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十九世紀の剣闘士(モダン・グラディエーター) ジョン・L・サリヴァン

作者: 滝 城太郎

それぞれの格闘技に厳格なルールがある今日は、”世界最強の男”を決める手段がないが、十九世紀までのボクシングは、ルールがほとんど喧嘩に近かったため、その無差別級チャンピオンは、”世界最強”を名乗ることができた。だからこそ大衆が憧れ、畏敬の念を抱いた”世界最強の男”ジョン・L・サリヴァンは、アメリカ人にとってはスポーツヒーローの範疇を越えた、国民的英雄だったのだ。

 「ベアナックルファイター」とは何とも古色蒼然とした呼称だが、二十世紀初頭までは、一種独特の敬意を表されていた。

 起源が古代ギリシャのオリンピック競技にまで遡るボクシングは、テクニックの進化はともかく、十九世紀末まで「素手による殴り合い」という基本的な競技スタイルは変わらず、ボクシングが巧い、強い、ということはすなわち、喧嘩が強いということを意味していた。

 一方、レスリングという格闘技もグレコ・ローマンという競技スタイルが存続しているように、ギリシャ・ローマ時代に端を発しているが、こちらは喧嘩というよりはスポーツであって、ボクシングとの優劣が論じられることはなかった。というのも、十九世紀末までのベアナックルファイトは、つかみ技や投げ技も認められており、最強のベアナックルファイターこそ、最強の格闘技王だったからである。

 「近代ボクシングの父」と言われるジェームズ・フィグ(1684-1734)は、フェンシングからレスリングまで様々な武術と格闘術の達人であり、彼が広めた素手による攻撃と防御の技術には、丸腰で喧嘩に勝つためのあらゆるエッセンスが詰め込まれていた。それだけの技術と知識があればこそ、彼は戦いを挑んできた腕自慢たちを全て返り討ちにし、「英国最強の男」を名乗ることが出来たのだ。


 ルールの変更によって、ボクシングがグローブをつけたパンチの交換によってのみ相手を攻撃できるスポーツになったことで、一九二〇年代以降、ボクサーとプロレスラーの優劣がしばしば話題に上り、時には異種格闘技戦が催されたこともあったが、これだけルールが異なっていながら、同等の条件で戦うことなど不可能である。

レスラーと対戦したボクサーがことごとく敗れているのは、寝技の技術がなく、飛び道具のパンチ頼みのボクサーが、グローブの着用によって唯一の武器の威力を減じられているからだ。むろんグローブには拳の保護の役割もあるが、ベアナックルと十オンスのグローブでは衝撃力が段違いである。しかし、それ以上に違うのは相手に与えるプレッシャーであろう。

 レスラーがボクサーに勝つパターンは、低いタックルで組み付いてから寝技か関節技で決めるのが一般的だ。ボクサーは膝から下を狙われるとアッパーは打てず、組み付かれた直後に腕か背中に数発のパンチを浴びせるのが関の山で、鍛え上げたレスラーの身体に深刻なダメージを与えるには至らない(後頭部へのラビットパンチは別だが、もちろん反則である)。しかし、これがベアナックルパンチなら、空手と同じく一撃で肩甲骨や肋骨をへし折ってしまう可能性もある。

 グローブでのパンチはレスラーの太い腕でアームブロックされ、グローブ自体に衝撃吸収力があるため、ボクサーはその隙間を縫ってピンポイントで急所にパンチを命中させない限りは、次の瞬間に飛び込まれる危険が高いが、これもベアナックルだと、ガードしたレスラーの手の甲や肘の骨をも砕き、戦闘不能に陥れてしまうかもしれない。

 こういったリスクがあるがゆえに、ベアナックルファイトだと、レスラーは不用意に相手の懐に飛び込めず、ボクサーが有利な距離で戦うことを余儀なくされてしまうのだ。

 だからこそ一流のベアナックルファイターともなると、レスリングもある程度熟知しているため、相手がムエタイや柔術の使い手であってもハンデはなく、それこそいかなる格闘家にも対峙できた。


 一七九センチ八十五~六キロと当時のヘビー級としては平均的な体格のサリヴァンが、体格で上回る大男のレスラーを苦にしなかったのは、一撃必殺の凶器のような拳の威力を最大限に活かせるルールがあったからだ。比較的近年で例えれば、素手のマイク・タイソンと戦うようなもので、中量級並みのスピードがあり、一撃で人を死に至らしめるかもしれない拳を持った男とベアナックル・ルールでファイトする度胸のある格闘家は皆無だろう。

 逆に、十九世紀のベアナックルファイトの時代であれば、ボクサーになる前にレスリングの下地があり、引退後は人気プロレスラーとして活躍したプリモ・カルネラ(イタリア出身・元世界ヘビー級チャンピオン)は、マックス・ベアをクリンチに乗じたさば折りで仕留めていたかもしれない(実際の世界戦はベアの十一ラウンドKO勝ち)。

 

 後にベアナックルファイターとして一世を風靡するサリヴァンは、意外や意外、大変なお坊ちゃん育ちで、教育熱心な母の意向に従って名門ボストン大学に入学している。大学時代は弁論部と演劇部に所属していたというから、なかなかのインテリだったようだ。

 とはいえ、一流レスラーだった祖父の血を受け継いだのか、勉学よりも身体を動かす方が好きな行動派の若者には、大学生活は退屈すぎた。早々に大学を中退して、しばらくはぶらぶらしながら高校時代にかじったアマチュアボクシングの試合に出て憂さ晴らしをしていたが、とりあえず手に職をつけようと鉛官工見習いとして鉛管工事会社に就職した。

 ところが或る日のこと。大男の職工長から喧嘩を吹っかけられ、簡単にのしてしまったのはいいが、相手は顎を骨折して入院するはめになり、会社は馘になった。次にブリキ職の仕事に就いたが、どうも性に合わない。そこで昔取った杵柄でセミプロ球団のテストを受けてみたところ見事合格し、当時としては高給の週給百ドルで野球選手となった。高校時代のサリヴァンは野球部に所属し、こちらの腕も一流だったのだ。

 サリヴァンは大好きな野球で飯が食えることに心から満足していた。紆余曲折を経てようやく天職を探し当てたかに思えたが、この男、どうやらよくよく喧嘩を売られる運命にあったらしい。

 ボストンのダドリー街のオペラハウスで催されたボクシングの慈善興業を観戦している最中に、売出し中の地元出身ボクサー、トム・スキャンネルから名指しでエキジビションマッチを申し込まれたのだ。

 この手の地方興行では、懸賞金を賭けてプロボクサーと腕自慢の若い衆の飛び入り試合がよく行われたものだが、逆指名を受けるというケースは珍しい。アマチュアボクシングでは地元で少しは名の知らたサリヴァンの登場とあって、観客はもちろん大喜びである。

 もはや後に引けなくなったサリヴァンは、「どんな相手でも三ラウンドでKOしてみせる」と豪語するスキャンネルとの対戦に応じることにした。

 ゴングが鳴り、サリヴァンが挨拶代わりに右のグローブを出した瞬間、スキャンネルの左が顎を直撃した。油断していたとはいえ、プロがアマチュア相手にこんな汚い手を使ったことで、サリヴァンの怒りは沸点に達した。怒涛のラッシュにたじたじとなったスキャンネルのガード越しにオーバーハンドライトを叩き込むと、哀れスキャンネルはリングの下にあったミュージックボックスに頭から転落し、失神してしまった。

 この一撃でサリヴァンは悟った。「俺には野球よりボクシングの方が性に合っている」と。


 サリヴァンというと、金遣いが荒く大酒飲みで女好きといういかにも豪傑といったイメージで語られることが多い。事実、酒が入ると粗暴になり周囲から疎まれることもあったが、「地上最強の男」という金看板は、サリヴァンの様々な人間的欠陥を覆い隠しても余りあるものがあり、男性のみならず多くの女性たちもその野生的な男らしさに惹かれていた。

 もっとも「粗野だが、男性的魅力溢れるボクサー」という形容表現は、過去のベアナックルチャンピオンたちのほとんどに当てはまるもので、何もサリヴァンだけの専売特許ではない。では、何が過去のチャンピオンたちとサリヴァンを区別し、かつてないほどのボクシング熱を大衆にもたらしたのかといと、それは大衆の前における豪傑然とした姿と実像のギャップに見出すことができる。


 一八八九年、ジェイク・キルレイン戦を控えたサリヴァンにインタビューを行った女流作家ネリー・ブライは、花々に囲まれ調度に繊細な注意が払われたテーブルでサリヴァンが優雅に朝食をとる姿に言及しているが、人前では偉そうにしているサリヴァンが意外にも照れ屋で子供っぽく、間近で見ると、爪を楕円形に整えたしなやかな指をしていたことに驚いている。

 元々お坊ちゃん育ちのインテリだけに、サリヴァンには当時の一般的な職業ボクサーとは異質の毛並みの良さというか、気品が感じられるところがあった。紳士的なヘビー級チャンピオンの先駆とされるジム・コーベットにもインテリジェンスは感じられたが、彼の場合は銀行員あがりらしく真面目で潔癖ではあっても、小賢しさや計算高さも同居しており、金には無頓着で自由奔放に生きるサリヴァンとは本質的に異なっている。

 いつもポケットいっぱいに銀貨を詰め込んで歩くサリヴァンは、行く先々で寄って来るファンの子ちたちに銀貨をばらまき、酒場では全ての客の勘定を一手に引き受けるほど気前が良かった。もちろん女性からもモテたが、愛人だった著名舞台女優のアン・リビングストンは、男装して銃を携え、サリヴァンの行くところボディガードのようについてまわったほど入れ込んでいた。当時のボクシングは女性厳禁だったため、男装してリングサイドに陣取らなければならなかったからだ。


 一八八二年二月七日、二十三歳のサリヴァンはミシシッピシティでベアナックル世界チャンピオン、バディ・ライアンを九ラウンドでギブアップさせ、新チャンピオンの座に就いた。

 この一戦はクインズベリー・ルール下で行われた初の世界戦である。それまでの試合はロンドン・プライズ・ルールに基づいており、ダウンの後に三十秒の休息が与えられるなど、今日のルールとかなりの隔たりが見られるため、この古典的ルール下における世界チャンピオンは近代ボクシングのカテゴリーからは外されている。

 もっとも、一ラウンドが三分で、ダウンしたボクサーが十秒以内に立ち上がれない場合はKO負けという現行ルールの基本となったクインズベリー・ルールの方も、ベアナックルのプロレスファイトであることは変わりないため、サリヴァン対ライアン戦をもって初のボクシング世界ヘビー級タイトルマッチと見なすことに意義を唱える者も多い。

 かといってグローブファイトによる初の世界戦の勝者であるジム・コーベットを初代チャンピオンにするわけにもいかない。ダイヤモンドを散りばめたチャンピオンベルトを締めたサリヴァンは、当時の社会の認識ではまごうことなき「世界チャンピオン」であったからだ。

 したがって、大きなルール改変がなされたサリヴァン対ライアン戦をもって、近代ボクシング初の世界タイトルマッチと見なすのが一般的である。

 

 サリヴァンは酒が入るとストリートファイトであろうがおかまいなしに応じるところがあった。

 本人にとってはスパーリング代わりだったようだが、ビリー・ザ・キッドが一八八一年に闇討ちされ、ジェシー・ジェイムズが一八八二年に仲間割れで射殺されるなど、サリヴァンの時代はまだ銃を持った無法者がごろごろしており、治安は今日とは比べ物にならないほど悪かっただけに、サリヴァンにはツキも味方してくれていたのかもしれない。

 もちろん一対一で”ボストン・ストロングボーイ”の異名を取る名うてのファイターと拳を交えようとするようなクレイジーなやからは滅多にいなかったが、一対多となると話は別である。それこそ十数人から次々と襲いかかられ、全員をのしたこともある。それが一八八七年一月十七日のパッツィー・カーディフ戦の前夜のことだったので、肝心の試合では喧嘩で痛めた左拳が使えず、右一本でかろうじて引き分けている。


 あわやタイトル喪失という危機に見舞われたにもかかわらず、サリヴァンの酒癖は一向に治らず、またしても大きなトラブルを引き起こした。

 チャーリー・ミッチエルとの防衛戦を終えた後、フランスでハメを外しすぎたサリヴァンは、過度の飲酒が原因で一八八八年の八月から十一月まで長期に渡る入院生活を余儀なくされたのだ。

 「サリヴァン倒れる」のニュースは、アメリカ中を駆け巡り、大勢のファンを悲観に暮れさせたが、退院するや翌年一月に予定されていた防衛戦を一万ドルの保証金を積んで六ヶ月延期してもらった一方で、名トレーナーとして知られるウィリアム・マルドゥーンと契約し、六ヶ月の間に見違えるほど身体を絞り込んできた。これはサリヴァンがトレーニングキャンプ中は酒が飲めないように、マルドゥーンがニューヨーク州ベルファスト村に所有する納屋に隔離しておいたことによるもので、キャンプから抜け出すたびに連れ戻されたサリヴァンは、やがて観念してトレーニングに専念するようになった。    

 一八八九年七月八日、ミシシッピ州リッチバーグでジェイク・キルレインを迎えて行われた防衛戦は、クインズベリー・ルール下における最後のベアナックル世界ヘビー級タイトルマッチとなった。

 この試合、病み上がりのサリヴァンは格下のキルレイン相手に苦戦を強いられ、四十四ラウンドに嘔吐した時はもはやこれまでかと思われた。ところが胃が空っぽになったことで気分がすっきりしたのか、四十五ラウンド目から急に動きが良くなり、得意のプロレスファイトで劣勢を挽回していった。

 殴り合いだけなら負けていたかもしれないこの一戦、草試合も含めれば四百戦以上のキャリアを誇るサリヴァンは倒れたキルレインにストンピングを見舞うなど、百戦錬磨の喧嘩殺法で元ボクシングのトップアマを痛めつけると、七十五ラウンド、ついに挑戦者のコーナーからスポンジが投げ入れられた(当時はタオルでなくスポンジだった)。

 肋骨を全て骨折するという重傷を負ったキルレインは、天下のサリヴァンと熱戦を繰り広げたことで知名度が上がり、その後十年間もヘビー級のトップクラスで戦い続けた。また、試合を機にサリヴァンと親しくなり、偉大なチャンプの葬儀では棺を担ぐ栄誉に授かっている。


 一八九二年九月七日、ついに剛勇サリヴァンにも年貢の納め時がやってきた。

 この日行われた世界ヘビー級タイトルマッチは、グローブを着用した最初のタイトルマッチであると同時に、それまで力自慢の殴り合い的要素が強かったボクシングが、フットワークと高度なディフェンス技術を駆使した科学的スポーツへと大きく進化してゆく岐路となる記念すべき一戦であった。

 対戦相手のジェームズ・J・コーベットは銀行員あがりの長身の優男で、おおよそボクサーらしからぬ風貌の持ち主だった。まだキャリアも浅かったが、無敵のミドル級チャンピオン、ノンパレル・ジャック・デンプシーから素質を見込まれただけあって、技術的にはヘビー級ピカ一といってよく、サリヴァンが対戦を拒み続けたオーストラリアの黒人強豪、ピーター・ジャクソンと引き分けた星が光る。

 コーベットをなめていたサリヴァンは、ろくにトレーニングもせずに試合に臨んだせいか、七ラウンドくらいからもう息が上がっていた。フットワークを使いながらジャブとフェイントだけでサリヴァンを撹乱するコーベットに対し、サリヴァンは一撃で仕留めようと左右のスイングを強振するが、これが一向に命中しない。観客席からは打ち合おうとしないコーベットに「臆病者!」とヤジが飛ぶが、そんなものはどこ吹く風のコーベットはひたすらサリヴァンのスタミナを消費させる作業に専心した。

 かくして二十一ラウンド、ジャブをしたたかに浴びて顔面を腫れ上がらせたサリヴァンは、ここが勝負どころと見てラッシュをかけてきたコーベットの渾身の一撃で失神したままテンカウントを聞いた。

 「俺は正々堂々戦ったから悔いはない」とファンに挨拶し、リングを去ったサリヴァンは負けてなお国民的英雄だった。皮肉なことに勝ったコーベットは卑怯な戦法を使ったとみなされ、フットワークの効用が一般に認識されるまでは、不人気をかこっていた。


 総合格闘技でいくら無敵を誇っている王者も、拳だけの殴り合いとなると同級のチャンピオンボクサーにはまず歯が立たないのと同様に、タックル等のプロレス技が禁じられたサリヴァンは、不摂生を割り引いたとしても実力の半分も出せていなかったことは明白だからだ(注1)。

 事実、コーベットがすでにピーター・ジャクソンとの史上初のグローブファイトを経て、新ルール下での有効な戦い方を研究していたのに対し、それまではいわゆる「総合格闘家」だったサリヴァンは、初めてグローブファイトに臨んだわけだから、最初から大きなハンデを負っていたことになる。

 おそらく大半の観客にとってもグローブファイトの観戦は初めてのはずである。そこで得意技が封じられて攻め手を欠いたサリヴァンをコーベットが打ちのめしたからといって、無条件に勝者を賞賛する気分になれないのは当然のことだろう。


 現在ではボクシングに科学的エッセンスを取り入れて伝説の王者サリヴァンを破った男として、コーベットの名はボクシング史の中で欠かすことのできないビッグネームとなっているが、実は最初にサリヴァンをナックアウトしたのは彼ではない。

 サリヴァンには同じアイリッシュのマクドナルドという幼馴染がおり、やがて二人揃ってプロになったが、お互いがリングの上で戦うことだけは避けよう、と約束していた。プロボクサーとしての才能に恵まれなかったったマクドナルドは、サリヴァンが世界チャンピオンになった後はサポート役に徹し、親友の悪口を言う輩には鉄拳制裁も辞さないほどの献身ぶりを見せていたが、コーベット戦を明日に控えながらニューオリンズの酒場に入り浸っているサリヴァンを探し当てると、ついに堪忍袋の尾を切らしてしまった。

 親友に罵倒されたサリヴァンはいきなり殴りかかったが、酔っていたせいもあってか、たちまちのされてしまう。酒場の床にのびているサリヴァンを悲しげな表情で見下ろしていたマクドナルドは、無言のまま永久に彼のもとを去った。一八九二年九月六日の夜、すでにサリヴァンは無敵王者の座から滑り落ちていたのだった。


 コーベット戦を最後に潔く引退の道を選んだサリヴァンは、新聞社のボクシング記者となったが、蓄財の才がなかったのでいつも懐は空っぽだった。それでも世界戦などのセレモニーで元チャンピオンとしてリングに姿を見せた時には威風堂々としており、常に周囲から一目置かれる存在だった。

 金に窮するようになったからかもしれないが、晩年は酒もぴたりとやめ、講演会で禁酒の功徳を説くようになったという。

 「俺はボクシングに生き、ボクシングに死ぬ。最後に拍手を頼む!」

 サリヴァン臨終の言葉である。

 

注1

 プロボクシングで五階級制覇を果たしたフロイド・メイウェザーは現役復帰戦で、総合格闘技の中量級では現役最強と目されていたコナー・マクレガーとボクシング・ルールで対戦したが、全く危なげなくKOで下している。その後、エキジビションで日本の総合格闘技のホープ那須川天心と同じくボクシングルールで対戦した時も、総合格闘技では無敗の現役王者のパンチのほぼ全てをかわしきり、一ラウンドで三度のダウンを奪う一方的な勝利を収めている。しかし、十九世紀のフルコンタクトのルール下であれば、メイウェザー勝利の可能性は大幅に下がるだろう(グローブ着用なら勝ち目は薄いが、ベアナックルなら微妙か?)。


かつて喧嘩が世界一強い=世界最強の男という図式を簡単に証明できる時代があった。それなら昔のルールで国家元首か政治家同士を一騎打ちで競わせれば、大勢の若者の血を流さずに戦争の決着がつくのにと思う。そうすれば、キーウ市長ビタリ・クリチコはゴングから10秒以内にプーチンとトランプをまとめて撲殺してしまうだろう。

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