深海進 第1話: 天使ちゃん
私、深海進はお兄ちゃんを愛している。
もちろん、異性としてではなく、家族として。
私はお兄ちゃんのことが大好き。
お兄ちゃんは何に対しても真面目で、責任感が強くて、そのせいでちょっと悩みがちなところもあるけど、そんな真剣なところがカッコいい。
でも、ここ二年くらいのお兄ちゃんはあまり生き生きしていない。
大きな出来事があったわけでもないらしいけど、何かがあって、大好きな英語をあまり勉強しなくなった。
前までは各国の英語のアクセントを聞くだけで興奮してたのに、今はイギリス発音の“bottle of water”を聞かせても反応が薄い。
多分、まだ英語を嫌いになってはいないと思う。
また何か些細なきっかけがあれば、活力を取り戻すのではないかと、私は思っている。
あと、なぜか雨が降った日やその翌日は、足元を濡らして帰って来ることが多くなった。最初はもしかしていじめられているのではないかと心配したけど、どうやら自分で濡れに行っているらしい。
これに関しては正直妹としてもあまりよく分からない……。
お兄ちゃんのことだから、きっとちゃんとした理由はあると思うけど。
部活帰り、道端の水たまりを眺めながら、私はそんなことを考えていた。
家の近くの小さな公園の横を通ったところで、視界の端に何か気になるものが映った。
同い年くらいの、ショートボブの女の子がベンチで項垂れている……?
どうやら随分悩んでいるらしく、頭を抱えている。
どうしよう、知らない人だし、声をかける義務はないけど、なぜだか一目で庇護欲をそそられる……。
私はとりあえず声をかけて、話が聞けそうなら聞いてみることにした。
「あ、あの〜。大丈夫ですか?」
「ふぇ……?」
彼女が徐に顔を上げると、濁った双眸と目があった。
その顔は思っていたよりも、大人びていて——それでも幼いことには変わりないけど——私よりは年上であることがはっきりと分かった。
「……えっと」
「あ、すみません。ちょっと通りすがって、困っているのが見えたので〜……」
「……天使?」
「は?」
突然パッと目を輝かせて私を天使と呼んだ彼女は、急に立ち上がって、距離を詰めてきた。
やばい人かもしれない。
「そのいかにも清純派美少女のような出たち、優しさ、天使以外の何者でもない!あぁ!ありがとう!私のもとに降臨してくれて!」
あ、本格的に話が通じないタイプの人だ。逃げなきゃ。
「あ、はい。天使です〜。天使なので他の人も救わなきゃなので、失礼します〜」
私は踵を返して、家とは逆方向だけど、とりあえずその場から離れるべく、一歩踏み出そうとした。
しかし、足が地面につく前にやばい人に腕を掴まれる。
「ま、待ってください、天使ちゃん!!」
「て、天使ちゃん……」
これはもう警察案件かもしれない。
声をかけたのは私の方だけど、まあ何とかなるだろう。
私がスマホで電話をかけようとしたときのことだった。
「……私、普段はこんなふうに人に助けを乞うことができないんです」
彼女が弱々しい声でそう呟いた。
「あの、なぜだか、天使ちゃんには一目で気を許せそうな気がしたといいますか。私の話を真剣に聞いていただけそうな気がしたといいますか」
口調も少し丁寧になっている。
確かに、私も彼女を一目見た時に庇護欲を感じているし、お互いの中に直感で何か感じられるものがあるのかもしれない。
「あ、申し訳ございません。先ほどは取り乱してしまって。私、この近くの高校で教師をしております。風祭と申します」
彼女は姿勢を正すと、謙虚な面持ちで自己紹介をした。
まさか教師だったとは……。
「はあ、ご丁寧にどうも」
「いえいえ」
落ち着くと、なんだかまともな人に見えてきた。
話しくらいなら聞いてあげてもよさそうだ。
「とりあえず、ベンチ座りますか。あ、私はこの近くの中学校の生徒です」
警戒心を完全に解いたわけではないので、名前は言わなかった。
「つい数十秒前のことですが、私は中学生に天使ちゃんとか言って助けを乞うてたんですね……」
風祭さんは決まりが悪そうに人差し指で頬を掻いた。
「……それで、どうして高校の先生がベンチで項垂れていたんです?」
「ああ、そのことですね……」
部活帰りで日も暮れているので、私は単刀直入に本題に入ることにした。