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実験場

さるまた様

掲載日:2026/06/10




 一週間前、急に降って湧いた四日間の休日ができた。

 自宅で無為に過ごすには惜しく思えて、私は車に乗り込んだ。


 目的地は日本海。

 新潟まで出て、そこから富山までは、あえて海岸線の下道を選んだ。

 波の音と、延々と続く水平線を眺めながら走るのは悪くない。


 三日目。

 富山を抜け、飛騨へ向かう途中だった。


 平穏な時間に飽きがきていた私は、ふと国道から外れ、県道へと入った。

 山道を楽しもうという、軽い気まぐれだった。


 道は次第に細くなり、やがて一車線になる。

 脇の草は手入れもされておらず、車体をかすめるように生い茂っていた。


 ついには砂利道へと変わり、緩やかなつづら折りが続く。



「やっぱりナビ、怪しいか……」



 車載のナビは中古の格安品。

 以前にも封鎖中の道に誘導され、遠回りさせられたことがあった。


 今回もどこかで外れているのではないか。

 そんな疑念が頭をよぎる。


 やがて路面はコンクリートに変わり、少しだけ安心する。

 右手には清流が流れ、窓を開ければ冷たい風が心地よい。


 だが、次のカーブを曲がったときだった。


 雨の気配など一切ないのに、路面が濡れていた。

 さらに進むと、うっすらと斜面を水が流れており、タイヤが音を立てて踏みつける。


 次のカーブを曲がって進む。


 左手側の斜面に小さな滝があり、その流れを倒木が塞いでいた。

 水は行き場を失い、道路へと溢れ出している。



「まあ……。行ける、よな?」



 水の勢いは強い。

 タイヤが半分ほど沈むだろうが、進めなくはない。


 第一、引き返すには距離がありすぎる。

 ここまで来た道を戻れば、一時間はかかるだろう。


 それが惜しかった。



「……ったく、ついてないよ」



 車を降り、思わず愚痴をこぼす。

 念のため、水かさを手で測ろうと、一歩踏み出したその直後だった。



「ひっひっひっひっひっ……。」



 背後から、低い笑い声が聞こえた。


 振り返る。

 さきほど曲がったカーブに、何かがいた。


 灰色の毛。

 猿のようにも見える。


 だが、猿にしては異様に大きく、ゴリラにしては細すぎる。

 そもそも、こんな山中にゴリラがいるはずもない。


 その『何か』は、明らかにこちらを見ていた。

 そして、笑っている。


 私は言い知れぬ不安に背を押されるように車へ戻った。

 エンジンのかかる音すら、もどかしい。



「な、何だよ、あれ……。」



 アクセルを踏む。


 すれ違いが出来ない細い山道。

 ガードレールはなく、その先は斜面。


 スピードが出せない。

 バックミラーには、一定の距離を保ち、腰を落としながらついてくる影が見えた。


 あの『何か』だ。


 ときおり、笑い声が混じる。

 窓は閉まっており、聞こえるはずのないのに。


 追われているという実感が、じわじわと現実味を帯びていく。

 恐怖に駆られ、私はアクセルを強く踏んだ。


 その瞬間、ふっと車体が軽く浮いたような感覚があった。


 気づけば、峠を越えていた。

 下り坂に入ったことに気づき、慌ててブレーキへと足を移す。


 次の瞬間、目の前には急なカーブが現れた。

 

 間一髪だった。

 ブレーキを踏んでいなければ、曲がりきれなかっただろう。


 そのとき。



「つまらんのぉ……。」



 誰もいないはずの車内。

 まるで後部座席から聞こえるような声だった。


 バックミラーを思わず見る。

 だが、そこには何も映っていない。


 その後は何事もなく、私は山を抜け、小さな集落へと出た。

 心臓の鼓動は、まだ速いままだった。


 古びた自動販売機を見つけ、車を止める。

 冷たいジュースを買い、喉を通る炭酸の刺激に、ようやく現実に戻ってきた気がした。



「ふぅ……。」



 自動販売機に背を預け、来た道の先にある森へ目を向ける。


 何もいない。


 そこへ、鍬を担いだ老人が通りかかる。

 私は自分以外の人に出会い、胸をホッと撫で下ろす。


 さらなる安心を求めるように、つい話しかけた。



「このあたり、大きい猿が出るんですね。驚きましたよ」



 目の前を通り過ぎようとしていた老人が立ち止まる。

 少しだけ間を置き、目を見開いた横顔のまま言った。



「大きい? どれくらいだ?」

「えっと……。私の胸くらいですかね?」

「色は?」

「灰色。いや、銀に近かったかも」

「……笑い声を聞いたか?」

「はい」



 老人が溜息をつき、こちらを振り向く。

 まるで、痛ましいものを見るかのような眼差し。



「ついてこい、寺に案内してやる」

「えっ!?」



 有無を言わさない命令。

 老人は来た道を引き返す。



「お前が遭ったのは、さるまた様だ」


「魅入られた以上、ついてくるぞ」


「……お前が死ぬまで」



 背筋に、冷たいものが走った。


 『何か』は、まだ終わっていないのか。

 私は、老人の後をついて歩き出すしかなかった。



「昔から、あの山に住んでいる……。祟り神」


「俺の爺さんの、そのまた爺さんよりずっと昔からだ」


「お前も、獲物になったんだ」



 そして今も、ふと思うことがある。


 あのときの笑い声は、本当に山の中からだったのか。

 最初から、車の中にいたのではないか、と。




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