深海光 第13話: プライド
僕たちは戎橋に向かうまでの道中、道頓堀周辺を歩いていた。
定番のたこ焼きを食べて口の中を火傷したり、口の中を冷ますために抹茶の専門店でアイスを食べたり、人並み程度に大阪を楽しんでいる。
でも、その人並み程度の楽しみが、これまで悲観的に生きてきた僕からすると、尊いものに感じられた。
水萌さんのオモシロセンサーは大体が事後報告になってきている。多分もう彼女にとってそれは必要がないのだろう。
ずっと「オモシロセンサーを介して見える光くんの輝きが増していっている!」って言ってるのは気になるけど……。
多少期待という感情に対して素直になれるようになったものの、依然として僕は物事を穿った視点で捉えようとしてしまうから、「輝いている」と言われても、自分如きがと否定から入ってしまうことには変わりない。
「お、例の橋、見えてきたな!」
「ただでさえ人通りが多いのに、橋の上は殊更ごった返してるね!」
「昔迷子になったときのことを思い出すよ」
「あー、なんか前に言ってたな」
僕は昔家族と大阪旅行に来たとき、こんな感じの人混みの中で両親と妹の背中を見失い、迷子になったことがある。
迷子なんて、誰もが人生で一度は経験したことのあるありふれたものだけど、僕はその時の経験が結構なトラウマで、今でも思い出すだけで少しだけ心拍数の上がるような心地がする。
まあ、今迷子になってもスマホだって持ってるし、別に困ることはないのだけど。
そうして、僕らは戎橋に着くと、水萌さんがグリコポーズで写真が撮りたいと言い出したので、僕らは人の波が途切れる一瞬の隙が訪れるのを待った。
その間辺りを見回してみると、大阪だからなのか、視界に映る人々の表情を見ると、笑顔の比率が高いような気がした。
こういうのは心の持ちようだろうけど、海遊館のバックヤード見学でたった一言簡単な英語を話したことがきっかけで、ここまで自分の認識が変わるとは思っていなかった。
……いや、それは僕が後ろ向きになったきっかけと同じことだろう。たった一言、誰が言ったかも分からない単純な戯言を聞いて、僕はそれまでずっと好きだった英語の勉強を止めたのだから。
きっと物事の捉え方が変化するためのきっかけに、大きいも小さいもないのだ。
水萌さんと鈴之助がグリコ看板の前で写真を撮り終わると——当然僕は恥ずかしくて被写体にはならなかったけど——か細く、それでいて惹きつけられるような声で、誰かが僕らを呼び止めているのに気づいた。
何度も呼びかけられているのに気づかなかったのは、その声の主が発しているのが日本語じゃなかったからだ。
その声の主は見覚えのある——僕の妹と同じ中学校の制服を着ていて、綺麗なブロンドの髪と、大きめのマスクで顔を覆っていた。鼻と口は見えないが、恐らく外国人だろう。
そういえば、昨日なぜか妹の進が部屋に来て、最近一年生に綺麗な外国の女の子が転校してきたと言っていたな。
確かその子は日本語が話せないのだったか。
あと、進の中学の一年生が僕たちと同じタイミングで遠足に行くとも言っていた気がするけど……。
最近は進ともあまり世間話などはしないようになっていたけど、なぜ急にそんな断片的な情報を僕に伝えてきたのだろうか。
とりあえず今はそんなことを気にしている場合ではない。目の前のブロンド少女の発する言葉に集中しなければならない。
なにせ、彼女の英語は尋常じゃないくらい訛っている。
しばらく英語の勉強を怠っていた僕が聞き取れるかどうか怪しい。
「光、この子なんて言ってるんだ?」
「迷子になったって言ってる」
「凄い……聞き取れたんだ。光くん英語以外もできるの?」
「この子が話しているのは英語だよ」
「そうなの?!」
僕らがそう話している間、なぜかブロンド少女は喜びを表現するかのように胸の前で拳を握っていた。聞き取ってもらえたのが嬉しかったのだろうか……?
迷子の割には落ち着いているというか、覚悟を決めた人間のような圧を感じる……。
僕はとりあえず、誰と一緒に来て、いつどこではぐれた可能性があるのか聞いてみることにした。
しかし——。
「…………」
咄嗟に英語が出てこない。
海遊館のバックヤードでの一言とは違って、今回は複数の要素を質問して、説明する必要がある。
同時に色んなことを考えようとして、思考回路が途中で詰まってしまったのだ。
「……」
僕は冷や汗をかいた。
やはり、まだ怖いのだ。自分の得意なことでミスをすることが。自尊心を傷つけることが。誰かの前で恥をかくことが。
鈴之助と水萌さんは、僕がミスしても笑うような人じゃない。それに、僕がミスしたことすら気づかないかもしれない。
でも、躊躇っているうちに喉が塞がって、言いたいことが言えなくなっていく。
「光くん?」
沈黙が長すぎたからか、水萌さんが心配するように僕の顔を覗き込んだ。
すると——。
「ふ、ふー、いず……あー……ふー、でぃどゆーかむうぃず?」
鈴之助が口を開いた。
かなりたどたどしいが、「誰と来たのか」と聞いたのだろう。
「あっはは……英語っていざ話そうとしてみると全然出てこないんだな……」
恥ずかしそうに鈴之助が頭をかく。
でも、僕はそんな彼を見てただ純粋に「かっこいい」と思ったのだった。
そして、どうやらブロンド少女は鈴之助の英語を聞き取れたようで、「学校のクラスメイトと参りました。しかし、商店街を歩いていたらはぐれてしまったのです」と僕たちに返してきた。
訛りは強いけど、妙に言葉遣いが丁寧なのが気になる。田舎の方の偉い家系出身とかなのだろうか。
僕の頭はこの間に平静を取り戻したようで、今なら言いたい言葉が出てくるような気がした。
僕は一緒に行動していたクラスメイトの人数と特徴を聞いてみた。
流暢には話せなかったけど、一応は通じているようなので、このまま会話を続けてみる。
まだ冷や汗のようなものは止まらない。だけど、それには焦りだけでなく、高揚感のようなものも混じっているような気がした。
ああ、そうか。
僕はやっぱり英語が好きなのか。
「この子は他に三人のクラスメイトと来ていて、女子二人と男子一人、この戎橋を目的地にしていたらしい」
「なるほどな。ここが目的地ってんなら、変に動かず、ここに留まってるのがいいのかもしれないな」
ということで、僕らはしばらく橋の上でブロンド少女のクラスメイトらしき人たちを探すことにした。
◇◇◇
ブロンド少女のクラスメイトを探して十五分が経過した。未だそれらしき人たちは見つかっていない。
同じ中学の制服を着た人くらいはいてもいいような気がするけど、一人も見当たらない。
「うーん。やっぱり交番とか行った方がいいのかな。時間かけてクラスメイト探すよりも、そこで学校に連絡してもらった方が早いかも。光くんと鈴之助くんはこの子の中学校知ってるんだよね」
「うん、そうだね。ネットで調べれば電話番号も出るだろうし、連絡が取れないこともないと思う」
「じゃあ、一旦この子交番に預けて学校に連絡するか」
「そうしよう」
僕らは自力で探すのを諦めて、一番堅実な方法を取ることにした。
日本に来て、日本語が喋れなくて、遠足で迷子になるなんて、僕だったら確実にトラウマになるな……。いや、もうなってるのか……。
そんなことを考えながらスマホで近くの交番の位置を調べていると、僕はまた誰かから声をかけられているような気がした。
今度は英語じゃない。日本語だ。
「あ、あの!」
すぐ近くで声がするのだけど、その発信源が見当たらない。
「ん? 誰か呼んでる?」
「この子のクラスメイトかな」
もう一度辺りを見回してみたけど、それらしき人物は見当たらない。
「あの!!!」
もう一度大きな声がして、僕らはその声がする方向に顔を向けた。
それは、すぐ隣にあった。
先ほどまで訛りの強い英語しか話していなかった、ブロンド少女から聞こえてきたのだ。
彼女はいつのまにかマスクも外していた。
その顔は思っていたよりも彫りが深くなく、どちらかといえばアジア系、日本人寄りの造形をしていた。というよりも、日本人そのものだ。
「騙してしまって申し訳ございません! 大切なお時間も奪ってしまって……!」
僕らは一瞬酷く混乱した。
ブロンド少女は流暢な日本語を話している。そして、何やら聞き覚えのある声をしている。三日に一度は必ず授業で聞く声だ。
「……え」
「……マジで?」
「………へえ」
僕らは各々困惑と驚きの混ざった声を漏らしていた。水萌さんだけなんだかこの状況を楽しんでいそうな、不敵な笑みを浮かべていた。
「風祭先生、何やってるんですか……?」
ブロンド少女の正体は、僕らの高校で英語コミュニケーションの授業を担当している、風祭鴎先生だった。
普段から幼い容姿をしているとは思っていたけど、マスクを外しても中学校のブレザーが異常なほど似合っている。なんならマスクを外した方がそれらしく見える。
多分、同僚の先生とすれ違っても気づかれないだろう。
「す、すみません……すみません……」
「いや、まあ、謝られても……」
「すみません……」
先生は取り乱しているようで、ひたすら僕らに謝り続けている。
真面目な人だから、きっと何かちゃんとした理由があったのだろう。
僕ら三人はそれを知っていたから、ひとまず彼女を落ち着かせて、ゆっくりと話し出すのを待った。
「その……深海さんに、どうしても伝えたいことがありまして……」
「僕に……?」
「はい……」
先生は改まった様子で僕に向き直ると、一度深く息を吸ってから、言葉を紡いだ。
「……深海さんは、私の授業が嫌いですか」
「え、いや、全くそんなことはないですけど……」
「じゃあ、なんでいつもやる気のないふりをするのでしょうか」
「それは……」
僕は言葉に詰まった。
今の僕は、過去にあった嫌なことを半分くらい克服している。
それでも、意識が変わったくらいで今までの凝り固まった考えがすべて解消されるわけじゃない。まだ、理屈だけじゃ解決できないこともある。
そんな不完全な状態で、風祭先生と、英語と向き合うのが、少し躊躇われた。
今の僕はまだ、彼女の熱意を純粋に受け取れるような状態ではない。
「……私がこんなことをしたのは、深海さんに英語の面白さや楽しさを思い出してほしかったからなんです。そもそも英語が好きだったら、ですけど」
水萌さんと鈴之助は「どういうことだ?」と頭に疑問符を浮かべている。
確かに、これは僕らにしか分からないことかもしれない。
「深海さんは、私の英語を聞いてどう思いましたか」
「興奮しま……あ、いえ、その……」
思わず口を突いて出たその言葉に僕は驚いた。頭で考えず、認識していなかった僕の感情が勝手に表に出てきてしまっていた。
それを好機と取ったのか、風祭先生が僕に詰め寄ってくる。
「やっぱり好きなんですよね!!そうですよね!!」
これは……授業モードの先生だ。
普段一対一で会話をするときは謙虚なのに、授業中はやたらと熱心になる。
でも、当然だけど今は授業中ではないし、僕個人と対話している。普通ならこの状態の先生にはならないはずだ。
「知ってるんですよ!!私は!!授業中分かる人は挙手してくださいって言ったとき、深海さんが毎回こっちをチラッと見てるの!!知ってるんです!!」
僕は無意識にそんなことをしていたのか……。
多分大袈裟な素振りはしていないと思うけど、教師っていうのは案外僕らのことを見ているものだ。教壇に立っていればほんの少しの些細な動作も目についてしまうものなのだろう。
「…………英語は、好きです」
「やっぱり!!」
「……でも、まだ勇気が出ないんです。好きだからこそ、得意だからこそ、プレッシャーになるんです。些細な間違いが気になるんです」
「誰かに馬鹿にされたりでもしたんですか?」
「直球ですね……。いやまあそう……なのかな」
別に、僕は悪口を言われたわけじゃない。
あの一言を言った誰かだって、悪気があったわけではないと思う。
「……あの、私が言っても説得力ないかもしれませんが、『好き』をアイデンティティにしなくてもいいんですよ」
僕が言い淀んでいると、風祭さんは先ほどまでの熱を帯びた雰囲気から一変し、優しい口調に戻っていた。
その言葉を聞いて、一瞬、僕は自分以外の時間が止まったように感じられた。
多分自分が漠然と探していた答えが見つかったのだと思う。
僕は英語が好きだ。
でも、それは僕の全てじゃない。
もしそれが否定されても、僕が否定されたことにはならない。
僕の自尊心は崩れない。
一番になろうとしていたなら話は別だけど、僕が英語を好きになったのは、優れた人間になりたかったからじゃない。
ただ面白かったからだ。
僕は英語を楽しめばいいだけだった。
いつのまにか、それで優れていることが自分のアイデンティティだと、自分のプライドそのものだと思い込むようになっていた。
僕、深海光は、英語で優れ続けていなければならない人間じゃない。
何かを好きで楽しめる人間だ。
「私、面と向かって英語を人に推すことが怖かったんです。それは昔英語に興味を持ってもらえなかったことを、自分に対する無関心だと捉えてしまったからなんです。私の話に興味が無いからといって、私に関心がないとは限らないのに」
「授業中と一対一の会話でキャラ違うのってそういうことだったんですか」
「ええ。授業の主役は私ではなく教科ですから。私はただその教科の面白さを布教すべく、熱意を持って喋っていればいい。授業という体裁の中で、生徒の関心は私には向かない。私は好き放題やれました」
喧騒の中でも彼女の声はハッキリとしていて、それは彼女の意思の強さを示すかのようだった。
「でも、今思えば私のやり方は間違ってたんだと思います。だって、先ほども申し上げた通り、自分の好きなものが自分自身のアイデンティティになるとは限りませんから。もし熱心に話す私の前に無関心な人がいたとしても、その人は私を嫌悪しているわけじゃない。ただ個人の好みとして、私の話すトピックに興味がないだけなんですよね。だから、端的に言えば、誰に何を言われても気にする必要はないんです」
先生はグッと僕に向かって突き刺すような視線を向けて言った。
「だから、遠足が終わってからはガンガンいきます。深海さん含めクラスのみなさんに英語の、勉学の、素晴らしさを伝えまくります」
こうした個人同士の会話ではあまり見ない先生の表情に気圧されて、僕ら三人はしばらく黙り込んだ。
「あ、もちろん。常識の範囲内で、ですが……。そもそも良識のある態度でないと、話を聞いてもらう以前の問題ですから……」
黙っていた僕らを見て気まずくなったのか、先生はいつもの謙虚な様子に戻り、俯きながらしどろもどろに補足を入れるのだった。
圧倒されるほどの熱意があっても、不思議と嫌な感じがしないのは、こうして自制できる真面目さがあるからなのだろう。
そして、そういう理性的な部分があるからこそ、自分と好きなことの繋がりを意識しつつも、前者と後者は違うものだと区別できる。
パッション溢れる人の頭というのは落ち着いているものなのだろう。
僕はいつも感情的で、物事を論理的かつ冷静に考えてこなかったから、自分と自分にまつわるものを分けて考えることができなかった。
「……ありがとうございます、先生」
僕はゆっくりと呼吸をしながら、先生にお礼を言った。
「……それは、よかったです」
先生も僕に伝えたいことが伝わったと気づいたようで、安堵したように息を吐きながら、笑った。
次学校で先生に会ったら、たくさん話を聞こう。
授業でたくさん手を挙げよう。たくさん発表しよう。
失敗して恥をかいたって、僕は英語を好きでいてもいい。
僕を僕たらしめるのは他者の評価じゃない。
好きなものを楽しむことこそが、僕のアイデンティティで、誇りなのだ。
「なんか、二人だけの世界に入ってねえか」
「鈴之助くん、ヤキモチ?」
「そうかも?」
「あら〜」
真剣に話し合っていた僕らのムードを切り替えるように、鈴之助と水萌さんが冗談っぽく割り込んできた。
この二人にも、色々と感謝しないとな。
僕が変われるようになったきっかけをくれた人たちだ。
僕は胸のうちに温かいものが広がるのを感じながら、ふと視界の隅に映った水たまりに目を遣った。
——僕はこれからも、これまで通り、水たまりを踏み歩いて行くのだろうか?




