解雇時刻が空欄の解雇状を渡されたので、香料記録係の私が自分で書き入れました
「あなたを解雇します」
解雇状の角が、私の指先へ食い込んだ。
紙質は上等。罫線もまっすぐ。主任印は右下へ美しく収まっている。それなのに、解雇時刻だけが空欄だった。
私の解雇時刻まで空欄とは、ずいぶん雑な濡れ衣である。
「アンネケは熱心な部下でした。だからこそ、これ以上あの子を不正へ巻き込ませないための処分です」
リースベット主任は、立ち会っていた香料商人たちへ柔らかく微笑んだ。
帳面の欠番へ処方を書き足し、失われた香料の数量を合わせた。その不正頁を私が管理していた。ゆえに共犯。そういう筋書きだ。
「では、あの新しい香りも?」
「私が以前から指示していた処方です。アンネケは記録の仕方を少し真似たのでしょう」
商人たちは納得した顔で頷いた。
誤記があれば私の確認不足。売れた処方は主任の指示。
この頁、香水より言い訳が濃い。
商人たちが出ていくと、リースベット主任は笑みを畳んだ。
「鍵を置きなさい。住み込み部屋も今日までよ」
「訂正申立てをいたします」
「誰が、解雇された記録係の話を聞くの?」
私の前に椅子は出されなかった。
「問題の頁には、受渡時刻も、二人目の署名もありません」
「雇われた手に名前など要らないの。命じられたとおりに書けばいいのよ」
なるほど。私の名前は不要だが、私の罪名は必要らしい。
私は腰の鍵を外して机へ置き、解雇状の空欄へ自分で受領時刻を書いた。午後三時十二分。リースベット主任が止めるより先に、控えにも同じ時刻と通し番号を入れる。
通し番号、受渡時刻、二人の署名。
この三つが揃わない記録を、私は一度も正式な頁として扱ったことがない。紙の油染みも保管のたびに確かめる。香油は古くなれば色が沈み、頁の裏まで馴染むからだ。
「記録に残らない言葉は、香りより早く消えます」
「負け惜しみは結構。出ていきなさい」
主任印が机を叩いた。
記録庫の扉を出たところで、商組合書記のピーターが移送通知を差し出した。
「五日目、午後四時。全帳面を王都行きの馬車へ積む。以後の訂正は王都での審査になる」
「私の解雇も?」
「移送目録へ載る。住み込み部屋の退去も同時に確定だ。申立てに持ち出せる原本は三冊まで」
午後四時には帳面も、私の職も、この町から出ていく。
通知を二度読み終えたところで、ヘンドリクが私の鞄を持ち上げた。
「蒸留所へ来い。食事と寝台はある」
「好意に甘えて住みつくつもりはありません」
「好いている。だから住みつかせたい」
分かりやすい。蒸留したての酒精より混じり気がない。
「仕事も用意する。俺の記録だけを扱え」
「それは保護ではなく囲い込みです」
「知っている」
認めるのか、この男。
残り五日。
帳面に触れた六人全員から証言を取る案を、私は線で消した。間に合わない。真実にも、先に呼ぶべき二人がいる。
問題頁へ署名したリースベット主任。そして、頁に記された香料を運んだヤンさんだ。
* * *
「食べろ」
湯気の立つ豆の煮込みが、帳面の控えへ迫ってきた。
「いま食卓へ移します。ですから鍋ごと証拠の横へ置かないでください。油染みが増えたら、こちらが改竄犯です」
「一晩寝ていない人間は、食卓まで歩かない」
「歩きます」
立ち上がった途端、膝が机へ挨拶した。
ヘンドリクは私を椅子へ戻し、皿と匙を置いた。次に櫛を取り、髪へ絡んだ紙粉を一つずつ落としていく。
「髪くらい自分で」
「手を止めるな」
首筋へ櫛の歯がゆっくり通る。昨日まで寝台も椅子も借り物だった身体が、急に丁寧な取扱品になった。
温かい煮込みは悔しいほどおいしい。囲い込みには反対だが、豆に罪はない。二杯目にもない。
「署名しろ」
食後、ヘンドリクが契約書を差し出した。
蒸留所の専属記録係。敷地内の住居を無償提供。雇用中は他所の依頼を受けず、退職には所有者の承認が必要。
「私を樽に詰める契約ですか?」
「外は危ない」
「樽の内側も、蓋をする人次第で危険です」
私は署名欄を閉じた。
彼は反論せず、契約書を中央から破った。思い切りがよすぎて、私の控え心が小さな悲鳴を上げる。契約書は破棄できますが、紙代は戻りませんよ!
「次はお前が書け」
「次がある前提なのですね」
「ある」
残り二日。
全年度の帳面を調べる計画も捨てた。欠番が発生した時刻に重なる三冊だけを確保する。原料受入帳、処方記録帳、頁受渡帳。それ以外は見ない。
リースベット主任からは、二人だけで話したいという伝言が来た。こちらも捨てる。
私的な謝罪も取引も、移送馬車には積めない。
代わりにヤンさんの宣誓書を整え、ピーターへ公開訂正申立てを提出した。ヘンドリクが帰宅経路を聞いてきたので、時刻だけ答える。
「迎えに行く」
「尾行は不可です」
「迎えだ」
「本人の承諾がなければ、呼び名を変えた尾行です」
彼は不満そうに口を閉じた。それでも人を置かなかった。
言葉より先に条件を守るなら、次の契約書を読む価値はある。
* * *
「残り一日。申立ての目的を確認する」
ピーターが三冊の原本へ持出印を押した。
移送所には、王都行きの箱が壁際まで積まれていた。開いた扉の向こうで馬車が待ち、商人たちは自分たちの取引記録が積まれる順番を見守っている。
その中央へ、私は控えの束を置いた。
「欠番頁の時刻と署名を訂正し、不正への関与、香料損失の責任、処方の帰属について、公の記録を求めます」
「証拠は」
「原本三冊、私の控え、搬入札です」
「相手方へ反論の機会を与えるか」
「何度でも。ただし、すべて記録してください」
リースベット主任が入ってきた。
「皆様、お騒がせしております。アンネケは熱心だった元部下ですから、思い込みだけで訴えたとは考えておりません」
商人たちへは、今日も砂糖漬けの声だ。
私を見ると、口角だけが落ちた。
「申立てを取り下げなさい。移送前の仕事を増やすものではありません」
「ここへ座って、最初の質問へ答えてください」
「元部下が主任へ席を命じるの?」
ピーターが同じ椅子を引いた。
「リースベット主任。着席して答えを」
「……承知しました」
座るのですね。
私の質問では立ったまま威圧し、商組合書記の質問なら裾まで整えて着席。背骨にも役職表が付いているらしい。
ヘンドリクが私の背後へ立った。リースベット主任と二人きりにしないため、退路を塞ぐ位置だ。
「横へ」
「だが」
「申立人は私です」
彼は顎を引き、私の横へ退いた。
発言権が戻ってくる。たった半歩で、きちんと。
ピーターが羽根ペンを構えた。
「第一の質問を」
「正式な記録頁に必要なものは何ですか、リースベット主任」
「通し番号、受渡時刻、記録係と受渡相手の署名です」
「一つでも欠ければ?」
「仮記録です。照合が済むまでは取引の根拠にしません」
ピーターが復唱し、一語ずつ議事録へ書いた。
「通し番号、受渡時刻、二名の署名。欠けた頁は仮記録。異議は?」
「ありません」
最初の署名を求められ、リースベット主任は自分の名を書いた。まだ筆先は速い。
私は頁受渡帳を開いた。
「通し番号二百七十一。午後四時五分。未使用のまま返却。こちらは主任の署名ですね」
「そうです」
「私の署名もあります」
「見れば分かります」
「ピーター、二つの署名を確認してください」
「アンネケ、リースベット。相違なし。頁二百七十一は午後四時五分に未使用で返却された」
リースベット主任は商人たちへ向き直った。
「細かな手続きの話です。記録庫全体で扱う紙ですから、返却後に別の用途へ回すこともあります」
主語が一人から建物ほどに膨らんだ。便利だ。責任は広げるほど薄くなるとお考えらしい。
「では第二の質問です」
私は処方記録帳を開いた。
通し番号二百七十一。
頁の中央には、ニオイアヤメ根油と橙花油を使った香油の処方が書かれている。作成時刻は同日の午前十時十五分。記録係欄には私の名。署名欄は空白。承認者欄だけに、リースベット主任の署名があった。
「この署名も主任のものですね」
「そうですが、記録係が署名を忘れた責任まで私へ負わせるのですか?」
「私は午後四時五分に、この頁を未使用で返しています」
「あなたが別の頁と取り違えたのでしょう」
「同じ通し番号が二枚あると?」
「管理を任せていたのはあなたです」
来た。
欠番があれば私の管理不足。同じ番号が二枚あっても私の管理不足。売れれば主任の指示。実に美しい四方塞がりだ。塞がっているのが私でなければ、額に入れて飾りたい。
「主任は、この処方が午前十時十五分に存在したと主張なさるのですね」
「記録どおりです」
「その時刻にニオイアヤメ根油は記録庫にありましたか」
「在庫の細部まで私が覚えているはずがないでしょう」
私はヤンさんを見た。
彼は帽子を取り、搬入札を頭上へ掲げた。
「ニオイアヤメ根油、六瓶。搬入は同日午後一時二十分。荷下ろしは一時三十五分。受け取ったのはアンネケだ」
原料受入帳にも同じ通し番号、同じ時刻がある。私とヤンさんの署名が並んでいた。
ヤンさんは搬入札をピーターの前へ置いた。
「この時刻に運んだのは私だ」
「虚偽でないと宣誓するか」
「する。荷馬車は鐘より早く走らん」
ピーターが搬入札、原本、私の控えを照合した。
「午後一時二十分以前に、当該のニオイアヤメ根油が記録庫へ搬入された記録はない。リースベット主任、別の在庫を使った証拠は?」
「……記録庫全体の在庫を、いま即答することはできません」
説明が建物から在庫へ縮んだ。
「反論資料を出しますか」
「移送直前です。どの箱に入ったか分かりません」
「持出しを申請できる原本は三冊までと、五日前に通知済みです」
ピーターの声は平らだった。
「申請はありませんでした」
リースベット主任の頬から、商人用の色が一段抜けた。
私は処方頁を持ち上げ、窓の光へ透かした。
「第三の質問です。この油染みを、古いものとして記録したのは誰ですか」
「あなたでしょう」
「署名がありません」
「署名を忘れたのもあなたです」
私は吸取紙を頁の隅へ当てた。薄い金色が、紙へ移る。
古い油なら頁の繊維へ沈み、茶色く鈍る。隣の頁に挟まれて二年を過ごした染みなら、こうして表面へ浮いてはこない。何より、前後の頁には同じ圧痕がなかった。
「これは、午後四時五分に返却されたあとで塗られた新しい香油です。二年前の染みではありません」
「見た目だけで決めつけるの?」
「ですから、保管時の控えがあります」
私の控えには、頁ごとの状態も記してある。
二百七十一、破損なし。染みなし。未使用。午後四時五分返却。署名二名。
ピーターが控えを読み上げた。
「アンネケ、リースベット。双方の署名あり」
リースベット主任の指が、自分の署名を隠した。
遅い。署名は恥じらう令嬢ではないので、手で覆われたくらいでは消えてくれない。
「その控え自体を、アンネケがあとから作った可能性があります」
「私の署名まで?」
「確認せず署名したのかもしれません」
「主任印もあります」
「部下を信頼して預けていました」
「雇われた手に名前など要らない、とおっしゃったのに?」
声が少し大きくなった。
リースベット主任のではない。商人たちの囁きだ。
「あの娘が模倣したのではなかったのか」
「でも、搬入前の処方だぞ」
「主任の署名で未使用と戻した頁へ、主任の署名で処方が増えている」
ひとりの商人が私を指した。
「模倣者が控えまで用意して——」
「次にその呼び名を使えば、あんたへの納品を止める」
ヘンドリクが低く告げた。
商人の指が引っ込む。
「ヘンドリク」
「事実を言った」
「いまは私の記録で黙らせます。納品停止はそのあと検討してください」
「分かった」
素直でよろしい。契約条件を一行追加せずに済んだ。
私は試作控えを開いた。
「第四の質問です。こちらの処方を商人へ説明したのは誰ですか」
「私です。主任として、部下へ指示した処方を紹介しました」
「売上が伸びたため、主任の指示として扱った?」
「当然です。記録係は、指示された内容を書くだけですから」
「では、最初の試作時刻を確認します」
試作控えには、午後二時十分。ニオイアヤメ根油の搬入後だ。
配合量、温度、失敗した一回目、量を変えた二回目。すべてに通し番号があり、私と受渡相手の署名がある。最後の確認欄には、リースベット主任の自筆でこう書かれていた。
『アンネケ試作。香調良好。翌日、商人へ提示する』
「この署名も主任のものですね」
「……私のものです」
「私へ指示した記録は?」
「口頭でした」
「時刻は?」
「覚えていません」
「立会人は?」
「二人きりでした」
「指示書は?」
「残していません」
ピーターが書き終えるまで、誰も次を口にしなかった。
私は、リースベット主任の前へ試作控えを滑らせた。
「記録に残らない言葉は、香りより早く消えます」
同じ言葉なのに、今度は追い出されなかった。
「反論を」
ピーターが促す。
「私は、主任として内容を整えただけです」
「何を?」
「処方を」
「どの箇所ですか」
「全体です」
「変更した量を」
「……覚えていません」
「変更時刻を」
「記録していません」
「署名者を」
「いません」
答えが一つずつ短くなる。
机の端に置かれた主任印だけが、初めと同じ大きさを保っていた。
「最後の質問です」
私は訂正文を差し出した。
「欠番頁へ処方を書き足したのは、誰ですか」
「記録庫の管理には、複数の者が——」
「原本の持出記録には、主任の名しかありません」
「整理のために持ち出しました」
「新しい香油を塗ったのは?」
「古い記録だと分かりやすくするためです」
商人たちの囁きが止まった。
ピーターの羽根ペンも止まる。
リースベット主任は自分の口元へ指を当てた。いま出た言葉を押し戻せる穴でも探しているようだったが、人の口には訂正線を引く欄がない。
「古い記録に見せるため、新しい香油を塗った。そういう意味ですか」
「違います。管理上の——」
「では、正確な文を自分で述べてください」
私は訂正文の空欄を示した。
「午後四時です。帳面も私の職も出ていきます。ですから、その前にあなたの署名で訂正してください」
移送所の時計が、四時まで四分を示した。
リースベット主任は商人たちを見た。誰も助け舟を出さない。ヤンさんは腕を組み、ピーターは公証印を開き、ヘンドリクは私の横から動かなかった。
「読み上げますか」
ピーターが尋ねた。
「本人にお願いします」
訂正は、間違えた人の手で行うのがいちばんよい。
リースベット主任が紙を取った。
「私、リースベットは……通し番号二百七十一の頁が未使用で返却されたあと、処方を記入し、新しい香油を塗って、過去の記録に見せました」
声が掠れた。
「続けてください」
「当該頁には、記録係アンネケの署名がありません。アンネケが改竄へ関与したことを示す記録は……ありません」
「損失について」
「欠番頁を根拠としてアンネケへ負わせた香料損失は、私の処理によるものです」
「処方について」
主任印へ伸びかけた指が止まる。
「処方の最初の試作は、アンネケが行いました。私は自分の指示によるものとして商人へ説明し、功績を……自分のものとして扱いました」
「署名を」
リースベット主任は署名した。
一文字目でペン先が紙へ引っかかり、二文字目から小さくなった。最後の線など、逃げ道の隙間へ潜り込もうとする虫ほど細い。
ピーターが公証印を押す。
「訂正を受理する。不正頁は無効。アンネケの関与記録は抹消。処方作成者はアンネケと記録する」
午後四時の鐘が鳴った。
扉の外で手綱が鳴り、王都行きの馬車が動き出す。原本を収めた箱が、ひとつ、またひとつと移送所を出ていった。
私の解雇状も、その目録へ載っている。
住み込み部屋の鍵はもう返した。帳面も私の職も、予定どおり出ていく。
正しいと証明されたからといって、失った場所へ戻りたいわけではなかった。
「アンネケ」
ヘンドリクが三通の契約書を置いた。
一通目は蒸留所の記録主任としての雇用契約。自由退職。外部依頼の受託可。
二通目は蒸留所と別に結ぶ家賃契約。住居提供の終了は、雇用の終了と連動しない。
三通目だけ、婚姻契約だった。
「ここにいろ。ただし条件はお前が書け」
私は椅子へ座り、婚姻契約から同居義務を消した。
無断の監視を禁ずる。帰宅時刻の報告は本人の任意。仕事への指図は雇用契約の範囲に限る。退職、転居、婚姻の継続は、それぞれ別に判断する。
ヘンドリクは一行も取り戻そうとしなかった。
「住居の合鍵は?」
「一本欲しい」
「緊急時以外は使用禁止」
「分かった」
「食事は?」
「毎日作る」
「それは契約義務にしません」
「俺がしたい」
ならば、受け取ってもよい。
私は雇用契約へ署名し、家賃契約へ署名した。最後に婚姻契約へ名を書いた。ヘンドリクも三通へ署名し、それぞれの控えを取る。
ヘンドリクの指が私の乱れた髪へ触れかけ、止まった。
「触れていいです」
指先が一度だけ髪を梳いた。
温かい。けれど、まだ終わりではない。
「処分記録を読み上げる」
ピーターが別の書面を開いた。
「リースベット主任は、欠損香料の代金を今後の給金から返済する。主任職を解く。以後は下位記録係として、商組合の監督下で勤務を継続する。帳面の単独持出し、主任印の使用、処方帰属の承認を禁ずる」
リースベット主任の前へ、返済同意書と降格処分書が並べられた。
訂正文だけでは終わらない。お金も、席も、印も、現に失っていただく。
「署名を」
ピーターが言った。
リースベット主任は返済同意書へ署名した。次に降格処分書へ署名する。
商人たちが見ている前で、主任印を留めた鎖へ指をかけた。
一度、外れない。
二度目に爪が滑る。
三度目で鎖がほどけ、主任印が机へ置かれた。
軽い音だった。
けれど、私を解雇したときの音より、ずっとよく響いた。
「最後に、訂正内容を申立人へ確認してください」
ピーターが命じた。
リースベット主任——もう主任ではない人が、私を見る。
「アンネケ。あなたは不正へ関与していません」
そこで言葉を切ったので、ピーターは待った。
商人たちも待った。
私も助けない。
「処方を作ったのは、あなたです。あなたの記録が正しい」
移送所の全員へ届く声だった。
ああ、よく効く。
五日かけて蒸留した溜飲が、たった一文で喉を通った。
ひとりの商人が、私の前へ新しい帳面を差し出した。先ほどまで私を模倣者と呼んでいた人だ。
「アンネケさん。この帳面の通し番号を見ていただけますか」
「一冊だけなら」
「次期分も、蒸留所の……記録係へお願いしたい」
ピーターが雇用契約を確認し、公証簿へ書き入れた。
「呼称を訂正する。アンネケ記録主任だ」
「では、アンネケ記録主任。次期帳面の監修をお願いできますか」
別の商人も、その隣も、帳面を私の側へ向けた。
リースベットの側ではない。
私の側へ。
「通し番号、受渡時刻、二人の署名を必須とします。欠けた依頼は受けません」
「承知した」
「監修料は別契約です」
「もちろんです、記録主任」
私は最初の依頼書へ署名した。
ピーターが受領時刻を書き、公証印を押す。
午後四時七分。
解雇された記録係ではなく、私が選んだ蒸留所の記録主任として、最初に残った時刻だった。
* * *
王都への移送後、私は蒸留所の一室へ新しい記録部門を作った。
原料受入帳、処方記録帳、出荷帳。棚は別。鍵も別。ヘンドリクが勝手に閲覧できるのは出荷帳だけである。不満そうだったが、自分で契約へ署名した人に不満を量り売りする制度はない。
リースベットは給金から損失を返しながら、監督付きの下位記録係として残った。訂正頁には彼女の署名と商組合の公証印がある。商人が処方の作成者を尋ねれば、記録庫は私の名を答える。
夕食には、ヘンドリクが豆の煮込みと焼いたパンを並べた。
食後、私は別口の家賃を帳面へ記入する。彼は背後へ回り、櫛を取った。
「帰宅が十三分遅かった」
「報告は任意です」
「心配した」
「無断監視は禁止です」
「していない。玄関で待った」
「それは監視に近い待ち伏せでは?」
「家主が自宅にいた」
契約の隙間を見つける腕だけは、香料商人より上らしい。
櫛が髪の端までゆっくり通る。机には雇用契約、家賃契約、婚姻契約が、混ざらず三つに分かれている。
「合鍵は一本まで。朝食は毎日でも構いません」




