01話 Fランクハンター、崖下で覚醒する
迷宮の中は、蒸し風呂みたいにむわっとしていた。
ぬかるんだ足場、天井にびっしり這う緑色の苔。どこか遠くで、モンスターのうなる声がくぐもって響いている。
「ねえ、あんたさー、魔石ぐらい回収しといてよ。マジで遅いんだけど」
背後から飛んできたのは、冷たい声と、背中をガツンとど突く剣の鞘だった。
「……っ」
よろけた拍子に、魔物の血しぶきが顔面にべちゃり。生臭さとぬるっとした感触が、皮膚の奥まで染み込んでくる。
──九頭龍人。二十歳。Fランクハンター。
ハンター歴は、もう二年。そして今日も、“荷物係”としてパーティに同行しています──。
「ったく、足引っ張んないでくんない?」
そう言ったのは、凪沙。ピンクの髪に黒メッシュ、濃いめのアイライン、ノースリーブにショートパンツという見た目全開のギャル。
性格は悪い。しかし、普通に可愛いからたちが悪い。
「まあまあ許してやれって、凪沙。一応“先輩”なんだからさ」
ヘラッと笑って口を挟んだのは、このパーティーリーダーの光成。金髪ロン毛のチャラ男。テンションも態度も軽くて苦手なタイプだ。男4人に女2人。俺以外は全員Dランク。
──そして俺だけ、唯一のFランク。戦闘外要員、いわゆる“荷物係”。
(……腹は立つ。でも、言い返せねぇ)
実力もない。経験値もない。なにより、立ち場がない。
情けないけど、これが“現実”。少しでも稼ぐために、誰かのPTに混ぜてもらって、雑用をこなす。
──そんな生活を、もう二年も続けてる。
(……我ながら、ほんと情けねぇな)
そんなふうに、自分を笑いかけたその時だった。
「……おい、なんか変じゃね?」
前衛の一人、康則がボソッとつぶやいた。スポーティーに刈り上げた髪、大柄な体格。タンク役の彼は、意外と勘が鋭い。
その視線の先、洞窟の奥の闇。
ずるり、と何かが這い寄ってくるような……ぬるりとした“気配”。
──そして。
「ぐぎゃああああああっっ!!」
咆哮とともに、暗闇の奥から駆け出してくる無数の影。黒い塊が群れになって、まるで暴風のように迫ってくる。
「うそ……湧きすぎじゃんコレ! やばいって!!」
「戻れ! 一回下がるぞ!」
光成が叫ぶ。隊列が崩れ、みんなが一斉に走り出す。
「どうすんのよコレ……っ!」
「いいから走れって!」
ぬかるむ通路を引き返す。視界の先に、崖と崖をつなぐようにできた細い天然の石橋が見えた。
あれを渡れば、ひとまず引き離せるはず──。
だけど、そのときだった。
「──ッ!」
凪沙が足を滑らせた。
崖の端、足元の岩がパキッと音を立てて崩れ──
「いやっ、やだっ!!」
誰も、動けなかった。いや──誰も、動かなかった。
「た、たすけてッ……光成っ!!」
凪沙が手を伸ばす。けれど、光成は──他の仲間たちも──そのまま走り去っていった。
そのとき、俺は──。彼女の目と、目が合った。
合ってしまった。
絶望に染まったその瞳に、思わず足が止まった。そして気づけば、俺は走り返していた。
「──えっ!?」
崩れる足場。落ちかけていた凪沙の腕をつかんで──力任せに放り上げる。
代わりに、俺の体だけが残った。
(……なにやってんだ、俺)
まるで映画のワンシーンみたいなバカな真似をしたことに、今になって気づく。背後では、迫っていた魔物の群れで石橋が崩壊していく。
──視界がぐるりと反転した。
重力に引かれる。浮くような、沈むような感覚。
地面が、ぐんぐんと遠ざかる。
(……ああ、マジで……死んだな)
──このときは、まだ知らなかった。
崖の底で喰ったあれが、すべての始まりだったことを。
* * * * *
土の匂いがした。いや、それは、血の匂いだったかもしれない。
身体のあちこちが痛む。いや、痛むというより、“鈍い”……骨が無理に動くたびに、どこかが軋んで鳴る。
(……俺、生きてる?)
ゆっくりと目を開ける。薄暗い、岩壁に囲まれた空間。上を見れば、天井の裂け目からほのかに光が差し込んでいた。
崖だ。あの魔物の群れに追い詰められた末、俺は凪沙を助けて──崖の底に落ちた。
その後の記憶は、なぜか霞んでいて、うまく思い出せない。気づけば、喉が渇いていた。胃がきしみ、腹がぎゅるぎゅると音を立てる。
(……腹、減ったな……)
──そして、重い。
足が折れているのか、膝から下に感覚がない。腕には擦り傷だらけ。背中は岩にぶつかったのだろう、打撲でじんじんする。呼吸も、苦しい。肺が圧迫されているのか、息を吸うたびに咳き込んだ。
それでも、俺は生きていた。
「っは……はは……やば……まだ生きてんのか、俺……」
笑いが出た。喉がひりついた。けれど、嬉しくなんかなかった。
誰も──助けに来ない。
なんとなく分かった。アイツらは見て見ぬふりをして、俺なんか探しには来ない。
あの、ギャルの凪沙──一度も名前すら呼んでくれなかった彼女を助けても、たかが荷物持ちを救いには来ない。
──ポーチに、何かが当たる感触。
ごそりと手を伸ばして探ると、腰にぶら下げた小さな革製のポーチが見つかった。
(……魔石……か)
中には、Eランクの魔物から採取した魔石が5つ。美しく光る、紫がかった不規則な結晶。換金すれば、一本数万は堅い。それがどうしたって話だ。
金なんかより、今は水と食料が欲しい。
(……喰えるもんなら、喰いてぇよな)
冗談のつもりだった。空腹が過ぎて、湧き出た言葉だった。
でも、気づいたときには、指が魔石をつまんでいた。
「……変食野郎、か」
自嘲のように呟いた。俺の異能。
ハンターに覚醒したとき、つまり18歳のときに発現した──異能《悪食》。毒も腐敗も、喰えるらしい。
……だからなんだってんだ。
何度も検査を受けさせられた。“食えるだけ”って結論が出るまで。
結果は「使えない異能」として終わった。だから、バカにされてきた。
「うわ、キモい。魔物の肉を食べるとか引くなぁ」
……食いたくて食ってんじゃねぇよ。
「あの“悪食”? クソみたいな異能だよな!…むしろ、ない方がマシでしょ!」
……クソが。
それでも、俺はハンターになった。少しでも強くなって、金を稼いで──モテたかったから。
分不相応にも、芸能人レベルの女性と付き合いたい、なんて夢を見た。大学のミスコンで優勝した先輩に憧れて、どうせ今の俺なんか相手にされない。ならせめて“価値ある男”になろうと。
(なのに俺、何してんだろうな……)
涙がにじんだ。
唾を飲む音が、やけに響いた。
気づけば、魔石をゆっくりと口に運んでいた。
……硬い、冷たい。
「俺は、バカだな」
歯を立てる。硬い。歯が欠けたかもしれない。
──でも、喰える。
嚙み砕いた瞬間、金属とも違う、鉱石とも違う、何か異様な“熱”が口の中に炸裂した。
内側から、火が灯る──違う。
爆ぜるような熱が、喉から胸、腹、全身を駆け巡る。
(っ……あ、ついな……)
皮膚の下で何かがうごめく感覚。筋肉が膨張し、骨が軋む。
まるで、自分の身体が──作り変えられている。喰った魔石が、俺の中で何かを“上書き”しているような。
体の奥に、もう一人の自分が目を覚ましたような──そんな感覚があった
空腹は、まだ消えてない。
もうひとつ、魔石を口に放り込む。三つ目も、ためらいなく飲み込んだ。
(……俺の、体……どうなってんだ?)
震える手で最後のひとかけらを口に放り込んだ瞬間、全身が焼けつくような熱に包まれた。
視界が、白く、溶けた。
──そして、暗闇の中。
意識が落ちていく。
俺は、灼熱の中で──眠りについた。