きつねの道
「あ、きつね」
誰かがそう声を上げたけれど、僕には見つけられなかった。一緒に山道を歩いていた同級生たちが、興奮して騒ぎながら、木々の向こうを覗きに行った。
僕は動かなかった。背負ったリュックサックが重いせいもあるけれど、きつねがいるから何なんだとも思っていた。
キャンプ場へ向かう道程の半ばだった。目に映る全てのものにはしゃぐ他の参加者と違って、僕は初めから冷めていた。虫も、野宿も、火起こしも嫌いだ。わざわざお金を払って、夏休みをつぶしてキャンプに参加する意味が分からない。おまけに、リーダーの大人が、キャンプ場への道を間違えてしまったようだった。
予定では、昼前には到着するはずだったのに、腕時計を見るともう2時に近い。仕方がないので、道端に腰を下ろして、皆で弁当を食べた。ピーナッツバターは山で食べるのには向いてない。
それからまたうんざりするくらい歩いた。誰もが疲れて無口になっているところに、きつねを見つけた奴がいたのだ。
リーダーが制止するよりも先に、子供達はわっと走って行った。残されたのは、僕と、もう1人の女の子だけだった。
その女の子は僕に近寄ってきて囁いた。
「行かないの?」
「行かない」
「つまんないから?」
「ああ、つまんないね」
きれいな緑色の瞳の彼女は、小首を傾げた。彼女と話すのは初めてだ。僕も、その子も、決して積極的に人と関わりに行くタイプではないみたいだから。
「きつねは嫌い?」
「好きでも嫌いでもない」
すると彼女はにっこりした。
「あたしは、まあまあ好き」
「ふーん」
それから、沈黙が落ちた。遠くでリーダー達が走り回り、散ってしまった子供達を呼び戻していた。
彼女がそれっきり何も言わないので、仕方なく僕が話しかけた。
「好きなのに、皆と一緒に探しに行かないの?」
少女は首を振った。
「追いかけなくてもいいの。ここにくれば、きつねにはきっと会えるから」
意味がよく分からなくて、「え?」と僕が言った時、彼女はさっさと歩き出した。ちょうど、リーダーが笛を吹いたのだ。
結局キャンプ場に着いたのは、3時過ぎだった。これからテントを組み立てて、バーベキューの準備をしなきゃならない。僕も、さっきははしゃいでいた同級生達も、うんざりしていた。そのせいで、食後のキャンプファイヤーもそれほど盛り上がらなかった。
夜、山の中にいるのは怖い。懐中電灯やたき火で照らせるのはわずかだ。すぐそこに本物の闇がある。身動きすると、闇がついてくる気がする。
あの女の子に視線をやった。彼女は、昼間よりも楽しそうにしていた。つまらない同士だと勝手に思っていたので、少しがっかりした。
リーダーが、火の前で怪談話を始めた。ありふれた筋立てだ。誰も怖がっていなかった。
だけどその時、リーダーの背後の闇で、何かが動いた。
「あ……」
思わずもらした声は、火の粉と一緒にどこかへ飛んで行った。
誰かいる? いや、気のせいだろうか? 僕はそっと立ち上がった。用を足すふりをして、リーダーの後ろに広がる深い森の中に入って行った。
後になって親に叱られそうなことだけど、しばらく真っ暗な森の中で闇雲に探し回った。虫の声はそこかしこから聞こえる。だけど、その場には僕しかいなかった。キャンプファイヤーも、同級生も、大人達からも遠ざかっていた。
そして__僕は確かに、きつねを見た!
最初は、2つの緑に光る目だった。突然のことに固まった僕の前に、その目の主はゆっくりと近づいてきた。狼か、クーガーじゃないかとすっかり怖くなってきた時、しなやかなそのきつねの全身が露わになった。
僕が近づいても、きつねは逃げない。じっと待っている気がする。美しい背中の毛の1本1本が見える。銀色の毛は、そよ風に吹かれてわずかに揺れている。思わず手を伸ばしてなでようとしたら、きつねは身をひるがえしてはずむような足取りで走って行った。僕はそれを追いかける。そのまま見送る理由がなかった。
きつねを追いかけているうちに、開けたところに出た。その瞬間、僕が今まで本物の真っ暗闇だと思っていたのは、夜のほんの少しの部分に過ぎないのだと分かった。遮るもののない夜空いっぱいに星が輝いて、原っぱを優しく照らしていた。
きつねはすぐに見つかった。原っぱの真ん中に座っていた。僕が1歩ずつ歩いて行くと、きつねはまた立ち上がる。丸い瞳が瞬きをした。
「待ってよ」
僕は呼びかけた。きつねは答えずに、ふわりと飛んだ。まるで蛙みたいに。そしてそのまま、どんどん空へ空へ、上へ上へ昇って行く。僕はそれを残念に思う。だって、そのきつねは本当に、すごく楽しそうに空を走るんだ。
何でもないことのように軽々と浮かんで、おいかけっこのように陽気に跳ね回って、天文学者のように星ばかりを見つめるきつね。やがて僕は気がついた。きつねの足下に、きらきら光る道ができている。星くずを集めた道が1本、空のてっぺんまで伸びている。
それは、わっと叫びたくなるくらいに嬉しい発見だった。きつねは僕の方にもう一度向いて、一声鳴いた。もう僕はたまらなくなって、星の道を駆け上がった。翼が生えたみたいな気分だった__いや、翼なんていらない。どこまでも続いているこの道を、自分の足で
踏みしめて、もっとずっと遠くまで走ってみたい。僕はきつねを追いかけた。時にはきつねを追い越してしまい、今度は僕が逃げる側になった。いつまでもいつまでもその追いかけっこは終わらなかった。
__はっと気がついた時、僕はテントの中にいた。すぐ側に同級生達が雑魚寝していた。慌てて外に飛び出した。きつねはもうどこにもいないし、星の道はなくなっていた。
見上げると、空のはるか遠くに天の川がある。手を伸ばしても、ジャンプしてもとても届きそうにない。
さっきまでは、あんなに空が近かったのに。
朝、水辺で顔を洗っていると、あの女の子がやってきた。
「楽しかった?」
何が、と僕は聞き返そうとした。だけどその時、彼女の緑の目とぶつかった。その目は笑っていた。
「楽しかったよ」
きっと、彼女はキャンプ全体のことを聞いているのだろう。だけど、僕が思い出したのは、夜のほんの短い時間のことだった。
「__変な夢を見たよ」
彼女はくすりと笑って、「ゆめ?」と聞いた。
「きつねが出てくる夢だった。だけど、すごく楽しかった」
「夢じゃない」
彼女はそう言った。僕はぽかんとした。
「何だって?」
「夢じゃないわ」
彼女は声もなくほほえんでいた。「私も、きつねに会ったの。3年前、ここで。__それからは毎年、キャンプに参加することにしてるの」
「ふうん……」
つまらなさそうに僕は相づちを打った。だけど、にやにや笑いが顔中に広がるのはどうしても止められなかった。彼女は僕の腕をちょっとだけ握って、先に皆のところへ戻って行った。キャンプ場から帰る前に、皆でサッカーをすることになっていた。
僕も後を追う。昨日とは違って、何故か体を動かしたくてたまらなかった。だけどその前に、森の中を振り返った。今は陽光が葉の間から差して、暖かな影を作っていた。
「また会えるよね?」
森のどこかにいるはずのきつねに、僕は別れの挨拶をした。