5
パチパチと音を立てて、暖炉の中で火の粉が踊っている。
あれから随分と長い間、私たちはそれを背に受けて暖を取っていました。
レイザー様と私。お互いに肩をくっつけ、身を寄せ合って部屋の床に伸びる2人分のシルエットをずっと、飽きることなく見続けておりました。
視線の先には、テーブルがあります。昨晩ともにルージュ・ペダンを嗜んだときと同様に、目玉の繰り抜かれたカボチャのランタンがその上に置かれたままでした。
「……ずっと、後ろめたかったのかもしれない」
長い長い時間ずっとそうしていたのに、私は唐突に呟かれたレイザー様のお声に驚くことはありませんでした。
眉ひとつ動かさず、そのままの姿勢で耳を傾けていると、ぽつりぽつりとその続きを話し始められます。
「君に結婚を申し込んだとき、私は思っていた。君と、君の家を救う道はこれしかないと。我がシュトラウドならば、王家に遜色なく君の実家を支援できるはずだと」
独白の最後は、レイザー様らしからぬ弱々しい語調で――。
鈍い私にも、そこに後悔が隠れ潜んでいるということに気づきました。
案の定、「だが」とレイザー様は一息を挟みます。
「便りを乗せた早馬を走らせてから思い直したんだ。私のとった行為は、卑劣ではなかったかと。窮地に陥った令嬢を、実家を人質に手に入れようとしているだけではないのかと。手段を選ばず、己の恋を実らせようとしているだけではないのかと」
レイザーの自問に対する答えなら、今の私の心の中にあります。
だから、なんの躊躇いもなくこう言い切ることができる。
「私は、うれしかったです。レイザー様に求婚されて」
「そう言ってもらえると、救われる」
「慰めじゃありませんよ。好きな人に求婚されて嫌がる女性なんていません」
本音をそのまま口にしたら、なんだか困らせるような言い方になってしまいました。
レイザー様も苦笑いされて、硬い口調を緩められた感じです。
「信じる。私の妻の言うことだものな」
「その通りです。ばーんと信じてください」
ふっと相好を崩されるレイザー様のお顔を、覗き込むようにして微笑みます。
するとレイザー様も微笑み返しされ、それから不思議そうなお顔をされました。
「ずっと気になっていたことがあるのだが、訊いていいだろうか」
「はい、もちろん」
二つ返事で了承すると、レイザー様は少し真顔になられました。
暖炉の火が、整ったそのお顔に後方から陰影を刻みます。
「こうして、ずっと寄り添ってくれるのはうれしい。しかし君は、私とは違い動けるだろう。ならば、無理をして付き合わずとも一向に構わないのだが」
実をいうとこのような文言、そろそろ言われるんじゃないかと思っていました。
なんと説明したものかしばしの間逡巡しましたが、結局私は、私の愛する旦那様に嘘偽りない事実を打ち明けることにしました。
「ああ、いえ、それは……今はちょっとできないので」
「それは何故だ」
なんと申しますか、思っていた以上の直球で返ってきてしまいましたね。
けれど私、もう隠し立てはしないと決めたので……。
「あの、実は私、この毛布の下にはなにも着ていないので」
「……は?」
虚を突かれたお顔が一転、レイザー様は言葉の意味を理解されたご様子です。それを真正面から受けることになって私の顔はきっと、いえ絶対に真っ赤に紅潮していたことでしょう。
正しき理解に足りない情報を補うべく、私は語り始めました。
レイザー様が倒れられたあと、私がどうしたのか。
寝室から毛布を持参して濡れたお身体を拭き、体温を保持するために巻き付けたこと。身体を芯から温める紅茶を淹れようと外に出たのに、井戸が凍りついていて愕然としたこと。絶望の淵に立たされ、しかしルージュ・ペダンのことを思い出して、裸足で館の中まで駆け戻ったこと。
そして、いざルージュ・ペダンの箱に手をかけようとしたその瞬間に、脳裏に過ぎったこと――。
「身体で、暖を……!?」
4年間の結婚生活。そのすべての期間を通して浮かべられたレイザー様の驚き顔の総数を、私はわずか一夜で上回ってしまいました。
そして今、この瞬間、その度合いをもまた上回ってしまったようです。
驚いている――いえ、もはや引いておられるのかもしれません――レイザー様の瞳は、氷の伯爵時代には見たこともないほど大きく見開かれ、まるでまんまるのお月様のようでした。
おそらく当時のレイザー様に憧れていた令嬢たちが見たなら、そのイメージを根底から覆されたに違いないでしょう。
「衣服を脱いで、私を抱きしめていたというのか。なんたる無茶を……」
本来なら、お叱りが飛んでくるタイミングだったのでしょう。
沈黙なされたのは、ご自分の行いを顧みられたから。
それでも恨みがましく私を見られるレイザー様に、私は少しいたずら心を起こしてみました。
「それ、この寒い中一晩ずっと外で過ごされたレイザー様がおっしゃっていいことじゃないと思いますけど?」
グサリ、と急所を突いた手応えを感じました。
案の定、レイザー様は慌てて付け加えられます。
「昨夜の出来事を忘れぬためには仕方なかった。酒精のもたらす微睡みから身を守るには、私にはああするしか……」
「存じております。だって私も一緒ですから」
意識の途切れが酔っている間の記憶の忘却を生むなら、ずっと起きているしかない。
レイザー様の選択は自らの身体に鞭打つような、茨の道でした。
寝室に戻られたレイザー様は、私が眠ったであろうと確認されてからそっとベッドを抜けだし、その足で館の外のベンチに向かわれたのです。そして、雪が降るほどの外気の中、一晩の間ずっと寒さを耐え忍ばれました。
私にはわかります。
その間、レイザー様はずっと私のことを考えてくださっていた――。
だから私も、それを忘れて欲しくはなかったのです。
「倒れられたレイザー様を見たとき、私、この御方を失いたくないと思いました。そのためだったらなんだってしようと。命だって惜しくないと」
「ミザリア、君は――」
さて、このあとに続く言葉はいったいなんだったのでしょうか。
じっと見られるのがこそばゆくて、恥ずかしくて、ついつい先に口を挟んでしまいました。
「でも、しまらないですよね。私、慌てていて夜着を破ってしまいました。お蔭で毛布で身を覆ったまま動けなくなっちゃって……あ、そうだ。ときにレイザー様に窺いたいのですが、人払いの解けた館の人たちはいつ頃帰ってくるんでしょうか?」
急に話が飛んで怪訝に眉を顰められましたが、レイザー様は存外率直に答えてくださいました。
「一日、取ってある。雪が降ろうと槍が降ろうと、必ず明日の朝に戻る」
「ありがとうございます。ならば大丈夫のようですね」
「ん? なにがだ」
「熱い紅茶をお飲みになりませんか」
きょとん、とされたのも束の間――レイザー様は、私がなにをしようとしているのかを悟られたご様子でした。勢い込んで申されます。
「待て。君は今なにを考えている?」
「ですから、熱い紅茶を淹れようと。私も飲みたくなってきましたし」
「そうじゃない。その前段階の話だ。ベッドから持参したこの毛布は分厚く重い。身体に巻き付けたままどこかに行けるような代物ではないのだぞ」
はい、そのことは私しっかりと自覚しておりました。
ですので、ノータイムでこう言い添えます。
「寝室に戻って、代えの服に着替えるまでの間です。それにレイザー様のお申しつけ通りなら、館の人たちは明日まで帰ってこないのでしょう。なんの問題もないかと思いますが」
返答を待たずして、レイザー様のお顔にはこうありました――大問題だと。
「わ、わかっているのか。一糸纏わぬ姿を、私に晒すことになると」
「ご覧になるのがレイザー様だけでしたら構わないかと思いますが」
「君が構わなくとも、私が構う。君はもっとこう恥じらいというものを……」
お言葉を続けようとして、やめられました。
きっと私の過ごした長い時間に思いを馳せられたのでしょう。
「今さらです。この朝からずっと、私はなにも着ずにレイザー様のお身体にくっついていたんです。少しくらい見られたからって恥じらうような気持ちは、もう完全に麻痺してしまいました」
だから大丈夫です――そう私は念を押したつもりだったのですが。
「いや、やはり駄目だ。私が動けるようになるまで待ってくれ」
「えー、そんな。私今ならなにも着ずに外の井戸までお水を汲みにいけますよ?」
シュトラウドの領民はこの館周辺を出歩いたりはしません。
なので半分冗談、半分本気のそんな一言でしたが。
「心底からやめてくれ。君の裸身を眼にしたら、妖精が攫いにくる」
えっと、私今とても褒められたような気がするのですが、気のせいじゃありませんよね?
それからしばらく粘ったのですが、どうあっても私をひとりで行かせたくないと申されるレイザー様の主張は折れず、結局私たちはまたしても背中での暖取りに戻りました。
さっきまでのおしゃべりが一転、今度は両者ともずっと無言で。
けれどそれはちっとも重苦しくなくて、むしろ心地が良くて。
だから本当ならずっとこのままでも良かったのだと思います。
私から口を開いたのはなんとなく、今度はこちらの番だと思ったから。
「……意外、でしたか?」
レイザー様は首を振ろうとなさり、それを止めて頷かれました。
「正直に言えばな」
「素の私は、こんな感じなんです。クラスメイトからは、天然だと」
レイザー様がそれをご覧になる機会がなかったのは、ここに来てからの私がずっと気を張っていたからなのでしょう。
完全に気を許すのは、レイザー様に酒精が入ったときくらいで。
「忌憚ない意見を言わせてもらえば、とても興味深い。隣にいる妻がどのような女性なのか、そのイメージが昨日から更新され続けている」
「私も、昨日今日で、レイザー様がなにを思っていらっしゃるのか良くわかったような気がします」
こんなにも近くにいたのに、お互いを理解することができていなかった。
きっと、そういう事例は他の数多の夫婦間にだって存在するものなのでしょう。
私たちに必要だったのは、あと一歩分だけお互いの心に踏み込む、ほんの少しの勇気だったのかもしれません。
「――ルージュ・ペダン」
人心地ついた私の口から、その言葉は自動的にこぼれ落ちました。
途方もなく慌ただしい一昼夜。その中心にずっとあったワインの名前。私の夫であるレイザー様の無二の好物で、私が無理を言って実家から取り寄せてもらったもの。
脳裏に浮かぶは、お酒を嗜まれているレイザー様のお姿。秘密の、幸福な憩いのひととき。それこそがルージュ・ペダンの魔法でした。
しかし、我がブラガンド領の誇る名産品でもあるそれには、正しき使い道がありました。本来ならばこの場所にストックされるのではなく、国交を結ぶ場や、祝いの席で振る舞われ、参加者の気持ちを盛り立てる役割を担っていたはずなのです。
「……ミザリア」
私の変化を察知されたレイザー様が、名を呼んでくださいました。
誤魔化すのも忍びなく、私は見えぬよう吐息をこぼします。
「申し訳ありません。私、やっぱり自分のことしか考えていないと思って」
「ルージュ・ペダンを集めたことか」
「はい」
しっかりと頷くと、レイザー様はこちらに身を傾けて聞く姿勢を取られます。
そのご様子を見るに、催促されるおつもりはないのでしょう。私のペースで、話せることから話してほしいと、暗におっしゃられているようでした。
しばらく頭の中で考えを纏めてから、私は話し始めます。
「レイザー様がこうしてシュトラウドにおられるのは、お父君がお亡くなりになったから。なのに私は、寂しさに耐えかねて実家に無理を申しました。この部屋にあるルージュ・ペダンには、本当なら果たすべき重要な役割があったのに……」
今さら実家に返送しても、きっとタイミング的には遅いのでしょう。
後悔はいつだって先に立ちません。
深く反省し、学びを得たって、挽回には手遅れということもある。
お父様が農地改革に着手し、血を吐く思いで復活させたルージュ・ペダン。よりによって不作年に当たる今年の分を、私は自分のわがままのために無駄にしてしまいました。
レイザー様はお父君の遺志を継承され、立派にご領主としての務めを果たされているのに、こんな親不孝が他にあるものでしょうか。
言い訳の利かない罪に、私はきゅっと唇を噛みます。
レイザー様のお声はしかし、とてもやさしく私の耳朶を震わせたのです。
「もし君がよければだが、私に預けてはくれないか」
「えっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げて隣を見ると、何故だかレイザー様が穏やかな微笑を湛えておられました。
「慰めてくださって、いるのですか?」
「違う。君に、頼んでいるんだ」
「……レイザー様……?」
脳裏に浮かんだ疑問は、次の一言で氷解しました。
「来週、リチャードとイヴトーチカ嬢が結婚する」
ぱちくり、と瞬きをしたのは呆気に取られたというより――。
「えーっと、そんな大切なお話、私初耳なんですが?」
「言っていなかったからな。昨日言うつもりだったんだが」
「ああ……えと、そうですね。昨夜は色々とありましたものね」
「そうだな。色々と」
そのお返事からやや待って困惑の風が過ぎ去ると、私の心の中にうっすらと温かな気持ちが広がっていくのを感じました。
魔法学園を騒がせた一幕を演じた、共演の2人。本音を言えばもしやと思ったこともあるのですが、こんなにも早く吉報を耳にすることができるなんて。
「聞くところによると、前代未聞なのだそうだ」
レイザー様は珍しく楽しげに、私へと説明してくださいます。
「高等部の私たちに続き、大学部では王太子が妻を娶る。この国の次代を担う貴族子息が相次いで学生結婚を執り行うなど、建国以来あり得なかった。この目出度き婚儀の参列者として、私たちがなにを持参すべきなのか、君も理解しているのではないか」
その答えはもちろん、私の脳裏にもしっかりとありました。
ああ、でも、こんなしあわせがあっていいものなのでしょうか――。
感極まって思わず両手で口元を覆ってしまう私に、レイザー様はやさしい声音でお続けになります。
「2人は、私たちにとって恩人だ。君の魔法学園卒業に対し、便宜を図ってもらった。しかしそれ以上に、私は彼らのことを大切な友人たちだと思っている」
君は、どうだ――視線でそう訊ねられるレイザー様に、私も深々と頷きます。
「同じです。私にとっても大切な方々です」
「ならば問題はあるまいな。このルージュ・ペダンを彼らへの贈り物としても」
是非を問うよう見つめてこられるレイザー様でしたが、ここで私は態度を少し濁してしまいました。
「それはもちろん構いませんが――本当に、喜んでいただけるのでしょうか?」
お父様のルージュ・ペダンの価値を信じていないわけではありません。しかし、此度結婚される御方は一国の第一王太子なのです。それが本当に私たち夫婦から贈るプレゼントとして相応しいものかどうか、確信が持てなかったのです。
そんな心配も、レイザー様の次の一言で吹き飛んでしまいました。
「喜ぶさ。何故なら私にルージュ・ペダンの味を覚えさせたのは、リチャードのやつなのだから」
「え?」
「ルージュ・ペダンは私の無二の好物であるとともに、リチャードのそれでもあったということだ……いや、むしろ逆だな。あいつの方こそこのワインを愛している」
それも、初耳でした。レイザー様に引き続き、どうやら私はリチャード殿下の知らない事実の一端をもここで垣間見ることになったようです。
「この贈り物は、私たちと王家を繋ぐかすがいとなるだろう」
お墨付きを得たことで、私の心にほっとしたような気持ちと、素直にお2人のしあわせを祝福する気持ちが生まれました。リチャード殿下。私の元婚約者。イヴトーチカさんとの間柄は、願望としてずっとそうなればいいと思っておりました。私だけ先にしあわせを手に入れてしまったことに、少なからず負い目を持ってもいたから。
俯いて、片手で胸を押さえると、その中にあったつかえがすべて取れているのがわかります。まさか昨日の今日で、こんなにも清々しい気持ちになれるなんて思ってもみませんでした。
胸の奥に生まれたしあわせを深く実感してから顔を上げると、その間に私の正面に回られたレイザー様のお顔が見えました。
ルージュ・ペダンが納められた箱を一瞥され、レイザー様がおっしゃいます。
「それに……もう、こんなには必要ないはずだ」
「レイザー様、それって――?」
眼を瞠ると私の視界が開けてゆきます。暖炉の灯りしかない暗い部屋。昨夜のままのテーブル。レイザー様の背後には、私が作ったカボチャのランタンがそのままの状態で置かれています。当然のことながら、くり抜いた眼の内側には火など灯っておらず、とっくの昔に魔法など解けてしまっているのだと、それは言葉よりも饒舌に私に語っていました。
けれど、何故でしょう。
私の心には今も――。
噛みしめる前に、レイザー様が私を眼にされます。
私とレイザー様の間に割り入るものは、もはや何物もなく――。
吸い寄せられるように見つめるそのお口が、待ち望んだ通りに開かれました。
「私は、生来の口下手だ。昔から本心に近ければ近いほど、大事なことであればあるほど、気持ちを口に運ぶのが億劫になる。相手にどう伝えて良いかわからず、悩むうちに、いつだって機を逃してきた。けれど、それではきっと駄目だったのだ。私の怠惰が、傲慢が、大切な妻を不安に晒してしまった。だから変わらねばならぬと思う。伝えねばならぬと思う。今日、今から、この瞬間から――」
ああ、じっとりと熱された瞳、私を透徹してしまうほど真剣な眼差し。
見るだけでうっとりするようなそれらが私に、しっかりと伝えてくれています。
「……レイザー様……」
この御方が、私のことをどう思っておられるのか。
その胸裏に存在する、溢れんばかりの思いだって。
「取り戻そう。この4年間を。王都で2人の婚儀を見届けたら、時間をともにしよう。一緒に諸国を旅し、互いの気持ちを語り合おう。そして理解を深めよう。今はまだ届かなくとも、いずれ連理の枝のような夫婦と呼ばれるように――けれど、その前にまず、どうか私から君に伝えさせてくれないか」
そうして私の最高の旦那様は、もう酒精になど酔われていないにもかかわらず頬を真っ赤に染め上げて、今はまだはにかむよう恥ずかしげに、だけど不器用ながら一生懸命に、私にこうおっしゃってくださったのです。
「ミザリア――君を、愛している」
……ですから、私も思ったのです。
ああ、この魔法は、きっと、ずっと解けないって。
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長々とレイザー&ミザリア夫婦のお話を書いてきたのですが、作者の推しはまさかの『義理堅きイヴトーチカ』でした…
2回しかしゃべってねえ!