タイトル未定2026/04/11 17:14
ルーミナス聖堂の廊下は白かった。
石灰と聖油が混ざった臭い。磨きすぎて逆に滑る床。リュシア・エルフェインは七年間この廊下を歩いてきたが、今日だけは足の裏が正直で、歩くたびにここがどれだけ嫌いだったか思い出した。
向こうから修道女が二人来た。視線が一瞬だけ交わって、すぐ逸れた。知っているんだろうと思った。組織の中で噂は足が速い。
ギルバウ・ネッセは机の前にいた。五十がらみ、顎の肉がすでに首に負けている。書類仕事で積み上げた疲労が指の節に出ていた。その指が今、机の上で組まれていた。
封筒が差し出された。開けた。
――聖女リュシア・エルフェインの聖力枯渇を確認。以後の奉仕義務を免じ、教会との一切の契約を解除する。
「退職金は」
「ありません。聖女は信仰によって生きる。報酬の概念とは相容れない」
胸の奥で何かが焦げるような感覚があった。七年間、出さずにやってきた種類の感覚だった。
「北の廃鉱に封印されたグラ=ゼルの断片。まだ教会は手が出せていないんでしょう」
ギルバウの目が細くなった。
「……それは機密です」
「教えてくれたら今すぐ出て行きます」
長い沈黙があった。廊下の外でくしゃみがした。ギルバウは引き出しを開けた。地図が出てきた。折り畳んだまま滑らせた。
「見なかったことに」
「当然です」
廊下を歩く。コツ、コツと靴音が鳴る。入り口に差し掛かったとき、柱の陰に人が立っていた。
黒い外套、長身、教会追跡官の制服。二十八歳くらい。眉間に何かを考えている跡がある。目が、疲れていた。怒っているのではなく、ひどく疲れた目だった。
「エルフェイン」
「良い一日を」と言って出た。
冬の空は灰色だった。
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廃鉱の入り口には案内板があった。「危険区域、立ち入り禁止」と書いてある。その前で老人が木箱を机にしてシチューを売っていた。客は一人もいなかった。
「兄ちゃんも解体師か」と老人が言った。
「姉さんです」
「ここ一年で四人目だ。みんな中に入って出てこない」
「参考にします」
焚き火の近くにガルド・ヴェインがいた。三十二歳、顔に古い傷跡、灰色の目。干し肉をくちゃくちゃと噛んでいた。
「来るのが一日遅かった」と彼は言った。「明日には撤収するつもりだった」
「偶然ですね」
「聖女が廃鉱に一人で来るのは偶然じゃない」
リュックを下ろして、黒い石を取り出した。拳大、光を吸うような色。皮のパッドを当てて掴んでいる。
「これの価値、分かりますか」
ガルドが顔をしかめた。「……邪神系の断片か」
「グラ=ゼルの一次断片。今朝解体しました」
「死ぬぞ普通」
「死ななかったので」
パチ、と薪が爆ぜた。ガルドはしばらく火を見ていた。
「……北の方に、もう一人いる」と彼は言った。「解体師。名前はレーン・ヴォスとか聞いた。やり方が荒い。封印を全壊させて根こそぎ取る方法を使う。先月、小さな封印地が一つ消えた。原因はそいつだという噂だ」
「人が死にましたか」
「周辺に集落はなかった。ただ、消えた封印から何が出たかは誰も分かっていない」
リュシアは少し考えた。「取り分は折半。危険度に応じて調整。私の指示には従うこと」
「女に指示されるのは得意じゃない」
「慣れてください」
乾いた笑い方だった。
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廃鉱の最深部は静かだった。
ぽた、ぽた、と水が滴る音がする。岩と黴の臭い。それから何か別の臭い、金属でもなく植物でもなく形容しにくい何かが、空気に混じっていた。
封印石の前に立った。高さ二メートルの柱が三本、いびつな三角形を形成している。中心に黒い「何か」が浮いていた。煙のようで液体のようで、どちらでもなかった。光を反射するのではなく飲み込んでいた。
「下がっててください」とガルドに言った。
「どのくらい」
「声が届かなくなるくらい」
道具袋を開ける。分解用の刃、触媒結晶、それから自分で作った術式のノート。聖力なしで機能する分解術式だった。三年かけて組んだものだ。聖力は枯渇した。でも技術は消えない。
指先で触媒結晶を三点に置く。岩に術式を描き込む。墨が染みていくのをじっと見る。
――始めますよ。心で言った。
術式が灰色に発光した。本来の聖力術式は金色らしい。技術だけで組んだものはこういう色になる。
封印石が揺れた。
声ではなかった。重さが来た。頭の後ろがずん、と重くなった。意味として届いた。言語の手前にある何かだった。
「……いる」
「います」とリュシアは答えた。
「何をしに来た」
「断片を少し、持っていきます。規則を説明しますか」
「……規則」
「解体には三つある。断片は段階を経るほど性質が変わる。神核に近づくほど意思が強くなる。一定量以上は人体に影響が出る。これが基本です」
重さが変化した。
「神核に近い部分は」
「会話が難しくなります。記録によれば成立しなくなる段階がある。あなたはまだその手前にいる」
「……知っているのか」
「教会の文書を読みました」
長い沈黙があった。水が滴る音だけが続く。
「嫌だと言ったら」
「困りますが強引にはやりません」
「嫌ではない。封印は三十年で崩壊すると、お前は計算したのか」
「教会の記録からです」
「賢い」
「実利的なだけです」
術式が完成した。封印石の一角が分解され、黒い「何か」の端がずるりと結晶に流れ込む。音はなかった。頭の後ろの重さが増した。鼻の奥がつん、と痛くなった。手の甲に赤いものが落ちた。
鼻血だった。
「大丈夫か」と重さが言った。
「問題ありません」
「嘘だ」
「問題ある程度には問題ありませんので」
重さが変化した。解釈できない変化だった。
「また来るか」
「来ます」
「……退屈だった」とグラ=ゼルが言った。
廃坑の入り口で、老人がシチューをすすっていた。
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ミラ・カースレインは結晶を光に透かして、「高い」と言った。
二十六歳、赤みがかった黒髪で指に銀の指輪が三つある。店先の少年が番をしていた。十三歳くらい、リュシアが入ってきたとき一度だけ顔を上げて、本の続きを読み始めた。
「百七十万で買い取る。リスクプレミアム込み」
「買いです」
書類を出しながら、ミラは言った。「王立研究院が動いている。先週、この辺の闇市を一件潰した。証拠隠滅込みで」
「引き合わせないでください」
「当然。私の取引先を横取りされたら困る。でも一つだけ言っておく」
「なんですか」
「北の方に、もう一人解体師がいる。レーン・ヴォスという。先週、研究院と取引した。封印地の根こそぎ解体と引き換えに、身分保護を受けた」
リュシアは少し間を置いた。
「それで何を」
「そいつが解体したものの一部が、もうここの市場に流れてきている。偽物と区別がつかない。うちの買い手が混乱し始めた。価格が下がる」
「どのくらい」
「来週中に三割落ちる可能性がある」
帰り際、路地でエドラス・ハイラントが待っていた。
「追うつもりはない」と彼は先に言った。「一つだけ話がある」
「聞きます」
「王立研究院が、来週廃鉱に入る。強行突破の手続きを進めている。俺が持てる書類で止められるのは、あと二回だ」
「なぜ教えてくれるんですか」
エドラスは少し間を置いた。
「昔、封印が一つ崩れた」と彼は言った。「村が一つ消えた。俺は祈った。何も起きなかった」
リュシアは何も言わなかった。
「それだけだ」とエドラスは言って、踵を返した。
コツ、コツと足音が遠くなった。
「聖女は救うものだと思ってました」とリュシアは呟いた。誰にでもなく。
「今は違うんですか」
ガルドが後ろから来ていた。
「解体した方が救えることもあるので」
ガルドは少し間を置いた。「なるほど」とだけ言って、前を向いた。
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バルク・ドレンが来たのは一週間後だった。
五十がらみ、工房の臭いが染みついている。頭は剃っていて、耳に鑷子が刺さったままだった。弟子のセリカ・ノインも来た。十九歳、演算板を常に持ち歩いている。二人の会話はドン、ドンと廃坑の壁に反響した。
「バルクさんの計算は古い」
「黙って手を動かせ」
「でも私の方が精度が高い」
「口が高い」
その日の午後、三次断片の区画で解体を始めた。
術式を展開しながら、セリカが数値を取っていた。ある工程の途中で、彼女の演算板の数値が急に跳ねた。
「……内部構造が変化した」とセリカは言った。
「何秒前から」
「十二秒前」
「神様と話しています」とリュシアは言った。
重さが来ていた。
「増えた」とグラ=ゼルが言った。
「研究者です」
「前と違う。密度が異なる」
セリカが演算板を封印石に向けた。意味はなかった。でも向けた。
「聞こえますか」と彼女は言った。
重さが変わった。
「……計算をしている声だ」
「はい」
「それを見せろ」
「できません。あなたが数式を理解できるかどうか分からないので」
「試せ」
「理解できなかったら」
「お前が困るだろう。それでいい」
セリカは画面を向けた。しばらく沈黙があった。それから重さが大きく変化した。廃坑の空気が、ぶわ、と揺れた。
「面白い」とグラ=ゼルが言った。
セリカが何かを言った。リュシアには聞こえなかった。聞こえない音量だった。
「セリカ」とリュシアは呼んだ。
「……はい」
「今、何を言いましたか」
「言っていません」
「言いました」
セリカは演算板を見下ろした。「私は言っていないと思います」
バルクがカツ、カツと岩壁を指で叩いた。「これ以上はやめておけ」と彼は言った。弟子にではなくリュシアに言った。「分かる人間には分かる。もう少し、余白を残せ」
リュシアは何も言わなかった。
余白。計算で埋めてきた種類の言葉だった。
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王立研究院が動いたのは翌週だった。
廃坑の入り口で、老人の茶屋が荒らされていた。老人は気を失っていた。眠り薬の臭いがした。
「来た」とガルドが言った。
「人数は」
「七人。前より増えた」
廃坑の奥に走った。中に入ったのはリュシアとガルドとノクトだった。ノクトは「来るな」と言ったのに来ていた。いつものことだった。
先頭の男は眼鏡をかけていた。先週と同じ顔だった。
「リュシア・エルフェイン。今日は書類の準備が間に合わない。教会の追跡官も来ない。説得させてください。取引をしましょう」
「断ります」
「断る理由がなくなりました。ミラ・カースレインの店が今朝から閉まっています。流通ルートが一つ消えた」
ミラが、と思った。顔には出さなかった。
「解体技術のみ提供します。素材はこちらが管理する。あなたには保護と報酬を」
「断ります」
「なぜ」
「あなたが最終的に何を作るかが分かっているので」
眼鏡の男が少し顔を変えた。「……あなたが思っているものとは違う」
「では教えてください」
沈黙があった。教えなかった。
「制圧してください」と彼は言った。七人が動いた。
ガルドが前に出た。リュシアは封印石に向かって走った。術式を展開する。封印を強化するための術式だった。完全には機能しない。でも輪郭だけなら。
ノクトが動いた。
「下がってください」とリュシアは言った。
「嫌だ」とノクトは言った。
腕の筋が光っていた。廃坑の薄暗がりの中で、金色に近い光だった。
研究院の一人がノクトに近づいた。ノクトが振り向いた瞬間、腕の光が強くなった。ずく、と音がするような光り方だった。
男が止まった。止まった理由を後で聞いたら「分からない」と言った。
リュシアは術式の最終工程に入っていた。
問題はそこで起きた。
四次断片の区画に、術式が誤って干渉した。誤って、ではない、計算が想定した範囲内だった。でも四次断片の体積が計算値の三割大きかった。
三割大きい、というのは、三割の誤差ではなかった。
「……待って」とリュシアは言った。
「どうした」とガルドが後ろから言った。
「計算が、合わない」
封印石がびり、と鳴った。一音だけ。でもその一音で廃坑の空気が変わった。
四次断片が溢れた。結晶の収容量を超えた分が、外に出た。黒い「何か」が廃坑の空気に漏れ出した。音はなかった。煙のようにゆっくり、でも確実に。
ノクトの腕の光が跳ねた。
「ノクト、動かないで」
「……腕が」
「動かないで」
「腕が、引っ張られる、中に」
リュシアの手が術式の上で震えた。震えているのを、見えていた。修正しようとした。修正のための計算が出てこなかった。七年間で初めてだった。計算が出てこない、というのが。
ゴウ、と空気が鳴った。
四次断片が、ノクトの腕に流れ込んだ。
術式で止めようとした。止まらなかった。量が多かった。計算が正しければ止まった。計算が三割ずれていた。
それだけだった。それだけのことだった。
「壊すな、と言っている」
重さが来た。今まで聞いたことのない重さだった。圧力があった。感情があった。怒りではなく、もっと切迫したものだった。
「壊すな。その子は私の断片を持っている。死んだら、断片も死ぬ」
「……グラ=ゼル」
「壊すな。止められるか」
「やってみます」
術式を切り替えた。封印強化から、流出封鎖へ。手が震えていた。震えたまま書いた。震えたまま動いた。
入口の方から、小さな足音がした。
「お姉さん」とリルが言った。
「来るな」
「グラ=ゼルさんが、ノクトくんに話しかけたいって言ってる」
「今は」
「今じゃないとダメだって言ってる」
廃坑の中が静かになった。研究院の人間が動きを止めていた。何が起きているか分からないでいた。
リルがノクトの横に来た。腕に手を当てた。触れた。
「ノクトくん」
「……分かってる」とノクトは言った。歯を食いしばっていた。「分かってる、分かってる、でも」
「グラ=ゼルさんが言ってる。飲まれるな、って」
「飲まれてるんだよ」
「飲まれてるのと飲まれ切るのは違うって」
どく、と何かが止まった。
リュシアには分からなかった。音ではなかった。変化だった。廃坑の圧力が変わった。重さが引いた。
ノクトの腕の光が、落ちた。
落ちただけで、消えなかった。
ノクトがその場に座り込んだ。ドサ、と音がした。
リュシアは術式を完成させた。流出が封鎖された。残った断片が収まった。
四次断片の区画は空だった。
そのとき、別の足音がした。エドラスだった。書類を持っていた。
「王立研究院第十二条、指定危険地域への無許可侵入」と彼は言った。「退去してください」
眼鏡の男が振り返った。
「書類は手配済みだ」とエドラスは続けた。
「先週も同じことを言った」
「今週も同じことを言います」
眼鏡の男は書類を見た。それから廃坑の中を見た。それから出て行った。七人の足音が遠くなった。
廃坑が静かになった。
ぽた、ぽた、と水が滴る音だけが戻ってきた。
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ノクトが動けるようになったのは一時間後だった。
廃坑の入り口近くで、老人が目を覚ましてシチューを温め直していた。「大騒ぎだったな」と言った。「いくらか払え」とは言わなかった。
ガルドがノクトの腕を見た。黒い筋が腕全体に広がっていた。肘を超えて、肩まで来ていた。
「これ以前より広がってるな」
「分かっています」とリュシアは言った。
「どのくらい悪い」
「分かっています」
「どのくらいかと聞いている」
リュシアはノクトを見た。ノクトは何も言わなかった。
「四次断片が流入した。量は計算より多かった。三割の誤差が出ました」
「……三割」
「私の誤算です」
ガルドは何も言わなかった。
「元に戻る可能性は」とノクトが聞いた。
「今のまま解体を続ければ、いずれ神核の技術に届く。その段階なら逆に取り除ける可能性がある。ただ」
「ただ」
「時間がかかります。今まで言っていた想定より、長くなります。一年が、三年か四年になるかもしれない」
「……そうか」
「ごめんなさい」
ノクトは少し間を置いた。「計算が合わなかっただけだろう」
「そうです」
「お前が悪いとは思っていない」
「でも私の計算でした」
「俺が来たのも俺の判断だ」
リュシアは答えなかった。
答えが、なかった。
「来週から四次断片の再解体に入ります。今日壊れた分は取り戻せない。でも残っている断片はまだある」
「いくつ」
「確認中です」
ミラの店が閉まっている話をした。研究院に押さえられたかもしれないと言った。ガルドが「買い手を変えるか」と言った。「そうします」と答えた。
価格は翌日から下がった。三割ではなかった。四割だった。レーン・ヴォスが解体した素材が市場に大量に出回っていた。品質が悪かった。でも安かった。
「対抗できるか」とガルドが言った。
「品質で差をつけるしかない」とリュシアは言った。「あと、レーンが作った素材が何かに使われたとき、誰かが気づく。その前に実績を積む」
「楽観的だな」
「計算です」
「さっき計算が合わなかったと言った」
「また計算します」
ガルドは少し間を置いた。「なるほど」とだけ言った。
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エドラスが来たのは夜だった。
廃坑の入り口の焚き火の前に座っていた。隣に座った。二人ともしばらく何も言わなかった。
「なぜ今日も来てくれたんですか」とリュシアは聞いた。
「書類が間に合ったから」
「それだけですか」
「……書類が、間に合うように事前に手配した」
「なぜ」
「昔、封印が一つ崩れた。俺は祈った。何も起きなかった」と彼は言った。「今日、また封印が崩れた。俺は書類を持っていった。何かが変わった」
リュシアはそれを聞いて、少し考えた。
「あなたは信仰を失ったんですか」
「失っていない。ただ、信仰の形が変わったかもしれない」
「どういう形に」
「分からない。まだ」
パチパチと火が鳴った。
「グラ=ゼルと話したことはありますか」とリュシアは聞いた。
「ない」
「退屈していますよ。千年以上、ずっと」
「……神が退屈するのか」
「するみたいです。あなたの信仰の形が変わったなら、一度話してみてもいいかもしれない」
「信者が神と交渉するのか」
「私は信者じゃないですよ。資源として扱っているので」
エドラスは少し間を置いた。「お前は変だ」
「グラ=ゼルにも同じことを言われました」
セリカが遅れて来た。演算板を持っていた。数値を見ながら歩いていた。
「今日の流入量の計算ができた」と彼女は言った。「ノクトに入った断片の比率が分かった」
「教えてください」
セリカが数値を見せた。予想より多かった。予想の、三割増しだった。
「……また三割か」
「グラ=ゼルの断片は非線形に増幅する。理論の修正が必要だと思います」
「修正します」
「私もします」
ノクトが廃坑の入り口に立っていた。腕の筋はまだそこにあった。光っていなかった。
リルが隣に立っていた。どこから来たのか、気づいたらいた。
「グラ=ゼルさんがね」とリルが言った。「今日のことを、怒っているって言ってた」
「そうですか」
「でも怒る理由があったから怒ったんだって。初めて怒る理由ができたって」
リュシアは廃坑の方を見た。
「今日は初めてでしたか」とリュシアは重さに向かって言った。声に出した。
重さが来た。
「初めてだった」
「どんな感覚でしたか」
「……不快だった。制御できないものがあるということが」
「人間はいつもそうですよ」
「お前はそうではないと思っていた」
「そうではありませんでした。今日」
長い沈黙があった。
「……なら同じだな」とグラ=ゼルが言った。
「何が」
「不快を知っている同士ということだ」
リュシアは少し笑った。表情には出さなかったが、確かに笑った。
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## 終章 解体と、これから
三ヶ月後。
リュシアの手元に一覧があった。
一次断片×3、二次断片×7、三次断片×12。四次断片×0。
四次は全部、あの日に消えた。取り戻せなかった。
ガルドは相変わらず危険な現場でも正確に動いた。セリカは演算板に数字を増やし続けていた。修正した理論式が今週完成した。「グラ=ゼルの断片は段階ごとに指数的に増幅する。その指数を算出するには神核のデータが必要」と言った。「神核の解体技術、作ります」と言ったら「時間がかかる」と言った。「構いません」と答えた。
バルクは素材の物性データをまとめていた。全部で四百ページを超えたらしい。誰が買うかはまだ決まっていない。でも「誰かは必ずいる」と言っていた。
ミラの店は二週間で再開した。場所を変えて、表の商品も変えて、店番の少年だけそのままだった。「価格が回復するまで時間がかかる」と彼女は言った。「分かっています」と答えた。「あなたは怒らないのか」と聞かれた。「後で怒ります。今は計算が優先なので」と言ったら、笑われた。
ノクトは毎週来た。腕の筋の進行を計測するために。数値は変わっていなかった。止まっていた。理由は分からなかった。グラ=ゼルに聞いたら「特に何もしていない」と言った。信用できるかどうかは分からなかった。
エドラスから月に一度、情報が来るようになった。形式的な書類ではなく、手書きの走り書きだった。「研究院の動きに変化あり」「北の解体師が別の封印地に移動した」「今月は来ない予定」という内容が多かった。なぜそれを伝えるのかは書いていなかった。
アストレア・ルミナスから二通目の手紙が来た。「動く準備ができました」と書いてあった。何を動くのかは書いていなかった。
リルは相変わらず週に三回来た。グラ=ゼルと何を話しているか聞いたら今週も「秘密」と言った。
廃坑の入り口に立った。
ガルドが後ろにいた。セリカも来ていた。今日はノクトも来た。腕の筋が今日は少し光っていた。廃坑の空気に反応しているのかもしれなかった。
「五次断片の区画に入ります」とリュシアは言った。「四次でやった計算の誤差を修正した理論を使います。ただし、またズレる可能性がある」
「どのくらい」と聞いたのはノクトだった。
「分かりません。でも前回の誤差の原因は特定できた」
「じゃあ同じ失敗はしない」
「同じ失敗はしない。でも別の失敗をするかもしれない」
ノクトは少し間を置いた。「正直だな」
「実利的なだけです」
重さが来た。
「来るか」
「来ます」
「今日は何を持っていく」
「五次断片の最初の一部を。小さい量です」
「また小さい量か」
「急がない方がいいので」
「急かしていない。確認しているだけだ」
「ではまた同じ答えです」
重さが変化した。最近は少し分かるようになっていた。今は、面白がっている変化だった。
「……お前は変わらないな」
「変わっています」と言った。「今日の計算と先月の計算は別物です」
「でも進む方向は変わらない」
リュシアは答えなかった。
答えが、あった。でも言葉にするとズレる気がして、言わなかった。
「始めます」
「始めろ」
廃坑の中に入った。ガルドが後ろを向いたまま言った。「神様と雑談できる解体師は前例あるのか」
「ないと思います」
「なるほど」
「まずいですか」
「いや」と彼は言った。「前例なしの方が、値がつく」
ノクトが続いた。セリカが続いた。
廃坑は深く、暗く、冷たかった。
奥から灯りが滲んでいた。あの夜より少し強くなっていた。
何の光かは、まだ分からなかった。
でもいつか分かる、という気がしていた。
分かったとき怖くなるかもしれない。
分かったとき怖くならないかもしれない。
どちらでも、前に進む方が好きだった。
それは変わっていなかった。




