197.彼の望まないすべて
扉をくぐったアラタを迎えたのは、拍手の音だった。
単独で、しかも反響しないせいか妙に小さく聞こえる。
「見事だったよ、アラタくん」
老人は、最初から姿を現していた。
偽物の老魔法使いは、アラタを見て実に満足そうにしている。
「ようやくアナタを攻撃できる時が来ましたか?」
アラタはほとんど冗談のつもりで言ったが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「その通りだ。これからいよいよ私とやってもらうことになる」
「ほう、僕の願いが叶うってわけですか」
老人は笑い、
「キミの願いが叶うのは私に勝ってからだよ」
「じゃあアナタへの憂さ晴らしはサービスでやらせてくれると」
「試練だよ」
「わかってますよ」
老人の顔は笑っているが、目は笑っていなかった。
「それにしてもキミがあのヴァン・アッシュに勝つとはな。まだ最後の試練を残しているが、既に十分見られるものになった」
「例の見世物の話ですか?」
「ああ、この一連の物語とキミの名は歴史に刻まれるだろうよ」
「では、それを台無しにしようと思います」
「なに?」
「僕はこれから最後の戦いをするわけだ。最後なら、アナタはさぞ強敵ということになっているのでしょうね」
「それは期待してくれていい」
「じゃあ僕は一切苦戦せずにアナタに勝ちますよ」
「この会話も記録されているんだ。ビッグマウスは恥をかくぞ」
「恥をかくのはアナタですよ。アナタには歴史に残る道化として完敗してもらいます」
老人は声を出して笑った。
「威勢がいいのはいいことだな! まあ、あのヴァン・アッシュをやったあとでは天狗にもなるか」
アラタは自身の状態を確認する。
アラタのダメージは耳が千切れているだけでそう大きなものはない。
他の領域だとわからないが、このアルカディアでは片耳が千切れているのはそう大きなダメージではないのだ。
問題になるのは回数制のスキルはほぼ全て使い切っているという点だ。
それでもアラタはやらなければならない。
圧勝しろ、というのが師匠命令だ。
アラタの戦意を察したのだろう。
老人がその手でアラタを制した。
「待て。満身創痍で戦わせるわけにはいかない」
老人がそう言うと、アラタの身体が淡い光に包まれた。
邪悪な感じは一切しない。痛みもなくHPが減っている様子もない。
それどころか、回復している。
「回復しておいたぞ。スキルの使用回数も戻っているはずだ」
老人が何を言っているのかわからず、アラタはつい聞いてしまった。
「これで負けたら世紀のアホとして歴史に名を刻めそうですね」
「いや、勝ってもらわなければ困る」
「ふざけているのですか?」
「大真面目だ。ここまで来て敗北では興ざめだからな。だが、可能な限りの苦戦はしてもらうつもりだ。この試練はそういう設定になっているんだ」
「見世物として、ですか?」
「そうだ」
「では突然僕が自殺でもしたらアナタは困るわけだ」
「しないだろう? ヴァン・アッシュの敗北を無駄にするのか?」
まったくもって気に食わない。
ヴァンの名前を出すのも、無駄にするのをアラタの勝利ではなくヴァンの敗北と言ったのも、全てが気に食わなかった。
「僕はアナタのことが大嫌いだ」
「そうか。私はキミのことが大好きだよ。ヴァン・アッシュにキミを選ばせたのは実に正解だった」
老人が笑った。
「それでは、良い勝負をしよう」
老人の気配が変わった。
理由は説明できないが、超常的な存在だったものがただの敵に変わったような、そんな感覚だった。
そして、その時にはもうアラタは縮地を切って間合いを詰めていた。
アラタは最速の動きで老人の襟首を掴みにかかる。
掴めた。
今までに老人に触れられたことは一度もなかった。
それが今は老人の服を掴むことができた。
これはつまり、攻撃が通るのを意味しているはずだ。
老人から驚きの気配が伝わってくる。
この動きは老人にとって予想外のものに違いない。
身体が突如グンと引っ張られる感覚。
それでもアラタはその手を離さない。
暗黒だった周囲の景色はいつの間にか廃墟の群れへと変貌し、その景色がすっ飛ぶような速度で流れている。
いや、実際にすっ飛んでいるのだろう。
老人が高速で飛んでいるのだ。
CLOWN-RES:その手を離せ!!
ARATA-RES:敵の嫌がることは進んでやることにしているんです。
Gのかかり方が横軸から縦軸へと変化した。
急上昇の気配。
老人が上空へ上がっているのだろう。
CLOWN-RES:こんな! こんな間抜けな最終決戦があってたまるか!! 手を離すんだ!!!!
老人の念信からは迫真の気配が伝わってくる。
アラタは老人にしがみついたまま上昇を続けていた。
この展開が老人の望んでいないものなのは確実だ。
ここから何をどう組み立てれば圧勝へと繋げられるのか。
そこでふとアラタは思いついた。
老人は、本当にアラタの勝利を望んでいるのだろう。
この一連の流れを一つの物語とするために。
そんな老人が最も望んでいないのは何か。
それは、アラタの馬鹿げた敗北だろう。
アラタの直感が、全てを賭けろと告げていた。
ARATA-RES:わかりました。じゃあ離しますよ。
アラタは老人を掴んでいた手を離した。
さて問題だ。
上昇していく飛翔体から手を離したらいったいどうなるのか。
答えは簡単。
当たり前に落ちる。
アラタは惰性で僅かに上昇し、そこから落下し始めた。
アラタの目に老人が上昇をやめるのが写った。
そして、その表情が信じられない絶望を目にして歪むのも。
落下するアラタを追って、老人が下降を始めた。
アラタは身体をコントロールして老人に背を向けるように向きを変えた。
CLOWN-RES:待て!! ふざけるな!!
老人の念信から伝わる気配は、もはや悲痛とさえ言えた。
アラタは念信には応えずに動く。
老人に見えないようにして、アラタの手は動いていた。
落下まで数秒もない。そんな中、アラタの両手が超高速で印を結んでいた。
勘だけで老人の接近を予測し、空力をうまく使って身体を回転させ、老人の方を向く。
老人がアラタを救おうと間近まで接近していた。
老人はアラタの狙いに気付いたであろう。
だが、気付いた時にはもう遅い。
ARATA-RES:僕を助けようとしてくれてありがとう。
印は既に結び終わり、アラタは両手を重ねて照準を定めている。
ARATA-RES:そしてさよなら。
老人の顔には、真に絶望した者しか浮かべられない表情が張り付いていた。
発声する。
「神雷」




