195.考えることはなく
アラタは一歩一歩と近づいてくるヴァンの歩みを見ていた。
ここからは茨の道だ。
少しでも集中が欠ければ瞬く間に敗北が押し寄せて来るだろう。
アラタは自らの意識を沈めるかのように集中した。
深く、深く、どこまでも深く。
アラタまであと数歩といったところで、ヴァンがいきなり加速した。
バトルログには当然のようにオーバーロードの文字。
ヴァンの踏み込みは容赦がなく、どうしようもないほど鋭かった。
一瞬で間合いを詰められ、ヴァンの拳がアラタへと襲いかかる。
アラタは紙一重でヴァンの拳を躱すが、避けたにもかかわらず頬の肉が薄く抉られていた。
アラタはそんな結果を無視して動き続ける。
無慈悲に続くヴァンの猛撃を、アラタはただ身体が反応するままに躱した。
アラタはもう、本当に何も考えていない。
超高速で襲い来る死をひたすらに避け続けていた。
ヴァンの重心の変化、筋肉のおこり、それらを無意識下で判断して動きを先読みしている。
が、アラタは自分がやっていることにも気づいていない。
ただ避ける、アラタはもうそれだけの存在と化していた。
回避に集中する以外にさけるエネルギーがどこにもないのだ。
ヴァンの攻撃にしても、完全な先読みに成功してなお回避しきれているわけではない。
ヴァンの攻撃はクリーンヒットこそしていないが、アラタの肉体を確実に削っていた。
それでも物理的にそうするしかないのだ。
速度の差はやはり絶望的だ。
反撃など夢のまた夢で、死なないだけで奇跡としか言いようがない。
こんな攻防がどこまで続けられるのか、アラタもヴァンも互いにわからなかった。
それでもアラタは何も考えない。
ほぼ全てを自らの肉体に丸投げし、意識は動きを阻害しないように深く集中するだけ。
ひたすらに今まで積み重ねてきたものを信じて。
ひたすらに己の直感を信じて。
暴風が如き鬼の攻めを、アラタは回避し続けていた。
ヴァンの攻撃がない瞬間はひとときもなく、アラタが止まることを許される瞬間はひとときもない。
端からは人間同士の戦いには見えない、そんな戦いが繰り広げられていた。
ヴァンのオーバーロードが始まってから七秒が経過していた。
耳先、頬、肩口、ヴァンの拳がアラタの肉体を削るが、決定打はひとつもない。
アラタは虚ろにすら見える瞳で、人間とは思えない反応速度で攻撃を回避し続けている。
この七秒で、アラタの意識は加速度的に研ぎ澄まされていた。
その頭の中にはもう、攻撃を回避するのに必要なもの以外は何も残っていない。
もはや自分がどこにいるかもわかっていない。
なんのために戦っているかもわかっていない。
それどころか、ほんの、ほんの僅かに残っていたアラタの意識が、ふとこう考えた。
――――ぼくは、だれとたたかってるんだっけ?
それもすぐに手放される。
***
ヴァンからすれば、初めは冗談だと思った。
一方的な加速を許して無事でいることなど正気の沙汰ではない。
それくらい前提条件として無理がある。
だからまた何かの小細工だと思ったのだ。
それなのにアラタは宣言通りに神威を切らずに受けに回っている。
目の端でバトルログを確認しても、アラタがスキルを使った形跡は見られない。
アラタがトチ狂ったのかと思ったが、オーバーロードを切ってから二秒で全てを察した。
仕留めきれない可能性がある。
何をどうしてこうなったのかはわからないが、ヴァンが今相手にしているのは直感の化け物だ。
攻撃の全てが読まれているとしか思えない。
アラタはそういう動きをしていた。
フェイントも無駄、重心の誤魔化しも、視線での撹乱も何も通用しない。
アラタの目線に焦点はなく、どこを見ているかも判然としないくせに反応だけは激烈に早い。
人間の相手をしている気がしなかった。
今のアラタの動きは格闘のセオリーを逸脱している。
型にハマらず、常に最善最速の動きをノータイムでしてくる。
絶対に直撃を許さない、そういったルールのもとに動くシステムと戦っているような気がした。
ヴァンは左右での打撃を中心に、僅かな隙でも見せればそこから掴みに行けるよう攻めてはいるが、アラタの側には微塵の隙も見当たらない。
削れるのは薄皮ばかり。
これでも領域の性質上ダメージは入っているはずだが、そんなダメージでアラタを倒そうと思ったら何時間もかかることになる。
オーバーロードの効果時間は残念ながら30秒で、そんな時間をかけるわけにはいかなかった。
ヴァンの本能は、はっきりと不利を感じていた。
それでも黙って効果時間を終わらせるわけにはいかない。
ヴァンとて百戦錬磨だ。
これまで積み上げてきた技術と経験がある。
10秒が経過した頃に、ヴァンは賭けに出た。
隙が出来るのを承知で攻め手の圧力を増し、アラタの動きを制限しにいった。
今のアラタは即攻めには転じない、その読みに賭けて。
アラタはヴァンの左手を、今までよりも大きく躱した。
嫌になるほど正しい動きだ。
そうしなければヴァンの左拳は変化し、アラタの顎先をギリギリでかすめていたはずなのだから。
どうしようもなく正しい動きだが、この初手に反撃を差し込まれなかった時点で、ヴァンは有利を確信した。
アラタはヴァンの狙い通りの動きをした。
完全に正しい動きだが、それだとヴァンの右手の回避が間に合わないのだ。
ヴァンはそのようにアラタの行動をコントロールした。
実際それ以外にしようがないのだ。
全ては速度差の問題だ。
どれだけ完全完璧な動きをしようと、絶対的な能力差という壁がある。
ヴァンはその差をこれ以上ない形で利用したのだ。
ヴァンの右手が平手のまま、アラタの左顔面に迫った。
その右手は、僅かに空洞を作ったまま、アラタの左耳に直撃した。
確実に鼓膜を破った手応え。
ヴァンはそのままアラタの左耳を掴み、引き寄せて全てを終わりにしてしまおうとした。
その手応えに、刹那ではあるがヴァンは固まった。
耳が裂けて千切れようとしていたのだ。
ヴァンが手を引くのに合わせてアラタは首を振り、自ら耳を千切っていたのだ。
ヴァンのコントロールから逃れるために。
痛みが少ない領域だからこそできた芸当か、それとも今のアラタにそんなことは関係ないのか。
刹那の隙に、アラタは容赦なく割り込んできた。
ヴァンの左手は、黒いオーラのようなものに包まれている。
黒葬の準備段階だ。
耳ごとアラタの身体を操って隙を作り、ある程度の範囲攻撃である黒葬で決めるつもりでいたのだ。
その左手が、アラタに捕獲されていた。
手首ごと返され、黒葬の照準がヴァンの顔面に向いていた。
どういう動きだ。
ヴァンは驚愕せざるを得ない。
この一連の動きをすべて直感でやったのか。
動きに淀みはない。
感情すら感じさせない。
アラタは、自分の弟子だった男はいったいどこにたどり着いたのか。
途方もない現象を相手にしているような無力感すら感じた。
黒葬のキャストを中断し、力の流れを利用して左手の拘束をはずす。
アラタの方も無理に攻めては来ず、再びヴァンの猛攻が始まった。
無意味な攻撃であるのはわかっていた。
ヴァンはもう、自分の攻撃が届くことはないのだと理解していた。
時間は無慈悲に経過する。
オーバーロードの終了時間まであと5秒もない。
ヴァンは最後まで手を緩めずに攻めるが、ヴァンの攻撃がアラタに届くことはなかった。
そうしてヴァンのオーバーロードが終わると同時に、バトルログにある一行が表示された。
そこには、こうある。
ARATA-CAST>>神威。




