深海光 第2話: 些細なきっかけ
「よお、色男。今日も滴ってんねぇ」
「どーも」
教室に着くと、幼馴染で隣の席の船井鈴之介がいつも通り僕をからかった。
ひょろっとしていて、あっけらかんとした態度が憎らしい。
こいつにはどう思われようと構わないから、それに対する僕の対応は基本雑だ。
「今日の靴下は何色かな?」
「そんなこと聞ーてどうすんだよ」
「脚の研究に活用します」
「なんだそれ」
「脚フェチとしてはねぇ、どんな脚にどんな色の靴下が似合うのかも把握しておきたいわけですよ」
「そーか。じゃー今日は濡れてるの履き替えるから、研究材料二倍でお得だな」
「助かるぜ」
鈴之介は僕の数少ない友人の一人だから、憎くらしいと思えど、こうして他愛もない会話に興じることができるのは、正直ありがたい。
僕が多少客観的な視点を持てるのは、こうして鈴之介という他者が関わってくれるおかげなのかもしれない。
……とはいえ、こいつの脚への執念は普通に気持ち悪いけど。
「脚といえば、今日の夕暮さん、見たか?」
「……夕暮さん?」
「あぁ、元から綺麗な脚してたけどさ、今日は一段と輝いてるぜ。なんだかんだ生足がベストなんだよな」
「生足……」
僕は教室中央あたりに座っている夕暮さんの後ろ姿に目を遣った。
そういえば、彼女も水たまりに足を踏み入れていたから、僕と同じく靴下を脱ぐ必要があるのか。
椅子の座面の下に見えるふくらはぎから踵までがシュッと伸びていて、確かに綺麗だ。
とても華奢だけど、確かに自分の足でこの世界を踏み歩いてきたことが感じられる、健康的な脚だ。
そうしてしばらく遠くから夕暮さんの脚を見つめていると、彼女がふと振り返って目が合った。
彼女はまた得意げな顔を浮かべてサムズアップしている。
そしてすぐに向き直ってノートに何か書きつけていた。
「……光、夕暮さんとなんかあったのか?」
「……うん。まぁ、何もなかったけど……通学中に夕暮さんが水たまりに爪先から飛び込んでるのは見たかな」
「へぇ、光を真似てみたのかねぇ」
「さぁ、水たまりなんか踏み歩いて何が面白いんだろーね」
「それお前が言うか」
僕は乾いた笑いで応えながら、靴下を脱いで足をタオルで拭き、綺麗なものに履き替えた。この動作も慣れたものだ。
朝のホームルームが始まるチャイムが鳴ると、教室に担任の教師が入ってきた。
英語コミュニケーションの授業の担当でもある風祭先生だ。
ショートボブで少し幼い印象を受ける新任の女性教師で、語り出すと止まらないタイプ。だけど、授業中以外の時間だと、不自然なくらい謙虚だし、会社員みたいな喋り方をする。
「あ、みなさんお足元の悪い中お越しいただきありがとうございます。ホームルームを始めます」
最初はとっつきにくい変な先生だと思われていたけど、今はそういうキャラとして好かれている——というか、よくモノマネの対象にされている。
「六限目のロングホームルームでは、十月中旬に実施する大阪遠足の班決めを行いますので、それまでにある程度検討をつけておいていただけますと幸いです。何卒よろしくお願いいたします」
堅苦しい業務連絡が済むと、クラスの何人かが「承知いたしました〜!」と言って、先生は決まりが悪そうに頬を掻いて笑った。本人も自分の口調については自覚しているところがあるのかもしれない。
「あ、それと、深海さん。ホームルームのあと、授業が始まる前に少しだけお時間よろしいでしょうか」
「え、あ、はい。大丈夫です」
「ありがとうございます」
唐突に呼び出しを受けて面食らった。何か不味いことでもしてしまっただろうか。
特定の何かは思いつかないが、成績はあまり良くないから、そのことかもしれない。
ホームルームが終わると、僕は教壇の方に向かい、風祭先生に声をかけた。
「あ、深海さん。お疲れさまです」
「お、お疲れさまです……」
風祭先生は教師になる以前、実際何年か会社に勤めていたらしい。英語が好きすぎて布教すべく教師になったとのことだ。夕暮さんといい、みんな行動力が凄い。
「えっとですね。深海さんに伝えたいことはですね。その、成績のことなのですが……」
やっぱりそのことだったか。
僕は中学の途中までは成績が学年トップだったくらいには英語が得意だった。なんなら今でも得意教科のままだ。だけど、僕は二つある英語の授業——英語コミュニケーションと英語表現、共に成績があまり良くない。
「あの、大変失礼なことを申し上げますが、深海さん、小テストや定期考査でわざとミスをしているのではないでしょうか」
「……どうしてそう思うんですか」
「あ、いえ。特にこれといった確証はないのですが。何と申し上げたらよろしいでしょうか。これは私の英語好きとしての勘といいますか、共鳴といいますか。深海さんは恐らく英語が好きなのではないですか?」
「……そんなことないですよ。英語は苦手です」
「でも」
「すみません。先生の教え方はとても上手ですし、みんな英語のモチベーションは高いです。僕の理解度が足りないだけです。先生は悪くありません」
「そういうことを言わせたかったわけではなく——」
「理解不足な僕は今から予習をしなきゃいけないので、もういいですか」
「……はい」
英語が大好きな先生にこんな態度を取るのは心苦しい。僕だって、本当は英語を楽しみたい気持ちはある。
だけど、中学のとき、ほんの些細なきっかけがあって、僕は英語に対して後ろ向きになった。
それは、ELTの先生が来て、みんなの前で英会話の演習を行ったときのことだ。
僕は英語の成績がトップだったから、当然最初のデモンストレーションで先生の会話相手に選ばれたのは僕だった。
僕自身も英会話は家で定期的に練習していたし、自信があった。
だけど、結果的に僕の英語はボロボロだった。上手く話せなかった上に、聞き取りもままならなかった。明らかに実践での経験が足りなかったのだ。
「深海くんって英語トップじゃなかったっけ」とひそひそ声が聞こえてきた。
それが、僕の自尊心を深く傷つけた。
そして僕は、高校からは英語が得意だということを誰にも知られないようにしようと心に決めた。
また辱めを受けるくらいなら、最初から自分に秀でたものなんてない方がマシだ。
僕がネガティブな性格になったのも、水たまりを踏み歩くようになったのも、元を辿ればあの英会話演習のせいだ。
僕はただひたすらに、傷つきたくない。