200.あばよ
地下と言えど、地面の下という感じは全くしない。
その構造物の作りは古風な、おそらくは20世紀初頭の屋敷の中を模しているように見えた。
アラタは今、地面の下にいるのだ。
アルカディアでないどころか、シャンバラですらない。
どの領域でもない場所にアラタはいる。
物質世界だ。
実現できるなんて半ば思っていなかったが、どうやら願いの種子とやらはアラタが思っていた以上に万能だったらしい。
アラタがいるのは本当の地球の、本当の地面の下だった。
人間の世話係として配置されているヒューマノイドの一体に意識を移し、赤い絨毯の敷かれた廊下を堂々と歩いている。
今のヒューマノイドの見た目は、シャンバラでのアラタと何も変わらない。
機能のひとつとして見た目を自由にいじれるらしい。
皮膚の質感、髪の毛、身体の作り、すべてが再現されている。
それどころかご丁寧にメガネまで用意してあった。
操作している感触も操作しているという感じはしない。
自分の身体そのものだった。
なぜアラタが地球にいるのかと言えば、願ったからだ。
ヴァン・アッシュとの再会を。
本物の、物質世界のリアルなヴァン・アッシュとの再会をだ。
ヴァンに会うための条件はすべて願いの種子が叶えてくれた。
そうやってアラタは地球にある、ヴァンの住居まで来たのだ。
願いの種子が用意してくれたのは意識の移動に身体だけではなく、ヴァンのところへ行く手筈まで整えてくれているらしい。
給仕らしきヒューマノイドとすれ違ったりする時もあったが、アラタなどまるでいないかのような扱いだった。
感知されていないのか、それとも話が通っている故に無視されているのかわからないが、ヴァンの元へたどり着くまでに面倒はなさそうだった。
まったく大したサービス精神だ。
等間隔で扉が配置された廊下を行く。
かなりの数の部屋だった。
ここはヴァンの居宅というわけではなく、何かの施設なのだろう。
アラタは網膜に映っているのと同じように見えるマップを頼りに進んだ。
ヴァンのいる場所まではもういくらもかからない。
なんでも叶う願いをなぜこんなことに使ったのか、アラタは自分でも説明できなかった。
ただ浮かんだ願いを口にした。それだけのことだった。
しばらく歩いて、アラタは目的の扉に辿り着いた。
他の扉と全く変わらない扉。
見た目は木製に見えるが、ドアノブを握ってみるとそれが本物の木ではないことがわかる。
ノブを回してからノックをしていないことに気付いたが、アラタはもうそのまま開けてしまうことにした。
そこは、こじんまりとした部屋だった。
家具も装飾も最小限で、部屋の奥には大きなベッドが見えた。
「来たか、アラタ」
その言葉から、アラタの来訪は伝わっているのがわかった。
それにしてもずいぶんなしゃがれ声だった。
ベッドの背もたれが持ち上がり、そこに寝ている人物の姿が見えた。
その姿に、アラタは途方もない衝撃を受けた。
老人だった。
肉はほとんどなく、骨と皮だけに近い。
体中によくわからないチューブが繋がれ、まともな状態でないのは一目でわかる。
髪の毛も真っ白で薄い。頬は痩け、ベッドにもたれかかっていないと頭を固定していることすら難しそうに見えた。
ただ、眼だけは別だった。
瞳の奥に、死にかけの老人とは思えない鋭さがあった。
その鋭さは、ヴァン・アッシュのものに違いなかった。
「驚いたか? 俺の姿に」
「遊戯領域と実際の姿が違うのには慣れているつもりです」
アラタは強がって見せた。
それに対してヴァンはふん、と息をついてみせた。
「それにしても、えらくつまらないことに願いを使ったものだな」
「僕はつまらないとは思っていません」
アラタは入口の近くにあった椅子を、勝手にベッドの近くへ移動して腰掛けた。
「それで? 何をしに来たんだ? データ世界の住人がこの地球に」
「話しに」
「話しに、だと?」
「だって、十年以上ぶりの再会なのにアルカディアでは全然話せなかったじゃないですか」
ヴァンはアラタの答えを聞いて、目を見開いていた。
「そうか、確かにそれはそうだな。しかしそんなことに願いを使うとは」
「あぶく銭みたいなものですよ。それに、僕はこうしたいと思ったからその通りにしたんです」
ヴァンは呆れたように笑ったが、その笑みはどこか嬉しそうにも見えた。
「わかった、勝者の権利だ。付き合ってやろう。何から話したいんだ?」
アラタは、拒否されるかもしれないとも思っていたのだ。
アラタはヴァンが受け入れてくれたことに、どうしようもないほど喜びを感じていた。
それを顔に出さないようにするには、大変な努力が必要だった。
「そうですね、まずは昔話でもどうでしょうか?」
アラタとヴァンは話した。
エバーファンタジー時代の馬鹿な思い出。
この十年間でやってきた遊技領域の話。
初めのうちは二人が同じくらい話していたが、いつの間にかアラタが話し手になり、ヴァンが聞き手になっていた。
アラタは話した。
引きこもっていた時代にやっていたソロゲーの話を一通りしたあと、話はアルカディアに来てからの話になった。
いきなりPK魔と勘違いされてまったくパーティが組めなかったこと。
ログアウトできずに必死だったこと。
何人も仲間が、友人ができたこと。
アルカディアでなくシャンバラで現実世界の仲間とあってみたこと。
中でもキョウでは大変だったこと。
本当に色々な話をした。
そんなアラタの話をヴァンは聞いていた。
たまに質問をしたりもしたが、基本的には聞き手に回っていた。
その様はまるで孫の話を聞く老人のようだったが、アラタはそんな様子にも気付かず夢中で話していた。
「……というわけで、ユキナは今も僕の個人領域に――――師匠?」
ヴァンの目が、閉じかけていたのだ。
「ああ悪い、なんの話だった?」
ヴァンは、自分でも驚いたように目を開けた。
アラタは話すのに夢中になっていて、今のいままで気付かなかった。
ヴァンは消耗しているように見えた。
アラタの話を聞いているだけなのに。
ヴァンの姿を見て、すぐにわかった。
とてもまともな状態ではないと。
それでもヴァンのことだから、そう見えても余裕なのではないかと思っていた。
アラタの中では、ヴァンはスーパーマンなのだろう。
しかし、そんなことはなかった。
ヴァンだって人間だ。それも実際に肉体を持った物質世界の人間だ。
どんな人間も、世界の理に逆らうことなどできない。
だからエデン人の話になどのったのだろう。
自分に残されている時間がわかっていたのだ。
アラタは唐突に、ヴァンをシャンバラに誘いたい誘惑に駆られた。
一時的にアクセスするのではなく、永久的に意識を移すのだ。
できるはずだ。
シャンバラはそうして生まれたのだから。
シャンバラに来れば若返り処置だってできる。
寿命だって存在しない。
しかし、アラタにはヴァンが絶対にそうはしないだろうという確信があった。
ヴァン・アッシュはそういうことはしない。
アラタの中では、そういうことになっている。
そしてそれが正しいからこそ、ヴァンは今もこうしてここにいるのだろう。
アラタはヴァンをシャンバラに誘いたい気持ちを抑え、別の言葉を口にした。
「そろそろお暇しようかと思います。師匠もお疲れのようですしね」
「そうか」
ヴァンはそれ以上は何も言わなかった。
アラタは立ち上がって踵を返す。
「それじゃあ、また」
それだけ言って歩き出した。
「また」がないのはわかりながらもそう言った。
アラタがドアまで辿り着き、ドアノブを握ったところで、その背中に声がかけられた。
それはアラタに届いてもいいし、届かなくてもいいと考えているようなささやき声だった。
その声は、去りゆくアラタにこう言った。
「あばよ」




