さるまた様
一週間前、急に降って湧いた四日間の休日ができた。
自宅で無為に過ごすには惜しく思えて、私は車に乗り込んだ。
目的地は日本海。
新潟まで出て、そこから富山までは、あえて海岸線の下道を選んだ。
波の音と、延々と続く水平線を眺めながら走るのは悪くない。
三日目。
富山を抜け、飛騨へ向かう途中だった。
平穏な時間に飽きがきていた私は、ふと国道から外れ、県道へと入った。
山道を楽しもうという、軽い気まぐれだった。
道は次第に細くなり、やがて一車線になる。
脇の草は手入れもされておらず、車体をかすめるように生い茂っていた。
ついには砂利道へと変わり、緩やかなつづら折りが続く。
「やっぱりナビ、怪しいか……」
車載のナビは中古の格安品。
以前にも封鎖中の道に誘導され、遠回りさせられたことがあった。
今回もどこかで外れているのではないか。
そんな疑念が頭をよぎる。
やがて路面はコンクリートに変わり、少しだけ安心する。
右手には清流が流れ、窓を開ければ冷たい風が心地よい。
だが、次のカーブを曲がったときだった。
雨の気配など一切ないのに、路面が濡れていた。
さらに進むと、うっすらと斜面を水が流れており、タイヤが音を立てて踏みつける。
次のカーブを曲がって進む。
左手側の斜面に小さな滝があり、その流れを倒木が塞いでいた。
水は行き場を失い、道路へと溢れ出している。
「まあ……。行ける、よな?」
水の勢いは強い。
タイヤが半分ほど沈むだろうが、進めなくはない。
第一、引き返すには距離がありすぎる。
ここまで来た道を戻れば、一時間はかかるだろう。
それが惜しかった。
「……ったく、ついてないよ」
車を降り、思わず愚痴をこぼす。
念のため、水かさを手で測ろうと、一歩踏み出したその直後だった。
「ひっひっひっひっひっ……。」
背後から、低い笑い声が聞こえた。
振り返る。
さきほど曲がったカーブに、何かがいた。
灰色の毛。
猿のようにも見える。
だが、猿にしては異様に大きく、ゴリラにしては細すぎる。
そもそも、こんな山中にゴリラがいるはずもない。
その『何か』は、明らかにこちらを見ていた。
そして、笑っている。
私は言い知れぬ不安に背を押されるように車へ戻った。
エンジンのかかる音すら、もどかしい。
「な、何だよ、あれ……。」
アクセルを踏む。
すれ違いが出来ない細い山道。
ガードレールはなく、その先は斜面。
スピードが出せない。
バックミラーには、一定の距離を保ち、腰を落としながらついてくる影が見えた。
あの『何か』だ。
ときおり、笑い声が混じる。
窓は閉まっており、聞こえるはずのないのに。
追われているという実感が、じわじわと現実味を帯びていく。
恐怖に駆られ、私はアクセルを強く踏んだ。
その瞬間、ふっと車体が軽く浮いたような感覚があった。
気づけば、峠を越えていた。
下り坂に入ったことに気づき、慌ててブレーキへと足を移す。
次の瞬間、目の前には急なカーブが現れた。
間一髪だった。
ブレーキを踏んでいなければ、曲がりきれなかっただろう。
そのとき。
「つまらんのぉ……。」
誰もいないはずの車内。
まるで後部座席から聞こえるような声だった。
バックミラーを思わず見る。
だが、そこには何も映っていない。
その後は何事もなく、私は山を抜け、小さな集落へと出た。
心臓の鼓動は、まだ速いままだった。
古びた自動販売機を見つけ、車を止める。
冷たいジュースを買い、喉を通る炭酸の刺激に、ようやく現実に戻ってきた気がした。
「ふぅ……。」
自動販売機に背を預け、来た道の先にある森へ目を向ける。
何もいない。
そこへ、鍬を担いだ老人が通りかかる。
私は自分以外の人に出会い、胸をホッと撫で下ろす。
さらなる安心を求めるように、つい話しかけた。
「このあたり、大きい猿が出るんですね。驚きましたよ」
目の前を通り過ぎようとしていた老人が立ち止まる。
少しだけ間を置き、目を見開いた横顔のまま言った。
「大きい? どれくらいだ?」
「えっと……。私の胸くらいですかね?」
「色は?」
「灰色。いや、銀に近かったかも」
「……笑い声を聞いたか?」
「はい」
老人が溜息をつき、こちらを振り向く。
まるで、痛ましいものを見るかのような眼差し。
「ついてこい、寺に案内してやる」
「えっ!?」
有無を言わさない命令。
老人は来た道を引き返す。
「お前が遭ったのは、さるまた様だ」
「魅入られた以上、ついてくるぞ」
「……お前が死ぬまで」
背筋に、冷たいものが走った。
『何か』は、まだ終わっていないのか。
私は、老人の後をついて歩き出すしかなかった。
「昔から、あの山に住んでいる……。祟り神」
「俺の爺さんの、そのまた爺さんよりずっと昔からだ」
「お前も、獲物になったんだ」
そして今も、ふと思うことがある。
あのときの笑い声は、本当に山の中からだったのか。
最初から、車の中にいたのではないか、と。




