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目が覚めたら、婚約者も家族も私の存在を忘れていた

存在税

1


 朝、渡瀬慎一は、目覚ましより早く目を覚ました。

 いつもなら隣の枕に寝癖のついた髪が見える。今日は見えない。

 寝室は、少し広く感じた。布団の温度が片側だけ冷たい。


 台所に行くと、マグカップが一つ、きれいに逆さだった。二つで並んでいたはずだ。

 冷蔵庫の側面に貼ってある家計シートも、名前の欄が一人分になっていた。

 昨夜、こんな作業をした覚えはない。書式は同じだが、字が少し丁寧だ。自分の字に似ている。


 スマートフォンには通知がいくつかあった。

「ご請求のお知らせ」

「存在税 中間見直しのご案内」

「ポイント口座の残高がしきい値を下回りました」

 どれも機械的で、役に立たない文章だった。


 慎一は、部屋の空気をかき混ぜるように息を吐いた。

 リビングの壁のフックには、ペアの鍵が一本だけ下がっていた。減った理由は、まだ考えないことにした。


 出勤の支度をしながら、彼は鏡を見た。

「おはよう」

 口に出してみると、いつもより少し落ち着いた声が返ってきた。返事はもちろん、ない。

 顔は普通だ。寝不足の目の下、薄いひげ、伸びかけの前髪。

 何かが変だ。けれど、どこが、とは言えなかった。


2


 通勤電車は混んでいた。

 吊り広告に「存在税、いまこそ見直し」の文字があった。

 その下の小さな文字には、「個人の“存在コスト”の適正化が社会の持続性を守ります」とあった。

 見慣れた文句だった。

 存在税は、この国の新しい制度だ。

 昔は所得に税金がかかった。いまは、いること自体に税金がかかる。空気より軽やかに、財布より重い。


 会社のフロアに着くと、受付の女性が微笑んだ。

「おはようございます。ご来訪ですか?」

 来訪。

「渡瀬です」

「どちらの渡瀬様でしょう」

 話が噛み合わなかった。

 社員証を見せると、機械の方は正直で、ドアは開いた。

 しかし、総務の席の男は首をかしげた。

「新しい派遣の方?」

 自分の席に行くと、机の上に知らない名前が置かれていた。

 新しい名札。

 そこは昨日まで自分の席だった。

 同僚は皆、忙しそうで、こちらを見ない。見ても、気づかない。


「ちょっと」

 彼は隣の席の男に話しかけた。

 男は顔を上げ、笑った。

「新しい方? 人手が足りないから助かります」

「渡瀬だよ。慎一。ここで五年」

「そうですか。どちらの会社から?」

 冗談だろう、と彼は思った。だが、笑うタイミングはどこにもなかった。


 昼前に、部長がやってきた。

 部長は、丁寧に、しかし他人行儀に言った。

「面談は午後で大丈夫ですか」

「面談?」

「入社手続きです」

 部長は自分の部長だ。昨日まで、何度も怒鳴られ、何度も褒められた。

 どう説明したらいいかを考えて、説明の言葉が見つからないまま、昼になった。


3


 昼休み、彼は会社の外に出た。

 ビルの前の喫煙所で、煙草のにおいが、風に乗って薄く流れた。

 スマートフォンの連絡先を開く。

 「母」「父」「涼」

 妹の名前もある。

 通話の記録は、昨日の夜で止まっている。

 彼は「母」を押した。

 コールの音が、遠いところで弾んだ。

「はい」

 母の声だった。

「母さん、俺だよ。慎一」

 短い沈黙のあと、声は少し固くなった。

「どちらにおかけですか」

 彼は、呼吸の仕方を忘れた。

「慎一。息子の」

「申し訳ありません。うちは、息子はおりません」

 通話は切れた。

 もう一度かけた。今度はつながらなかった。


 父の番号も、妹の番号も、同じだった。

 友人の一人にかけてみた。

 大学時代の友だ。

「どちら様でしょう」

 相手は、明るい声で言った。

 彼は切った。


 スマートフォンに、通知が新しく来た。

「存在税 しきい値下回りのお知らせ(再)」

「しきい値を一定時間下回ると、周囲の“認知コスト”削減のため、関係性の一部が一時停止されます」

 文章は丁寧だが、言っていることは簡単だった。

 しきい値を下回ると、忘れられる。


 彼は、ベンチに腰を下ろした。

 存在税の仕組みは、知識としては知っていた。

 人は生きるだけで、誰かの時間を使い、社会の資源を使っている。

 それらのコストを、ポイントで見える化した。

 ポイントが足りない人は、少しだけ軽くなる。

 記憶の重さが、薄くなる。

 家族や友人は、その人の部分をほんの少し忘れる。

 本人も、ほんの少し、自分を忘れる。

 そうして、全体の負担は軽くなる。

 そういう理屈だ。


 しかし、理屈はいつも、誰かの現実に乗る。今日は、それが彼だった。

 昨日と今日の差は、紙一枚より薄い。だが、向こう側に渡る橋は、見当たらない。


4


 午後の面談は、予定通り行われた。

 部長は、彼の履歴書に目を通しながら、落ち着いた声で言った。

「すみませんが、既存社員の記録には、渡瀬さんのお名前がありません」

「昨日までここで働いていました」

「社員証は?」

 彼はカードを見せた。

 カードは、十秒ほど光り、ディスプレイに短い文字列を出した。

「照合不可」

 部長は肩をすくめた。

「最近、システムの切り替えで、こういうことがたまに起こります。もしよろしければ、いったん派遣という扱いで、契約を——」

「派遣じゃありません」

「では、どういうご関係で」

 部長は丁寧だ。事務的だ。

 彼は、椅子の背もたれに少しもたれた。

「存在税の、あれのせいかもしれません」

 部長は少し目を細めた。

「なるほど。……相談窓口をご案内できます。人事ではなく、市の窓口になりますが」

「お願いします」


 窓口は「市民調整センター」といった。

 番号札を取り、椅子に座った。

 掲示板には笑顔のイラストが貼ってある。

「存在の重さを、みんなでバランス」

 軽い言葉だった。

 自分の体は、軽くない。椅子は硬い。


 番号を呼ばれ、彼はカウンターに行った。

 対応したのは、若い職員だった。名前の札には「藤野」とある。

「どうされましたか」

「忘れられました」

 職員は、頷いた。

「しきい値、でしょうか」

「たぶん。家族も、職場も」

「ご本人の自己認識は?」

「私は、私です」

「失礼しました。自己認識のスコアが著しく低下するケースもあります」

 職員は端末を操作した。

「お名前、生年月日、現在の住所。過去一年のご利用サービス。存在口座の番号」

 彼は答え、カードを差し出した。

 職員は画面を見て、眉をわずかに動かした。

「渡瀬慎一さん。現在、存在ポイントはゼロに近いです。昨月末に“低存在化プラン”の変更申請が通っています」

「そんなものは申し込みません」

「オンライン承認になっています。生体認証での承認履歴があります」

 彼は記憶を探した。

 探し当てたのは、夜の画面の光だけだ。疲れていた。何かの案内に、チェックを入れた気がする。

 いくつかの同意。いくつかの注意事項。

 大半は、読んでも頭に入らない。いや、読んでいない。


「低存在化プランは、存在税の算定基準を軽くする代わりに、社会的認知の一部を可逆的に薄くするものです」

「可逆的?」

「ポイントを回復すれば、関係性も回復します」

「どうやって回復する」

「貢献です」

 職員は笑った。少し、機械的だが、嫌な笑顔ではない。

「仕事、納税、奉仕、寄付、発見、芸術、介護、その他。認められる形で社会に貢献すれば、ポイントは戻ります」

「仕事は、職場が私を知らない」

「そこが難しいところです。まずは“匿名貢献”の枠がありますので——」

 職員はパンフレットを差し出した。

 紙は薄く、文字は多かった。読みやすいように配慮されている。

 だが、読む意欲は、いまの彼の所持品にはない。


5


 その夜、部屋は静かだった。

 彼は家計シートをじっと見た。

 名前の欄は一人分だ。

 冷蔵庫の中は、いつもの半分しか物がない。

 食事は簡単にすませた。味が薄く感じた。

 テレビをつけると、ニュースが存在税の新しい施策を報じていた。

「軽い存在で、軽やかな未来を」

 アナウンサーの口元は笑っている。

 見ているうちに、話題は別の芸能ニュースに変わった。

 有名なタレントが、ポイント寄付を呼びかけていた。

 高い声が、やわらかい言葉を並べた。

 自分とは、別の国の音のように聞こえた。


 テーブルの上に、結婚情報誌が一冊残っていた。

 表紙のカップルは、笑っていた。

 彼は、そっと閉じた。

 指先に、印刷のインクのざらっとした感触が残った。

 思い出そうとした。あの顔。横顔。朝の寝癖。

 ふわり、と輪郭だけが浮かんで、すぐに霧になった。


 翌朝、彼は市民調整センターのパンフレットを読み始めた。

 匿名貢献の項目は、思ったよりも細かい。

 公園の掃除、図書館の本の修理、道路の報告、迷子猫の保護、河川のゴミ拾い、危険箇所の写真通報。

 社会は、貢献の入口を、驚くほど多く用意している。

 どれも小さく、地味だ。

 だが、小ささは、彼の今のサイズに合っていた。


 彼は、軍手を買い、ゴミ袋を買った。

 最寄りの公園で、落ち葉と缶を拾った。

 小さな子どもが、砂場でトンネルを掘っていた。

 母親が見ていた。

 彼に気づかない。

 気づいたとしても、忘れるのだろう。すぐに。

 それでも、構わなかった。

 袋は重くなった。

 家に帰り、アプリを開くと、ポイントが、わずかに増えていた。

 数字は小さいが、ゼロではない。

 ゼロではない数字は、思ったよりも大きかった。


6


 彼は、働いた。

 昼は匿名の仕事を探し、夜は道を歩いた。

 危険な段差を写真に撮り、報告した。

 放置自転車を移動させ、連絡した。

 図書館の破れたページをテープで直した。

 夕方、公園のベンチで、猫に餌をやらないようにのポスターを張り替えた。

 風が強かった。ポスターは少し歪んだ。

 それでも、よかった。

 アプリの数は、少しずつ増える。

 認知は戻らない。

 戻らないが、数字は意味を持つ。

 意味があると、人は動ける。


 一週間もすると、彼は、他の顔を知るようになった。

 同じ時間に同じ川沿いでゴミを拾う男。

 いつも黙って本を直している老人。

 横断歩道の塗装の薄い箇所に、毎日通報を入れている人。

 皆、話しかければ笑う。

 笑うが、次の日には忘れる。

 それでも、彼らは、同じ時間に、同じ場所にいた。

 忘れ合いながら、同じ目的に手を動かす。

 それは、会話より少し深い会話だった。


 ある日、彼は川べりで、白い帽子の女を見た。

 女は、ゴミ袋を持っていなかった。両手は空だ。

 何もせずに、水面を眺めていた。

 風で帽子が飛びそうになり、女は押さえた。

 その動きは、少しぎこちなかった。

 彼は近づき、つい口を出した。

「ここは風が強い。帽子のひもをつけるといい」

 女は、ゆっくりこちらを見た。

 目は、柔らかい。

「ありがとうございます」

 声は小さい。

 名前を聞かなかった。

 人は、すぐに忘れる。

 それでも、その女は、次の日も同じ場所にいた。

 三日目もいた。

 四日目は、いなかった。

 五日目に、またいた。

 帽子に、ひもがついていた。

 それを、彼は、なぜか嬉しいと思った。


7


 ポイントは、月末までに、しきい値の半分まで戻った。

 彼は、センターに行った。

 同じ職員が、同じ笑顔で迎えた。

「順調ですね」

「半分です」

「半分までくれば、家族の長期記憶の補助が再開されます。少しずつ、影が戻るでしょう」

「影?」

「関係性は、最初は影のように戻ります。輪郭ができ、音がつき、匂いがつき、最後に体温が戻る」

 職員は、説明を手慣れた手で紙に書いた。

「ただし、重要なお知らせがあります」

「何だ」

「制度改定が、来月から入ります」

 彼は、紙から顔を上げた。

「改定」

「“低存在化プラン”の新規受付停止。既存利用者の段階的終了。しきい値の再設定。——要するに、重くなります」

「重く」

「でも、悪いことばかりではありません。終了時には、“復位”のボーナスがつきます」

「復位」

「本来の関係性が戻るとき、周囲に“思い出しバースト”が起きます」

 聞いたことのない言葉だった。

「思い出し、バースト」

「一気に思い出すのです。忘れていたことを。よいことも、悪いことも」

 彼は、紙の上のペン先を見た。

 ペン先は黒い点を作った。

 黒い点は、遠くから見れば絵になる。

 近くから見れば、ただの点だ。


「もうひとつ」

 職員は声を少し下げた。

「渡瀬さんの“低存在化”は、もう一つの承認と連動しています」

「もう一つ」

「婚約者の方の承認です」

 彼は口を閉じた。

 声は出なかった。

 職員は画面を見たまま、丁寧に続けた。

「お相手は、先に“関係解消オプション”をお使いになりました。こちらも可逆です。ですが、相互に薄くなっている場合、戻すには、双方のポイントがしきい値を超える必要があります」

 彼は、椅子の座面を見た。

 布の目は、真面目だ。

 どの糸も、同じ方向に、同じ力で進んでいる。

「わかりました」

「協力が必要です。もし連絡がつくなら」

「つきません」

「では、こちらから手紙を出すことはできます。制度に基づいて」

「お願いします」


8


 手紙は出た。

 返事は来なかった。

 代わりに、ポストにはいくつも別の封筒が届いた。

 存在税の催促。

 “低存在化”の終了予告。

 匿名貢献のポイント報告。

 市からの、河川清掃ボランティアへの感謝状。

 紙は、どれも、薄く、真面目で、重かった。


 夜、公園で、白い帽子の女をまた見た。

 彼は、ためらい、そして隣に座った。

 女は、こちらを見た。

「今日は、風が弱い」

「ええ」

「帽子のひもは、もう要らないかもしれない」

「つけたままにします」

「どうして」

 女は、少し考え、短く言った。

「忘れるから」

 彼は、息を止めた。

 女は続けた。

「私は、忘れられていると思います。あなたも」

「なぜ、そう思う」

「誰も、私を覚えていません。あなたも、覚えないかもしれない」

 彼は、頷いた。

「明日、またここに来る?」

「来ます」

「何時?」

「六時」

「わかった」

 次の日、彼は六時に行った。

 女はいなかった。

 七時に来た。女はいなかった。

 八時に来た。女はいなかった。

 翌日、六時に行くと、女はいた。

「昨日はすみません」

「大丈夫」

 それだけの会話で、彼は少し楽になった。


 女は、名乗らなかった。

 彼も、名乗らなかった。

 名は、すべる。

 名より先に、風が、帽子が、川の色が、共有された。

 これでも、足りた。


9


 月末が来た。

 制度改定の前日だ。

 ポイントは、ぎりぎりのところまで戻った。

 アプリの数字は、青い線をまたぎ、かすかに震えた。

 彼は、スマートフォンを強く握った。

 通知が来た。

「復位条件達成。明日以降、段階的に関係性が回復します」

 短い文だった。いい文だ。

 彼は、ベッドに倒れ込んだ。

 夜は、静かだった。

 夢は見なかった。


 翌朝、目覚ましより早く目が覚めた。

 寝室は、少し狭かった。

 布団の温度が、片側だけ温かかった。

 彼は、ゆっくり起き上がった。

 隣を見た。

 枕が、二つあった。

 片方のへこみが、新しい。

 彼は、台所に行った。

 マグカップが、二つ、逆さだった。

 冷蔵庫の側面の家計シートの名前は、二人分になっていた。

 字は、彼の字だ。

 もう一つの字は、少し丸い。

 彼は、呼吸を整えた。

 スマートフォンを見た。

 通知は、静かだった。


 そのとき、インターホンが鳴った。

 彼は、ドアに向かった。

 モニターには、市民調整センターの職員が映っていた。

 名前は、藤野。

 笑顔は、昨日と同じだった。

「おはようございます。制度改定に伴う、ご説明に伺いました」

「今、いいですか」

「はい。五分ほどで終わります」


 テーブルにつくと、職員は紙を三枚出した。

「まず、“低存在化”の終了について。次に、復位ボーナス。最後に、新制度の“均衡化オプション”です」

「均衡化」

「復位の際に生じる“思い出しバースト”を、周囲に負担のないように均す仕組みです」

 職員は、簡単な図を描いた。

 忘れていたことを一気に思い出すと、人は驚く。

 驚きは、争いを呼ぶ。

 その前に、少しずつ、薄い層から戻す。

「副作用は」

「忘れていた期間の行いも、思い出します」

「行い」

「たとえば、婚約者の方が“関係解消”をされたこと。渡瀬さんが夜中に同意したこと。——すべて」

「それは、困る」

「困りますか」

「少し」

 職員は、頷いた。

「最後の“均衡化オプション”は、負担を分け合う仕組みです」

「誰と分け合う」

「社会全体です。少しずつ薄く、広く」

 彼は、紙を見た。

 紙の白は、明るい。

 白は、軽い。

 軽さは、時に、重い。


10


 その日の午後、彼のスマートフォンに、一通のメールが入った。

 差出人は、見覚えのある名前だった。

 短い文だった。

「ごめん。もう大丈夫」

 それだけ。

 彼は、返事を打たなかった。

 文を何度か、読み返した。

 “もう”は、何にかかるのか。

 “ごめん”は、誰のどの部分に向けられているのか。

 彼は、読み解くのをやめた。

 読み解いても、結果は変わらない。

 変わらないものは、読まなくても、変わらない。


 夕方、公園に行った。

 白い帽子の女は、いた。

 彼は、隣に座った。

 女は、帽子のひもを触った。

「今日は、風がある」

「ええ」

「明日は、もっとあるかもしれない」

「そうですね」

 会話は、いつも短い。

 それで、十分だった。


 帰り道、彼はスーパーでリンゴを買った。

 家に帰ると、テーブルの上に、メモが一枚あった。

「リンゴは皮ごと派」

 字は、丸い。

 見覚えのある筆圧だった。

 彼は、リンゴを洗い、皮ごと切った。

 味は、少しすっぱかった。

 悪くない。


11


 復位は、順調に進んだ。

 職場では、総務の男が「ああ、渡瀬くん」と言った。

 部長も「遅かったじゃないか」と笑った。

 彼は笑い、席についた。

 机の上の名札は、元に戻っていた。

 作業は山のように残っていた。

 山から最初の一握りを取り、片づけた。

 山は、少し減った。

 そのくらいで、いい。


 家では、マグカップが二つ、乾いていた。

 洗い物の順番について、短い話し合いをした。

 部屋の植物に水をやるタイミングについて、もう少し長い話し合いをした。

 結論は出ない。

 結論の出ない話は、結論のある話より、続く。

 続く話は、家を温める。


 夜、彼は、センターからのメールを読んだ。

「均衡化オプションの最終案内」

 クリックすると、詳しい説明が現れた。

 “思い出しバースト”は、小さな揺れで済んだ。

 代わりに、社会全体が、ほんのわずか、何かを忘れる。

 道の角の古い看板の位置。

 駅の柱の傷の形。

 コンビニの棚の並び。

 誰も痛まない程度に、世界は少しだけ軽くなる。

 誰も気づかない程度に、何かが抜ける。


 メールの最後に、小さな注意事項があった。

「なお、均衡化の対象には、制度運用の一部も含まれる場合がございます」

 彼は、注意事項を、注意深く読まなかった。

 注意事項は、注意されないためにあることがある。

 それが何かは、明日、わかる。


12


 翌朝、センターから封筒が届いた。

 分厚い紙に、丁寧な印刷。

 「復位完了のお知らせ」

 短いお祝いの言葉。

 最後に、署名。

 署名は、藤野ではなかった。

 知らない名前だ。

 彼は電話をした。

 センターの代表番号。

 自動音声が流れ、番号を押し、担当につながるのを待った。

「はい、市民調整センターです」

 若い声だ。

「藤野さん、お願いします」

「藤野?」

 短い沈黙。

「申し訳ありません。当センターに、そのような職員はおりません」

「昨日まで、担当でした」

「名簿を確認します。……該当者はおりません」

 彼は黙った。

 電話の向こうの空気は、澄んでいた。

 澄んだ空気は、時に、何も映さない。


 電話を切って、彼は公園に行った。

 白い帽子の女は、いなかった。

 風は弱かった。

 川は、いつも通り、流れた。

 彼は、ベンチに座った。

 帽子のひもは、目に見えないが、あるような気がした。

 誰かが、どこかで、少しだけ忘れられた。

 代わりに、自分は、少しだけ、戻った。

 世界は、そうやって、釣り合う。


13


 週末、彼は、部屋の片づけをした。

 古い雑誌を捨て、書類を束ね、棚を拭いた。

 引き出しの奥から、小さな紙片が出てきた。

 薄い付箋だ。

 字は、丸い。

「忘れ物リスト」

 箇条書きが三つ。

 一、鍵

 二、財布

 三、わたし

 彼は、紙を見て、しばらく動けなかった。

 紙は、軽い。

 軽いものは、遠くまで飛ぶ。

 風があれば、なおさらだ。


 夜、その紙をテーブルの上に置いた。

 隣の椅子に、誰かが座った気配がした。

 実際には、誰も座っていない。

 それでも、気配はあった。

 彼は、リンゴを二つ、皿にのせた。

 皮ごと。

 ひとつは、自分の前へ。

 ひとつは、空の椅子の前へ。


 メールが来た。

 差出人は、見覚えのある名前。

「忘れ物、取りに行くね」

 短い文だった。

 彼は、返事を打った。

「玄関、開けておく」

 送信のボタンは、軽かった。

 軽いものは、遠くへ飛ぶ。

 届くかどうかは、風次第だ。


14


 月曜日、彼は会社に行った。

 エレベーターで、総務の男と一緒になった。

「週末はどうだった」

「まあまあ」

 エレベーターの鏡に、二人分の顔が映った。

 一人分より、少しにぎやかだ。

 フロアに着くと、部長が呼んだ。

「渡瀬、これ、急ぎ」

 机の上に、書類が三センチ積まれた。

 彼は、上から順に片づけた。

 仕事は、存在の反復だ。

 反復は、存在を重くする。

 重さは、税になる。

 税は、軽くしすぎない方がいい。


 昼休み、彼は市民調整センターに電話をした。

 藤野のことが、気になった。

 やはり名簿にないという。

 均衡化の対象に、制度運用の一部が含まれる——注意事項を、彼は思い出した。

 誰も痛まないように、ほんのわずか、誰かが薄くなる。

 場合によっては、制度の縁にいる人が、縁取りの分だけ薄くなる。

 藤野は、縁の人だったのかもしれない。

 彼は、受話器を置いた。

 机の上の書類は、まだ二センチあった。

 午後は、長い。

 長い午後は、短い夜につながる。


15


 夜、公園に行った。

 白い帽子の女は、いた。

 彼は、隣に座った。

 女は、帽子のひもを指で触った。

「今日の風は、どうですか」

「弱い」

「明日は」

「少し強い」

 短い会話は、短い音楽のようだった。

 音楽が終わると、川の音が戻る。

 彼は、女に言った。

「名前を聞いてもいい」

 女は、少し考えた。

「もう少し、風が強くなってから」

「どうして」

「名前は、よく、飛ぶから」

 彼は、頷いた。

 名前は、たしかに、よく飛ぶ。

 飛んで、どこかに、引っかかる。

 引っかかった先では、別の人が、それを使う。

 それで、困るときもある。


 家に帰ると、テーブルの上に、リンゴの芯が二つあった。

 どちらの皿にも、皮が少し残っていた。

 彼は、ゴミ箱に捨てた。

 ゴミ袋は軽かった。

 軽さは、少し、寂しかった。


16


 季節が、半歩だけ進んだ。

 朝の風が、ほんの少し冷たい。

 彼は、クローゼットの奥から、薄いコートを出した。

 ポケットに手を入れると、小さな紙が出てきた。

 紙には、丸い字があった。

「次の春、見に行こう」

 行き先は、にじんで読めない。

 にじみは、いつか乾く。

 乾いた後には、色が残る。

 色は、意味になる。

 意味は、時々、邪魔だ。


 その日、センターから、最後の封筒が届いた。

 「復位完了後のアンケート」

 質問は多い。

 満足度、負担感、周囲の反応、今後望む施策。

 最後の自由記述欄に、彼は短く書いた。

「薄くするのは、ほどほどに」

 封をして、ポストに入れた。

 ポストは、忙しそうだった。

 中には、いろいろな重さの手紙が眠っている。

 重い手紙は、沈む。

 軽い手紙は、浮く。

 どちらも、運ばれる。


17


 その夜、彼は夢を見た。

 薄暗い部屋。

 テーブルの上に、書類が積まれている。

 “低存在化プラン”“均衡化オプション”“関係解消オプション”

 彼は、ひとつひとつに、同意した。

 同意すると、紙は軽くなった。

 軽くなった紙は、風で飛んだ。

 飛んで、どこかに消えた。

 部屋は、少しずつ広くなった。

 広くなった部屋に、風が入った。

 風は、帽子のひもをほどいた。

 ひもは、机の角に引っかかった。

 彼は、結び直そうとした。

 目が覚めた。


 朝、机の上に、封筒があった。

 差出人は、見覚えのある名前。

 中には、短い手紙。

「忘れ物、置いておきます。リンゴの皮は、少し厚めでお願い」

 彼は微笑んだ。

 皮は、厚めでも、薄めでも、かまわない。

 どちらでも、噛めば音がする。

 音は、存在の証拠だ。

 証拠は、税の対象だ。

 税は、ほどほどに。


18(結)


 日曜日、彼は、白い帽子の女と待ち合わせをした。

 川のそば。

 風は、少し強い。

 女は、帽子のひもを、首の後ろで結んだ。

 彼は、名前を聞いた。

 女は、言った。

 名前は、短かった。

 音の少ない名前は、風に乗りやすい。

 彼は、自分の名前も言った。

 自分の名前も、短い。

 短い名前同士は、混ざらない。

 混ざらないので、覚えやすい。


 二人で、川沿いを歩いた。

 風で、帽子が少し浮いた。

 ひもが、支えた。

 彼は、ふと、センターの職員の顔を思い出した。

 藤野。

 名簿には、いない。

 均衡化の対象に、制度の縁。

 誰も痛まないように、誰かが、ほんのわずか、薄くなる。

 その薄さのぶんだけ、誰かが、元に戻る。

 世界は、そうやって、釣り合う。

 公正かどうかは、答えのない問いだ。

 答えのない問いは、たいてい、長生きする。


 橋の上で、女が立ち止まった。

「風が強い」

「うん」

「ひも、結び直してもいい?」

「もちろん」

 女は、帽子を押さえ、ひもをほどき、結び直した。

 結び目は、さっきより少し硬い。

 硬い結び目は、ほどけにくい。

 ほどけにくいものは、安心だ。


 家に帰ると、テーブルの上に、リンゴが三つあった。

 彼は、皮を厚めにむいた。

 音が、部屋に広がった。

 音は、壁に当たり、返ってきた。

 壁は、静かに、それを受け止めた。

 音は、消えた。

 消えたものは、どこへ行くのだろう。

 どこかで、誰かの、均衡になるのだろう。


 夜、彼は、寝室で、目覚ましを合わせた。

 隣の枕は、温かかった。

 明日の朝、目が覚めたら、世界は、今日と同じか、少しだけ違うだろう。

 違いは、紙一枚より薄い。

 薄い紙は、風で飛ぶ。

 飛んだ紙は、誰かの足元で、止まる。

 足元に目をやる人は、少ない。

 少ないが、ゼロではない。

 ゼロではない数は、思ったよりも大きい。


 彼は、目を閉じた。

 眠りに落ちる前、ふと、考えた。

 存在税が、いつか、なくなる日が来るだろうか。

 そのとき、人は、軽くなるか、重くなるか。

 答えは、まだない。

 答えが出るころ、彼は、今日の小さな出来事を、いくつか忘れているだろう。

 忘れても、世界は、釣り合う。

 釣り合う世界では、風が、帽子のひもを揺らす。

 その音は、小さい。

 小さい音は、よく、届く。


——


(了)

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― 新着の感想 ―
よく分かりませんね。陰謀とか衝撃のラストも自分の読解力では見つけられませんでした… あらすじだと女性主人公でファンタジー世界っぽいのに、実際読んでみると現代日本風の世界で男性主人公なのもよく分からない…
感想一覧
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