君が誰かの彼女になりくさっても
けたたましくスマホの着信音が鳴り響く。
飛び起きて画面を確認すると、來海からだった。
すでに深夜二時だ。
それでも思わずタップしてしまい、スマホを耳元にあてる。
懐かしい声だった。半年ぶりだ。
「晴君…」
「うん…」
寝起きで判然としない頭では、頷くのが精一杯だった。
半年ほど前、來海から好きな人が出来たのだと一方的に告げられた。
こうと決めたら取りつく島などない來海の性格を、僕は一番よく知っている。二人で暮らしたこの部屋を、來海が出て行くかたちで話は纏まった。
その相手の男とは今後どうなるのかも分らないのだから…、そう喉元まで出かかって呑み込んだ。今さら言ったところで、來海の気持ちはもうここには無いのだから。
綺麗に半分片付いた部屋の玄関で來海を見送り、「それじゃ、元気で…」そう別れの言葉を口にする。これも精一杯の強がりのつもりだった。
ベッドの上で胡坐をかいて壁に凭れる。それからスマホの向こうの來海の事を想う。
「晴君…」
來海がもう一度繰り返して、僕は來海に訊ねる。
「どうした? 何かあった?」
來海は呼吸を整えるように、小さく息を吸い込む。何か言い出す時の來海の癖だ。
「晴君、今何してた?」
「夜中の二時だよ…、眠ってたよ…」
「私、今テレビ観てた。水晶浜の事やってた…。それで晴君のこと思い出して…」
二年前、深夜の高速を飛ばして二人で福井県の海に出掛けたことがあった。
夕食中に突然、日本海が見たいのだと來海が言いだしたのだ。
はじめこそ僕の方が乗り気ではなかったけれど、言い出したら聞かない來海に押し切られるままに、車を走らせた。とにかく走り出せば、途中で來海の気持ちも落ち着くだろうと高を括っていた。でもおかしな事に、結局その日は、僕の方の気持ちがいつの間にか昂り出してしまっていた。気がつけば六時間かけて福井県にまで足を延ばすに至ったのだった。
水晶浜に到着したのは夜中の三時を過ぎた頃だった。
海水浴場の駐車スペースに車を停め、我々は少しだけ仮眠をとることにした。
五時ごろ再び目を覚ますと、うっすらと夜が明けようとしているのが分かった。
まだ眠りについている來海を揺すって起こし、二人で砂浜を歩く。九月に入った浜辺にはひと気も無く、同じ調子の波音が静かに繰り返されるだけだった。
僕の知る日本海の荒々しさなんて微塵にもなく、凪いだ海の向こう側が少しずつ明るくなってくるのが分かった。
來海が小さく息を吸い込み、僕に言う。
「夜が終わっていくね…」
「夕食を食べ始めた時、まさかこんな朝を迎えるなんて考えもしなかった」
「来て良かったね」
「うん」
僕たちは凪いだ海と静かな空を眼前に、ただただ立ち尽くしていた。辺り一面に光が射すと、海水の透明さに二人で驚く。でもその後は僕も來海も押し黙った。あまりの美しさに言葉が出なかったのだ。
「晴君、おぼえてる?」
來海が僕に訊ねる。
「うん、覚えてるよ」
「行きたいって言ったのは私の方だったけど、途中からは晴君の方がノリノリだったね」
「そうだっけ…」
こうして通話していると、半年という時間の経過もすぐに吹き飛んでしまうみたいだった。耳にスマホを押し当てたまま、キッチンに向かい、冷蔵庫の扉を開ける。
何か飲み物をと思ったけれど、結局思い直して冷蔵庫の扉を閉める。ふいに流しのフックに掛けたままのフライ返しが目に留まる。そのフライ返しは、唯一來海が忘れて行ったものだった。
僕はスマホの向こうの來海に向かって笑い掛ける。
「カジャクリ」
來海も笑って返す。
「フライ返しでしょ?」
二人で暮らし始めた頃、意気揚々とキッチンで目玉焼きを作り始めた來海が、完成間近で慌てふためいていた。
僕がどうしたのかと尋ねると、來海はおたおたと僕に問いかける。
「カジャクリは?」
「カジャクリ?」
「知らないの? カジャクリ」
來海はフライパンの上で目玉焼きを返すジェスチャーを、少しだけイラつきながら繰り返す。
僕は笑って來海に返す。
「それ、フライ返しでしょ!」
僕も來海もどういう訳かフライ返しを持ってはいなかった。これまでお互い一人暮らしだったにも関わらず、不自由しなかったのが不思議だ。とにかく我々の生活のスタートは、終始こんな感じでチグハグと足りないピースを合わせていくような具合だった。この時にしても、結局目玉焼きはフライパンのヘリを使ってひっくり返し、僕たちは美味しく食べるに至ったのだ。
食事を終えた後、そのままでは納得がいかない來海に促され、キッチン用品をそろえるために百円ショップに出掛けることにした。
來海は一目散にカジャクリを探しに走る。僕が來海の背中を追いかけてキッチン用品の棚に辿り着くと、來海は悪びれもせずカジャクリのタグをかざして僕に見せる。
「晴君、このカジャクリ、フライ返しって書いてある」
僕も來海もケラケラと声にして笑い合った。
あの頃、僕たちが始めたこの暮らしが、いつの日か終わりを迎えることなんて、想像すらできなかった。
僕はキッチンの壁にぶら下がったカジャクリを手に取り、二人掛けのダイニングテーブルの椅子に座る。二人だけの小さな食卓。あの海に出掛けた時も、この小さなテーブルから話が始まったのだ。
考えてみれば、來海がこの部屋を去ってから、初めてこの椅子に座ったことに思い至る。買ってきた日用品をこのテーブルに乗せることはあっても、ずっとこの椅子に座ることは無かった。
カジャクリを手に、しばらくそれを弄び、見つめていた。静かな夜だった。通りを走る車の音が、時折この部屋にまで届いた。
「静かだね…」
來海が言った。
「そっちの方も…」
僕は返した。
來海も部屋で一人なのだろうか。いや、考えるのは止そう。我々はもう終わっているのだから…。
テーブルの向かい側に來海は居ないのに、その声がすぐ側にあることが、ひどく不思議な気がした。壁時計で時刻を確認すると、短針は二時半に向かっているのが分かる。せめてこの場は僕の方から…、そんな風に自分に言い聞かせる。一呼吸置き、僕は意を決し、來海に伝える。
「もう眠らなきゃ…」
來海は頷き、ゆっくりと息を吐き出すのが分かる。來海が泣きだす時の、いつもの癖だ。
間髪を入れず、僕は來海に訊ねる。
「來海、幸せか?」
「うん…、幸せ…。ちゃんと、幸せだよ…。 晴君は?」
「うん、僕だって、ちゃんと幸せだよ」
少しだけ声を震わせ、來海がそれじゃあ、と口にする。
僕が頷いたままその後も押し黙っていると、來海はすすり上げ、少しだけ笑う。
「晴君から切って…」
小さな沈黙が僕と來海の間を分けていた。
「うん、分かった…」
僕は答え、それじゃあ、と言い残してスマホの画面を静かにタップする。それからダイニングテーブルの椅子に座りながら、独り言ちる。
「眠れるわけないよ…」
もう一度カジャクリを両手で弄び、しばらく物思いに耽る。始まることも、終わることも、いつも來海の方からだった。僕がその気になるころには、いつだって來海は違うところを見ている。振り回されるのは、いつも僕の方だ。それでもさっき、來海にしては珍しく晴君から切ってと言っていた。きっともう來海からの電話は掛かってこない。そんな気がしてならなかった。これで良かったのだと、何度も自分に言い聞かせる。
カジャクリの柄を人差し指で弾き、カーテン越しの夜空を想う。
あのとき明け方の砂浜で、來海は夜が終わっていくね…、そう僕に言った。朝が来るのではなく、夜が終わるのだと。
そんな風に話す來海のことが、僕はずっと好きだった。来たる朝に高鳴るよりも、今この夜を静かに、惜しまれるみたいに話す來海のことが。