183.親切
アラタとイオリの二人が、漆黒の闇の中に立っている。
お互い、まだ構えてはいなかった。
「そろそろ始めてもいいけど、その前にメガネは取ったほうがいいかな」
イオリが言った。
「トレードマークなんですよ、これ」
「でも危ないよ? 割れて目に入ったらしっかりダメージになる。ここはそういう領域だ」
「構いませんよ。まだそうなったこと、ないですから」
イオリが苦笑いを浮かべる。
この戦い、知識の面ではアラタにアドバンテージがある。
なにせアラタはイオリの戦いを追想しているのだ。
イオリの体術はどちらかというと武術や格闘技に頼るタイプではない。
卓越した戦いのセンスが結果的に技術と合流している場合はあるが、特定の型を持った相手ではないのだ。
ただしその体術は抜群で、記録の上でもほとんど負けたことはなかったはずだ。
今のアラタがそれを上回れる保証はどこにもない。
それに対してイオリはアラタのことを知らない。
さっきまでのやり取りが演技とは思えないからだ。
事前にアラタの記憶を読み取って情報を得ているということもないだろう。
そこにアラタとイオリの差がある。
「じゃあ、やりますか」
アラタは緩く構える。
抜刀はしない。
アラタは刀剣術を学んだわけではなく、刀は体術の延長として使っているだけでしかない。
そんな付け焼き刃の技術がイオリに通じるとは思わなかった。
それに、見たところはイオリも素手だ。それなら純粋な格闘でやりあえばいい。
「よろしく。楽しませてくれよ」
イオリは構えずにゆるりと歩き出した。
一歩、二歩と暗黒の中をアラタに向かって歩く。
残り五歩というところでアラタは動いた。
飛び込むようなステップからの突き。
それをイオリはスウェーからの手さばきで防ぐ。
そこからアラタの怒濤が如き攻めが始まった。
細かく速く、そして鋭く攻撃を繰り出す。
攻め手は手業オンリーで、何よりも手数を重視した。
まず当てることから考える。アラタはそう決めていた。
人の姿をして人らしく振る舞っているが、あの虎のように普通のプレイヤーとは違うはずだ。
アラタはそれを確かめたかった。
アラタの攻撃をイオリは凌ぐ。
無理をせず、確実に捌いている。
時には引き、時には弾き、対応は的確で防御のお手本のようだった。
そのやり取りだけでもいくらかわかった事がある。
イオリのアバターの性能は、アラタよりもいくらか上回っているというところだ。
動きがシンプルに速い。レベルキャップまで上がった忍者より速いということは、おそらく通常のプレイヤーよりも速く設定されているのだ。
レジェンドが自分よりも身体能力の高い状態で相手をする。
上等だった。
アラタはツウシンカラテの領域でおっかないババアに似たようなことをされ続けたのだ。
今やそんなものは得意分野の一つに過ぎない。
アラタは唐突に、右手での突きをフェイントとした。
今までは最速で攻め続けただけで、虚を混ぜたことはなかった。
無茶攻めを布石とした一芸。
右手の突きを止め、イオリがそれに反応した時にはもう、アラタの左がイオリの脇腹を狙っていた。
入る。
アラタの左手は、イオリの脇腹には刺さらなかった。
命中するはずのイオリの脇腹が、白い靄のようになっていたのだ。
左手に伝わるのは虚しく空を切る感触。
読まれていたし、その上想定外の方法で躱された。
イオリが密着するような踏み込みからの頭突き。
アラタは直感だけで反応した。
頭ひとつ分後退して直撃をずらし、イオリの腹部を狙ったねじ込むような拳を身を捻って躱し、いつの間にか顔面に迫っていた左の裏拳を首の動きだけで回避した。
完全には避けきれなかった。
イオリの拳は、アラタのメガネに直撃していた。
メガネが真横から弾かれて飛ぶ。
アラタは体勢を立て直してさらなる追撃に備えるが、追撃は来なかった。
イオリが引いて距離を取っていた。
そうして、言う。
「言っただろ? メガネがあると危ないって」
「わざわざ取ってくれたんですか? 割と親切ですね」
強い。
単純にそう感じた。
レジェンドは伊達ではない。
体術だけで言えばヴァンとそう変わらないのではないかとすら感じる。
というか、ヴァンは無名なのにレジェンドと遜色がないということか。
アラタはそれに気づいて苦笑した。
「何を笑ってるんだい?」
「なんでもないですよ。しかし、そのお腹はなんですか?」
イオリの脇腹は今は普通の状態に戻っていた。
「そっちからじゃヘッダーも識別も文字化けしちゃうかもしれないけど、ぼくは一応エルダーヴァンパイアって種族なんだよ。一個前の形態はコウモリだっただろ? ほら」
イオリはそう言って、自ら頬の内側を引っ張って牙を見せる。
そこには常人よりも遥かに大きな犬歯が存在した。
「さっきのはエルダーヴァンパイアの特殊技能さ。他にも狼を呼んだり色々できるんだけど、まあせっかくだから格闘戦をしようかなって」
アラタは視線でイオリをポイントする。
確かに出るのは『繧ィ繝ォ繝?繝シ繝エ繧。繝ウ繝代う繧「』という意味を成さない文字列だけだった。
「いいんですか? もっとズルしなくて」
「きみこそもっとスキルを使った方がいいと思うよ。ぼくの方が身体能力は上なんだ」
「気が向いたら使いますよ」
神威だ。
それが一番わかりやすい。
どこかのタイミングでいきなり神威を使って畳み掛けるのだ。
見たところ敏捷さは相手が僅かに上程度だ。
神威を使っても防御に徹されればどうなるかわからないが、一撃を入れたところから神威でねじ込めば決まるはずだ。
「しかし、きみは本当にすごいと思うよ」
「いきなりなんですか?」
「この短時間でも、ぼくとこれだけやれたプレイヤーなんていなかったよ。名だたるプレイヤー達の中にすらね」
「褒めてるんですか?」
「うん」
イオリは少年のような単純さで頷いた。
「レジェンドに褒めてもらって悪い気はしないですね」
「誇っていいと思うよ。たとえこのまま負けたとしてもね」
アラタは自然に笑っていた。
「いえ、勝って誇らせてもらうことにしますよ」




