3
――寒い。
その夜、ベッドの中で私はずっと願っていました。
レイザー様がすべてをお忘れになることを。
酒精の力は、レイザー様から酔われている間の記憶を奪います。
だけどもし、覚えていたら?
私が、レイザー様の思うような女ではないと、記憶されていたら?
私はきっと、辺境伯夫人として失格の烙印を押される。この広大な辺境伯領を治めるレイザー様の隣に立つ身として、不適格と見なされる。
導きだされる答えとはすなわち、私との離縁しかありません。
思い返すに、まだほんの数年のことでしかないのです。私がシュトラウドの地を踏み、家臣に教育を受け、辺境伯夫人として務めを果たし始めてから。
だのに、もう音を上げている。レイザー様がおられない日々に耐えかねて、お父様に無理を言って送ってもらったルージュ・ペダンまで使って、人に言えない密かな楽しみに興じていた。
そんなの、軽蔑されないはずがない。
「……寒い」
寝床の中で凍え、私は自分の身体を掻き抱きました。それでも、レイザー様とのお話の最中から感じ始めた寒気は消えず、増してゆくばかり。
その正体とは、きっと恐怖なのでしょう。今、隣で眠っておられる愛おしい人にもし別れを告げられたら、果たして自分はどうなってしまうのか。
生きてはいられない、というのは大袈裟な結論ではありませんでした。
初めての恋を捧げてから、私はレイザー様と短くない時間を過ごしてきました。実際に言葉を交わし、その内面を深く知るにつれ、私はともに人生を歩むのはこのお方以外にあり得ないと思い至ったのです。
だからミザリアは、もう他の殿方のことを好きになれません。初恋が終わり、愛が始まって――レイザー様がいない世界なんてもう、私にとってなんの意味もない。
(だから、お願い。どうか忘れていて……!!)
襲いくる心痛を麻痺させ、私を眠りの入り口にまで誘ってくれたのは、皮肉なことに酒精にこそ為せる業でした。
☆★☆
カーテン越しに差す日の光に、私の覚醒は促されました。
昨日、あれほどの大事があったと思えないほど、いつも通りの朝。
私の目覚めもまた、毎日のそれとなんら変わるところがありませんでした。
「レイザー様……」
霞む眼元を指で擦ると、私はわずかな変化に気づきます。
ベッドの隣でお休みになられていたレイザー様の姿が既にないのです。そこに誰かがいたことを後付けで裏打ちするように、シーツのたわみと乱れのみが残っていました。
「どうせなら、全部夢だったらいいのに」
思わず呟いた言葉に、私は自分の無責任さを恥じます。
人に言えぬ密かな企みが当のご本人に露見したのに、まだそんな都合のいいことを考えているだなんて。
カーテンの向こう側は薄暗いながら、光の気配を感じます。レイザー様に負けず深酒をした私は、どうやら随分と長い間眠ってしまっていたようでした。
「この時間では、もう立たれてしまっているかもしれませんね」
可能性はありました。昨夜、レイザー様は明日も大事な用向きがあるとおっしゃっていましたから。
寝室を出て、私は夜着のまま階段を降ります。遅くまで飲んでいたこともあり、昨晩は片づけをせずに寝室へと向かったからです。
階下の光景に、私はそれが夢ではなかったのだと痛感します。テーブルの上には飲みさしのグラスと中身が減ったルージュ・ペダンの瓶。それに私がレイザー様との酒宴を楽しみに作った、人面カボチャのインテリアが置かれていました。
「やはり、そう都合よくは」
誰に見られることなく苦笑して、私は後片付けを始めました。
グラスを洗い、ルージュ・ペダンに栓をして、元の木箱に戻します。
テーブルを拭くため、人面カボチャのインテリアを持ち上げたところで、それに気づきました。
「……あ」
カボチャを繰り抜いた内側に差していた1本の蝋燭。それが根元まで溶けて、灯っていた火が消えてしまっていたのです。
昨夜の私に消した覚えはなく、レイザー様もそのような所作はお見せにならなかった。しかるに、私たちがこの部屋を去った後も火は灯り続け、蝋の融解とともに寿命をまっとうしたに違いありません。
「う」
嗚咽とともに、込み上げてくるものがあります。
カボチャの馬車が出てくる童話の魔法は、時限式でした。
酒精の魔法も同じです。時が経てば効力は失われ、あれほど饒舌に私を褒めてくださるレイザー様もおられなくなってしまう。一夜をともに過ごし、明日の日を迎えれば、またご領主のお仕事に愛しい人を奪われてしまう。
――でも今、この瞬間だけは逆でした。
昨日の出来事、そのすべて。
起こったことをみんな忘れてしまっていてほしかった。
酒精の魔法が解けたなら、きっとそうなるはず。
いいえ、そうであってほしいと昨日からずっと願い続けていたのです。
『どうせ、覚えてはいない』
昨晩のレイザー様のお言葉が、頭の中に響きます。
本当に忘れてしまったなら、改めて言う必要もない。
そうしたら、私はまだレイザー様のお傍にいられる――。
震える唇が、一抹の望みとともに、愛しい人の名を呼びました。
「レイザー、さま」
瞬間、室内に滞留する空気が変化しました。
振り返ると、そこにはこの時間にはおられるはずのないレイザー様のお姿がありました。
「ミザリア」
音もなく入室されたレイザー様は私の名を呟かれ、しっかりとした足取りでこちらへと歩み寄ってこられます。
対して、私はその場でたたらを踏んでしまいました。
眼前の光景に理解が追い付かなかったのです。
でも、それもほんの一瞬のこと。
私は、自らが置かれた状況をはっきりと理解します。
ズサッと音を立てて後退し、距離を取ろうとしたのは反射的な反応でした。この場にレイザー様がおられることの意味は、私にとって危険以外のなにものでもなかったからです。
そして今、私の脳裏に浮かぶ疑問はどちらなのかということ。
何故ならば、この光景は本来ならありえないはずでした。
もし酒精の魔法が解けたのならば、レイザー様はここにはおられない。酔われた間の記憶を失われたレイザー様は、今頃きっと何事もなかったように領内へ赴かれているはず。
ではもし――昨夜の記憶をお持ちだったとすれば?
これも、辻褄が合いません。レイザー様は昨夜私におっしゃいました。自分は、深酒のせいで記憶を失うだろうと。だから君は、気にしなくていいと。
このお言葉に倣うのであれば、やはりレイザー様はここにはおられないことになります。
そして、レイザー様は発言に責任をお持ちになるお方。
ご自分の言を違えられるなど、そうそう考えられることではありません。
ではこの状況に、どう説明を付ければよいのでしょう。
導きだされる結論は、すんなりと脳裏に浮かびました。
それはすなわち、お約束を反故にするだけの大事が生じたのだということ。
ならばそれは、その理由は――。
私が最悪の想像に辿りついたのとほぼ同時に、レイザー様が口を開かれました。
「随分と薄着だな。寒くはないか」
「き……昨日のお片づけをしようと思って」
焦りが、レイザー様の質問とちぐはぐな返答を私にさせました。
レイザー様は眉根を寄せ、怪訝に思われながら私を気遣ってくださいます。
「今朝は、今年一番の冷え込みだ。私が暖炉に火を入れよう」
「いえ、あの……」
咽喉元までせり上がってきているのに、どうしても言い出せない一言。
――レイザー様は、どうしてここにおられるのですか?
まんじりとも動けない私の様子を見て、悟られるところがあったのでしょう。暖炉の準備に向かう道すがら、レイザー様は足を止めて私を振り返られました。
「……不思議なのだろう。私がここにいることが」
心中に衝撃が走りましたが、レイザー様は私の返答をお待ちです。
このままなにも言わずにいることなどできません。
「領内に出られているものと、思っておりましたので」
正直なところを口にすると、レイザー様はしっかりと頷きをお返しになり――。
「そうだな。仕事は大事だ」
「はい。ですから、もうこの館にはおられないものかと……」
「そうか」
肯定とも了承とも、単なる聞き流しとも取れるお言葉を残され、レイザー様は暖炉へと赴かれます。薪をくべ、火を起こして支度を整えられると、再度私の元へと歩み寄ってこられました。
そして――。
「だが、もっと大事な用向きがあるなら、私はそちらを優先する」
ハッと顔を上げると、そこに昨夜見た氷の伯爵様のお顔がありました。
このとき、私にもわかったのです。
レイザー様は昨夜のことを、覚えておられる――。
両手をスカートの前で握り合わせ、俯き肩を落として縮こまるようにする私の真正面に立たれると、レイザー様は決然と切り出されました。
「私の代理に、信頼できる家臣を行かせた。ミザリア、君と大事な話があったからだ」
「……私と」
「そうだ。決して外せない、絶対に今日しなければならぬ話だ」
どくん、と心臓が跳ねて、私は咄嗟に口を開いていました。
「いっ、いやですっ! 聞きたくありませんっ!!」
それはまるで、駄々っ子が両親にごねるような仕様がない言葉で――。
レイザー様は思わず眉を顰められ、険しい口調になられます。
「駄目だ。どうあっても君は私の言葉を聞かねばならない」
「どっ、どうしても、ですか? 至らぬところがあるなら、私もっと……!!」
「ミザリア!!」
部屋中に響き渡る大声とともに、私は深紅の瞳に射すくめられました。
気圧されて黙するのを見てとられ、レイザー様は溜息を吐かれます。
「すまない。きつく呼んで……だが私たちの未来のために、どうしても外せない話なのだ。心して聞いてもらいたい。それが今の私の、偽らざる願いなのだ」
ふだんは寡黙なレイザー様が、ここまでお言葉を尽くしてくださっている。
だからこそ伝わる。私の予測はきっと的中している。
これから始まる話は、それは――。
「……わかり、ました」
こくん、と頷いた私の心中にあったのは、泥濘のような諦念。
それが私に教えてくれました。すべては身から出た錆なのだと。自らの弱さから邪な企みに身を任せ、本来信じるべき御方をずっと欺いてきた罰なのだと。
だからきっと、このご判断は正しい。
私のような不出来な女と離縁されるのは、レイザー様にとって当然の権利でしかありえない。
きゅっと眼を瞑ると、そこは懐かしい暗闇でした。謹慎の最中、レイザー様の行為の謎を解こうとそのお顔を思い浮かべた暗闇。そして、辺境伯夫人としての教育を施される中、その苦しみから逃れるよう愛しい人を思い描いた暗闇――。
けれど今、私はそうする資格すら失おうとしていました。
互いの人生を結びつける婚姻という契約関係が終われば、私はレイザー様を永遠に失うことになる。
そのお顔を脳裏に思い描くことも、密かに愛し続けることだって、もはや叶わぬ大きな罪でしかなくなってしまうのです。
それでも最後に一度、氷の伯爵様ではなくお酒の席でのあの笑顔が見たい。
そう思い、きつく眼を閉じた私の耳へと、そのお声は無慈悲に届くことになったのです。
「――横恋慕だった」
薄く眼を見開いたのは、それが思っていたお言葉ではなかったから。
レイザー様は、苦虫を噛み潰したようなお顔で、正面に立っておられました。
想定外の出来事に、私は思わず心中の一部を口にしてしまいます。
「あの、それはどういう……大事なお話だって」
訊ねただけで、これは詰問などではなかったはずです。
けれどレイザー様のお顔には、悲壮な表情が浮かびました。
「わかっている。今すべき話ではないと。それでも、どうあっても私は語らねばならない。ミザリア、私のことを少しでも思ってくれるなら、今しばらく私の話に付き合ってくれ」
しばしの沈黙ののち、私は静かに頷きを返しました。
根底に芽生えていたのは、レイザー様への深い同情心。
いくら妻の裏切りといういきさつがあるとはいえ、一時は求婚するほど想った相手に離縁を切り出すのは、きっとおつらい役割に違いありません。
だから、私は姿勢を正しました。もしそうであるならば、せめてそのお気持ちのすべてを受け止めることこそ、かつて妻であった私の最後の仕事でしょうから――。
「……どうか、お話の続きを」
「ああ」
悲壮さを増す雰囲気とともに、レイザー様が口を開かれます。
「学生時代のことだ。私は君に、密かに懸想していた」
「そう……だったのですか」
完全なうぬぼれながら、薄々その線はあると考えておりました。
けれどまさか今、このようなかたちで告白を受けるだなんて……。
そんな私の困惑を見てとられたのかもしれません。レイザー様はその反応も不思議ではないという風に、私に向かって深く頷きを返されました。
「私だけではない。他の貴族子息も同じように君を見ていた」
「でも私、学生時代には一度も殿方から声をかけられたりしませんでした……」
率直な疑問は、次のレイザー様の一言で、瞬時に霧消します。
「リチャードがいたからだ。あいつと比べれば、並の男など霞む」
「……あ」
それがあまりにも当然の解答だったので、私は一瞬言葉を失ってしまいました。
王太子殿下の婚約者――特別だったはずのその立場はもう、私にとってそれほどまでに遠い昔の出来事でしかなかったのです。
ふいに過ぎった郷愁の念に胸を焦がす私を見て、レイザー様は逆に驚かれているご様子でした。
「なにを驚く。私とてそうだったはずだ」
「そんなこと……どうして、そのように」
「君の隣に立つ男として、相応しくなかった」
ご自分を貶めるお言葉に、返すべき言葉があったはずです。いくら不出来とはいえ、妻として傍にあった私になら、伝えるべき事実があったはずです。
レイザー様は、決してそのような御方ではないと。
リチャード殿下と比べて、なんら引けを取るような殿方ではありえないと。
「…………」
だのになにも言えなかったのは、当惑していたからです。
レイザー様の真意が見えなかった。離縁を切りだすべきこの瞬間に、学生時代の私をもてはやす理由がわからなかったのです。いいえ、むしろ恐怖にすら感じていました。
私が内心の懊悩にやきもきしているうち、レイザー様がお話を続きを語り始められました。
「遠くより見ているだけで、君は気づかなかったかもしれない。だが本当なんだ。私は、君に焦がれていた」
もしこれがお酒の席で、レイザー様に酒精が宿っていたとしたなら――。
私はきっと、女性としてこれ以上ないしあわせを感じていたはず。
だけど今、この場に至ってはその意味が反転していました。
どうして離縁すべき女を褒めそやすのでしょう。
当時のお気持ちを、私に打ち明けてくださるのでしょう。
離れ離れに――ならなければならないのに。
「……レイザー様、もう」
弱気な声が口を衝いたのは、心の悲鳴が外に漏れ出たから。
きゅっと拳を握り締めて、続きを躊躇する言葉は、やめてほしいとの懇願。
どうせ失われるなら、永遠に手に入らなくなるのなら、どうかこれ以上私に惜しいだなんて思わせないでください――。
けれどそんな私の気持ちなど伝わらないのでしょう。いいえ、伝わるわけがないのです。口に出さなければ伝わらないことなど、私はとうに知っているのですから。
レイザー様のお言葉は皮肉にも、まるで思い出に化粧を施すかの如く、当時の私を美化し続けます。
「リチャードの隣に立つ君は、完璧に見えた」
「違います。私、完璧なんかじゃ……」
謙遜でもなんでもなく、私は不出来な女でした。
だから頷いてほしかった。なのにレイザー様は静かに首を振られます。
「いや、君は完璧な令嬢の絵姿だった。私にはそう見えた」
「そんな」
「そして……リチャードはそんな君に似つかわしかった」
宙を見て、レイザー様は懐かし気な表情を浮かべられます。
「君たち2人は、私にとって理想だった。東方に、連理の枝という言葉がある。互いに支え合う、仲睦まじい夫婦の喩えだ。リチャードの隣の君も、君の隣のリチャードも、まるでその言葉を体現したかのように互いに欠くべからざる存在に見えた。その間には何人たりと、入り込む隙間などないと」
一息にそこまでおっしゃると、独り言のようにこう付け加えられました。
「……リチャードなら、いいと思った」
誰にともなく浮かべられた微笑。それは、本心からそう思っておいでだったのだと私を納得させるに、充分なものでした。
「幼稚舎にいた頃から、私はあいつを知っていた。その器は、いずれ王たるに相応しいものだ。きっとリチャードなら、君をしあわせにする。いや、君がしあわせになれない未来など絶対に実現しない。ずっと、そう信じていた」
断定を撤回されたのは、あの事件を思い浮かべられたからなのでしょう。
その予測を裏付けるように、レイザー様は「だが」とお挟みになります。
「イヴトーチカ嬢との噂を耳にした。聞けば君というものがありながら、別の女性に懸想しているという。裏切りだと思った。だが私ならば思い留まらせることができるとも感じた。あいつは、リチャードならきっとわかってくれるはずだと」
ことの経緯は以前より存じていました。しかし、あのときのレイザー様が抱いていた想いを聞いたのは、実をいうとこれが初めてだったのです。
「……レイザー様は、そのようにお考えだったのですね」
「ああ。これでもリチャードがどんな男かは知っているつもりだったからな」
それでも最後には酒精の力を借りたのだが、とレイザー様は少し気まずそうにおっしゃって、こう続けられました。
「当時の私は、私が思う連理の枝が折れるのが我慢ならなかった。リチャードと君は、それほどまでに私にとって理想だったんだ。だから自分に言い聞かせた。この行動には義があるはずだと」
自嘲的に笑んで、レイザー様は皮肉げに。
「本当はミザリア、君の悲しむ顔を見たくなかっただけだというのに」
「レイザー様……」
どう返答してよいやらわからず、私は愛しい人の名を呼びます。
「私は、結局は自分のために君たちの間に割り入ったのだ。そして酔った挙句に事件を起こした。皆に、君にも迷惑をかけることになった」
そう前置いて、レイザー様は当時のことを振り返られました。
無論のこと、ご自分が端緒となり巻き起こった一連の事件についてです。
ことを起こした当人であるにもかかわらず、記憶がないことの情けなさ。
出自のよさのために、生徒会の方々に露骨に気を遣われたこと。
真実が明るみになり、ご自分の勇み足を深く恥じられたこと。
リチャード殿下とイヴトーチカさんに、とても申し訳なく思われたこと――。
レイザー様にとっての謹慎期間は、ご自分のなさった行為を後悔するための時間でした。でも、それがすべてじゃなかった。お気づきになられたのです。ご自分が起こした行為によって、とある人物が窮地に陥ってしまったことを。
そしてそれは――。
「私……なのですね」
確認のため発した声に、レイザー様はしっかりと頷きを返されました。
「もし事実が有耶無耶のままなら、君がそうなる必要はなかった。あの日、私がリチャードとイヴトーチカ嬢の関係を衆知のものとしてしまわなければ」
罪の告白のようなお声に、気づくことがありました。
もしそうだとしたなら、すべての辻褄が合ってしまうからです。
「まさか、レイザー様は、私を助けるため求婚を……!」
「それが筋だと思った。王家の助力を失えば、君の実家は没落する」
――救えるのは、私しかいない。
鑑みれば、レイザー様の結婚申し込みは、リチャード殿下の援助の継続の申し出ととほぼ同時に行われたものでした。両家の間で婚約解消が行われ、援助の継続が決まったその日に、ほぼ時間差などなく私の家に結婚申し込みの便りが届いたのです。
「……そんな……」
あまりのショックに言葉を失う私に、レイザー様が先んじられました。
「どうか誤解しないでほしい。私は本当に君のことを思っていた。ただこれは望んだかたちではなかった。君はリチャードと一緒になるべきだった。私がそれを壊してしまった以上、絶対に君を不幸にするわけにはいかなかった」
沈痛な面持ちでおっしゃるレイザー様はなおも顔を顰められ――。
やがて、にわかに信じがたいことを口にされたのです。
「だから、家臣に命じた……ここに着いたら、すぐに私と君を引き離すようにと」
「えっ?」
思わず口元を両手で覆い、驚きに眼を瞠ります。
あれは――シュトラウド家の意向ではなかったというの?
私の表情をお読みになったレイザー様は、「ああ」と頷かれます。
「私が、命じた」
「どうして、ですか。だって私たち、あのときまだ新婚で……!!」
――そう、新婚でした。
だから浸る権利があった。
享受していいしあわせがあった。
お父君を亡くされ、レイザー様のご実家が大変なことは存じておりました。けれど少しなら良かったはずです。ほんの少しくらい新婚夫婦らしい時間を過ごしたって、最初から誰も咎めるつもりはなかったのですから。
私の無言の非難を読まれたのでしょう、レイザー様は首をお振りになり、気まずげに視線を外してこう申されたのです。
「……君の隣に、立ちたかった」
「私の、隣?」
「自分は、届いていないと思った」
首を振り、レイザー様はおっしゃいます。
私は、領国の君主に足る力を蓄えたかったのだ――と。
「完璧な君の隣には、完璧な男しか立てない。リチャードならば相応しかった。だが私は――私ではその格に至らない。連理の枝には到底足り得ない。だから止める家臣を諫めて言った。私を、容赦なく鍛えてほしいと」
初耳の連続に、私は思ったことを口にするしかありませんでした。
「そのような風に……思われていたのですか」
私が教育係の人たちに作法を仕込まれているとき、レイザー様は決死の思い出ご自分を高めようとなさっていた。
でも……そんなのは間違いです。
いいえ、最初から勘違いされておられます。
だって私、そんな立派な女なんかじゃない。
リチャード殿下のお傍にいられたのは、婚約者であったのは運が良かっただけ。だのにレイザー様は、それを私自身の価値だと錯覚しておられるのです。
「ミザリア」
ふいに名を呼ばれ、私は顔を上げます。
その瞬間、脳裏に過ぎったのは――とある違和感。
けれど、そこまででした。その正体を探ろうとした矢先に、レイザー様のお話の続きが始まってしまったのですから。
「君なら、わかってくれているものと思っていた。私のこの思いを――君の隣に立つため、己を高めようとしていることを」
「何故ですか……最初からそんな必要なんて!」
勢い込んで反論しようとしたころで、ハッと気づきます。
レイザー様の顔色が、いつにも増して白いことに。
まさかそんな――ゾッとするほどの寒気が背筋に生まれ、私は最悪の想像が現実のものとなっている事態に恐怖を覚えました。
動くべきでした。今すぐに。
けれどそうできなかったのは、レイザー様の緋の瞳がこの場に私を縫い留めていたからです。そして――。
「――離縁、してくれ」
耳朶を震わすそのお言葉を、とうとう私は聞いたのです。
青褪めた唇が、震えながら続きを紡ぎ始めます。
「昨夜の君の言葉……ずっと、反芻していた。そして、遅まきながら気がついた。勝手に思っているだけの気持ちなど、誰にも、決して伝わりなどしないことを」
視線を切って、一瞬だけ窓の外を窺い見ます。
空中を埃のように舞い散る純白は、今年始めての降雪。
ああ、まさかこんな日に、あのような夜に――。
ずっと寝床にいた私だって寒かったのに。
「レイザー様、このお話はっ!!」
焦って叫んでしまった私を諫めるよう、レイザー様が首を振られます。
それだけの覚悟があって、今ここにいるのだと言わんばかりに。
「……駄目だ、ミザリア。すべて言い切らねば」
「そんな場合じゃありません! 続きなら後ででも!」
「いや、駄目なんだ」
きつく眇められた緋の瞳が、その場に突き刺すよう私を止めます。
でももう知っています。レイザー様は私を責めているんじゃない。
――その身を苛む苦痛を耐え忍ばれているだけなのだと。
「もし今倒れたら、私はすべてを忘れてしまうかもしれない。私の思い込みで君を不幸にしてきたことも、私自身の罪だって……だから、どうか最後まで言わせてほしい。私の思いを、今度こそ君に伝えさせてほしい」
この通りだ。
レイザー様は頭を垂れてそう懇願されました。
理解していました。もはや一刻の猶予とてない。
眼の前のお人の身体を、愛しい人を思うならば止めるべきなのだと。
でも――。
「……わかり、ました」
きっと、聞かなければダメなのです。
私が昨日、レイザー様に自分の秘密を打ち明けたように。
レイザー様も、私に思いの丈をぶつけなければならない。
今すぐにも動きたい気持ちを唇を噛んで抑え、私は私の正面に立たれるレイザー様のお顔をじっと見ます。ただでさえ白磁の如き白肌は青に近い色となり、お身体の限界などとうに通り越しているのが如実にわかります。
「……あり、がとう」
それでもやさしい微笑みを湛えて、私にお礼のお言葉をくださいました。
そして――。
「正しいと、思った」
ご自分の後悔を吐き出されるように、そう切り出されます。
「君の言葉は、正しかった。私は君に寂しい思いをさせた。ひとりきりでこの館に置き去りにした。そしてそれを、私が君に並ぶまでの致し方ない時間だと、勝手に判断した。自分勝手に、そう決めつけていたんだ」
さっきから、レイザー様の足元が覚束ない。
震えて何度も前のめりに倒れそうになるのを、足を踏みだすことで戻されている。
……歯噛みして、固唾を飲んで、今すぐにでも支えにゆきたい気持ちを耐えるしかない。
「愚かだった。君に言われるまでわからなかった。私が君になにも与えていないことを……言葉すら、与えなかったことを。だからミザリア、君に非はない。罪は私にのみ存在する。『君と永遠にある』などと嘯きながら、君をひとりにしていた私こそ責められるべきだ。私には、君の傍にいる資格などないんだ」
レイザー様はおっしゃいました――だから、と。
「君は……私と、離れるべきだ」
言い切った、伝えきった。
そのように判断してからの私の動きは遅くはなかったはずです。全身の力が抜け、もはや立っていることさえ困難なほど衰弱されたレイザー様を支えるため、駆けだす勢いで前方に足を踏みだしていたのですから。
「――レイザー様!!」
伸ばした手の先が、レイザー様のお身体に触れることはありませんでした。
最後の一声を振り絞って力尽きたレイザー様は、まるで掌の上に雪片が乗るかのようにゆるりと、床の上に倒れられてしまったのです。