目が覚めたら、婚約者も家族も私の存在を忘れていた――家族に忘れられた朝、私の人生は妹に譲渡されていた。
『存在値一の私へ』
第一分割
第一章 消された娘
目が覚めた瞬間、有栖川澪は、自分が泣いていたことに気づいた。
頬が冷たい。枕の端が濡れている。夢の内容は覚えていない。ただ、胸の奥に、何か大切なものを置き忘れてきたような感覚だけが残っていた。
午前六時二十分。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、いつもと同じだった。薄い灰色を帯びた冬の光。窓の外では、庭師が手入れを怠らない楠の葉が、ほとんど音も立てずに揺れている。
有栖川家の朝は早い。父は七時には食堂に降り、母はそれより少し前に身支度を済ませる。妹の美咲は、決まって七時十五分ぎりぎりまで眠っている。澪はいつも、六時半には起きて、家族の誰よりも先に顔を洗った。
今日も、そのはずだった。
けれど身体を起こした瞬間、澪は小さな違和感を覚えた。
部屋の匂いが違う。
自分の部屋なのに、どこか他人の部屋のようだった。香水ではない。洗剤でも、花でもない。長く閉め切られていた客間に似た、薄く乾いた匂いがした。
澪は眉をひそめ、ベッドの脇に足を下ろした。
スリッパがなかった。
昨夜、確かにベッドの右側に揃えて置いたはずだ。白い布地に、淡い青の刺繍が入ったもの。高校の卒業祝いに母から贈られたスリッパだった。十年近く使っているせいで少しくたびれていたが、履き慣れた感触が好きで、何度買い替えを勧められても手放せなかった。
床には、代わりに見慣れない使い捨ての室内履きが置かれていた。まるでホテルの備品のような、薄い白いものだった。
澪はそれを履かず、裸足のまま立ち上がった。
カーペットの感触も違う。以前より少し硬い。いや、違うのはカーペットではない。澪の足裏が、知っている部屋の記憶を探しているのだ。ここは自分の部屋だと頭ではわかる。壁の色も、窓の位置も、クローゼットの扉も、何ひとつ変わっていない。
それなのに、決定的な何かが抜け落ちていた。
机の上に置いていた手帳がない。
澪は一歩近づいた。濃紺の革表紙の手帳。久世蓮司との予定や、結婚式の打ち合わせ、母から頼まれた用事、父の来客予定まで、細かく書き込んでいた。昨夜も寝る前に開いた。来週、蓮司と式場の最終確認をする予定に、赤い丸をつけた。
机の上には、何もなかった。
ペン立てもない。読みかけの本もない。蓮司から貰った小さなガラス細工もない。澪の机は、誰かが丹念に拭き上げたあとのように、妙に清潔だった。
胸の奥が、少しずつ冷えていく。
澪はクローゼットを開けた。
服はあった。だが、数が少ない。澪が普段着ているワンピースも、蓮司との食事用に選んだ淡い藤色のドレスもない。代わりに、誰のものともつかない無地のシャツと、地味なスカートが数枚だけかかっていた。
引き出しを開ける。下着も、ハンカチも、アクセサリーもない。
澪は勢いよく鏡台へ向かった。
鏡の中には、確かに自分が映っていた。黒髪は肩のあたりでわずかに乱れ、目の下には薄い隈がある。二十六歳の有栖川澪。父に「有栖川の長女らしくしなさい」と言われ続け、母に「あなたは表情が硬いのよ」と指摘され、妹に「お姉様はいつも真面目で疲れない?」と笑われてきた、自分自身。
消えてはいない。
だが、鏡台の上にあるはずの写真立てがなかった。
澪はそこに、蓮司と撮った写真を飾っていた。婚約が決まった日、庭園の見えるホテルのロビーで撮った写真だ。蓮司は珍しく照れたように笑っていて、澪はその表情を見るたびに、自分はこの人に選ばれたのだと思えた。
写真立ての跡だけが、薄く残っていた。
埃の積もり方がそこだけ違う。何かが置かれていた痕跡はある。けれど、物はない。
澪は鏡台の引き出しを開けた。
そこには、小さな黒い箱があった。
息を止めるようにして、澪は箱を手に取った。蓮司から婚約指輪を受け取ったときの箱だ。普段は指輪を身につけている。昨夜、風呂に入る前に外し、いつものように箱に戻した。
蓋を開けた。
中は空だった。
その瞬間、澪の喉から、自分でも聞き慣れない声が漏れた。
「……蓮司さん?」
部屋の中に返事はない。
指輪をなくすはずがない。澪は物をなくさない。特に、婚約指輪のような大切なものならなおさらだ。箱の中を指で探る。底の布地に触れる。何もない。引き出しの中も、鏡台の下も、ベッドの周りも探した。ない。
澪は机に戻り、スマートフォンを探した。
枕元の充電器に、見慣れた端末が繋がっていた。ほっとして手に取る。しかし画面を点けた瞬間、また奇妙な感覚が走った。
待ち受け画面が違う。
蓮司と撮った写真ではなく、ただの初期設定の青い背景だった。澪は顔認証を試した。解除されない。指紋認証も反応しない。パスコードを入力する。誕生日。蓮司の誕生日。婚約記念日。どれも弾かれた。
五回目で、画面に赤い文字が出た。
本人確認に失敗しました。
澪はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく立ち尽くした。
誰かの悪戯だろうか。
そう思った。そう思うしかなかった。
けれど、有栖川家で、澪にこんな悪戯をする者はいない。父は冗談を嫌う。母は体面を何より大切にする。美咲は悪ふざけをすることはあっても、澪の婚約指輪を隠すようなことはしない。
蓮司なら、なおさらだ。
澪は急いで身支度をした。髪を梳かす余裕もなく、部屋にあった地味なシャツとスカートを身につける。自分の服ではなかったが、今はそれを気にしている場合ではない。
扉を開け、廊下に出た。
有栖川家の屋敷は、都心から少し離れた高台にある。古い洋館を改築したもので、祖父の代にはまだ使用人が十人以上いたという。今はそこまでの余裕はないが、それでも住み込みの家政婦が二人、庭師が一人、運転手が一人いる。父はその規模を保つことに、奇妙なほどこだわっていた。
廊下の壁には、家族写真がいくつも飾られている。
澪は足を止めた。
一番新しい写真は、去年の母の誕生日に撮ったものだった。父と母、美咲、そして澪。四人で並んで写っているはずだった。
だが、写真の中に澪はいなかった。
父は中央に立ち、母がその隣で微笑んでいる。美咲は明るい笑顔で、父の腕に手を添えている。三人だけの写真だった。
澪は写真に顔を近づけた。
自分が立っていたはずの場所には、淡い余白があった。人ひとり分の隙間がある。背景のカーテンが不自然に歪んでいる。まるで、そこにいた誰かを、あとから丁寧に消したようだった。
喉が渇いた。
別の写真を見る。幼い頃、庭で撮った写真。父、母、美咲。澪はいない。美咲の七五三の写真。父と母が美咲を囲んでいる。澪はいない。家族旅行の写真。三人だけが、海辺で笑っている。
どの写真にも、澪はいなかった。
けれど、おかしい。
澪はそのすべての場面を覚えている。七五三の日、美咲の草履の鼻緒が切れて、澪が母の言いつけで駆け回ったこと。海辺の写真を撮る直前、父が仕事の電話で不機嫌になり、母が小声で澪に「あなたが笑わせて」と言ったこと。誕生日の写真では、澪がケーキの予約を間違えた店に入れてしまい、慌てて別の店に走ったこと。
記憶はある。
証拠だけが消えている。
階下から、食器の触れ合う音が聞こえた。
澪は手すりにすがるようにして階段を降りた。足元が頼りない。夢の中を歩いているようだった。
食堂の扉は半分開いていた。
中から母の声が聞こえる。
「美咲、今日は蓮司さんがいらっしゃるのだから、あまり派手な色はやめなさい」
「わかってるわ、お母様。今日は上品にしているつもり」
美咲の声だ。いつも通り明るい。少し甘えるような響きがある。
澪は扉の前で立ち止まった。
蓮司が来る。
その言葉に、安堵が胸を満たした。蓮司に会えばいい。蓮司なら説明してくれる。あるいは、この異常を一緒に調べてくれる。父や母が何かを隠していても、蓮司だけは澪の味方でいてくれる。
そう思った。
澪は扉を押し開けた。
食堂には、父と母と美咲がいた。
父の有栖川宗一郎は、新聞ではなく薄型端末に目を落としている。母の響子は、白いブラウスに真珠のネックレスを合わせ、背筋を伸ばして紅茶を飲んでいる。美咲は淡い桃色のワンピースを着て、果物を小さく切っていた。
三人が同時に顔を上げた。
沈黙。
澪は、まず母と目が合った。
母の顔から、血の気が引いていくのがわかった。カップを持つ指が小さく震える。次の瞬間、陶器が皿に触れて、かちんと乾いた音を立てた。
「……あなた」
母の声は、細かった。
澪は一歩踏み出した。
「お母様、私です。澪です」
その言葉を口にした途端、母は椅子を引いて立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、不快な音が食堂に響く。
「誰なの」
澪は聞き間違えたのかと思った。
「お母様?」
「誰なの、あなた」
母は、怯えていた。
澪はその表情を見た瞬間、胃の奥を掴まれたような感覚に襲われた。母が澪に向ける顔ではなかった。客間に泥棒が入り込んだときのような、あるいは見知らぬ女が突然家庭の中に踏み込んできたときのような顔だった。
父が端末を置いた。
「どちら様ですか」
低く、冷静な声だった。だが、その冷静さが、澪にはいっそう恐ろしかった。
「お父様、何を言っているんですか。私です。有栖川澪です」
父の眉がわずかに動いた。
「有栖川?」
「はい。お父様とお母様の娘です。美咲の姉の」
美咲が小さく息を呑んだ。
澪は妹を見た。美咲なら、きっと笑い出してくれると思った。お姉様、どうしたの、顔が真っ青よ。そう言って、いつものように軽く肩をすくめてくれると思った。
しかし美咲は、澪を見つめたまま、手にしていたフォークを皿の上に置いた。
「……私に、姉はいません」
澪の耳の奥で、何かが静かに切れた。
「美咲?」
「私、一人っ子です」
美咲の声には、嘘をついている響きがなかった。心からそう信じている声だった。
澪は笑おうとした。きっと顔が引きつっていただろう。
「何を言っているの。昨日も、私の部屋に来たでしょう。蓮司さんとの式場の花を、白にするか薄紫にするか、相談したじゃない」
美咲は困惑したように母を見た。
「お母様、この方は……?」
母は答えなかった。ただ澪から目を離さず、両手を胸の前で握っている。
父が静かに立ち上がった。
「警備を呼びなさい」
「待ってください」
澪の声は裏返った。
「お父様、本当に私がわからないんですか」
「あなたの身分証を拝見できますか」
「身分証……」
澪は言葉に詰まった。財布は部屋にある。いや、部屋にあっただろうか。クローゼットにバッグがなかった。引き出しも空だった。スマートフォンは解除できない。
自分が自分であることを証明するものが、何ひとつ思い浮かばなかった。
父は澪の沈黙を見て、目を細めた。
「この家にどのように入ったのですか」
「私の家です」
「ここは有栖川家です」
「だから、私も有栖川です」
「有栖川家に、あなたのような方はいません」
あなたのような方。
その言葉が、澪の胸にゆっくり刺さった。
母が震える声で言った。
「お願い、出ていって。警察沙汰にはしたくないの」
「お母様」
「そう呼ばないで」
母の言葉は短かった。だが、それは平手打ちよりも重かった。
澪は母を見つめた。いつも厳しく、感情を表に出さない人だった。けれど、幼い澪が熱を出した夜、母は一晩中ベッドのそばにいてくれた。冷たいタオルを替えながら、下手な子守歌を歌ってくれた。澪はその歌を覚えている。母の指の冷たさも、香水の薄い匂いも覚えている。
それなのに、母は澪を見知らぬ女として見ていた。
食堂の奥で、家政婦の佐伯が顔を出した。佐伯は澪が小学生の頃から有栖川家で働いている。澪が初めて料理を手伝った日、包丁で指を切ったとき、佐伯が大げさに慌てて絆創膏を貼ってくれた。
「佐伯さん」
澪はすがるように呼んだ。
佐伯は目を瞬かせた。
「……どちら様でしょう」
澪は何も言えなくなった。
部屋の空気が、ゆっくりと澪を押し出していく。ここにいてはいけない者。家族の朝食に紛れ込んだ異物。誰もそう口にしていないのに、視線だけが澪にそう告げていた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
美咲の表情が変わった。
「あ、蓮司さんだ」
澪は顔を上げた。
蓮司。
胸の奥に残っていた最後の足場が、その名前に反応した。
久世蓮司。内閣府存在管理庁に勤める若手官僚。静かで、少し不器用で、けれど澪の言葉を最後まで聞いてくれる人。婚約を申し込まれた夜、彼は「あなたとなら、沈黙も怖くない」と言った。
蓮司なら、澪を忘れるはずがない。
そうでなければ、澪はもう、自分を保てなかった。
父が澪を制するより早く、澪は食堂を飛び出した。
廊下を走る。裸足に近い足元が冷たい。玄関ホールでは、運転手の片山が扉を開けていた。外の光を背にして、一人の男が立っている。
濃紺のスーツ。端正な横顔。黒い髪をきちんと整え、手には革の書類ケースを持っている。
蓮司だった。
「蓮司さん」
澪は呼んだ。
蓮司がこちらを向いた。
その一瞬、澪は救われたと思った。蓮司の目が、確かに揺れたからだ。見知らぬ人間を見る目ではなかった。何かを探すような、遠い記憶の表面に触れたような目だった。
けれど、その揺れはすぐに消えた。
蓮司は礼儀正しく会釈した。
「おはようございます」
澪は足を止めた。
「蓮司さん、私です。澪です」
蓮司は少し困ったように眉を寄せた。
「すみません。どこかでお会いしましたか」
音が消えた。
玄関ホールの高い天井も、磨かれた床も、壁の絵も、すべて遠くなった。澪は蓮司の顔を見つめた。彼の表情には、丁寧な戸惑いがあるだけだった。
「何を……言っているんですか」
「申し訳ありません。私の記憶違いでしたら失礼ですが」
「記憶違い?」
澪は思わず笑った。声にならない笑いだった。
「私たち、婚約しているんです。来月、式場の最終確認に行く予定で。昨日も電話で、招待客の人数を確認して……蓮司さん、あなたが、仕事が長引くかもしれないから私に任せるって」
蓮司は黙って澪を見ていた。
その沈黙は、澪の言葉を否定するためのものではないように見えた。けれど、受け入れるためのものでもなかった。
背後から、美咲の声がした。
「蓮司さん」
澪は振り返った。
美咲が食堂から出てきていた。桃色のワンピースの裾を揺らし、少し不安そうな顔をしている。だが、蓮司を見た瞬間、その表情は柔らかくほどけた。
蓮司もまた、美咲を見て微笑んだ。
「おはようございます、美咲さん」
その呼び方を聞いた瞬間、澪の胸に冷たいものが落ちた。
美咲さん。
蓮司は、澪の妹をそう呼んだ。柔らかく、親しみを込めて。
美咲は蓮司の隣に立った。あまりに自然な動作だった。そこが自分の場所だと信じている人の動きだった。
「ごめんなさい。朝から変なことになってしまって」
「いえ。大丈夫ですか」
「私は平気です。ただ、この方が……」
美咲は澪を見た。怖がっているというより、困っている顔だった。見知らぬ女に突然絡まれた人間の顔。
澪は二人の距離を見た。
近すぎる。
蓮司は普段、他人との距離を慎重に取る人だった。仕事柄なのか、性格なのか、必要以上に人に近づかない。澪でさえ、初めて手を繋ぐまでに半年かかった。それなのに、美咲とは肩が触れそうな距離に立っている。
父がゆっくりと歩いてきた。
「久世君、申し訳ない。少々、厄介なことが起きている」
「こちらの方は?」
「わからん。自分を有栖川の娘だと言っている」
蓮司の視線が澪に戻った。
ほんの一瞬、またあの揺れがあった。
澪はそれに縋った。
「蓮司さん、お願いです。私を見てください。本当に、何も思い出せませんか。私の声を聞いても、何も?」
蓮司は唇を引き結んだ。
「……申し訳ありません」
「謝らないでください。思い出してください」
「あなたのことは、存じ上げません」
澪は後ずさった。
玄関ホールの壁に背中が当たる。冷たい。石のように冷たい。
そのとき、応接室の扉が開いているのが見えた。中のテーブルの上に、白い紙が並べられている。澪の目は、そこに吸い寄せられた。
招待状の見本だった。
澪はふらふらと応接室へ向かった。誰かが止める声がしたが、耳に入らなかった。テーブルの上には、厚手の紙に金の縁取りが施されたカードが置かれていた。澪が選んだデザインだった。派手すぎず、古風すぎず、蓮司の落ち着いた雰囲気に合うと思った。
そのカードには、はっきりと印字されていた。
新郎 久世蓮司
新婦 有栖川美咲
澪はその文字を見つめた。
何度見ても変わらない。新婦は有栖川澪ではない。有栖川美咲だった。
テーブルの端には、席次表の案もあった。親族紹介の欄には、有栖川宗一郎、有栖川響子、有栖川美咲の名前が並んでいる。澪の名前はなかった。どこにもない。
胸の中で、何かが音もなく崩れた。
「これは……何ですか」
澪は振り返った。
父も母も美咲も蓮司も、応接室の入口に立っていた。誰も答えない。
「誰が、こんなものを」
美咲が小さく言った。
「来月の、私と蓮司さんの式の招待状です」
澪は妹を見た。
「あなた、知っているでしょう」
「何をですか」
「私と蓮司さんが婚約していたこと」
美咲の顔が痛ましげに歪んだ。
「本当に、何のことかわかりません」
「嘘」
「嘘じゃありません」
「嘘よ」
澪の声が震えた。怒りではなく、恐怖で震えていた。
「だって、あなたは私の妹でしょう。私たちは一緒に育ったでしょう。あなたが小さい頃、夜中に怖い夢を見て私の部屋に来たことも、ピアノの発表会で失敗して泣いたことも、全部覚えている。美咲、お願い、思い出して。私を見て」
美咲の目に涙が浮かんだ。
だが、それは記憶を取り戻した涙ではなかった。目の前の女があまりに必死で、どうしていいかわからない人間の涙だった。
「ごめんなさい」
美咲は言った。
「私、本当に、あなたを知らないんです」
澪は蓮司に向き直った。
「蓮司さん」
彼なら、と思った。
だが蓮司は、目を伏せた。
「一度、警察か病院に相談されたほうがいいかもしれません」
病院。
その言葉は、澪を現実の外へ押し出す最後の一押しだった。
自分がおかしいのだろうか。
家族に忘れられたと思っているだけで、本当は最初から存在していなかったのだろうか。自分の記憶こそが、すべて作りものなのだろうか。
澪は応接室の壁にかかる鏡を見た。
鏡の中には、確かに自分がいた。
ただ、少し薄く見えた。
光の加減だろうか。澪は近づいた。鏡の中の自分は、背景に馴染むように輪郭が淡い。そんなはずはない。目を擦る。もう一度見る。やはり、どこか頼りない。
澪は自分の腕を掴んだ。
痛みはある。体温もある。鼓動もある。
私はここにいる。
そう思ったのに、誰の目にも、その事実は届いていなかった。
父が運転手に目配せした。
「片山、玄関までお連れしなさい。乱暴はするな」
「かしこまりました」
片山が澪に近づいた。
澪は抵抗しなかった。抵抗する力がなかった。玄関ホールへ戻され、靴を履く間もなく、外へ出された。冷たい朝の空気が頬を刺す。
扉が閉まる直前、澪は振り返った。
蓮司がこちらを見ていた。
澪はその目を忘れないと思った。そこには、わずかな迷いがあった。忘れられたはずの何かが、蓮司の中でまだ死にきっていないように見えた。
だが、扉は閉まった。
重い音がした。
澪は屋敷の前に立ち尽くした。裸足に近い足は冷え切り、指先は感覚を失いかけている。門の外を車が一台通り過ぎた。誰も澪を見ない。
いや、見ないのではない。
目に入っていないようだった。
澪はスマートフォンを取り出した。画面はまだロックされたままだ。震える指で、もう一度顔認証を試す。
本人確認に失敗しました。
次に、画面下に見慣れないアイコンがあることに気づいた。
灰色の丸の中に、白い人型の輪郭。名前は表示されていない。昨日まで、こんなアプリはなかった。
澪はそれをタップした。
今度は、パスコードを求められなかった。
画面が白く光り、無機質な文字が浮かび上がる。
存在管理ポータル。
その下に、澪の名前が表示された。
有栖川澪様。
澪は息を呑んだ。
誰も自分を知らない世界で、その画面だけが澪の名前を呼んでいた。
続いて、いくつもの項目が表示された。
現在の存在値:12
警告:低存在化処理が進行中です。
存在税未納額:8,700,000円
関係資産譲渡:完了
家族関係:解除済
婚約関係:譲渡済
戸籍優先権:再照合中
社会的認識率:4.8%
澪は、何度も読み返した。
低存在化処理。存在税。関係資産譲渡。家族関係解除。婚約関係譲渡。
意味のわからない言葉が、意味のわかりすぎる結果だけを連れてきていた。
家族は、澪を知らなかった。
婚約者は、澪を知らなかった。
妹は、澪の場所に立っていた。
それは偶然でも、悪戯でも、夢でもなかった。何かの手続きが行われたのだ。誰かが書類に署名し、誰かが承認し、誰かが実行した。その結果、澪という人間は、世界の中から少しずつ消されている。
画面の下に、小さな文字が点滅していた。
次回再計算まで、23時間41分。
澪はスマートフォンを握りしめた。
指先が震えている。怖い。泣きたい。屋敷の扉を叩いて、母に抱きしめてほしい。父に叱られてもいい。美咲に笑われてもいい。蓮司に、ひとこと名前を呼んでほしい。
けれど、そのどれも叶わない。
門の向こうで、朝日が庭木の影を長く伸ばしていた。昨日まで自分の家だった場所が、今日から他人の屋敷になっている。澪はその前に立っている。招かれざる者として。記録からこぼれ落ちた者として。
涙が一粒、画面に落ちた。
そのとき、背後から声がした。
「十二も残っているなら、まだ上等ね」
澪は振り返った。
門柱のそばに、一人の女が立っていた。
白い帽子をかぶっている。年齢は三十代にも、四十代にも見えた。薄いベージュのコートを着て、手には何も持っていない。いつからそこにいたのかわからない。澪が屋敷から追い出されるところを、ずっと見ていたのだろうか。
「あなたは……?」
女は答えなかった。澪の手元のスマートフォンに目を向け、淡く笑った。
「有栖川澪さん」
その名前を聞いた瞬間、澪の胸が詰まった。
今日初めて、誰かが自分の名前を呼んだ。
澪は一歩近づいた。
「私を、知っているんですか」
「知っているわ。少なくとも今は」
「今は?」
「その数値がゼロになれば、たぶん私も忘れる」
女の声は穏やかだった。だからこそ、言葉の残酷さが際立った。
澪はスマートフォンを見た。
現在の存在値:12。
十二という数字が、急に頼りないものに見えた。百でも千でもない。たった十二。そこから一つずつ削られていくのだとしたら、澪に残された時間はどれほどあるのだろう。
「これは何なんですか。存在税って何ですか。家族関係解除って、婚約関係譲渡って、どういう意味なんですか」
女は屋敷を見上げた。
「あなたは、奪われたのよ」
「何を」
「家族に覚えられる権利。婚約者に選ばれていた事実。写真に写る資格。名前を呼ばれる順番。そういう、普通なら誰も財産だと思わないものを」
澪は首を振った。
「意味がわかりません」
「意味がわからなくても、手続きは進むわ」
女は静かに言った。
「この国では、存在にも税金がかかるの。価値が高い存在ほど、維持費が高くなる。家柄、婚約、相続、社会的信用。あなたは高かった。だから、誰かがあなたを担保にした」
「誰かって」
女は答えない。
その沈黙で、澪は悟った。
父。
有栖川宗一郎。
いや、まだ決めつけてはいけない。父がそんなことをするはずがない。父は厳しい人だったが、娘を消すようなことをするはずがない。
そう思いたいのに、食堂での父の顔が蘇る。
有栖川家に、あなたのような方はいません。
澪は唇を噛んだ。
「どうすればいいんですか」
「知りたいなら、存在管理庁へ行きなさい」
「役所が教えてくれるんですか」
女は少しだけ笑った。
「教えないわ。役所というのは、真実を伝える場所じゃない。真実を、書類の形に変えて見えなくする場所よ」
「それでも行けと?」
「行かなければ、あなたは自分がどうやって消えるのかも知らないまま消える」
澪は言葉を失った。
女は踵を返した。コートの裾が朝の風に揺れる。
「待ってください」
澪は呼び止めた。
「あなたは誰なんですか」
女は半分だけ振り返った。
「白石すみれ」
「どうして、私を助けるんですか」
「助けるとは言っていないわ」
すみれは帽子のつばに指を添えた。
「忘れられることより怖いのは、忘れられた自分を、自分まで信じなくなることよ。有栖川澪さん。まずは、それだけ覚えておきなさい」
そう言って、すみれは門の外へ歩いていった。
澪はその背中を追おうとしたが、足が動かなかった。身体が冷え切っていた。心も、同じくらい冷えていた。
けれど、不思議なことに、先ほどより少しだけ呼吸ができた。
自分の名前を呼ぶ人間が、まだ一人いる。
十二という数字が、ゼロではない。
澪はスマートフォンの画面をもう一度見た。
現在の存在値:12。
その下で、赤い警告が点滅している。
低存在化処理が進行中です。
澪は画面を閉じた。
顔を上げると、屋敷の窓が朝日を反射して白く光っていた。そこには、澪が生まれ育った家がある。父がいる。母がいる。妹がいる。婚約者だった男がいる。
けれど今、澪の居場所はそこにはない。
ならば、取り戻すしかない。
自分が誰なのか。
誰が自分を消したのか。
なぜ、蓮司の隣に美咲がいるのか。
澪は冷えた足で、一歩を踏み出した。
その一歩は小さかった。門の前の石畳に、ほとんど音も立てなかった。けれど澪には、その音が聞こえた気がした。
まだ、私はここにいる。
誰にも届かなくても、少なくとも自分だけは、それを聞いた。
第二章 存在管理庁
存在管理庁は、都心の官庁街から少し外れた場所にあった。
澪はその建物を初めて見たわけではない。久世蓮司の勤務先として、何度か前を通ったことがある。だが、中へ入ったことはなかった。蓮司は仕事の話をあまりしない人だった。こちらから聞けば答えるが、説明はいつも短い。
「人の記録を扱う仕事です」
以前、そう言っていた。
そのとき澪は、戸籍や社会保障に関わる部署なのだろうと思った。個人情報を扱うから、詳しく話せないのだと納得していた。
だが今、灰色のガラス張りの建物を見上げながら、澪はその説明の薄さを思い知っていた。
人の記録を扱う。
それは、人の存在を扱うという意味だったのか。
庁舎の入口には、大きな文字でこう掲げられていた。
内閣府存在管理庁。
存在資産・関係権利統括局。
昨日までは、こんな名前に違和感を抱いたこともなかった。けれど今日は、文字の一つ一つが冷たい刃のように見えた。
澪は庁舎の自動扉の前で立ち止まった。
朝から何も食べていない。足はまだ冷えている。屋敷を追い出されたときに履かされた靴は、玄関脇にあった来客用のものだった。サイズが合わず、歩くたびに踵が擦れた。
財布はない。
身分証もない。
スマートフォンは、なぜか存在管理ポータルだけが開ける。連絡先は空になっていた。通話履歴も消えている。写真フォルダには、初期設定のサンプル画像が三枚あるだけだった。
澪はそのたびに、自分が少しずつ空洞になっていくような感覚に襲われた。
それでも、行くしかなかった。
白石すみれは、存在管理庁へ行けと言った。
役所は真実を教えない。真実を、書類の形に変えて見えなくする場所だとも言った。
ならば、その書類を見つければいい。
澪は自動扉をくぐった。
中は、拍子抜けするほど普通だった。
明るいロビー。番号札の発券機。相談窓口。案内表示。待合椅子には、数十人の男女が座っている。若い会社員風の男。杖をついた老人。小さな子どもを連れた母親。制服姿の高校生。誰もが自分の順番を待っていた。
銀行や市役所と、さほど変わらない。
けれど、空気が違った。
誰も大きな声を出さない。子どもでさえ泣いていない。待合椅子に座る人々は、画面に表示される番号を見つめながら、どこか怯えたように背筋を縮めていた。
澪は発券機の前に立った。
画面には、いくつかの項目が表示されている。
存在値照会。
関係資産変更。
家族関係再認証。
婚姻・婚約権利移転。
低存在化処理相談。
異議申立て。
最後の項目に、澪の目が止まった。
異議申立て。
その文字だけが、今の澪に残された唯一の出口のように見えた。
澪は画面に触れた。
本人確認を行います。
手のひらを認証台に置いてください。
発券機の横に、小さな黒い台があった。澪はそこに右手を置く。
冷たい光が手のひらをなぞった。
数秒後、画面が赤く変わった。
本人確認不能。
該当する独立存在者が確認できません。
澪は息を呑んだ。
もう一度、手を置く。
結果は同じだった。
本人確認不能。
該当する独立存在者が確認できません。
背後に並んでいた中年の女性が、小さく咳払いをした。澪は慌てて横に避けた。窓口の近くに立っていた案内係の女性が近づいてくる。
「お困りでしょうか」
穏やかな声だった。だが、その目には澪を見ているというより、澪の背後にある何かの数値を読んでいるような冷たさがあった。
「本人確認ができません」
「存在値照会ですか」
「異議申立てをしたいんです」
「身分証はお持ちですか」
「ありません。今朝、全部なくなっていて」
案内係は表情を変えなかった。
「お名前を伺えますか」
「有栖川澪です」
案内係は手元の端末に入力した。細い指が、滑るように画面を叩く。
数秒後、案内係の眉がほんの少し動いた。
「有栖川……澪様ですね」
「はい」
「少々お待ちください」
案内係は奥の職員に何かを伝えた。二人の職員が端末を確認し、こちらを見た。澪はその視線に、食堂で家族から向けられたものと似た感触を覚えた。
存在しているはずなのに、存在してはいけないものを見る目。
案内係が戻ってきた。
「二階の個別相談室へご案内します」
「ここでは駄目なんですか」
「通常窓口では対応できない案件です」
通常ではない。
その言葉が、澪の胸を重くした。
案内係に導かれ、澪はエレベーターに乗った。二階に上がる間、案内係は一言も話さなかった。壁面の鏡に、澪の姿が映る。
やはり、少し薄い。
朝、屋敷の応接室で見たときよりも、輪郭が淡くなっている気がした。照明の加減かもしれない。疲れているせいかもしれない。そう思おうとしても、視線は鏡の中の自分から離れなかった。
二階の廊下は静かだった。
個別相談室と書かれた扉がいくつも並んでいる。どの部屋からも、声は聞こえない。防音なのだろう。澪はその静けさに、病院の診察室を思い出した。中で何が行われていても、外には漏れない。
案内係は一番奥の部屋の前で止まった。
「こちらでお待ちください」
澪は室内に入った。
小さな部屋だった。中央に机が一つ。向かい合わせの椅子が二つ。壁には窓がない。天井の隅に、黒い半球型のカメラがついている。
澪が椅子に座ると、扉が閉まった。
数分後、別の職員が入ってきた。
三十代後半ほどの男性だった。痩せた顔に、銀縁の眼鏡。髪はきちんと撫でつけられている。濃い灰色のスーツは皺ひとつなかった。
「お待たせしました。存在資産・関係権利統括局、第一照合課の津島です」
男は名刺を差し出した。
澪はそれを受け取ろうとして、手を止めた。
名刺に触れるのが怖かった。
もし、自分が触れた瞬間、そこから何かが消えたらどうするのか。そんな馬鹿げた考えが浮かんだ。
津島は気にした様子もなく、名刺を机の上に置いた。
「有栖川澪様、でよろしいですね」
「はい」
「まず確認いたします。現在、ご自身の独立存在権に関して異議を申し立てたい、ということで間違いありませんか」
「独立存在権、というのが何かわかりません」
「ご自身が独立した存在者であるという認定です」
「私は、私です」
「その認識は承りました」
津島は端末を操作した。
「しかし、現行システム上、有栖川澪様は独立存在者として登録されていません」
澪は机の縁を握った。
「どういう意味ですか」
「簡単に申し上げれば、あなたは現在、有栖川家の構成員としても、久世蓮司様の婚約者としても、戸籍上の優先存在者としても認定されていません」
「私は有栖川宗一郎の娘です」
「システム上は確認できません」
「母は有栖川響子です」
「同じく確認できません」
「妹は美咲です」
「有栖川美咲様については確認できます」
「だったら、私との関係を見ればいいでしょう」
津島は目を伏せ、淡々と画面を読んだ。
「有栖川美咲様に姉妹関係は登録されていません。現行の家族関係記録では、一人娘となっています」
「そんなはずありません」
「お気持ちはわかります」
「わかるわけないでしょう」
澪の声が強くなった。
津島は一瞬だけ目を上げた。叱責するでもなく、同情するでもない。ただ、処理すべき事案が感情的な反応を示した、という確認の目だった。
「申し訳ありません。続けてもよろしいですか」
澪は唇を噛んだ。
「……どうぞ」
「有栖川澪様に関する記録は、現在、独立存在記録ではなく、移行済み関係資産として保存されています」
「移行済み?」
「はい。家族関係、婚約関係、教育履歴、社会信用、一部の財産継承期待権が、別存在者へ譲渡されています」
「別存在者って、誰ですか」
津島は少し間を置いた。
「有栖川美咲様です」
予想していたはずなのに、言葉として聞くと胸が潰れた。
澪は、妹の顔を思い出した。
私、一人っ子です。
本当に、あなたを知らないんです。
あの顔は、嘘をついている顔ではなかった。では、美咲は本当に澪の人生を奪ったことを知らないのか。知らないまま、澪の婚約者の隣に立っているのか。
「なぜ、そんなことができるんですか」
「関係資産譲渡契約に基づく処理です」
「契約なんてしていません」
「譲渡元本人の署名は必須ではありません」
澪は耳を疑った。
「本人の署名なしで、私の家族関係や婚約関係を譲渡できるんですか」
「一定条件下では可能です」
「一定条件って何ですか」
「家族代表者による申請、相続・婚姻・社会信用上の緊急保全、存在税未納に伴う担保処理、または低存在化対象者の権利保護を目的とした代理移行です」
言葉が多すぎて、意味が見えない。
いや、意味はわかる。
わからないように言っているだけだ。
「つまり、父が申請すれば、私の人生を妹に移せるということですか」
津島は答えなかった。
沈黙が、肯定の代わりだった。
澪は息を吐いた。呼吸が震えた。
「父が、やったんですか」
「個別の申請者情報については、開示制限がかかっています」
「娘である私にも?」
「現在、あなたは有栖川家の家族関係から解除されています」
解除。
家族とは、解除できるものだったのか。
澪は机の上を見つめた。白い樹脂製の机。傷ひとつない。あまりに清潔で、何も染み込まないように見えた。涙も、血も、記憶も。
「存在税未納額、八百七十万円と表示されていました」
「はい」
「私はそんな税金を知りません」
「通知は送付されています」
「どこに」
「登録住所に」
「私の部屋からは何もかも消えていました」
「関係資産譲渡後は、旧存在者宛ての通知は優先存在者の記録へ統合される場合があります」
「誰に届くんですか」
「有栖川美咲様、または家族代表者です」
澪は目を閉じた。
父か、美咲。
少なくとも、澪自身には届いていない。
「存在値が十二になると、どうなるんですか」
「低存在化処理が進行します」
「最終的には?」
津島は初めて、わずかに躊躇した。
「社会的認識が困難になります」
「もっとわかりやすく言ってください」
「他者から認識されにくくなります。記録が保持されにくくなります。名前、顔、声、接触履歴などが、関連性を失っていきます」
「忘れられる、ということですね」
「制度上は、認識負荷の軽減と表現します」
澪は笑った。
自分でも驚くほど乾いた笑いだった。
「便利な言葉ですね」
津島は何も言わなかった。
「私を家族から消して、婚約者から消して、写真から消して、それを認識負荷の軽減と呼ぶんですか」
「私は制度の説明をしているだけです」
「その制度で、私は殺されかけているんです」
「死亡処理ではありません」
「生きていても、誰にも見えず、誰にも覚えてもらえないなら、それは死んでいるのと同じでしょう」
津島は画面に視線を戻した。
「異議申立てを行うことは可能です」
澪は顔を上げた。
「本当ですか」
「はい。ただし、申立てには本人存在証明が必要です」
「だから、それが消されているんです」
「第三者による認識証明、または過去記録の原本提出が必要になります」
「家族も婚約者も私を覚えていません」
「その場合、日記、手紙、写真、録音、契約書等が有効です」
澪は拳を握った。
写真は消えていた。スマートフォンの記録もない。手紙も、部屋からなくなっている。だが、すべてが完全に消えているとは限らない。
父の書斎。
ふと、その言葉が頭に浮かんだ。
有栖川宗一郎は、どんな書類も捨てない人だった。必要か不要かに関わらず、契約書や通知類はすべて紙で保管している。デジタル記録を信用していないのだ。祖父の時代から使っている金庫もある。
もし、関係資産譲渡契約が存在するなら、父は必ず紙で控えを残している。
「関係資産譲渡契約の写しは、ここで見られますか」
「開示請求が必要です」
「請求します」
「本人存在確認ができないため、現時点では受理できません」
「では、どうすれば」
「まず、ご自身が有栖川澪様であることを証明してください」
円環だった。
自分が存在することを証明するためには記録が必要で、記録を見るためには自分が存在することを証明しなければならない。
澪は津島を見た。
「あなたは、私の名前を呼びました」
「端末上に表示されたためです」
「それは私が存在している証拠ではないんですか」
「低存在化処理中の旧存在者記録としては確認できます」
「旧存在者?」
「現在の正式な分類です」
旧。
澪はその一文字を、心の中で何度も反芻した。
旧姓の旧。旧式の旧。旧友の旧。
もう今は違うもの。
過去のもの。
「私は、過去の人間なんですか」
「制度上は、移行前存在者です」
「もういいです」
澪は立ち上がった。
これ以上ここにいても、言葉で自分を削られるだけだと思った。
津島も立ち上がった。
「異議申立ての意思は記録しておきます。ただし、次回再計算までに存在証明が提出されない場合、処理は継続します」
「次回再計算は、明日の朝ですね」
「正確には、現在から二十一時間五分後です」
澪は扉に向かった。
背後で津島が言った。
「有栖川澪様」
澪は振り返った。
その呼びかけが、少しだけ胸に触れた。今の彼は、端末に表示されたから名前を呼んだだけだ。だが、それでも名前を呼ばれることが、これほど強い意味を持つとは思わなかった。
「何ですか」
「存在値が十を下回ると、公共交通機関の自動改札、電子決済、医療機関の受付等で不具合が発生する可能性があります。早めの対応をお勧めします」
「ご忠告、ありがとうございます」
澪はそう言って、部屋を出た。
廊下は相変わらず静かだった。
エレベーターに向かう途中、別の相談室の扉が少しだけ開いた。中から、老人が出てきた。背の曲がった、白髪の男だった。彼は職員に何度も頭を下げている。
「妻が私を忘れたんです。五十年一緒にいたんです。そんなこと、あるはずがないでしょう」
職員は穏やかに答えた。
「関係値の低下に伴う自然解除の可能性があります。再認証をご希望でしたら、共同生活証明をご提出ください」
「だから、それを妻が捨ててしまったんです。あの子に言われて」
「証明書類がない場合、再認証は困難です」
扉が閉まった。
澪はしばらく動けなかった。
自分だけではない。
この庁舎には、誰かから忘れられた人間が何人も来ている。家族から、夫婦から、社会から、静かに剥がされた人々が、番号札を握って順番を待っている。
なのに、外の世界は何事もないように動いている。
澪は一階へ降りた。
ロビーの待合椅子に座る人々が、一斉に番号表示を見上げる。呼ばれた者だけが立ち上がり、窓口へ向かう。呼ばれなかった者は、また自分の番号札を見つめる。
存在とは、番号なのだろうか。
呼ばれなければ、そこにいてもいないのと同じなのだろうか。
澪は庁舎を出た。
外の光が眩しかった。時刻は昼に近い。人通りが増えている。スーツ姿の人々が足早に歩き、カフェの前には列ができていた。
澪はその流れの中に入った。
誰とも肩がぶつからない。
いや、ぶつかりそうになるたび、相手が無意識に避けているのかもしれない。だが、誰も澪を見ない。視線が、彼女の手前で逸れる。そこに透明な膜があるようだった。
存在値十二。
その数字が、身体の表面に貼りついているようだった。
澪は屋敷へ戻ることにした。
父の書斎を調べる。
それが今できる唯一のことだった。
ただ、正面から入ることはできない。朝、追い出されたばかりだ。警備を呼ばれれば、今度こそ警察沙汰になる。いや、警察に行ったところで、自分が有栖川澪だと証明できなければ、不審者として扱われるだけだろう。
澪は屋敷の裏手を思い出した。
子どもの頃、美咲と二人で庭を抜け出すときに使っていた小さな通用門がある。今はほとんど使われていないはずだ。鍵は古く、内側からなら簡単に開く。外側からも、門柱の隙間に手を入れれば掛け金に届くことを、澪は知っていた。
有栖川家の娘だったから知っていること。
それが、今は不法侵入の知識になっている。
澪はタクシーを拾おうとしたが、手を上げても一台も止まらなかった。空車表示の車が何台も通り過ぎる。運転手は澪を見ていないようだった。
仕方なく、歩いた。
途中、コンビニに入った。喉が渇いていた。棚から水のペットボトルを取り、レジへ向かう。財布はない。だが、スマートフォンに電子決済が残っているかもしれないと思った。
端末をかざす。
決済エラー。
店員は怪訝そうに澪を見た。
「別のお支払い方法はありますか」
その目は、ちゃんと澪を見ていた。
存在値が十二でも、商品を持った客としてなら認識されるのかもしれない。いや、レジ前という状況が、澪を一時的に客として固定しているのか。
澪は水を棚に戻した。
「すみません」
店を出ると、喉の渇きがいっそう強くなった。
屋敷に着いたのは、午後二時を過ぎた頃だった。
表門を避け、塀沿いに裏手へ回る。通用門は記憶通り、庭木の陰にあった。錆びた鉄製の小さな扉。澪は門柱の隙間に手を差し入れた。冷たい金具に指が触れる。少し力を入れると、掛け金が外れた。
扉が小さく軋む。
澪は庭に入った。
懐かしい匂いがした。湿った土と、手入れされた芝生と、母が好きだった白い薔薇の匂い。子どもの頃、澪はこの庭でよく本を読んだ。美咲は虫が嫌いで、すぐに家の中へ戻りたがった。澪はそんな妹をからかいながらも、結局いつも手を引いて戻った。
その記憶は、まだ澪の中にある。
だが、屋敷の写真からは消えている。
澪は使用人用の勝手口に回った。鍵はかかっていた。だが、古い家らしく、窓の一つが完全には閉まっていない。厨房横の小窓だ。佐伯が換気のためによく開けていた。
澪は窓枠に手をかけた。
いけないことをしている。
そう思った。
だが、自分の人生を取り戻すために、自分の家に忍び込まなければならない現実のほうが、よほど間違っていた。
澪は窓から中へ入った。
厨房には誰もいなかった。昼食の片づけが終わったあとらしく、食器は乾燥機の中で静かに並んでいる。澪は足音を殺して廊下へ出た。
家の中は静かだった。
父は午後、書斎にいることが多い。来客がなければ、資料を読んでいるか、誰かと電話をしている。母は自室かサロン。美咲は外出しているかもしれない。
澪は階段の裏を通り、父の書斎へ向かった。
書斎の扉は閉まっていた。
中から声はしない。
澪はノブに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
扉を開けると、重い木の匂いがした。
父の書斎は、昔から変わらない。壁一面の本棚。大きな机。革張りの椅子。祖父の代から使っているという金庫。部屋の隅には、父が好む古い地球儀が置かれている。澪は幼い頃、この部屋に入ることを禁じられていた。美咲は何度も忍び込んで叱られたが、澪は一度も破らなかった。
今、その禁を破っている。
澪は机の引き出しを開けた。
鍵はかかっていない。中には、封筒や印鑑、名刺が整然と入っていた。父らしい。すべてが分類され、ラベルが貼られている。
税務。
金融。
不動産。
有栖川家資産管理。
存在関連。
澪の指が止まった。
存在関連。
そのラベルの貼られたファイルを引き出す。
中には、督促状が何通も入っていた。
存在税納付通知書。
存在資産評価額再算定通知。
関係資産担保化警告。
低存在化予備手続き開始のお知らせ。
宛名は、有栖川宗一郎。
では、未納だったのは澪ではなく、有栖川家だったのか。
澪は書類をめくった。
有栖川家総合存在資産評価額。
家族代表者 有栖川宗一郎。
第一関係資産保持者 有栖川澪。
第二関係資産保持者 有栖川美咲。
澪は意味を追った。
有栖川家において、最も高い関係資産を持つのは澪だった。長女。婚約者は存在管理庁の官僚。教育履歴、社交履歴、相続期待権。澪の存在は、有栖川家の社会的信用を支える資産として評価されていた。
そして、その資産を担保に、父は何かを借りていた。
金か。信用か。時間か。
次の封筒を開ける。
そこには、赤い印が押された契約書があった。
関係資産譲渡契約書。
澪の手が震えた。
譲渡元 有栖川澪
譲渡先 有栖川美咲
申請者 有栖川宗一郎
承認機関 内閣府存在管理庁
処理区分 存在税未納に伴う家族関係資産保全措置
澪は息を詰めた。
譲渡対象の欄には、文字が並んでいた。
家族関係認識権。
婚約関係優先権。
教育履歴継承権。
社交信用履歴。
相続期待順位。
写真・映像記録内優先表示権。
呼称記憶関連性。
そのどれもが、本来なら人が生きていく中で自然に持つものだった。
父は、それに印を押した。
書類の下部には署名欄がある。
有栖川宗一郎の署名。
有栖川美咲の署名。
久世蓮司の電子承認印。
澪は目を疑った。
蓮司。
処理承認者の欄に、彼の名前があった。
内閣府存在管理庁。
関係権利審査官。
久世蓮司。
澪は書類を机に置いた。
蓮司が、承認した。
知らなかったのか。仕事として処理しただけなのか。相手が澪だとわからなかったのか。それとも、わかった上で承認したのか。
心臓が、冷たい水の中に沈んでいくようだった。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
澪は書類を掴み、机の陰に身を隠した。
扉が開いた。
入ってきたのは父だった。
有栖川宗一郎は、誰かと電話をしていた。
「ええ、今朝少々混乱がありました。旧存在者本人と思われる女性が屋敷に現れまして」
澪は息を止めた。
旧存在者本人と思われる女性。
父は、自分の娘をそう呼んだ。
「はい。処理は進行中です。明朝の再計算で十を下回る見込みだと伺っています。……ええ、式までには安定するでしょう」
式。
美咲と蓮司の式。
父は机に近づき、椅子に座った。澪の隠れている位置から、父の靴が見えた。磨き上げられた黒い革靴。幼い頃、澪は父の靴を磨く家政婦の手元を見るのが好きだった。父の帰宅を知らせる音は、いつもこの靴音だった。
今、その音が恐ろしい。
「問題は、本人がどこまで記録を持っているかです。部屋のものは昨夜のうちに処分しました。……ええ、写真も。指輪も。手帳も」
澪は唇を噛んだ。
父が、やった。
迷いは消えた。
「蓮司君については心配していません。彼は優秀だ。手続き上の瑕疵は残さないでしょう。ただ……今朝、少し反応がありました」
父の声が低くなった。
「ええ。旧存在者を見たときに。完全には切れていないのかもしれません」
澪は書類を握りしめた。
蓮司は、完全には忘れていない。
それは救いなのか。
それとも、裏切りの傷を深くするだけなのか。
父はしばらく相槌を打ったあと、電話を切った。
机の引き出しが開く音がした。
澪は身体を縮めた。
父の手が、机の上に置かれていた書類に伸びる。澪が隠したつもりだった契約書の一部が、机の端からわずかにはみ出していた。
父の動きが止まった。
「……誰かいるのか」
澪の心臓が跳ねた。
父が立ち上がる。椅子が軋む。
逃げなければ。
澪は机の陰から飛び出した。
父と目が合った。
ほんの一瞬、父の顔に驚愕が走った。だがすぐに、それは厳しい無表情に戻った。
「また君か」
君。
澪はその一語で、最後の期待を捨てた。
「お父様」
「そう呼ぶなと言われなかったか」
「どうして」
声が震えた。
「どうして、私を消したんですか」
父は澪の手元を見た。
契約書。
その存在を確認した父の目が細くなる。
「それを返しなさい」
「答えてください」
「不法侵入です。警察を呼ぶ」
「呼べばいいでしょう。私が有栖川澪だと証明してもらいます」
「できない」
父の声は冷たかった。
「君はもう、有栖川澪ではない」
澪は父を見つめた。
「名前まで奪うんですか」
「奪ったのではない。整理したのだ」
「整理?」
「有栖川家を守るために、必要な処理だった」
「娘を消すことが?」
「家を潰すわけにはいかなかった」
父は一歩近づいた。
「お前にはわからない。家を背負うということが、どれほど重いか」
その言葉に、澪の中で何かが静かに燃えた。
「わかりません。娘を担保に入れる父親の気持ちは、私にはわかりません」
父の頬がわずかに動いた。
怒りか、痛みか、澪にはわからなかった。
「澪」
父は初めて、その名を口にした。
澪は息を止めた。
名前を呼ばれた。
父に。
それだけで、胸が崩れそうになった。
だが次に続いた言葉は、刃だった。
「お前は、昔から都合がよすぎた」
「……何を」
「成績もよく、聞き分けもよく、家の空気を読み、相手の欲しい答えを選ぶ。蓮司君との縁談もそうだ。お前は有栖川家にとって、最も価値の高い関係資産だった」
価値。
父は、娘を価値で測っていた。
「だから、美咲に渡したんですか」
「美咲は弱い。あの子には支えが必要だった」
「私は、支えなくてもいい人間だったんですか」
父は答えなかった。
その沈黙が、澪の胸を深く抉った。
澪は書類を抱きしめた。
「これは持っていきます」
「無駄だ。原本ではない。複写防止処理もかかっている。庁外へ持ち出せば、文字は消える」
「それでも、持っていきます」
「澪」
父の声が低くなった。
「戻ってきても、お前の席はない」
澪は扉へ向かった。
「知っています」
振り返らずに言った。
「だから、席ごと取り返します」
廊下へ飛び出す。
背後で父が何かを叫んだ。家政婦の足音が近づく。玄関へ向かえば捕まる。澪は階段を上がり、自分の部屋へ走った。
いや、もう自分の部屋ではない。
誰も使っていない客間のように整えられた部屋。
それでも、澪はそこへ入った。
何か残っていないか。
父が捨て忘れたもの。制度が消し損ねたもの。自分が自分だった証拠。
机の引き出し。空。
クローゼット。地味な服だけ。
鏡台。空の指輪箱。
ベッドの下。
何もない。
澪は床に膝をついた。
息が苦しい。
足音が近づいている。
諦めかけたとき、壁際の幅木に小さな傷があるのを見つけた。
幼い頃、澪はここに秘密の隙間を作った。美咲に見つからないよう、大切なものを隠すために。母に叱られた手紙。蓮司と出会うずっと前に書いた、誰にも見せない日記。子どもじみた宝箱。
澪は爪を立てて、幅木を外した。
埃が舞った。
奥から、小さな缶が出てきた。
青い花柄の古い缶。
澪の心臓が跳ねる。
開けると、中には数枚の写真と、一冊の薄いノートが入っていた。
写真には、幼い澪と美咲が写っていた。庭で、泥だらけの手を見せて笑っている。美咲は澪の腕にしがみついている。裏には、幼い字でこう書かれていた。
お姉様と、ひみつの庭。
美咲の字だった。
もう一枚は、澪と母。熱を出した澪のそばで、母が眠そうな顔をしている写真。撮ったのは父だろう。裏には、母の字で短く書かれていた。
澪、八歳。夜通し看病。
澪は写真を胸に押し当てた。
涙が出た。
消えていない。
ここに、残っていた。
足音が扉の前で止まった。
「開けなさい」
父の声。
澪は缶の中身を掴み、窓を開けた。
二階。飛び降りるには高い。だが、窓の下には古い藤棚がある。子どもの頃、美咲がふざけて降りようとして、澪が泣きながら止めた場所だ。
今度は、澪が降りる番だった。
扉が開く音。
澪は窓枠を越えた。
「澪!」
父の声がした。
それは怒号だったのか、悲鳴だったのか、わからなかった。
澪は藤棚に足をかけ、腕に痛みを感じながら庭へ滑り降りた。膝を打った。息が詰まる。だが、缶は離さなかった。
庭を走る。
通用門を抜ける。
背後で誰かが叫んでいる。
澪は振り返らなかった。
門の外に出た瞬間、スマートフォンが震えた。
存在管理ポータルが勝手に開いている。
現在の存在値:10
警告:再計算前低下が発生しました。
社会的認識率:3.1%
澪は画面を睨んだ。
父に名前を呼ばれたのに、存在値は下がった。
違う。
父は、澪を娘として呼んだのではない。処理対象として、失われた資産として、呼んだのだ。
名前を呼ばれても、それが所有の声なら、存在は戻らない。
澪は写真を抱えて歩き出した。
足は痛い。喉は渇いている。財布もない。行く場所もない。
それでも、証拠はある。
自分の名を、自分以外の誰かが書いた紙がある。
澪は、それだけを頼りに、白石すみれを探すことにした。
第三章 白い帽子の女
白石すみれは、存在管理庁の裏手にある小さな喫茶店にいた。
澪が見つけたというより、そこにいる気がしたのだ。根拠はなかった。だが、すみれは人目につかない場所を好むように見えた。庁舎の正面ではなく裏口。大通りではなく細い路地。誰もが通り過ぎるが、誰も立ち止まらない場所。
喫茶店の名前は「余白」といった。
古い雑居ビルの一階にあり、看板は半分ほど色褪せている。窓際には、枯れかけた観葉植物が置かれていた。営業しているのかどうかもわからない店だったが、扉を押すと鈴が鳴った。
中には、客が二人いた。
一人は白石すみれ。
もう一人は、制服姿の少女だった。
すみれは窓際の席に座り、コーヒーを飲んでいた。白い帽子はテーブルの上に置かれている。澪を見ると、少しも驚かずに言った。
「思ったより早かったわね」
澪は肩で息をしていた。
「どうして、ここにいると」
「あなたが来ると思ったから」
「どうして」
「行く場所がない人間は、行くべき場所より、名前を呼ばれた場所に戻るものよ」
澪は何も言えなかった。
すみれの向かいに座っていた少女が、興味深そうに澪を見た。短い髪。制服のリボンは少し曲がっている。年齢は十六、七だろうか。
「この人が、今朝の?」
少女が尋ねた。
「そう。有栖川澪さん」
すみれが言うと、少女はわざとらしく背筋を伸ばした。
「水沢ひなです。存在値は昨日の時点で七。今日の朝、五になりました。よろしくお願いします」
自己紹介というより、病状の申告のようだった。
澪は戸惑いながら頷いた。
「有栖川澪です」
「知ってます。すみれさんから聞きました。お嬢様で、婚約者を妹に取られて、家から追い出された人」
「ひな」
すみれが静かにたしなめる。
ひなは肩をすくめた。
「ごめんなさい。でも、事実ですよね」
澪は否定できなかった。
「……そうです」
ひなは少しだけ表情を曇らせた。
「ごめんなさい。私、言い方が悪いってよく言われます。最近は、言った相手に覚えてもらえないから、直す機会も減ってきましたけど」
冗談のように言ったが、その目は笑っていなかった。
すみれは澪に席を勧めた。
「座りなさい。顔色が悪いわ」
「お金がありません」
「ここは後払いよ。払えるようになった人だけ払う」
「そんな商売、成り立つんですか」
「成り立っていないから、客が少ないの」
すみれは店の奥に声をかけた。
「マスター、お水を」
奥から白髪の老人が出てきた。澪の前に水を置く。澪は礼を言おうとして、老人の目が自分をまっすぐ見ていることに気づいた。
見えている。
ちゃんと。
「ありがとうございます」
澪が言うと、老人は静かに頷いた。
「名前は」
「え?」
「この店では、最初に名前を聞くことにしている」
澪はグラスを両手で包んだ。
「有栖川澪です」
老人はカウンターのノートを開き、ゆっくりと書いた。
有栖川澪。
その文字を見た瞬間、澪の胸に熱いものが込み上げた。
誰かが、いま、自分の名前を書いてくれた。
それだけで、泣きそうになる。
すみれが言った。
「ここでは、来た人の名前を必ず紙に書く。制度の端末ではなく、手で」
「それで存在値が戻るんですか」
「少しは」
「少しだけ?」
「少しを馬鹿にしないことね。存在が消えるときは、いつも少しずつよ。戻すときも、少しずつしか戻らない」
澪は持ってきた缶をテーブルに置いた。
「証拠を見つけました」
すみれの目が鋭くなった。
澪は写真とノートを出した。
幼い澪と美咲。
母と澪。
ノートには、小学生の澪が書いた日記が残っていた。
今日、美咲が泣いた。怖い夢を見たと言って、私の部屋に来た。お母様には言わないでと言ったので、言わなかった。朝になったら、美咲は覚えていないふりをした。私は覚えている。
別の日には、こうあった。
お父様に、長女らしくしなさいと言われた。長女らしいとは何だろう。美咲が失敗したときに怒られないように、先に私が謝ることだろうか。
澪はその文字を見ながら、苦しくなった。
小学生の自分は、もう知っていたのだ。
有栖川家で長女であることが、どういう役目なのかを。
すみれは一枚ずつ写真を見た。
「強い証拠ね。紙で残っている。筆跡もある。制度処理の外に置かれていたから、まだ消えていない」
「これで異議申立てできますか」
「できる。でも、それだけでは足りない」
澪の胸が沈んだ。
「なぜですか」
「あなたが有栖川澪だった証拠にはなる。でも、関係資産譲渡が不正だった証拠にはならない」
「父の書斎から契約書も持ってきました」
澪は契約書を出した。
だが、その瞬間、紙面の文字が揺らいだ。
黒い文字が薄くなっていく。
譲渡元、譲渡先、申請者、承認者。
ひとつずつ、滲むように消えていく。
「そんな」
澪は紙を押さえた。
すみれは驚かなかった。
「複写防止処理ね。庁外に持ち出すと、文字が消える」
「父も同じことを言っていました」
「でしょうね」
数秒後、契約書はほとんど白紙になった。赤い印だけが、淡く残っている。
澪は呆然とした。
「せっかく……持ってきたのに」
「でも、あなたは読んだ」
「え?」
「覚えているでしょう。そこに何が書かれていたか」
「覚えています」
「なら、それも証拠になる。少なくとも、あなたの証言にはなる」
「私の証言なんて、信じてもらえません」
「信じてもらうために、他の証拠を集めるのよ」
ひなが身を乗り出した。
「承認者、誰でした?」
澪は唇を噛んだ。
「久世蓮司」
「婚約者さん?」
「……ええ」
「最悪ですね」
ひなは率直だった。
澪は苦笑しようとしたが、できなかった。
すみれがコーヒーカップを置いた。
「久世蓮司は、関係権利審査官ね。処理を承認した側にいる。けれど今朝、あなたを見て反応した」
「覚えていないと言われました」
「覚えていない人間は、もっと平らな目をする。彼は揺れていた」
「すみれさんも見ていたんですか」
「見ていたわ」
「どうして」
すみれは少しの間、答えなかった。
喫茶店の窓の外を、何人もの通行人が過ぎていく。誰も店の中を見ない。まるで、この店そのものが世界の隙間にあるようだった。
「昔、私も消されたから」
澪はすみれを見た。
ひなは黙った。いつもの話なのかもしれない。
「私の夫は、国会議員だった。正確には、なる予定だった人。選挙の前に、私との婚姻関係が邪魔になった。私には、消しやすい条件が揃っていた。両親はすでに他界。子どもはいない。専業主婦で、社会的な接点も少ない。夫の事務所が申請し、存在管理庁が承認した」
「そんなことが」
「あるのよ。静かに、合法的に」
すみれは淡々と言った。
「最初は、夫が私を忘れた。次に、近所の人が忘れた。銀行口座に入れなくなり、病院で受付されなくなり、マンションの鍵が反応しなくなった。存在値が三になったとき、私は自分の声を録音しても、再生すると雑音になった」
澪は寒気を覚えた。
「どうやって戻ったんですか」
「戻ってはいないわ」
すみれは微笑んだ。
「私は今も、正式には誰の妻でもなく、どこの住民でもない。白石すみれという名前も、昔の名前ではない」
「では、どうして見えるんですか」
「見ようとする人がいるから」
すみれはマスターを見た。
老人はカウンターの奥で黙ってカップを拭いている。
「制度は、人の認識を数値化する。でも、人間の認識そのものを完全には支配できない。誰かが、意志を持って名前を呼ぶ。紙に書く。忘れまいとする。その小さな抵抗が、存在を繋ぎ止める」
「そんなことで」
「そんなことしか、最後には残らないのよ」
澪は写真を見た。
幼い美咲が、澪の腕にしがみついている。
お姉様と、ひみつの庭。
美咲は、本当に何も覚えていないのだろうか。
いや、覚えていないのだとしても、この字は美咲が書いたものだ。
その事実は、まだ消えていない。
「美咲は、署名していました」
澪は言った。
「契約書に。父と、美咲と、蓮司さんの名前がありました」
ひなが眉をひそめた。
「妹さん、知ってたってことですか」
「わかりません。今朝の美咲は、本当に私を知らないようでした」
すみれが頷いた。
「関係資産を受け取った側も、移行後に記憶を書き換えられることがある。むしろ、そのほうが自然に生活できるから」
「都合がいいですね」
「ええ。奪う側にとってはね」
澪は拳を握った。
「美咲に会います」
「危険よ」
「それでも会います。彼女が何を知っているのか、確かめたい」
「その前に、久世蓮司に会いなさい」
すみれの声は静かだったが、強かった。
「なぜですか」
「彼は承認者で、婚約関係の当事者でもある。制度の内側を知っていて、あなたに反応を示した。揺さぶるなら彼が先」
「でも、彼が裏切ったのかもしれません」
「だからこそよ」
すみれは澪の目を見た。
「愛していた相手に裏切られたかもしれない。その事実を避けたまま戦うと、最後の一手で必ず迷う。迷えば、制度に負ける」
澪は黙った。
蓮司の顔が浮かぶ。
朝、玄関ホールでこちらを見た目。
知らないと言いながら、どこか苦しそうだった目。
あれが演技だったら、澪はもう何も信じられない。
だが、あれが本当の揺れだったなら。
彼の中に、まだ澪が残っているのなら。
「会って、何を聞けばいいんですか」
「名前を呼ばせなさい」
「名前?」
「有栖川澪と。端末に表示されたからではなく、あなたを見て、彼自身の意志で」
「それで何が」
「存在値は、ただ記録の量で決まるわけではない。関係の強度も関わる。強い関係者が本人を認識すれば、一時的に値が戻ることがある」
澪はスマートフォンを見た。
現在の存在値:10。
再計算まで残り十六時間。
「もし、呼んでもらえなかったら」
「そのときは、その人はあなたの証人にはならない」
簡単な言葉だった。
けれど、澪には重かった。
蓮司が自分の証人にならない。
その可能性を、まだ心のどこかで認めたくなかった。
ひなが鞄から小さな手帳を取り出した。
「これ、使ってください」
「これは?」
「低存在者用のメモ帳です。スマホは信用しないほうがいいです。低存在化が進むと、入力した文字が勝手に消えたり、他人から読めなくなったりします。紙に、強く書く。できれば鉛筆よりペン。筆圧大事」
ひなは得意げに言った。
「私、存在値七から五まで落ちたので、その辺詳しいです」
澪は手帳を受け取った。
「ありがとう」
「いえ。私も、誰かに渡してもらったので」
「あなたは、どうして低存在化を?」
ひなは少しだけ目を伏せた。
「親が再婚して、新しい家族に私が邪魔だったんです。私は母の前の結婚の子だったので。存在税の控除申請と一緒に、扶養関係を整理されました」
整理。
父も同じ言葉を使った。
人を消すとき、彼らは必ず整った言葉を選ぶ。
整理。移行。保全。認識負荷の軽減。
どれも、痛みを隠すための言葉だった。
「でも、まだ消えてません」
ひなは笑った。
「しぶといので」
その笑顔は、危うく明るかった。
澪は手帳を開き、一頁目に自分の名前を書いた。
有栖川澪。
ペン先に力を込める。
紙が少し凹むほど、強く。
その下に、父の名前を書く。
有栖川宗一郎。
母の名前。
有栖川響子。
妹の名前。
有栖川美咲。
そして、少し迷ってから、久世蓮司と書いた。
文字を見つめる。
名前が並ぶだけで、人生の輪郭が戻ってくるようだった。
すみれが言った。
「今夜、久世蓮司は庁舎を出たあと、有栖川家に向かうはずよ。披露会の最終確認がある」
「披露会?」
「結婚式の前に、家同士と関係者を集めて行う内輪の会。そこで婚約関係の最終固定が行われる。明日の再計算であなたの存在値が十を切れば、婚約権利は完全に美咲さんへ定着する」
「定着すると、どうなるんですか」
「久世蓮司があなたを思い出す可能性は、ほぼなくなる」
澪は喉の奥が締まるのを感じた。
「明日までに、止めなければいけないんですね」
「そう」
「どうやって」
すみれは白い帽子を手に取った。
「披露会に出るのよ」
「私は招待されていません」
「招待状ならあるでしょう」
「私の名前では」
「美咲さんの名前で届いたものがね」
澪は意味を理解した。
「美咲になりすませと?」
「違うわ」
すみれは首を振った。
「奪われた席に、本人として座りに行くの」
澪は息を呑んだ。
「そんなことをしたら」
「混乱するでしょうね。関係者が大勢いる前で、制度が隠した矛盾が露出する。写真も、証言も、記憶の揺れも、その場で起きるかもしれない」
「失敗したら?」
「存在値は一気に下がる」
ひなが小さく言った。
「ゼロになるかも」
澪は手帳を閉じた。
ゼロ。
その数字は、暗い穴のようだった。
誰にも見えない。誰にも覚えられない。自分の声も、紙の文字も、残らない。
澪は怖かった。
怖くてたまらなかった。
けれど、屋敷の前で泣いていた朝とは違う。
今は、手元に写真がある。ノートがある。名前を書いた手帳がある。白石すみれがいる。水沢ひながいる。マスターが書いてくれたノートに、自分の名前がある。
ゼロではない。
「行きます」
澪は言った。
すみれは、少しだけ微笑んだ。
「なら、準備をしましょう」
「準備?」
「存在を取り戻すには、泣くだけでは足りない。証拠、証人、場、そして相手が逃げられない問いが必要」
すみれは紙ナプキンを一枚取り、ペンで四つの言葉を書いた。
父。
母。
妹。
婚約者。
「この四人のうち、一人でも公の場であなたの名前を呼べば、流れは変わる」
「誰が一番可能性がありますか」
すみれは即答しなかった。
澪は、自分で答えを探した。
父は、澪を消した。
美咲は、澪の人生を受け取った。
蓮司は、処理を承認した。
母は。
母は、食堂で怯えていた。
でも、完全に知らない人を見る目ではなかった気がする。少なくとも、最初に澪を見た瞬間、母は「あなた」と言った。誰なの、ではなく、その前に、あなた、と。
何かが残っているのかもしれない。
母の中に。
「母です」
澪は言った。
「母を、揺さぶります」
すみれは頷いた。
「なら、母親だけが知っている記憶を用意しなさい」
澪は写真を見た。
熱を出した夜。
母の下手な子守歌。
冷たい指。
香水の匂い。
あの夜のことを、澪は覚えている。
母が覚えていないはずがない。
いや、覚えていないかもしれない。
それでも、呼びかけるしかない。
澪は手帳を開き、書いた。
お母様が、夜通し歌ってくれた歌。
歌詞はほとんど間違っていた。
最後に、澪、と呼んだ。
文字を書きながら、澪は涙をこぼした。
ひなが慌てたように紙ナプキンを差し出した。
「泣くと、文字が滲みます」
「ありがとう」
「泣くなら、書いたあとがおすすめです」
ひならしい言い方だった。
澪は少し笑った。
そのとき、喫茶店の扉が開いた。
鈴が鳴る。
澪は顔を上げた。
入口に立っていたのは、久世蓮司だった。
濃紺のスーツ。革の書類ケース。朝と同じ姿。
ただ、その顔には、朝にはなかった疲労が刻まれていた。
蓮司は店内を見回し、澪を見つけた。
視線が止まる。
澪の心臓が強く鳴った。
すみれが、静かに言った。
「ちょうどいいわ」
蓮司は数歩近づいた。
「あなたを探していました」
澪は立ち上がった。
「私を?」
「はい」
「私のことを、知らないと言ったのに?」
蓮司は言葉に詰まった。
その沈黙が、答えだった。
澪は一歩近づいた。
「名前を呼んでください」
「え?」
「私の名前を」
蓮司の目が揺れた。
澪は逃がさなかった。
「端末に表示された名前ではなく、書類上の旧存在者ではなく、あなたが知っているはずの私の名前を呼んでください」
蓮司は唇を開きかけ、閉じた。
彼の中で何かが争っているのがわかった。制度としての記録。職員としての義務。消された記憶。残ってしまった感情。
澪は写真を一枚差し出した。
婚約の日の写真ではない。
それは消えていた。
差し出したのは、澪が幼い頃の写真だった。蓮司には関係のない写真。けれど、そこには澪という人間が確かにいた。
「私は、います」
澪は言った。
「あなたが覚えていなくても、私はいます。私の人生は、誰かに譲渡できる資産なんかじゃない」
蓮司の指が、写真に触れた。
その瞬間、彼の表情が歪んだ。
「……白い薔薇」
澪は息を止めた。
「何ですか」
「あなたは、庭の白い薔薇が嫌いだった」
蓮司は低く言った。
「お母様が好きだから、嫌いと言えないと……そう言っていた」
澪の胸が震えた。
それは、蓮司に話したことがある記憶だった。
婚約が決まる前、屋敷の庭を歩いたときに。
「思い出したんですか」
蓮司は額を押さえた。
「断片だけです。あなたの顔を見ると、頭の奥で何かが痛む。今朝もそうでした。けれど、記録にはない。端末も、書類も、あなたを婚約者として表示しない」
「あなたが承認したからです」
澪は言った。
蓮司の顔が強張った。
「知っています。書類を見ました。関係資産譲渡契約。承認者は久世蓮司」
蓮司は目を伏せた。
「……はい」
澪は息を呑んだ。
否定してほしかった。
何かの間違いだと、言ってほしかった。
「なぜですか」
「私には、対象者が誰か見えていなかった」
「そんなことがあるんですか」
「低存在化予備処理がかかった案件では、審査官にも個人名が伏せられる場合があります。表示されるのは、関係資産コードと、家族代表者の申請内容だけです」
「でも、婚約関係も含まれていたでしょう」
「はい」
「なら、わかるはずです。自分の婚約者の権利が移されると」
蓮司は苦しげに息を吐いた。
「その時点で、私の記憶からも、あなたとの婚約関係は薄れ始めていました」
澪は言葉を失った。
「承認前から?」
「おそらく、事前処理がかかっていた。私が気づいたときには、私は有栖川美咲さんとの婚約準備をしていることになっていた。違和感はありました。けれど、記録は整っていた。周囲の認識も一致していた。だから、私は……」
「自分の違和感を信じなかった」
蓮司は顔を上げた。
「はい」
澪は彼を見つめた。
怒りがあった。
悲しみもあった。
けれど、蓮司の顔に浮かんでいるものは、保身ではなかった。自分が取り返しのつかないことをしたと理解した人間の顔だった。
「名前を呼んでください」
澪はもう一度言った。
蓮司の喉が動いた。
長い沈黙。
喫茶店の中の誰も、音を立てなかった。
そして、蓮司は言った。
「有栖川……澪さん」
その瞬間、澪のスマートフォンが震えた。
画面が勝手に開く。
現在の存在値:13
暫定認識回復を確認しました。
澪は画面を見つめた。
十から、十三へ。
たった三。
けれど、戻った。
名前を呼ばれるだけで。
蓮司は画面を見て、目を見開いた。
「やはり、あなたは」
「ええ」
澪はスマートフォンを閉じた。
「私は、ここにいます」
蓮司は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝罪は、あとで聞きます」
澪の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「明日の披露会を止めたい。協力してください」
蓮司は顔を上げた。
「披露会で、最終固定が行われます」
「知っています」
「止めるには、承認ログの原本が必要です。庁舎の内部サーバーにあります」
「取れますか」
「正規手続きでは無理です」
ひなが小さく笑った。
「じゃあ、非正規ですね」
すみれはひなを一瞥したが、否定しなかった。
蓮司は言った。
「私の権限で、一時閲覧はできます。ただし、外部保存はできません。画面撮影も不可。ログにアクセスした時点で監査が走ります」
「それでも、見ることはできる」
「はい」
澪は頷いた。
「では、見に行きます」
「今から?」
「明朝の再計算まで、時間がありません」
蓮司はためらった。
「危険です。あなたはすでに低存在化対象です。庁舎内で拘束されれば、そのまま保全処理に回される可能性があります」
「保全処理?」
すみれが答えた。
「ゼロになる前に、制度側で隔離すること。誰にも会えない場所に置かれ、再計算を待つ」
「つまり、消えるのを待つ部屋ですね」
澪が言うと、蓮司は苦しそうに目を伏せた。
「……はい」
澪は手帳を鞄に入れた。
「それでも行きます」
蓮司は澪を見た。
「なぜ、そこまで」
「あなたがそれを聞くんですか」
蓮司は黙った。
澪は言った。
「私の人生だからです。奪われたまま、誰かの都合のいい思い出にされるのは嫌です。父が家を守るためと言っても、美咲が知らなかったとしても、あなたが記録を信じたとしても、私は消えたくありません」
蓮司は深く息を吸った。
「わかりました」
その声には、朝の迷いはなかった。
「私が案内します」
すみれが帽子をかぶった。
「私も行くわ」
ひなが手を上げた。
「私も」
「あなたは駄目」
すみれが即答した。
「なんでですか」
「存在値五で庁舎に入るのは危険すぎる。改札にも引っかかる」
「でも、役に立てます」
「役に立つために消えたら意味がない」
ひなは不満そうに唇を尖らせたが、反論はしなかった。
澪はひなに向き直った。
「ここにいてください」
「命令ですか」
「お願いです」
ひなは少し驚いた顔をした。
澪は続けた。
「私が戻らなかったら、この写真とノートを守ってください。私の名前を、書いてください」
ひなはしばらく黙っていた。
そして、手帳を開いた。
そこに、強い筆圧で書く。
有栖川澪。
「戻ってきても、書きます」
ひなは言った。
「忘れっぽい世界なので」
澪は小さく笑った。
「ありがとう」
蓮司が扉を開けた。
外は夕方になっていた。冬の空は早く暗くなる。官庁街のビルの窓には、冷たい光が灯り始めていた。
澪は一歩外へ出た。
朝、屋敷を追い出されたときとは違う。
今は、自分の名前を呼ぶ人がいる。
自分の名前を書いた人がいる。
そして、自分自身も、その名前を信じている。
存在値は十三。
まだ頼りない数字だ。
けれど、ゼロではない。
澪は庁舎へ向かって歩き出した。
その背後で、喫茶店の鈴が小さく鳴った。
まるで、誰かの名前を呼ぶように。
第四章 承認ログ
存在管理庁の庁舎は、夕方になると昼間とは別の顔を見せた。
正面玄関の自動扉は変わらず開いていたが、ロビーにいた人の数は半分以下になっている。待合椅子には数人が残っているだけだった。番号表示板はまだ点灯している。窓口の職員も残っている。だが、その空気には、昼間の役所めいた緊張とは違う、夜の病院に似た沈黙があった。
蓮司は澪を連れて、正面ではなく職員用通用口へ回った。
すみれは少し離れて歩いている。庁舎のガラスに映る彼女の姿は、街灯の光の中でひどく淡かった。澪はふと、すみれの存在値を聞いていないことに気づいた。
「すみれさん」
「何?」
「すみれさんの存在値は、いくつなんですか」
すみれは歩調を変えずに答えた。
「二」
澪は足を止めそうになった。
「二?」
「ええ」
「それで、どうして……」
「見えるのか、ということ?」
すみれは薄く笑った。
「言ったでしょう。見ようとする人がいるからよ。マスターと、ひなと、何人かの低存在者が、毎日私の名前を書く。私も、自分の名前を書く。それで、かろうじて残っている」
「二になったら、もう戻れないんですか」
「制度上は、ほぼ無理ね」
「それなのに、私を助けるんですか」
すみれは庁舎を見上げた。
「助けるとは言っていないわ」
「また、それですか」
「本当のことよ。私はあなたの代わりに戦えない。名前を呼ばせるのも、証拠を突きつけるのも、最後に自分を信じるのも、あなた自身にしかできない」
すみれは澪を見た。
「私はただ、消え方を知っているだけ」
その声には、諦めではなく、硬い静けさがあった。
蓮司が通用口の前で足を止めた。
「ここから先は、職員証が必要です」
蓮司は胸ポケットからカードを取り出し、端末にかざした。
緑のランプが点く。
扉が開いた。
澪が続こうとすると、端末が赤く光った。
警告音。
蓮司が素早く澪の前に立つ。
画面に文字が表示された。
低存在化対象者の庁舎内立入を検知しました。
保全処理対象候補。
澪の背筋が冷えた。
蓮司は自分の職員証をもう一度かざし、端末に何かを入力した。
「関係権利審査官、久世蓮司。照合補助対象として同行させます」
画面が数秒沈黙した。
許可。
一時同行権限を付与しました。
蓮司は小さく息を吐いた。
「今の権限は二十分だけです」
「二十分で足りますか」
「足りません」
蓮司は言った。
「だから、急ぎます」
庁舎の内部は、昼間に澪が通された相談室のある区域とはまったく違っていた。
白い廊下。無機質な蛍光灯。壁に掲げられた部署名はどれも似たように冷たい。
存在値評価課。
関係資産移行課。
低存在化保全部。
認識再計算センター。
呼称記憶調整室。
澪は「呼称記憶調整室」という文字の前で足を止めかけた。
呼び名まで、調整されるのか。
お姉様。
澪。
娘。
婚約者。
そう呼ばれていた事実まで、部屋の中で処理されるのか。
蓮司は振り返った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫に見えますか」
「……見えません」
「なら、先へ進んでください」
蓮司は一瞬、苦しげな顔をしたが、すぐに歩き出した。
すみれが澪の横に並んだ。
「怒りは大事よ」
「怒っているように見えますか」
「ええ」
「怖いだけです」
「怖いから怒れるのよ。消されてもいいと思った人間は、もう怒らない」
澪は返事をしなかった。
怖い。
その通りだった。
自分の存在が、書類一枚で剥がされること。
父がそれを必要な処理と呼んだこと。
美咲が自分の席に座っていること。
蓮司が承認印を押したこと。
そして何より、ほんの一瞬でも、自分の記憶のほうが間違っているのではないかと疑ってしまったことが、澪は怖かった。
蓮司は奥の扉の前で止まった。
「ここです」
扉には、こう書かれていた。
関係権利審査局 承認ログ閲覧室。
蓮司がカードをかざす。
今度は、扉はすぐには開かなかった。
端末に赤い文字が出る。
高機密記録です。
二要素認証を行ってください。
蓮司は掌を認証台に置いた。
続いて、虹彩認証。
扉の上部から細い光が走り、蓮司の目を読み取る。
それでも扉は開かない。
本人認識照合に揺らぎがあります。
澪は蓮司を見た。
「揺らぎ?」
蓮司の顔色が変わった。
「あなたとの関係が戻り始めているせいかもしれません」
「それで?」
「私の現行記録では、美咲さんの婚約者です。けれど、私自身の認識が揺れている。システムが矛盾を検知している」
すみれが低く言った。
「急いだほうがいいわ。矛盾が大きくなると、あなたも保全対象にされる」
「私も?」
蓮司は苦笑した。
「制度にとって一番困るのは、内部の人間が自分の違和感を信じることです」
蓮司は端末に職員番号を入力した。
さらに、もう一つの認証画面が出る。
現在の関係優先者を選択してください。
画面には、二つの名前が表示されていた。
有栖川美咲。
有栖川澪。
澪は息を呑んだ。
「私の名前が」
「戻ってきている」
蓮司の声が震えた。
画面の中で、有栖川澪の文字は薄かった。灰色に近く、今にも消えそうだった。だが、確かに表示されていた。
蓮司は指を伸ばした。
澪は思わず、その手首を掴んだ。
「間違えないでください」
蓮司は澪を見た。
澪は続けた。
「記録ではなく、あなたが選んでください」
蓮司は小さく頷いた。
そして、有栖川澪の名前に触れた。
扉が開いた。
その瞬間、澪のスマートフォンが震えた。
現在の存在値:15
暫定関係認識の上昇を確認しました。
澪は画面を見つめた。
蓮司が選んだ。
記録ではなく、自分を。
だが、それで許せるわけではなかった。許すかどうかは、もっと先の話だ。今は、前に進むしかない。
閲覧室の中には、端末が一台だけ置かれていた。
窓はない。壁も床も白い。椅子は三脚あったが、そのうち一脚には使用禁止の赤い札がかかっていた。
蓮司は端末の前に座り、操作を始めた。
「関係資産譲渡契約。有栖川家。処理日付は昨日の二十三時四十二分」
「そんな時間に?」
「緊急保全措置なら夜間処理も可能です」
画面に検索結果が表示される。
だが、蓮司が開こうとした瞬間、警告が出た。
当該記録は上位権限により閲覧制限中です。
蓮司の眉が動いた。
「おかしい」
「どういうことですか」
「私が承認した案件なら、承認ログは閲覧できます。制限をかけるには、局長級以上の権限が必要です」
すみれが言った。
「つまり、有栖川家だけの問題ではない」
蓮司は別の画面を開いた。
「承認履歴の周辺ログから入ります。直接開けなくても、処理の痕跡は残る」
指が速く動く。
澪は画面を見たが、専門用語ばかりで意味が追えなかった。
存在税担保化。
家族代表者申請。
予備低存在化。
関係権利仮移行。
婚約優先順位変更。
認識再計算予約。
そして、ある項目で蓮司の手が止まった。
事前認識調整対象者。
久世蓮司。
蓮司自身の名前だった。
「これは」
蓮司の声が掠れた。
「私にも、事前処理がかけられている」
「誰が?」
蓮司は画面を拡大した。
申請補助者の欄には、名前があった。
津島怜司。
第一照合課。
澪は顔を上げた。
「昼間、私に説明した職員です」
蓮司の表情が険しくなる。
「津島さんが……」
「知っている人ですか」
「私の上司に近い人です。直接の上長ではありませんが、関係権利審査に強い影響力を持っている」
すみれが端末を覗き込んだ。
「津島怜司。覚えがあるわ」
「すみれさんの件にも?」
「ええ。私が消されたとき、窓口で説明した職員よ。あの人は昔から、制度の穴ではなく、制度そのものを利用する」
蓮司はさらにログを追った。
画面に、音声記録の項目が表示される。
家族代表者ヒアリング。
蓮司がクリックする。
音声の再生ボタン。
だが、押す前に彼は澪を見た。
「聞きますか」
「聞きます」
蓮司は再生した。
最初に聞こえたのは、父の声だった。
『有栖川家の存在資産を保全するため、第一関係資産保持者の移行を申請します』
次に、津島の声。
『譲渡元本人への通知は行いましたか』
『通知は家族代表者として受領しています』
『本人の異議申立て可能性は』
『低いと判断します。澪は、家の決定に逆らう子ではありません』
澪は拳を握った。
父は、そこまで知っていた。
澪が逆らわないことを。
長女として、いつも家を優先してきたことを。
その性質まで、利用した。
音声は続く。
『譲渡先、有栖川美咲様の同意は』
『取得済みです。ただし、本人には詳細説明をしていません。婚約準備上の名義調整と伝えています』
澪は息を呑んだ。
美咲は、知らなかった。
署名はした。
だが、自分が何を受け取るのか、知らされていなかった。
音声の奥で、紙をめくる音がする。
『久世蓮司審査官については、事前認識調整を希望します』
父の声だった。
『彼は澪との個人的関係が強い。通常処理では抵抗が出る可能性があります』
津島が答える。
『関係者調整には追加費用が発生します』
『構いません』
『調整後、久世審査官は有栖川美咲様との婚約準備を自己認識します。ただし、深層記憶の完全消去は保証できません』
『式まで持てばいい』
澪は目を閉じた。
父は、蓮司の記憶まで買った。
いや、買おうとした。
家を守るために。
美咲を支えるために。
澪を、消すために。
蓮司は再生を止めた。
室内に沈黙が落ちた。
蓮司は画面を見つめたまま、動かなかった。
「私は」
彼は低く言った。
「自分で承認したと思っていました。違和感を無視したのは私です。それは変わらない。でも、その違和感が起きる前に、私の認識は調整されていた」
「だから許してほしいと?」
澪の声は冷たかった。
蓮司は首を横に振った。
「いいえ」
彼は澪を見た。
「許されることではありません。認識を調整されていたとしても、最後に記録を信じたのは私です。あなたの名前を、探そうとしなかった」
澪は何も言えなかった。
彼を責めたい気持ちがある。
けれど、責めるだけでは前に進まない。
澪は画面を指差した。
「この音声を持ち出せますか」
「通常はできません」
「通常ではなく」
蓮司は少し考えた。
「監査用の一時投影なら可能です。外部保存ではなく、指定端末への一時再生権限を発行する。披露会の会場に端末があれば、そこで再生できます」
「披露会で、これを流す」
「はい。ただし、発行した時点で津島さんに通知が行きます」
「つまり、追われる」
「そうです」
すみれが静かに言った。
「それしかないわね」
蓮司は頷き、操作を始めた。
監査用一時再生権限。
対象ログ。
家族代表者ヒアリング。
事前認識調整申請。
関係資産譲渡承認記録。
発行先端末。
蓮司は自分の職員証を端末にかざした。
画面に確認表示が出る。
発行しますか。
発行後、監査通知が送信されます。
蓮司は一瞬、澪を見た。
澪は頷いた。
蓮司が実行を押す。
その瞬間、室内の照明が赤く変わった。
警告音。
不正閲覧の可能性を検知しました。
関係者はその場で待機してください。
「早すぎる」
蓮司が立ち上がった。
扉のロック音がした。
澪が駆け寄るが、扉は開かない。
すみれが天井のカメラを見上げた。
「来るわ」
スピーカーから声がした。
『久世審査官。閲覧権限を逸脱しています。同行者二名を保全対象として引き渡してください』
津島の声だった。
蓮司は壁の端末に向かって言った。
「当該案件には重大な瑕疵があります。監査用ログの閲覧は正当です」
『瑕疵の有無は上位審査で判断されます』
「申請者による虚偽説明、譲渡先への不十分説明、関係者への事前認識調整。これが瑕疵でなければ何ですか」
『制度上、必要な保全措置です』
澪はスピーカーを睨んだ。
「津島さん」
スピーカーの向こうが一瞬沈黙した。
『有栖川澪様ですね』
「昼間、あなたは異議申立てには本人存在証明が必要だと言いました。証拠を集めろと」
『そう申し上げました』
「集めました」
『それを審査する前に、あなたの存在値は再計算されます』
「だから、間に合わせないつもりなんですね」
津島は答えなかった。
蓮司が扉の横のパネルを開けた。中には非常用の手動解除装置がある。
「電磁ロックです。非常解除には、二人分の職員認証が必要です」
「職員は一人しかいません」
「通常は」
蓮司はすみれを見た。
「白石さん。あなたは以前、庁の関係者でしたか」
すみれは少しだけ眉を上げた。
「よくわかったわね」
「あなたの動きが、庁舎に慣れすぎている」
すみれは薄く笑った。
「昔、存在管理庁の前身機関で働いていたの。結婚して辞めたけれど」
「職員記録は残っていますか」
「消された人間の記録が、残っていると思う?」
「認証残骸があるかもしれません」
すみれは肩をすくめ、認証台に手を置いた。
画面が赤く点滅する。
旧職員記録照合中。
該当者不明。
該当者不明。
該当者……
表示が揺れた。
白石すみれ。
旧姓、川辺菫。
職員記録残骸を検出。
蓮司が叫ぶ。
「今です」
彼も手を置く。
二重認証成立。
非常解除します。
扉が開いた。
廊下には、警備員が二人走ってくるところだった。
蓮司が澪の手を掴む。
「こちらへ」
澪は走った。
すみれも続く。
警告音が庁舎中に響く。
低存在化対象者の移動を検知。
保全部職員は、第三区画へ。
澪たちは非常階段へ飛び込んだ。
階段を駆け下りる。澪の足は痛んだ。昼間に藤棚から降りたときに打った膝が熱を持っている。それでも止まれない。
踊り場で、すみれがふらついた。
「すみれさん」
澪が支える。
すみれの手は冷たかった。
「大丈夫」
「大丈夫じゃありません」
「存在値二の人間に、走れというほうが無茶なのよ」
それでも、すみれは笑った。
蓮司が下を確認する。
「一階は塞がれています。地下へ」
「地下?」
「資料搬入口があります」
澪たちはさらに下へ降りた。
地下の空気は湿っていた。壁の配管が低く唸っている。資料搬入口の先には、鉄扉がある。
だが、そこにも認証端末がついていた。
蓮司が職員証をかざす。
警告。
当該職員の権限は一時停止されています。
蓮司の顔が強張る。
「止められた」
背後から足音が近づいてくる。
警備員の声。
「地下です。対象者を確認」
澪は周囲を見回した。
逃げ場はない。
そのとき、すみれが壁際の古い扉に目を留めた。
「こっち」
「そこは?」
「昔の搬出路。今は使われていないはず」
すみれが扉に手をかける。
鍵がかかっている。
澪は焦った。
「開かない」
すみれは帽子の内側から細い金属片を取り出した。
「低存在者にも、役に立つ習慣はあるのよ」
金属片を鍵穴に差し込む。
警備員の足音が近づく。
蓮司が澪の前に立つ。
数秒が、異様に長かった。
カチリ、と音がした。
扉が開いた。
暗い通路。
澪たちは中へ滑り込む。すみれが扉を閉める。警備員の足音がすぐ外で止まった。
「どこへ行った」
「反応が消えました」
「存在値が低すぎる。センサーが拾えていない」
澪は息を殺した。
通路の中は狭く、古い埃の匂いがした。壁には非常灯が点滅している。すみれは通路を進んだ。
「この先は旧庁舎の裏に出る」
「なぜ、こんな場所を」
「昔、ここから捨てられた記録を運び出していた」
「捨てられた記録?」
「制度に合わない記録よ。存在してはいけない人の証言。消えたはずなのに残ってしまった写真。処理ミス。泣き声の録音。そういうものを、昔は紙で焼却していた」
澪は胸が重くなった。
人の人生が、焼却される。
紙ごと。
名前ごと。
通路の先に、錆びた鉄格子があった。
すみれが押すと、軋みながら開く。
外へ出ると、庁舎裏の細い路地だった。
夜の空気が冷たい。
澪は壁に手をつき、息を整えた。
蓮司は職員証を確認している。
「権限停止。庁内ネットワークからも切られています」
「一時再生権限は?」
「発行済みです。私の職員証内に暗号鍵があります。ただし、遠隔で無効化される可能性がある」
「披露会はいつですか」
「明日の午後六時。有栖川家の屋敷で」
澪は空を見た。
再計算は明朝。
披露会は明日の夕方。
「明朝の再計算を越えられますか」
蓮司は答えなかった。
すみれが言った。
「越えるしかないわ」
澪はスマートフォンを開いた。
現在の存在値:15
再計算まで、10時間12分。
社会的認識率:4.6%
暫定認識回復中。
十五。
増えた。
それでも、あまりに低い。
「十五で、明朝を迎えたら?」
澪が尋ねると、蓮司は慎重に言った。
「再計算で、関係資産譲渡が進んでいれば十未満に落ちる可能性があります。場合によっては、一気に五以下へ」
「五以下になると?」
「公共サービスはほぼ使えません。周囲の人間の認識も、かなり不安定になります。名前を呼ばれても、すぐ忘れられる」
すみれが続けた。
「そしてゼロが見え始める」
澪は手帳を握った。
「防ぐには?」
「今夜のうちに、認識者を増やすこと」
すみれは言った。
「あなたの名前を、複数人が意志を持って書く。呼ぶ。記録する。できれば、あなたを知っていた人間がいい」
「家族は無理です」
「家族以外にもいるはずよ。学校の友人、先生、昔の知人」
澪は考えた。
だが、スマートフォンの連絡先は消えている。財布もない。身分証もない。誰に会いに行けばいいのか。
そのとき、ひなの顔が浮かんだ。
喫茶店。
マスターのノート。
低存在者たち。
「余白に戻ります」
澪は言った。
「ひなさんに、名前を書いてもらった。マスターにも。あそこなら、私を見ようとしてくれる人がいる」
すみれは頷いた。
「いい判断ね」
蓮司が言った。
「私も行きます」
澪は彼を見た。
「庁から追われていますよ」
「だからこそ、一人でいるほうが危ない。私の職員証にはログの鍵もある」
「それだけですか」
蓮司は黙った。
澪は言った。
「あなたは、私を守りたいんですか。それとも、自分の罪を軽くしたいんですか」
蓮司は視線を逸らさなかった。
「両方です」
正直な答えだった。
「私はあなたを守りたい。けれど、それが償いになるとも思っている。あなたから見れば、身勝手でしょう」
「身勝手です」
「はい」
「でも、今は利用します」
「それで構いません」
蓮司は頷いた。
澪は歩き出した。
冷たい夜の路地。
追われる身。
消えかけた名前。
だが、胸の中には、小さな熱があった。
父の音声。
美咲が知らなかったという事実。
蓮司の認識が調整されていた証拠。
そして、母を揺さぶるための記憶。
まだ、終わっていない。
余白に戻ると、ひなは入口の前で待っていた。
「遅いです」
彼女は怒ったように言った。
「心配しました」
その言葉に、澪は一瞬、泣きそうになった。
心配。
今日一日で、その言葉がこんなにもありがたくなるとは思わなかった。
「ごめんなさい」
「謝るなら、名前書いてください」
「え?」
「帰還確認です。生きてる人は名前を書けます」
ひなは手帳を差し出した。
澪はそこに書いた。
有栖川澪。
力強く。
マスターはカウンターの奥で、店の古いノートを開いていた。
「今日は人を呼んでおいた」
澪は店内を見た。
いつの間にか、客が増えていた。
老人。中年の女性。若い男性。車椅子の少年。制服姿の少女。十人ほどが、静かに席に座っている。
すみれが言った。
「低存在者の会よ。正式名称はないけれど」
ひなが得意げに言った。
「私は『まだいる会』って呼んでます」
マスターは否定しなかった。
澪は戸惑った。
「どうして」
すみれが答えた。
「あなたの名前を書いてもらうため」
「私を知らない人たちなのに?」
老人が言った。
「知らなくても、見ようとすることはできる」
中年の女性が続けた。
「私も、夫に忘れられました。だから、忘れられそうな人の名前を書くことにしています」
若い男性がノートを開いた。
「名前を」
澪は深く息を吸った。
「有栖川澪です」
店内の人々が、それぞれ紙に書いていく。
有栖川澪。
有栖川澪。
有栖川澪。
何度も、何度も。
鉛筆で。ボールペンで。震える手で。太いマジックで。
その光景を見て、澪は涙を止められなかった。
家族から消された名前を、見知らぬ人たちが拾い上げてくれる。
価値があるからではない。
家柄があるからではない。
婚約者が官僚だからではない。
ただ、消されようとしている人間が目の前にいるから。
スマートフォンが震えた。
現在の存在値:21
複数認識者による暫定存在補強を確認しました。
澪は画面を見て、声を詰まらせた。
二十一。
まだ低い。
けれど、確かに上がっている。
ひなが笑った。
「ほら。まだいる会、強いでしょ」
澪は頷いた。
「はい」
すみれが言った。
「今夜はここにいなさい。再計算まで、できるだけ名前を切らさない」
「名前を切らさない?」
「誰かが定期的に呼ぶ。書く。確認する。低存在者の夜越えよ」
ひなは椅子を引いた。
「寝たら駄目です。寝ると、自分でも自分を忘れそうになることがあります」
蓮司が驚いたように顔を上げた。
「そんな症状が?」
ひなは冷めた目で見た。
「庁の人なのに知らないんですか」
蓮司は言葉を失った。
すみれが静かに言った。
「制度の中にいる人間は、消える側の夜を知らない」
その夜、澪は「余白」で過ごした。
眠らないように、何度も名前を書いた。
有栖川澪。
有栖川澪。
有栖川澪。
ひなは隣で、自分の名前を書いていた。
水沢ひな。
水沢ひな。
水沢ひな。
すみれも書いていた。
白石すみれ。
その横に、小さく、川辺菫。
マスターは一時間ごとに店内の名前を読み上げた。
「有栖川澪さん」
「はい」
「水沢ひなさん」
「はい」
「白石すみれさん」
「はい」
そのやり取りは、出席確認のようだった。
学校の朝。
教室。
名前を呼ばれて、返事をする。
それだけのことが、人をこの世界に繋ぎ止める。
蓮司は店の隅で、職員証を握っていた。
彼もまた、何度も澪の名前を書いた。
有栖川澪。
少し癖のある、端正な字。
澪はその字を、複雑な気持ちで見つめた。
許せない。
でも、救われてもいる。
人の感情は、制度のように一つの項目に整理できない。
怒りと感謝が同時にある。
失望と期待が同じ場所にある。
だからこそ、人は書類ではないのだと、澪は思った。
明け方、スマートフォンが震えた。
再計算を開始します。
店内が静まり返った。
澪は手帳を握った。
すみれが澪の名前を呼ぶ。
「有栖川澪さん」
「はい」
ひなが続ける。
「有栖川澪さん」
「はい」
マスターが言う。
「有栖川澪さん」
「はい」
蓮司が、少し震える声で言った。
「有栖川澪さん」
澪は彼を見た。
「はい」
画面の数字が揺れる。
21。
19。
17。
澪の心臓が強く打つ。
15。
13。
そこで、数字が止まった。
低存在化処理は継続中です。
ただし、複数認識者による存在補強を確認。
次回再計算まで、24時間。
現在の存在値:13
澪は長く息を吐いた。
生き残った。
いや、存在し残った。
ひなが椅子にもたれた。
「よかった。十を切らなかった」
すみれも、少しだけ安堵した顔をした。
だが、蓮司の表情は硬い。
「夕方の披露会で最終固定が行われれば、次の再計算は持ちません」
澪は頷いた。
「わかっています」
朝日が、喫茶店の曇った窓から差し込んでいた。
澪は手帳を閉じた。
今日、すべてを終わらせる。
奪われた席に、本人として座りに行く。
第五章 存在値一の私へ
有栖川家の披露会は、午後六時からだった。
屋敷の大広間には、親族と近しい関係者だけが招かれているはずだったが、それでも三十人近い人が集まっていた。父の仕事関係者。母の古い友人。美咲の学生時代の知人。蓮司の庁舎関係者。
表向きは、久世蓮司と有栖川美咲の婚約披露。
実際には、関係資産の最終固定。
有栖川澪という存在が、完全に美咲の影へ押し込まれるための儀式だった。
澪は屋敷の外に立っていた。
昨日と同じ門。
昨日は、追い出された。
今日は、自分の足で入る。
服は、すみれが用意してくれたものだった。黒に近い紺色のワンピース。飾り気はないが、姿勢を正せば不思議と強く見える。靴はひなが「走れるやつがいい」と言って選んだ低いヒールだった。
蓮司は少し離れた場所に立っている。
彼は本来、会場の中にいるべき人間だった。けれど、澪と一緒に門の外から入ると言った。
「中で待っていたほうが、怪しまれないんじゃないですか」
澪が言うと、蓮司は首を振った。
「昨日の私は、記録の側にいました。今日は、あなたの側から入ります」
「格好いいことを言えば許されると思っていますか」
「思っていません」
「なら、いいです」
蓮司は苦笑しなかった。
ただ、真剣に頷いた。
すみれとひなは来ていない。
ひなは存在値五で、会場に入れば危険すぎる。すみれも二だ。強い認識の場では、逆に弾かれる可能性があるという。
その代わり、二人は「余白」で名前を書き続けると言った。
有栖川澪。
披露会が終わるまで。
澪は手帳を握った。
そこには、たくさんの名前が書かれている。
澪自身の名前。
ひなの名前。
すみれの名前。
母に伝える記憶。
父への問い。
美咲に見せる写真。
蓮司が持つ承認ログ。
武器は揃っている。
あとは、自分の声だけだ。
蓮司が門のインターホンを押した。
応答したのは家政婦の佐伯だった。
『どちら様でしょう』
昨日と同じ言葉。
澪の胸が少し痛んだ。
蓮司が言った。
「久世です。遅れて申し訳ありません」
『久世様。お待ちしておりました』
門が開く。
澪も一緒に歩き出した。
佐伯は玄関で蓮司を迎え、隣の澪を見て表情を強張らせた。
「こちらの方は……」
蓮司が答える前に、澪が言った。
「有栖川澪です」
佐伯の目が揺れた。
ほんの一瞬。
昨日は完全に知らない顔だった。
今日は、何かに引っかかったような目をした。
「澪……様?」
澪のスマートフォンが小さく震えた。
存在値:14
澪は胸の中で息を呑んだ。
佐伯は、覚えている。
完全ではない。
でも、残っている。
廊下の奥から、父が現れた。
有栖川宗一郎。
黒い礼服を着ている。顔には、客を迎えるための穏やかな表情が貼りついていた。だが、澪を見るなり、その表情は消えた。
「久世君」
父は低い声で言った。
「これはどういうことだ」
蓮司はまっすぐ父を見た。
「有栖川澪さんをお連れしました」
「その女性は招待していない」
「招待されるべき人です」
「久世君。君は疲れているようだ。あとで話そう」
父は澪を見なかった。
見れば、認めることになるからだ。
澪は一歩前に出た。
「お父様」
父の頬が動いた。
「そう呼ぶな」
「呼びます。私はあなたの娘です」
「違う」
「違わない」
澪の声は震えなかった。
「あなたが契約書に署名しても、庁が処理しても、写真から私を消しても、私はあなたの娘です」
玄関ホールの空気が固まった。
広間の扉が開いており、中の客たちがこちらを見始めている。
父はそれに気づき、声を抑えた。
「騒ぎを起こすなら、警察を呼ぶ」
「呼んでください。その前に、皆さんの前で聞いていただきたいものがあります」
父の目が蓮司に向いた。
「何をした」
蓮司は職員証を取り出した。
「承認ログの監査用一時再生権限を発行しました」
父の顔色が変わった。
それは初めて見る、明確な動揺だった。
「違法だ」
「いいえ。重大な瑕疵がある案件について、承認者として確認しただけです」
「君は自分の立場がわかっているのか」
「昨日までは、わかっているつもりでした」
蓮司は静かに言った。
「でも、記録だけを信じることが、どれほど危険かを知りました」
広間から美咲が出てきた。
淡いクリーム色のワンピースを着ている。髪は丁寧に結われ、首元には真珠のネックレスが光っていた。花嫁になる前の幸福な娘として、完璧に整えられていた。
だが、澪を見た瞬間、その顔から血の気が引いた。
「また……」
美咲は蓮司を見た。
「蓮司さん、どうしてその人を連れてきたの」
蓮司は答えられなかった。
澪は美咲を見た。
「美咲」
「その名前で呼ばないでください」
「あなたが書いた写真がある」
澪は鞄から写真を取り出した。
幼い澪と美咲。
庭で、泥だらけの手を見せて笑っている。
裏には、美咲の字。
お姉様と、ひみつの庭。
美咲は写真を見た。
最初は、怯えたような顔だった。
次に、眉が寄る。
そして、唇が震えた。
「これ……」
「あなたの字よ」
「違う」
「違わない」
「だって、私に姉はいない」
「そう思わされているだけ」
美咲は写真を受け取らなかった。受け取れば、何かが崩れるとわかっているようだった。
そのとき、母が広間から出てきた。
有栖川響子。
淡い藤色の着物を着ていた。
澪は、その色を見て胸が痛んだ。
藤色。
澪が蓮司との食事用に選んだドレスの色だった。
母は澪を見た。
昨日と同じように、怯えた目。
けれど、その奥に、何かが揺れていた。
「あなた……」
また、その言葉。
澪は母に向き直った。
「お母様」
母の指が震えた。
「そう呼ばないで」
「呼びます」
「お願いだから」
「八歳の冬、私は高熱を出しました」
母の動きが止まった。
澪は手帳を開いた。
「お母様は、一晩中そばにいてくれた。冷たいタオルを何度も替えてくれた。歌も歌ってくれました。でも歌詞をほとんど間違えていた」
母の唇が開いた。
「……やめて」
「最後に、私の名前を呼びました」
「やめて」
「澪、と」
母の目から涙が落ちた。
広間の客たちがざわめく。
父が鋭く言った。
「響子」
母は父を見なかった。
澪だけを見ていた。
その目の中で、何かが戻ってくるのがわかった。
ゆっくりと。
氷が溶けるように。
痛みを伴って。
「あなたは」
母の声が震えた。
「どうして、その歌を」
「私が、聞いていたからです」
母は両手で口元を覆った。
「澪……?」
その瞬間、澪のスマートフォンが震えた。
存在値:23
母が、呼んだ。
母自身の意志で。
澪は涙をこらえた。
「はい」
母は一歩近づいた。
「澪なの」
「はい」
「本当に」
「はい。お母様」
母は泣き崩れそうになったが、父がその腕を掴んだ。
「響子、落ち着け。認識揺らぎだ。処理中の旧存在者に接触すると起きる一時的な混乱だ」
その言葉が、澪の中の何かを断ち切った。
「まだ、そう言うんですね」
父は澪を睨んだ。
「君にはわからない」
「またそれですか」
澪は広間へ歩いた。
客たちが道を開ける。
誰も澪を止めなかった。
見えている。
みんな、澪を見ている。
澪は広間の中央に立った。
ここは、幼い頃にピアノの発表会の練習をした場所だった。美咲が失敗して泣いたとき、澪は隣で何度も同じ曲を弾いた。母が友人たちを招いた茶会では、澪がお茶を運んだ。父の仕事関係者が来るたび、長女として挨拶をした。
なのに今日は、招かれざる者としてここに立っている。
蓮司が広間の端末に職員証を接続した。
父が叫んだ。
「やめろ、久世君!」
蓮司は止めなかった。
音声が流れた。
『有栖川家の存在資産を保全するため、第一関係資産保持者の移行を申請します』
父の声。
広間に、はっきりと響いた。
客たちがざわめく。
父の顔が蒼白になる。
『譲渡元本人への通知は行いましたか』
『通知は家族代表者として受領しています』
『本人の異議申立て可能性は』
『低いと判断します。澪は、家の決定に逆らう子ではありません』
母が息を呑んだ。
美咲が父を見た。
「お父様……?」
音声は続く。
『譲渡先、有栖川美咲様の同意は』
『取得済みです。ただし、本人には詳細説明をしていません。婚約準備上の名義調整と伝えています』
美咲の顔が歪んだ。
「名義調整……?」
彼女は自分の手を見た。
「私、あの書類……式のためだって」
澪は美咲を見た。
怒りはあった。
だが、美咲もまた、父の都合で利用されていた。
完全な加害者ではない。
けれど、完全な被害者でもない。
彼女は澪の席に座り、違和感に目を閉じていたのだから。
次の音声が流れる。
『久世蓮司審査官については、事前認識調整を希望します』
『彼は澪との個人的関係が強い。通常処理では抵抗が出る可能性があります』
『関係者調整には追加費用が発生します』
『構いません』
『調整後、久世審査官は有栖川美咲様との婚約準備を自己認識します。ただし、深層記憶の完全消去は保証できません』
『式まで持てばいい』
音声が終わった。
広間は静まり返っていた。
父の呼吸だけが、荒く聞こえた。
蓮司は職員証を抜いた。
「以上が、承認ログに残っていた音声です」
父が低く言った。
「違法に取得されたものだ」
蓮司は答えた。
「違法に近いでしょう。ですが、内容は真正です」
「君は終わりだ」
「そうかもしれません」
蓮司は静かに言った。
「それでも、彼女を二度消す側には戻りません」
澪は父を見た。
「なぜですか」
広間の全員が父を見ている。
父はしばらく黙っていた。
やがて、声を絞り出すように言った。
「家を守るためだ」
「私を消して?」
「有栖川家は、もう限界だった。資産は目減りし、信用も落ちていた。お前と久世君の婚約だけが、家を立て直す最後の足場だった」
「なら、なぜ私を残さなかったんですか」
父の目が一瞬、美咲に向いた。
「美咲では、駄目だったからだ」
美咲が肩を震わせた。
父は言葉を続けた。
「美咲は弱い。世間を渡れない。お前のように、家のために自分を抑えることもできない。だから、澪の関係資産を美咲に移せば、あの子も守れる。家も守れる。久世君との婚約も維持できる」
澪は聞いていた。
不思議なほど、心が静かだった。
「私は?」
父は答えなかった。
「私は、守る対象ではなかったんですか」
「お前は強い」
「強い人間は、消してもいいんですか」
父の顔が歪んだ。
初めて、そこに父親らしい痛みが見えた。
だが、遅すぎた。
「お前なら、どこかで生きられると思った」
澪は笑った。
涙が出た。
「誰にも見えなくなっても?」
「そこまで進むとは」
「知っていたでしょう。低存在化処理が何か」
父は黙った。
沈黙は、また肯定だった。
母が父の手を振り払った。
「あなた」
その声は、澪が聞いたことのないほど低かった。
「あなたは、澪を捨てたのですか」
「響子、違う。私は家を」
「家とは、誰のことですか」
父は言葉を失った。
母は泣きながら言った。
「家族を消して守る家に、何の意味があるのですか」
その言葉に、広間の空気が変わった。
母が、澪の側に立った。
はっきりと。
澪のスマートフォンが震えた。
存在値:31
美咲が震える手で写真を拾った。
さきほど澪が差し出し、床に落ちていた写真。
幼い二人。
裏の字を見た瞬間、美咲の目から涙が落ちた。
「私の字……」
澪は何も言わなかった。
美咲は写真を胸に押し当てた。
「お姉様」
その声は、かすれていた。
けれど、確かに澪を呼んだ。
お姉様。
スマートフォンが震える。
存在値:46
美咲は泣きながら首を振った。
「ごめんなさい。私、知らなかった。本当に知らなかった。でも、変だとは思ってた。蓮司さんといると、時々、自分の場所じゃない気がした。お母様が私を見る目も、何か違っていて。でも、怖くて、考えないようにしてた」
澪は美咲を見た。
「あなたは、私の人生を受け取った」
「うん」
「知らなかったとしても、その上に座った」
「うん」
「だから、すぐには許せない」
美咲は頷いた。
「うん」
「でも」
澪は写真を見た。
「あなたが私をお姉様と呼んだことは、忘れません」
美咲は声を上げて泣いた。
蓮司が一歩前に出た。
彼は広間の全員に向かって言った。
「私は、久世蓮司です。存在管理庁関係権利審査官として、この案件に関与しました。認識調整を受けていたとはいえ、違和感を無視し、関係資産譲渡を承認した責任があります」
蓮司は澪を見た。
「有栖川澪さんは、私の婚約者でした」
澪の胸が震えた。
でした。
過去形。
けれど、それは正しい。
今の二人は、もう昨日までの婚約者ではない。
蓮司は続けた。
「そして、記録がどう書き換えられても、彼女はここにいます。私は、その証人になります」
スマートフォンが震える。
存在値:62
広間の客たちの間に、ざわめきが広がった。
「澪さん……?」
「有栖川の長女?」
「そういえば、昔、姉妹で……」
「写真で見たことがある気がする」
言葉が、少しずつ澪の輪郭を戻していく。
誰かが思い出す。
誰かが名前を呼ぶ。
誰かが、記憶の中の違和感を掘り起こす。
澪はその中心に立っていた。
消されるためではなく、見られるために。
そのとき、広間の入口から拍手の音がした。
一人分の、乾いた拍手。
津島だった。
灰色のスーツ。銀縁の眼鏡。昼間と同じ、整いすぎた顔。
「感動的ですね」
父が顔を上げた。
「津島さん」
津島は父を見なかった。
澪と蓮司を見ていた。
「監査ログの不正使用、低存在化対象者の処理妨害、関係固定儀式の攪乱。かなり重いですよ、久世審査官」
蓮司は職員証を握った。
「この案件は無効です」
「誰が判断するのですか」
「上位監査に提出します」
「その前に、再計算が行われます」
津島は腕時計を見た。
「臨時再計算を申請しました。低存在化対象者が大規模な認識攪乱を起こした場合、緊急処理が可能です」
澪のスマートフォンが震えた。
緊急再計算を開始します。
澪の血の気が引いた。
「そんな」
津島は穏やかに言った。
「存在とは、社会的合意です。有栖川澪様。あなたがいくら叫んでも、制度上の合意があなたを旧存在者と定めれば、それが現実です」
画面の数字が揺れる。
62。
58。
51。
母が澪の手を握った。
「澪」
数字の低下が少し鈍る。
美咲も手を伸ばした。
「お姉様」
蓮司が言った。
「有栖川澪さん」
客たちがざわめきながら、澪の名前を口にする。
有栖川澪。
澪さん。
有栖川の長女。
数字は揺れ続けた。
49。
45。
43。
津島は表情を変えない。
「臨時再計算は、現場の感情的認識より、公式記録を優先します。関係資産譲渡契約は有効。家族関係解除も有効。婚約関係譲渡も有効。したがって」
数字が落ちる。
31。
25。
19。
澪の視界が淡くなった。
広間の輪郭がぼやける。
母の手の感触が遠くなる。
「澪!」
母の声が聞こえる。
だが、遠い。
美咲の泣き声も、蓮司の叫びも、厚いガラスの向こうのようだった。
13。
8。
ひなの声が頭に蘇った。
寝たら駄目です。
自分でも自分を忘れそうになることがあります。
澪は手帳を開こうとした。
指が動かない。
文字が読めない。
自分の名前が、遠い。
有栖川。
澪。
それは誰だったか。
誰かが呼んでいる。
母。
妹。
蓮司。
でも、その人たちは誰だったか。
5。
3。
津島の声が聞こえる。
「まもなく保全処理に移行します」
澪は自分の胸に手を当てた。
鼓動がある。
薄くても、ある。
自分を忘れそうになる。
その瞬間、澪は鞄の中の写真に触れた。
幼い美咲と写った写真。
裏に書かれた文字。
お姉様と、ひみつの庭。
お姉様。
誰かの姉。
娘。
婚約者。
旧存在者。
違う。
それらは全部、関係の名前だ。
それが奪われても、私は。
澪は唇を動かした。
「私は……」
声が出ない。
1。
画面に、数字が表示された。
現在の存在値:1
広間のすべてが、白く霞んだ。
母の手がすり抜けるように感じた。
美咲の顔がわからない。
蓮司の声が遠い。
父も、津島も、客たちも、世界も。
消える。
そう思った。
そのとき、広間の外から声がした。
「有栖川澪!」
鋭い声。
ひなだった。
広間の入口に、水沢ひなが立っていた。
息を切らし、制服のリボンを乱し、手には分厚いノートを抱えている。
その後ろには、すみれがいた。
さらに、余白にいた低存在者たちがいた。
老人。中年の女性。若い男性。車椅子の少年。名前を書いてくれた人たち。
ひなはノートを掲げた。
「ここに、あなたの名前があります!」
すみれも言った。
「有栖川澪さん」
マスターが低い声で続けた。
「有栖川澪さん」
低存在者たちが、一斉に名前を呼ぶ。
有栖川澪。
有栖川澪。
有栖川澪。
それは、公式記録ではなかった。
戸籍でも、契約書でも、庁の承認ログでもなかった。
ただ、人が人を見ようとして呼ぶ声だった。
澪の視界に、色が戻った。
1。
画面の数字が震える。
2。
4。
7。
津島の顔が初めて歪んだ。
「部外者を入れるな!」
ひなが叫んだ。
「部外者じゃありません! 認識者です!」
すみれが一歩前に出る。
「津島怜司。あなたは昔から、同じ間違いをしている」
「白石すみれ。あなたは処理済みのはずです」
「ええ。処理済みよ」
すみれは微笑んだ。
「でも、まだいる」
彼女は澪を見た。
「有栖川澪さん。自分の名前を言いなさい」
澪は息を吸った。
まだ身体は薄い。
声も頼りない。
けれど、言わなければならない。
誰かに呼ばれるだけでは足りない。
最後に、自分で自分を呼ばなければならない。
澪は、広間の中央で声を絞り出した。
「私は、有栖川澪です」
数字が跳ねた。
13。
「有栖川宗一郎と、有栖川響子の娘です」
21。
「有栖川美咲の姉です」
34。
「久世蓮司の婚約者だった人間です」
41。
「でも、それだけではありません」
澪は顔を上げた。
「私は、誰かの資産ではありません。家の担保でも、婚約の権利でも、写真に写る資格でもありません。私の記憶は、譲渡できません。私の名前は、保全処理できません。私の人生は、誰かが署名して移せるものではありません」
広間は静まり返っていた。
澪は津島を見た。
「制度が私を旧存在者と呼んでも、私は過去の人間ではありません」
母が言った。
「澪」
美咲が言った。
「お姉様」
蓮司が言った。
「有栖川澪さん」
ひなが言った。
「有栖川澪!」
すみれが言った。
「有栖川澪さん」
名前が重なる。
声が、澪をこの場に縫い止める。
画面の数字が上がっていく。
52。
67。
79。
そして、表示が変わった。
緊急再計算に異議認識多数。
関係資産譲渡処理を一時凍結。
家族関係解除を再審査へ移行。
婚約関係譲渡を無効審査へ移行。
独立存在権を暫定回復。
現在の存在値:84
澪は膝から崩れ落ちそうになった。
母が支えた。
今度は、すり抜けなかった。
確かな手だった。
温かかった。
母は澪を抱きしめた。
「ごめんなさい」
母は泣きながら言った。
「忘れてごめんなさい。気づけなくて、ごめんなさい」
澪は母の肩に顔を埋めた。
香水の匂い。
冷たい指。
下手な子守歌。
戻ってきた。
全部ではない。
失われたものもある。
けれど、戻ってきた。
美咲が近づいた。
泣き腫らした顔で、写真を握っている。
「お姉様」
澪は母から離れ、美咲を見た。
美咲は言った。
「私、あなたの人生はいらない」
その言葉に、澪の胸が詰まった。
「遅いわ」
「うん」
「でも、言わないよりはいい」
美咲は泣きながら頷いた。
「返したい。全部。返せるものは、全部」
澪は写真に目を落とした。
「全部は返らない」
「うん」
「それでも、返して」
「うん」
父は、広間の隅に立ち尽くしていた。
先ほどまでの威厳は消えていた。
有栖川家を守るためと言い続けた男は、家族全員の視線から逃げられずにいた。
澪は父に歩み寄った。
父は何かを言おうとした。
だが、言葉が出ない。
澪は静かに言った。
「お父様」
父の顔が歪んだ。
「私は、あなたを今すぐ許すことはできません」
「澪」
「でも、あなたが私の父であることは、消しません」
父の目が濡れた。
澪は続けた。
「消される痛みを知ったから、私はあなたを私の人生から手続きで消したりしません。責任は取ってもらいます。制度上も、家族としても。でも、最初からいなかったことにはしません」
父はゆっくりと膝をついた。
客たちが息を呑む。
有栖川宗一郎が、人前で膝をつく姿を、澪は初めて見た。
「すまなかった」
父は言った。
それは、あまりに小さい声だった。
澪は答えなかった。
謝罪は、受け取るだけで許しになるわけではない。
津島は踵を返そうとしていた。
だが、蓮司がその前に立った。
「津島さん」
「どきなさい。久世審査官。あなたは停職では済まない」
「でしょうね」
蓮司は静かに言った。
「ですが、あなたもです。監査ログはすでに外部監査局へ送信しました」
津島の顔が固まった。
「不可能です。外部保存は」
「保存ではありません。監査通知です。あなたが私に教えてくれた抜け道ですよ。重大な制度攪乱が発生した場合、審査官は外部監査局へ緊急報告できる」
「君に、その度胸があるとは思わなかった」
「私もです」
蓮司は言った。
「でも、彼女が自分の名前を信じたので」
津島は澪を見た。
その目には、憎しみではなく、理解できないものへの苛立ちがあった。
「制度は、また整いますよ」
津島は言った。
「一人が戻ったところで、何も変わらない」
すみれが答えた。
「一人が戻らなければ、何も始まらないわ」
津島は何も言わなかった。
その後、駆けつけた外部監査局の職員によって、披露会は中止された。
有栖川家の関係資産譲渡処理は凍結。
美咲への婚約関係固定も停止。
父の申請内容と津島の関与は、正式な調査に回された。
蓮司はその場で職員証を預けた。
彼が今後どうなるのか、澪にはわからなかった。
ただ、蓮司は最後に澪の前に立ち、深く頭を下げた。
「有栖川澪さん」
「はい」
「あなたの証人になります。あなたが望むなら、婚約者としてではなくても」
澪は彼を見た。
愛していた。
その事実は、消えない。
裏切られた。
その事実も、消えない。
救われた。
それもまた、消えない。
「まずは、証人でいてください」
澪は言った。
「それ以上のことは、今は約束できません」
蓮司は頷いた。
「はい」
美咲は婚約指輪を外した。
それは、もともと澪のものだった指輪とよく似ていた。
だが、澪はそれを受け取らなかった。
「それは、私の指輪じゃない」
「でも」
「私のものだった関係を、形だけ戻されても困る」
美咲は俯いた。
澪は少しだけ声を和らげた。
「返すなら、記憶を返して。あなたが思い出したことを、ひとつずつ話して」
美咲は顔を上げた。
「うん」
母は澪の手を離さなかった。
父は、外部監査局の職員に事情を聞かれている。
その背中は、昨日までよりずっと小さく見えた。
すみれとひなは、広間の隅にいた。
ひなは澪を見ると、親指を立てた。
「存在値八十四。大勝利ですね」
「ありがとう」
「お礼は、名前で」
澪は笑った。
「水沢ひなさん。ありがとう」
ひなは一瞬、照れたように顔を背けた。
「どういたしまして。有栖川澪さん」
すみれは白い帽子をかぶり直した。
「よく、自分の名前を言えたわね」
「すみれさんのおかげです」
「違うわ」
すみれは首を振った。
「あなたが、あなたを忘れなかったからよ」
澪はすみれを見た。
「すみれさんの存在も、戻せますか」
すみれは少し驚いた顔をした。
それから、静かに笑った。
「簡単ではないわ」
「簡単じゃなくても」
「あなた、忙しくなるわよ。自分の審査も、家族のことも、久世さんのことも」
「はい」
「それでも?」
「忘れられることより怖いのは、忘れられた自分を、自分まで信じなくなることだと教えてくれたのは、すみれさんです」
すみれはしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「なら、今度は私の名前も、書いてもらおうかしら」
「もちろんです」
澪は手帳を開いた。
そこに、強く書く。
白石すみれ。
そして、その横に。
川辺菫。
すみれの目が、わずかに潤んだ。
数日後。
有栖川澪の独立存在権は、正式に暫定回復された。
存在値は百には戻らなかった。
写真のいくつかは、欠けたままだった。スマートフォンの記録も完全には戻らない。蓮司との婚約記録は、審査中のまま凍結された。美咲の中の記憶も、戻ったものと戻らないものがあった。
母は、澪の部屋を元に戻そうとした。
しかし澪は、それを断った。
「同じ部屋には戻れません」
そう言うと、母は泣きそうな顔をした。
澪は母の手を握った。
「でも、ここに来ます。何度も。忘れないために」
父は、澪と目を合わせるたびに何かを言おうとした。
澪は、そのたびに待った。
父が言葉を探す時間を。
言い訳ではなく、本当の言葉を探す時間を。
有栖川家は、もう元には戻らない。
けれど、元に戻ることだけが救いではない。
壊れたものを、壊れたと認めた上で、どう置き直すか。
澪はそれを考えるようになった。
蓮司は停職処分を受けた。
その後、存在管理庁内部の不正調査に協力することになった。彼からは、何通も手紙が届いた。メールではなく、紙の手紙だった。
澪はすぐには返事を書かなかった。
けれど、捨てもしなかった。
机の引き出しに、一通ずつしまった。
ひなは「余白」に通い続けていた。
彼女の存在値は、少しずつ上がっている。まだ不安定だが、学校の出席簿に名前を戻す手続きが始まったらしい。
すみれの存在値は、二から三になった。
たった一。
けれど、すみれは笑って言った。
「一は大きいわよ。あなたなら知っているでしょう」
澪は頷いた。
知っている。
存在値一の世界を。
消える寸前の白さを。
その中で、自分の名前を呼ぶことの重さを。
澪は、毎朝ノートを開く。
最初の頁には、自分の名前を書く。
有栖川澪。
その下に、その日忘れたくない人の名前を書く。
有栖川響子。
有栖川美咲。
白石すみれ。
川辺菫。
水沢ひな。
久世蓮司。
そして、ときどき、有栖川宗一郎。
名前を書くことは、許すことではない。
忘れないと決めることだ。
消されてもいい人間などいないと、毎日、自分に教え直すことだ。
冬の終わり、澪は「余白」の窓際に座っていた。
外では、少しだけ暖かい風が吹いている。
ひなが向かいの席で宿題をしている。すみれはカウンターでマスターと話している。蓮司から届いた封筒が、澪の鞄の中に入っている。まだ開けていない。
澪はノートを開いた。
今日の名前を書く。
有栖川澪。
その文字は、もう震えていなかった。
ひなが顔を上げた。
「澪さん」
「何?」
「呼んだだけです」
澪は笑った。
「返事しただけです」
窓の外を、人々が通り過ぎていく。
誰もが誰かに呼ばれ、誰かを忘れ、誰かを思い出しながら生きている。
存在は、最初から確かなものではないのかもしれない。
名前も、家族も、愛も、記憶も。
どれも、放っておけば薄れていく。
だから人は、呼ぶのだ。
書くのだ。
忘れないように。
忘れられないように。
澪はノートを閉じた。
そして、小さく呟いた。
「私は、ここにいる」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
けれど、窓際の光の中で、確かに響いた。
了




