169.押し付けられたヒーロー
転移のあとは、治療から始まった。
ネメシスがアラタに手をかざすと、アラタの傷はたちまちに戻った。
脱力感は消え、何事もなかったように身体が動く。
助かった、のだろう。
アラタは周囲の空間を見回す。
ひたすらに無限の白で、アラタの他に存在するのはネメシスだけだ。
敵の気配はない。
「礼を、言うべきなんでしょうね」
アラタはまだ切り替えられないでいた。
覚悟できていないにせよ、全てが終わると思っていたところから続きがあったのだ。
「それは必要ないわ」
ネメシスは涼しい顔で言う。
「なぜ言ってくれなかったんですか?」
「何を?」
「もう一人の星を追うものが師匠だっていうことですよ。アナタなら僕の経験は読めたはずだ。知らないとは言わせません」
「信じてくれないと思ったの」
「そんなことは……」
ない、とは言い切れなかった。
「あなたは私を疑っていた。だから全てを話しても受け入れてくれないと思ったの。ヴァン・アッシュがシャンバラを消そうとしてるなんて話しても、それは信じなかったでしょ?」
「わかりません」
「今はどう?」
「信じざる、を得ないんでしょうね」
アルカディアに仕掛けられた何かが実際にどれだけの被害を及ぼせるかは未知数だが、最悪の事態を考える意味があるのは間違いなさそうだった。
あの老人も、ネメシスも、ヴァン・アッシュさえも本気で信じている。事態をどこか甘く見ていたのはアラタだけだった。
アラタはひとつ、大きな深呼吸を入れた。
ここからは、全てを信じなければならない。そう思った。
こうなってしまったのは、どこか目の前で進行している事態を信じきれていなかったせいもある。
「良かった。私が助けられるのはここまでだけど、あなたが願いの種子に辿り着いてくれることを祈るわ」
ネメシスはアラタの信じるという言葉を聞いて安心したようだった。
そして、その顔は別れの間際に憂いがないことを知っての安堵に見えた。
「ここまでって……」
「かなり無理をしたから、見つかるのは時間の問題。どんなによくても見つかって拘束はされるわ。そもそも今まで会いに来られなかったのだって、監視が厳しかったからだもの」
「なにか僕に出来ることは?」
「勝って。そのためにあなたを助けたのだから。それほど時間はないけれど、今のうちに知りたいことはある?」
「師……ヴァンがシャンバラを滅ぼすという話は本当なんですか?」
「本当よ」
ネメシスは迷いなくいった。
「そもそもこの領域で作られる物語が、シャンバラを滅ぼさんとする者と、それを止める者の話なの。その代表としてヴァン・アッシュが、その対抗としてあなたが選ばれた」
「見世物と言っていた話ですか? それでシャンバラの命運なんて滅茶苦茶な! エデン側が止めるでしょ! そんなのは!」
「そうでもないわ。あなた、エデンがどういうものかわかってる?」
「どういうって、それはシャンバラで十分な時間を過ごして満足した人が行く、天国みたいな場所でしょう」
「あなたが思うエデンと実際のエデンはかけ離れてるわ。まず、エデンに住む者でシャンバラに興味がある者なんて、もうほとんどいないの」
どういう意味か、アラタは理解できなかった。
「エデンでは何百倍もの速度で時間が進むわ。そうすると、人々は過去にいた場所なんて興味をなくしていくの。ましてや自分の望む領域を自分で作り出せるなら尚更ね。初めのうちは興味を持っていても、体感時間で数百年過ごせば興味をなくすし、千年を超えてまともな状態でいる人なんていない。ほとんどの人が領域の深く、深くへと進み、すぐに誰とも関わらなくなるわ」
「僕は二年前にエデンに行った父母と話しましたよ。そんな様子はありませんでしたし、周りの話を聞いても、エデンに行った人におかしな様子はありません」
「みんな応答用の複製体を作っているからね。どれが本体か、という話は正確ではないけど、あなたが話したと思っていたそれは、あなたが思う父母ではないはずよ」
これだけでも、洒落にならない衝撃はあった。
自分の信じていた世界が崩れるような感覚だ。
「それがエデン側がこの暴挙を止めないのとどう関係があるんですか」
「だから、興味がないのよ。むしろクラウンを中心としたアルカディアを作ったグループは、数少ないシャンバラに興味のある人々だったの。クラウン達が望んでいるのは真にリアルな追想記憶。それを残すためだけに、シャンバラの存亡をかけた舞台を作ったの」
馬鹿げている。
世界が滅ぶかどうかなど、映画やゲームの話だと思っていた。
しかしエデン人の話を聞くに、それこそ全てゲーム感覚なのかもしれないとも思った。
「なら、保安委員会に通報して終わりでしょう」
「それはやめて!!」
ネメシスの表情は、真に迫っていた。
意味もなくやめろと言っているようには見えない。
「何があるんです?」
「アルカディアは閉じられるわ。それに他の領域も。そして、強制的に試練をさせられるでしょう」
そんなことができるのか。ネメシスの必死さは嘘を言っているようには見えない。
アラタはかつて、シャンバラにいながら夢に老人が干渉してきたことを思い出していた。
アラタの常識を超えてなんでも出来ると考えた方がいいのだろう。
「結局、僕が勝つしかない、そういうことですか?」
「そういうことよ。最初から、ずっと」
つまり、シャンバラの未来がアラタの双肩にかかっているわけだ。
世界を救うヒーローというのは、もっとずっと立派な志を持ったものがなると思っていた。
映画でも遊技領域でも、だいたいがそうだ。
悪玉を倒して世界を救うという強い意思のもと進んでいくのだ。
それがアラタはどうだ。
巻き込まれに巻き込まれ、気がつけば世界の命運を握らされていた。
それに対してどんな感情を抱こうと、やらざるを得ない状況だ。
なにせ、やらねば自分まで巻き込んで全てが消え去るのだから。
世界が悪玉に支配されるといった生易しいものではない。
電脳世界の全てが消失してしまうのだ。選択肢は、ない。
しかし、救いもあるにはあった。
それは、倒すべき悪玉がヴァン・アッシュであるという点だ。
ヴァン・アッシュを倒す。それは世界の命運など関係なく、アラタの目標だった。
さっきの戦いは何もいいところを見せられなかった。
全てが終わりになったと思った。
それが、もう一度チャンスがあるのだ。
アラタは、自分の心が折れていないことに密かに驚いていた。
次は負けない。
次は勝つ。
その意思だけは、アラタの中ではっきりと存在を示していた。
「そろそろこの領域を維持するのも限界が近いわ。最後に聞いておきたいことはある?」
「アナタの応援の声が聞きたいですね」
軽口を叩くだけの心の余裕が戻ってきた。
何がかかっていようと、やるべきことは単純だ。
それがアラタの心の負担を軽くしていた。
アラタの軽口を聞いたネメシスは驚き、それから微笑んだ。
「がんばってね。あなたの勝利を信じているわ」
「期待に応えられるかわかりませんが、最善は尽くしますよ」
視界がぼやける。
空間全体が歪んでいるような感覚。
ネメシスが言う。
「それじゃあ、さよなら」




