深海光 第1話: 光る世界
高校一年の二学期が始まってしばらくした頃。
まだまだ衣替えには程遠い、蒸し暑い気温の中、僕はいつも通り憂鬱に、通学路を歩いていた。
昨夜は雨が降ったとはいえ、冷えた感じは全くなく、じわじわと全身に汗が滲んでいく。
ただ、それは耐えられないほどの不快感ではないから、僕の憂鬱をかき消すことはできない。
やはり、僕の頭に渦巻く考えているネガティブ思考の連鎖は、水たまりを踏み歩くことでしか断ち切ることができないのだ。
僕は殊更に深い水たまりを目で探し、そこに向かって足を進めた。
水たまりを踏み歩き始めてから、もう半年近く経つ。
それほどの時間が経つと、大体通学路のどの辺りの水はけが悪くて、どこが窪んで水が溜まりやすくなっているのかが把握できるようになってくる。
だから、水たまりに向かって歩く僕の姿には迷いがない。迷いがないから、近くに誰か通っても、僕がおかしなことをしているのに気がつかない。
僕は水深がくるぶしに届かないくらいの水たまりを踏み歩き、靴下に十分な水分を染み込ませた。
じわじわと足裏の濡れる感触がして、気持ち悪い。そして、とても心地良い。
自分は惨めになるべくしてなっている。自分が惨めなことは決して間違いじゃない。そんな歪んだ肯定感が、僕を満たす。
思わず自嘲的な笑みが浮かんだ。
今日もまた、漠然と不安な一日が始まる。
雨上がりの晴れ空を見上げてそう思った。
その瞬間のこと。
「えいっ!」
僕の真横を、一つの影が凄い勢いで走り——いや、跳び去っていった。
軽やかに、しなやかに、長い黒髪が宙になびく。
そして、僕の数歩先にあったまた別の水たまりに、その影が——少女が爪先から飛び込んだ。
大きく広がって跳ねる水滴がきらきらと輝いて、一瞬、視界が酷く明るくなったような気がした。
少女は不敵な笑みを浮かべながら、確かめるように水たまりの中を覗き込んでいる。
「……なるほど、確かにこれは面白いね!」
僕の方に振り返ると、彼女はサムズアップして得意げにそう言った。
彼女は僕のクラスメイトの夕暮水萌さん。
入学してから一度も話したことはなかったけど、いつも何か面白いことを探してあちこち走り回っている不思議な子という印象だ。
自由奔放ながら成績も良くて、クラスメイトのみならず、教師からの好感度も高い。
なんとなくフィクションのような遠い人だという気がしていた。
「……そーですか」
「そーですね!」
今まで特に関わりが何なかったから、生返事しかできない。関わりがあったとしても、こんな唐突な行動に対して適切に対応できるほど僕は器用じゃないけど。
彼女は水たまりを踏み歩くことを「面白い」と形容しているようだけど、よく分からない。僕にとってこれは面白いとかそれ以前に、ただ必要なものだから。
「でも、ちょっと冷たいね!」
そう言って微笑みかける彼女の視線を受けると、なんだか居た堪れなくて僕は目を逸らした。
改めて冷静になってみると、僕は変なことをしている。少し恥ずかしい。
「幼稚園の頃、泥遊びとかしてた感覚を思い出したよ」
「泥遊び……」
側から見ると、僕の行いはそんなふうに見えていたりするのだろうか。
誰も僕のやっていることなんて気にしていないと思っていたけど、そう考えると、なんだか水たまりを踏み歩くことが躊躇われる……。
僕は、進んで惨めになりたがるくせに、自尊心が高い。
「それじゃ、深海くんも引き続き楽しんで!」
どうやら僕は、道端の水たまりで遊んでいるやつだと思われているらしい……。
夕暮さんは再びサムズアップを僕に向けると、大きく手を振って走り出していった。
また何か面白いことを探しに行ったのだろうか。通学路とは全然見当違いの方向に進んでいる。
ああ見えて無遅刻を貫いているのだから凄い。
彼女自身は無秩序だけど、彼女が秩序を壊すことはない。
自分のやったことにはきちんと責任を持つタイプの人間だ。
それがみんなに好かれている理由の一つなのかもしれない。
僕も責任感は強い方だけど、失敗した時の後始末が怖いから、彼女みたいに大胆な行動を取ることはできない。
……本当は、彼女みたいに生きるのが理想的なのかもしれない。
だけど、理想はあくまで理想で、僕は夕暮さんじゃないから。
僕はこれからも、僕なりの理由で水たまりを踏み歩いて行くのだろう。