110.翻弄する煙虎
煙が周囲の空間へと広がっていく。
いや、その言い方は正確ではないかもしれない。
よく見ると、煙が広がるように、空間全体が黒く染まっていくのだ。
徐々に、徐々にだが空間が暗黒へと包まれていく。
そのくせ視界は確保されていて、見るには不自由しない。
これは染みが広がりきったのと同じ状態だ。
一瞬、染みが広がり切るまで耐えれば次のフェーズに移ったのではと思ったが、虎を倒して移行を見せた以上それはないだろう。
クソ、何が起こっている。
アラタの中に渦巻くのはそんな悪態だった。
命がかかっているとなると大胆な動きはできない。
しかし、何かが始まるのは確実だ。
最初のフェーズはビルドのチェックのようなものだったのだろう。
それと、時逆の杖を使わせる前提で挑戦者をやりこめる罠か。
戦闘内容自体は難しいものではなかったが、最初から詰みが存在する、本来なら考えられない戦闘だった。
そうなると、次に始まるフェーズこそが本番なはずだ。
横たわる虎から出ていた煙が、いつの間にか形を成していた。
虎の死体の上に浮かんでいる。紫と青のオッドアイはそのままに、黒い身体の虎がそこにはいた。
一目見て嫌な予感がした。
虎は形こそ成しているが、輪郭が不鮮明でその身体は煙でできているように見える。
疑問、物理攻撃は通るのか。
戦ってみないとわからない。アラタが動こうとすると、虎が吠えた。
咆哮は不思議なエコーがかかっていて、まるで狭い空間で吠えたような反響があった。
電撃。
アラタの目にはそのように映った。
電撃の柱のようなものが、アラタに向かって迫ってくるのだ。
アラタはそれを横っ飛びで躱す。
着地から虎へと走り出す。
すると、虎は予想外の動きをした。
逃げ出したのだ。
アラタから。
直線ではなく宙に地面があるかのように跳び回っているが、その動きはアラタから距離をあけようとしているに違いない。
考えたところで始まらない。アラタはとにかく虎に迫ろうと追いかける。
移動速度はアラタの方が僅かに早い。流星刀の能力上昇がなかったらと思うとゾッとするが、とにかくこのままいけばいずれ追いつく。
虎が突然動きを止め、紫の瞳が怪しく光る。
アラタは警戒するが足は止めない。この隙にさらに距離を詰め――――
「なっ!?」
暗黒だけだった空間に、突如色がついた。
虎を中心に右が紫、左が青とフィールドが二分割されている。
何かヤバい。
アラタは距離を詰めるのをあきらめ、左右どちらにも跳べるように体勢をあらためる。
何かわからないが、即断しなければならない事態なはずだ。
どうする、どうする、どうする――――
直前に光っていた紫の瞳。
アラタは閃きに従って青色のフィールドに跳んだ。
空間全てが紫色の閃光に包まれた。
痛い。
アラタはかすかな痛みを感じた。
閃光が晴れる。
虎から視線を外さないようにしながらも自らの身体を見る。
ところどころ黒い煤のようなものがついているが、目に見えた欠損はない。
二色に色付けされた空間はもとに戻り、ふたたび暗黒で満たされていた。
アラタ・トカシキ
HP98/214
ステータス上はHPを半分以上もっていかれていた。
アラタは迷わず回復薬を切る。
強化薬とリキャストが共通である以上これで薬によるバフはかけられないが、HPを戻しておかないと今のような回避不能の全体攻撃が来た瞬間に死ぬ。
煙の虎が再び跳ね回り始める。
いきなり一発食らってしまった。
しかも、今のギミックがどういうものなのかもはっきりしない。
ゲーマーとしての直感に従えば、光っていた紫の瞳と同じ色をしたフィールドが危険地帯だ。
しかし、アラタは青色側のフィールドに逃げていたにもかかわらずダメージを負った。
問題はこれがギミックを失敗した結果受けてしまったダメージなのか、それともギミックを成功したが故にダメージを軽減して生き残れているのかわからない点だ。
検証しようがない。
戦闘ログには何も表示されていない。
また同じ攻撃が来た時に違った動きをすれば検証はできるが、そのためのチップは自分の命となる。
そんな賭けをする気にはなれない。
再び同じ攻撃が来たら同じように対処するしかない。ダメージは受けても生き残れるのだから。
そのためにも回復役以外のアイテムが封じられた形になってしまう。
アラタは跳び回る虎へと接近する。
斬撃が届くかは怪しい。飛びかかって切ることも可能かもしれないが、虎の動きはかなりの速さだ。
そんな相手に十分な威力で斬りかかるのは至難だ。
虎はひたすらアラタから離れようとしているように見える。まるでまともに攻撃を当てさせる気がないかのように。
アラタは物理攻撃を諦めて印を結んだ。
物理攻撃が通じるかはわからず、距離的に当てられるかもわからない。
ならば始めから射程のある属性攻撃を撃てばいい。
射程に入った瞬間に発声した。
「雷神」
迸る雷撃が虎に命中した。
虎が帯電するのがアラタの瞳にしっかりと映る。
しかしそれだけだ。
虎は動き回るのをやめず、効果があった様子もない。
クソ。
たぶんだが、これはそういう戦いではないのだろう。
虎を追いかけて攻撃を当てるわけではない。
電撃が無効という可能性もなくはないが、アラタは違う気がした。
さきほどの全体攻撃も虎の瞳が光るというヒントがあった。
ならばこれもゲーム的なクリア方法があるはずだ。
竹槍で戦闘機を落とせと言っているわけではなく、何かしらの攻略法が存在する。
跳ね回る虎が動きを止め、アラタを見た。
紫と青の瞳がアラタを見ている。見られていると感じる。
虎の尾が、左右に小さく振れている。
初めは見間違いかと思った。
アラタの前に、薄っすらと白い歪みのようなものが浮かんでいるように見えたのだ。
大きさはちょうど虎と同じ程度。
見間違いでは、ない。
アラタは意識を切り替え、その何かに集中。
虎が視界の奥で飛びかかるような姿勢。
アラタの目は、虎の前にも同じような白い歪みをギリギリで捉えていた。
なりふりかまわずに右へと跳んだ。
左肩に痛み。
見れば、目の前にいきなり虎が出現していた。瞬間移動のように。
虎の爪が、アラタの肩をかする程度に引っ掛けていたのだ。
アラタは後ろへと縮地を切り距離を空ける。
そして虎を見る。
煙の虎はアラタに牙を剥き、威嚇するような咆哮を放った。




