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深海光 第10話: 大きな水たまり

 海遊館に入ると、最初に僕らを迎え入れたのは「日本の森」という展示だった。

 水族館といえば連想される色は青だが、僕らの前に続いている景色は深い緑色で、水族館特有の閉鎖感はなく、木々の向こうに世界の広がりを感じさせるような開放感があった。

 騒がしい人混みの合間に聞こえてくる滝の音が心地いい。


「カワウソいるらしいよ、ここ!」

「カワウソか……カワウソって脚短いよな」

「……鈴之助、それは流石に一線越えてないか……?」


 そこかしこでカワウソを探す声が聞こえるが、なかなか見つからない。

 カワウソの展示ブースは中が空洞になっている倒木や洞窟など、身を隠せる場所が多い。

 見せ物にするというよりかは、彼らの住む環境を再現し、訪れる人に理解を深めてもらうというのが主目的であるように感じられる。


「……見えた!」


 水萌さんが岩場を指さして言った。


「もしかしてオモシロセンサーで見つけたの?」

「ううん、単純に目が良いだけ」

「あ、そう……」


 改めて「オモシロセンサー」って言葉は真面目に声に出してみると気恥ずかしい。混雑しているから余計に。


 カワウソの展示を通り過ぎると、順路に分岐が現れた。

 どうやらジンベエザメを飼育している水槽のバックヤード見学ができるらしい。

 当然、水萌さんは目を輝かせている。


「ねえ! 絶対面白いよこれ」

「いいじゃん。行こうぜ」


 幸いもうすぐ次の見学が始まるから、今なら待たずに中に入れるみたいだ。


 ただ、中に入っていく人たちがみんな外国人で、僕は少し躊躇っている。

 もしもスタッフの解説が日本語のみだったら、近くの人に何て言っているのか聞かれる可能性があるからだ。


 でも、鈴之助も水萌さんもすでに参加する気満々だし、ついさっき迷惑をかけた手前、野暮なことは何も言えない。


 二人が僕に参加する意思があるか確認するように、目で促している。


「いいと思うよ」

「よかった。光くんがいないと意味ないからね」

「なぜ……?」


 一瞬僕のことを好いているのではないかと勘違いしそうになったけど、多分そうじゃない。


 水萌さんが僕を指さして言う。


「今、オモシロセンサーが反応しているのは、バックヤード見学っていうよりは、光くんだからね。バックヤードに近づくほどに、光くんが放ってる輝きが増していってるの」

「それはつまり、僕が行けば何か起こる可能性があるってこと……?」

「だね!」


 僕は冷や汗をかいた。


 オモシロセンサーは基本的に予言ではない。水萌さんが主観で面白いと思うことに対して反応するものだから、僕らにとっては何も起こっていなくとも、水萌さんにとっては何かが起こっているという状況もあり得る。

 それでも、彼女が僕に可能性を感じている以上、僕を起点に何かが起こるのは間違いない。

 僕はなるべく何も起こらないことを祈った。


 バックヤードに着くと、早速水槽を上から見渡せるようになっていた。

 壁沿いに通路があり、手すりから少しだけ身を乗り出して水槽を覗けるようになっている。

 全体は十字の形をしているけど、見学ができるのは十字の下側の部分だけらしい。

 それでも水槽の全体は十分見渡せるようになっているし、巨大なジンベエザメが二匹も泳いでいるから、一部分だけでも十分見応えがある。


「凄い!ジンベエザメだよ!二匹もいる!」


 水萌さんが注意されない程度にはしゃいで、僕たちに笑顔を見せる。

 確かに、水族館に来るのは久しぶりだし、加えてバックヤード見学なんて初めてだから、僕もそれなりに新鮮さを感じている。


「……ってあれ、鈴之助くん、どうしたの?」


 水萌さんがそう言って、鈴之助の方を見てみると、なぜか手すりには身を預けず、壁に張り付きながら水槽を見ていた。


「いや……普通に怖くねえかこれ」


 まあ、確かに分からなくもない。

 もし水槽に落ちたらどうなるか、考えてみるとなかなか恐ろしいことだ。

 息ができないかもしれないし、何かしらの魚に襲われるかもしれない。

 でも、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、水槽の中でもがき苦しむ姿を、館内を歩く数多の人間に見られる羞恥だった。

 命よりも自尊心を気にかけるなんて、自分でも病的だと思う。


 でも、いっそ自分の人生に明確な傷を残す大失態を犯せば、自分は一生惨めでいてもいいのだと認められるのではないかという気もする。

 僕が水たまりを踏み歩いて行くのと同じことだ。

 自ら惨めになり、自分は疑いようもなく最低な人間なのだと認められる安心感で、抱えている不安を上書きする。そんな僕の悪癖が極端なところまでいけば、今目の前にある大きな水たまりに飛び込むくらいのことはあり得ないことでもないのかもしれない。

 まさか、水萌さんが僕に感じた面白いことが起きる予感って、そういうことなのか……?

 ……いや、水萌さんはああ見えて世間一般の常識は守る人だ。他人に迷惑をかけるようなことはしない。

 意識的にも無意識的にも、僕が水槽に落ちる事故なんて期待しないだろう。


 僕らはしばらくスタッフの解説を聞き流しながら、水槽の中をまじまじと眺め続けた。

 すると、突然水萌さんの隣に立っていた西洋人顔の外国人男性が僕たちに話しかけてきた。

 その瞬間、僕の鼓動は一気に早まり、呼吸が浅くなった。

 彼が話しているのは英語で、僕たちに「ジンベエザメは何を食べるのかスタッフは話していたか」と聞いている。

 スタッフの解説は結局日本語だけだったから、僕の嫌な予感は的中するのではないかと内心ずっと恐れていたけど、考えていただけで覚悟も準備もしていなかったから、今僕の頭は真っ白になっている。


「あー……どうしよう。私あんま英語喋れないんだけど……」


 水萌さんも困っているようだ。

 ここでサラッと間に入って僕が英語を喋れたらかっこいいのだろうけど、今僕の頭には“I’m”のIすら浮かんでいない。

 英会話の練習を一人でしていたことがあったから分かるけど、二言語以上を同時に考えて、それらを出力するのは至難の業だ。だから、普通はコンピューターの言語設定のように、一方の言語から他方の言語に切り替える必要があるし、それには多少時間がかかる。

 過去のトラウマで頭が真っ白になっているならなおさらだ。

 なんなら日本語でもまともに言いたいことが言えるかも怪しい。


 そうして僕が固まっているときだった。


「あー、あいどんしんく、ざしゃーくいーつ……えーっと、プランクトン?」


 水萌さんがややたどたどしい日本語訛りの英語で「ジンベエザメはプランクトンを食べる」と言った。

 ただし、プランクトンの綴りは”Plankton”で、水萌さんはlの発音がうまくできていなかったから、“Prank?”と聞き返されてしまっていた。意味は「いたずら」だ。プランクトンとは全く関係ない。


「いえす!プランクトン!」


 そんなことも露知らず、彼女は通じたと思い込んで返事をしている。

 その様子を見て、僕は少し頬が熱くなっていた。こういうのを観察者羞恥というのだったか。


 僕らに話しかけた外国人男性は苦笑いを浮かべていて、その表情を見た僕は居た堪れなくなった。

 だから、考えるよりも先に口が動いていた。


“She said plankton.”


 僕がそう言うと、水萌さんが振り返って目を丸くした。


 外国人男性は納得した様子で僕らに礼を言うと、彼の娘らしき小さな女の子に「ジンベエザメはプランクトンっていう小さな生き物を食べるんだよ」と教えていた。


「光くん、英語喋れるんだ!」

「……いや、喋れないよ。簡単なことしか言ってないし」

「でも何というか、発音がめちゃくちゃ綺麗だったよ?」

「発音記号通り話しただけだよ」

「発音記号なんて気にしたことなかった……」


 確かに、中高生レベルの英語なら発音記号なんて覚えなくても、カタカナ英語でなんとかなる。

 でも、僕が真面目に英語を勉強していた頃は、単語を覚えるときに必ず発音記号を同時に覚えるようにしていたから、つい当たり前のことのように話してしまった。


「光くんってテストで英語の点数良かったっけ?」

「別によくないよ。平均くらい」

「へー、勉強したら絶対才能開花するよー!」

「いやいや……」


 水萌さんが僕に憧憬の眼差しを向けている。

 僕はそれを否定するように胸の前で両手を振った。


「才能なんてないよ」

「あるよ!」

「ないよ」

「あるよ!」

「ないよ」

「頑固だなー」

「主張を始めたのはそっちなのに……」


 そうして、しばらく僕が水萌さんと押し問答をしていると、何やら背後から啜り泣きのような音が聞こえてきた。


「鈴之助……?」


 後ろを振り向くと、壁に背をもたれていた鈴之助が、僕らに顔を見られないように明後日の方向を見つめていた。


 鈴之助が泣いているのなんて見たことがなかったから、僕は今かなり動揺している。


「どうした? 体調悪いのか……? どこかで休むか?」

「動けないならスタッフの人呼んでこようか……?」


 僕らがそうやって鈴之助を気遣うと、彼はただ一言「大丈夫」とだけ言って、顔を服の袖で勢いよく拭うと、笑顔を作ってみせた。


 結局、バックヤード見学が終わっても、鈴之助が泣いた理由は分からなかったし、僕らは何事もなかったかのように、再び水族館の順路に戻り、館内を進んでいった。

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