108.無を交換する
アラタは一旦休むことにした。
HPなど領域上のステータスの回復ではなく、精神面での疲労を取り除くためだ。
現時点では特に疲労は感じないが、感じずとも動きに影響を与える疲れというのは存在するものだ。
そういった軽微な疲れが命取りになる場合だってあり得る。
疲れていると自覚していれば、その分だけ安全をとって余裕をもった動きをすることだってできる。
しかし、自覚できないレベルの疲労だとそうはいかない。
自覚していない疲れから爪ひとつ分距離感が狂えば、それだけで生死が分かれることだってある。
必死になる。
言い聞かせずとも、アラタの心は自然とそういった動きをしていた。
夜。
わざわざアヴァロニアの高級宿に泊まった。
疲れをとりたいというのもあるし、勝っても負けても領域内通貨にこれ以上意味がないからというのもある。
ふかふかのベッドでするのは、イメージトレーニングだ。
アラタはベッドに横たわり、あの試練での戦闘を思い返している。
虎の動き、自分の対応を振り返る。
虎の特性を知ってからの後知恵ではなく、初見の虎に対してもっとできたことはなかったか考える。
師匠なら、初見でもやった気がする。
アラタが己と比較して何かを考える場合、常に師の姿がつきまとってくる。
ヴァン・アッシュ。
アラタに戦闘のイロハを教え込んだ男。
あの男なら、あれほどの理不尽だろうと跳ね除けてしまいそうな気がする。
けれど、それはアラタの妄想に近いのかもしれない。
師匠が姿をくらませたのは十年以上前の話だ。
十年の時を経て、アラタの中で師の強さが神格化され過ぎている可能性はある。
もし今戦えば、実はアラタの方が強いということもあり得るかもしれない。
あのひとは今頃どこで何をしているのか。
行方をくらました当初は必死に探そうとしたが、結局見つけることはできなかった。
もしシャンバラに戻ることができたら、一度師匠を探してみるというのもいいかもしれない。
ギリギリの戦いをしたせいか、師の姿を思い出すことが急に増えた気がする。
アラタは頭を振り、イメージトレーニングに戻る。
日付が変われば、メンテまではあと一日だ。
泣いても笑っても最後の一日。
たぶん、疲れていたのだと思う。
アラタは本当に死ぬような思いをしたのだ。
気づけば、いつの間にか眠りに落ちていた。
***
「待っとったよ!」
アラタが工房に足を踏み入れると、ユキナが活力に満ちた声で出迎えた。
「できましたか?」
「もちろん!」
さっそくユキナからトレードの申し出。
アラタの網膜に、ユキナ・カグラザカが一つのアイテムでトレードを希望していると表示される。
視線でポイントして詳細を開く。
すると、ユキナがトレードしようとしているアイテムが流星刀という名前であることがわかる。
流星刀
攻撃力102
メテオライトによって作られた忍者刀。
装備者の能力を上げる効果も持つ。
一目で壊れとわかる。
月影+2の攻撃力は36だ。それすら虎と戦う以前は不足ない攻撃力があったと感じている。
その三倍近い攻撃力とはどれほどのものなのだろう。
明らかに1stフェーズで持っていい武器とは思えないのだが、作れる以上は使えてしまうのだろう。
あるいは試練の虎はこれか、これに近い攻撃力を想定して設定されているのかもしれない。
月影とこうまで攻撃力がかけ離れていると、その間にもいくつか上位武器があるのは間違いない。
そう考えると、虎に攻撃が通らなかったのもわからないでもない話だ。
忍者は能力的に継続火力に優れたクラスではない。その上装備も不十分なのだから、攻撃が通せなかったのも当たり前なのかもしれない。
それでも、ダメージを通すハードルが無茶苦茶な気はしたが。
アラタはトレードの応答に迷う。
本当にこんなものをタダでもらっていいのだろうか。
こんなもの、下手をすれば次のフェーズ以降も最強装備になりかねない。
レベルキャップなどが上がっていくとはいえ、そこまで激しいインフレは起こり得ないだろう。
これを売ろうものなら、信じられない額が手に入るのではあるまいか。
何千万か、あるいは億以上の値段を設定しても、ミラーが統合される次以降のフェーズならばギルド総出で金を集めて買うところがありそうに思える。
ユキナがすぐに応答しないアラタを見て不思議そうにする。
「どしたん?」
「いや、これをタダでもらっていいのかと思いまして」
「何をいまさら。それに払おうと思っても大して払えんやろ?」
「それはそうですが……」
「いいからもらっとき」
アラタはそれでも本当にいいのかという疑問が残りつつ、こちらからは何も出さずにトレードの提案を返した。
どれほど価値があるのか計れないほどの武器と、無のトレードを提案したわけだ。
そしてユキナは、そんなバカげたトレードを迷わず了承した。
アラタのインベントリに流星刀が入る。
早速装備して抜刀してみる。
想像よりずっと軽かった。
美しい波紋の浮き出た刀身に、柄は手に吸い付くようだ。
「どや?」
「これなら鬼にだって勝てそうですよ」
「こんなん気前よく渡すウチ、最高やろ」
「ええ、まったく。好きになってしまいそうですよ」
「は」
そこでユキナが固まった。
アラタがユキナを見ると、驚いてるような、ニヤけているようななんとも言えない表情をしていた。
おまけに長い兎耳は電流でも走ったかのようにピンと立っている。
「冗談ですよ」
気付けばユキナの右手にハリセンが握られている。
「ざけんなボケェーーーーー!!」
絶叫と共にユキナがハリセンで殴りかかってくる。
アラタはそれを普通に躱した。
二撃、三撃と続くがアラタには当たらない。
「はぁ……はぁ……避けんなや……」
「いやですよ、当たったら痛いですし」
ユキナはあきらめてハリセンをしまう、と見せかけて不意の一撃を放ってきた。
アラタはそれも軽々と避ける。
ユキナは諦めたようにハリセンの先を左手でつかみ、真面目な顔をしてアラタに向き直った。
「そんなんやったんやから勝ちぃよ」
「もちろんです」
***
ユキナは工房から出ていくアラタを見送った。
それからいくらもしないうちに、ロンが工房へと入ってきた。
「しかし、よかったんですか?」
「なにがや?」
「メテオライト、全部ダメにしちゃったんでしょう?」
「それを言わんのが粋な女ってやつや」
流星刀の作成は普通に考えて無理だった。
なにせレシピレベルが50なのだ。
これはおそらく3rdフェーズ、全てのコンテンツが開放されてからようやく作れるものなのだろう。
それなのに、ユキナの手元にはなぜか偶然素材が揃ってしまっていた。
なら、作るしかない。
アラタ・トカシキの脱出がかかっているのだから。
アラタは口には出さなかったが、きっとそれ以上のものも。
作成の成功率は10%程度。失敗すれば素材は失われる。
ただし、チャンスが三回だけというわけではなかった。
失敗しても80%の確率で素材が戻ってくる再誕の腕というスキルがあるのだ。
1個目のメテオライトは6回目の失敗で失われ、2個目のメテオライトは2回目の挑戦で失われた。
3つめのメテオライトで挑戦し、そこでようやく流星刀の作成は成功した。
下振れなくて本当に良かったと思う。
単純な確率だけで言えば無謀と言えるほどではないが、かかっているものを考えると十分無謀な賭けだ。
ここまでリスクをとった挑戦など、ユキナは始めてした。
「ウチは落ちていったん寝る。徹夜なんて久々にしたわ。ロンはメモにあった素材集めといてな」
それだけロンに伝えて、ログアウトメニューを呼び出した。
ただでさえ時間のかかる制作を何度も繰り返し、しかもそれがハイリスクときたのだからユキナは心身ともに疲れ切っていたのだ。
「アラタ・トカシキ。そんなに特別なんですか? お嬢が慈善事業をするなんて槍が降るほうが――――」
ユキナがハリセンを取り出すと、ロンは口をつぐんだ。
ユキナは鼻をフンと鳴らしてから、ロンに背を向ける。
「覚えとき。ウチの趣味は慈善事業や!」
それだけ言ってユキナはログアウトする。




