保護のおかげで、私はその冬、冗談ではなく家の敷地から一歩も外に出してもらえなかった。
 




