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「……しかし、よく受けてくれたものだ」


 グラスから唇をお離しになり、レイザー様はしみじみとおっしゃいます。


 謹慎が解けたとはいえ、私たち4人はできる限りお互いの接触を避けておりました。決してそのような沙汰が下ったわけではないのですが、周囲の手前もあって慎重になっていたのです。


 もっとも、今のレイザー様のお言葉はあまりにご自分を過小評価なさっていると言わざるを得ません。ですから――。


「そのお言葉なら逆です。どうして私だったのでしょう?」


 率直な疑問に、レイザー様は驚かれたご様子を見せられます。

 ですが、すぐに表情をお納めになって、こうおっしゃいました。


「愚問だな。君ほどの女性など、この世にそういるものではない」

「うふふ……とっても嬉しいですけれど、本気でそう思ってくださったのですか?」

「そうだ」


 気持ちのいい即答です。ああ、心が踊り出してしまいそう!

 高揚する気分を抑え、私はこう言い加えました。


「正直に申せば、お受けするかどうかは半々でした。もちろんレイザー様に問題があったのではなく、私の気持ちの問題という意味ですが」

「聞かせてくれないか」


 レイザー様の申し出に、私は、ええと頷きます。


「自らの意思で結んだものでないとはいえ、私は長らく婚約関係にあったので……そのような女性は、殿方にとって条件が良くないものでしょう?」


 ずっと心の中でしこりになっていたことを、私は酒精の力を借りて思い切って口にしてみました。


 ですが、そんな心配はきっと無用だったのでしょう。

 レイザー様は首を振って苦笑されます。


「そんなもの、最初から気になどしていなかった。リチャードは君を大切にしていた。それが答えだろう」


 そうおっしゃると、レイザー様はご自分の手をグラスに触れる私の手の上に重ねられ、熱っぽい吐息とともにこう申されたのです。


「私も、彼に増して君を大切にしたいと思っている」

「レイザー、さま……」

「それでは、駄目だろうか」


 ダメじゃない全然ダメなんかじゃない!!


 このとき、私は椅子から立ち上がってレイザー様のお傍に寄り、思い切り抱き着いてしまいたい衝動に駆られました。


 もしそうしていたならば、レイザー様もすべてをお察しになり、きっと私の身体をやさしく抱えて寝室まで攫ってくださったに違いありません。


 ……ですが、ダメ。ダメよミザリア。


 今そんなことをしてしまうのは、あまりにもったいなさすぎる。

 だってこんなにしあわせな時間は、そう長くは続かないのだから――。


「レイザー様、お手元が寂しくなっていらっしゃいますよ。さあ、次の一杯を」

「ん? ……ああ、すまない」


 私は瓶を手に持ち、空になったグラスにルージュ・ペダンを注ぎます。

 鮮血の如き真紅を呷ったレイザー様は、一段と酔いを深められたようでした。


「やはり私は、これに目がないようだ。ミザリア、君はこのことをどこで?」


 眼を細められるレイザー様に、私は知った経緯についてお話します。


「リチャード殿下からです。レイザー様はお酒が苦手だとうかがっていたのですが、ルージュ・ペダンなら別口だと」

「信じてもらいたいのだが、君の実家が作っているものとは知らなかった」

「うふふ。お酒目当ての結婚っていうのも世の中的にはありなんでしょうか?」

「だから違うと……まったく、だが君のそのようなところもたまらなく愛おしい」


 きっとこのとき、私の頭にも酔いが回っていたのだと思います。

 だから、不謹慎にもこんなことを思ってしまいました。


 ――この時間が、ずっと終わらなければいいのに。


 レイザー様の美しいお顔が、今は眼の前にある。レイザー様は私を見つめられ、私もレイザー様を見つめて、その間に割って入るものはなにもない。


 だから、思ってしまう。欲張ってしまう。明日のことなんて、未来のことなんて忘れ

て、ずっとこの至福の時に浸っていたいと。


 レイザー様と一緒にお酒を嗜んでいるとき、よく脳裏によぎることがありました。


 それは、もしも私の初恋のお相手があなた様だと打ち明けたなら、レイザー様はいったいどのように思われるのかということです。


 不埒な女? そうかもしれません。リチャード殿下という婚約者がいながらそのような気持ちを抱くことは、とんだ裏切り行為に決まっています。ですが、その意味でなら私の思いは無罪だったのです。

 

 何故ならば、私が自分の思いを自覚したのは、例の大事件のあとの謹慎期間の最中だったから。


 ――レイザー様は、どうしてあのようなことを?


 寮の自室に閉じ込められて時間を持て余す私の脳裏で、いつしかその謎は一大テーマにまで育っておりました。


 これまでの面識も数えるほどで、言葉を交わしたことだってほんの数度しかない。そんな私のために、レイザー様があのような手段に打ってでられる必然性がどうしても思い浮かばなかったのです。


 私は、頭を悩ませました。


 本当なら、もっと別に考えることがあったに違いありません。リチャード殿下とイヴトーチカさんのこと。実家のこと。これからの私自身のこと――。


 ですが、レイザー様でした。私はこの謎を解かねば他の考えるべき事象に手が付けられないものと、腹を括りました。


 レイザー様レイザー様レイザー様……昼夜を問わずレイザー様のお顔を思い浮かべるうち、私は自分の中のある変化に気づきました。レイザー様のお顔を思い浮かべるだけで、身体が熱くなって心臓も高鳴りだすようになったのです。


 思い出すのは、教室で耳にしたクラスメイトのある言葉。


 もしも女性としてこの世に生を受けたならば、人生のどこかで必ず一度は恋に落ちる――そのお相手こそ、氷の伯爵様なのだと。


 その言葉を借りるのならば、遅ればせながら私にもそのときがきたのかもしれません。どんなタイミングだ、とのご指摘もきっとおありでしょう。


 ですが、こうも考えられます。私は、定められた婚約者であるリチャード殿下を失って初めて、本当の恋をする準備ができたのだと。


 恋心を自覚してからの謹慎生活は、実はちょっぴりしあわせなものでした。これまでの訓練によって、眼を瞑ればそこにレイザー様のお姿をありありと見ることができるようになっていましたから。


 ……まさかレイザー様も私と似たようなことをして時間を過ごされていたなんて、もちろんこのときの私には知る由もありませんでしたけれど。


「……うふふ」


 気づけば私は笑んでいて、レイザー様も笑みでそれに応えられます。


 しあわせな時間は蠟燭のよう。夢中にいる間に溶けてしまう。その終わりは唐突で儚い。いつだって炎はパッと消えて、現実の暗闇が世界を覆い尽くしてしまう。


「やはり君は、素晴らしい」


 酒精の魔法にかかられたレイザー様は、いつだって私のことだけを見てくださいました。私にとって、この時間こそが掛け替えのないしあわせでした。


 ルビーの如き緋の瞳に見つめられている間、私も忘れていられるからです。


 王都から遠く離れた国境くにざかいのこの場所に、片手で足りるほどの従者とともにやってきて4年。学園卒業を半年間繰り上げた私の肩書きは、伯爵令嬢から一足飛びに辺境伯夫人へと変貌しておりました。


 長旅を経て馬車から降り、見知らぬ土地に初めて足を着けたときの戸惑いは、今でも鮮明に記憶の中に残っています。


 きっと、このような事態を予見できる者は誰もいなかったでしょう。学園中を席巻した、レイザー様と私との電撃婚約。大いなる不幸は、その熱も冷めやらぬうちに、しあわせの絶頂にあった私たちの肩を叩いたのです。


 レイザー様のお父君が、お隠れになりました。


 それまで肉体も壮健で、頭脳も明晰であられたその命を奪ったのは、馬車による事故でした。道路に飛びだした領民の子どもを咄嗟に避けようとして、馬車ごと川に転落してしまわれたのです。


 家督を継ぐご覚悟なら、レイザー様はとうにお持ちでした。

 王都の魔法学園で学ばれていたのは、そのためだったからです。


 懸念材料があるとすれば、それは私の存在でした。


 既に魔法学園卒業の資格を有しておられるレイザー様と違い、私は1学年下でいまだ学生の身分。そんな私を伴ってご実家に戻られるのが本当に正しいことなのか、随分とお悩みになっていたご様子だったのです。


 ですが、私の心なら決まっていました。だから――。


「ふるさとへお帰りになるなら、どうか私も一緒に!」


 正式にお付き合いを始めて幾度目かのデートの最中、私は思い切ってレイザー様にそう告白いたしました。


 きっとものすごく驚かれたのだと思います。レイザー様は素面のときにしては珍しく、眼を大きく見開いて私の覚悟を見定められました。


「……いいのか、本当に」

「はい。私の心はもう、あなたとともに」


 手を胸に心を決め、言葉少ななレイザー様にそう返答すると、驚きの表情が少しほっとしたような、柔和なものに変化した気がしました。


 それからの私の生活は、まるで嵐の中のよう。慌ただしい婚儀の準備に始まり、シュトラウド領への旅支度、他貴族への書面での通達といった濁流で、平穏な日々はあっという間に後方へ押し流されてゆきました。


 そんな多忙な折のことです。こちらからは接触すまいとしていたリチャード殿下とイヴトーチカさんに、庭園で呼び止められたのです。そして――。


「君が学園を卒業できるよう、生徒会長として尽力させてもらえないだろうか」

「ミザリア様。ご迷惑でなければ、是非私めにもお手伝いさせてくださいまし」


 この意外にしてあまりにも心温まるお2人の申し出に、私は危うく泣きそうになりながら、何度も首を縦に振ったのです。


 こうしてお2人のお力添えを得た私は、成績優秀者の名目で無事に学園の卒業資格を得ることができました。


 学園の礼拝堂で駆け足の婚儀を終えると、その日のうちに馬車に乗り込み、レイザー様のふるさとであるシュトラウド領へと旅立ったのです。


「……馬車」


 記憶の底から、ふと意識が浮かび上がります。

 それに乗り込んだとき、私はどんな心持ちがしたのでしょう。


 まだ見ぬ土地に対する不安? 今後の結婚生活への期待?

 それとも……レイザー様とともに生きる私自身の未来像だったでしょうか?


 きっと、それらはどれもちょっとずつ正解で、ちょっとずつ間違っていた。


 何故ならそのときの私は、将来の自分の姿を思い浮かべながら、同時にそうはならなかった自分の姿をも脳裏に思い描いていたからです。


 ……今、テーブルの上にはカボチャのランタンがある。

 人の顔にくり抜いた皮の内側で、蝋燭の炎が揺らめている。


 幼い頃、よくお父様が読み聞かせてくださった童話があります。かわいそうな女の子がお城で開かれる舞踏会に出席するため、魔女の魔法でカボチャを馬車に変えてもらうというお話です。


 カボチャだけではありません。身に着けるドレスも、ガラスの靴だって、すべては魔法で仕立て上げられたもの。時が過ぎて効力が失われたら、みな立ちどころに消えてしまう――だから女の子は、急いで帰る必要がありました。


 酒精に微睡むこの時間も、きっと同じようなもの。


 この時間は、永遠などではない。レイザー様も、いつまでも私のことを見てはくれない。夜が更け、明日の朝日を迎えれば、すべては夢とともに消え去ってしまう。


 お父君を亡くされてから、レイザー様は働きづめでした。


 領内を巡り、問題を片づけ、単身で外交に赴き、また帰り――家督の継承は本来ならばもっとゆっくりと行われるもので、そのための準備は数年単位で整えられるはずでした。


 ですが前ご領主の不慮の死が、すべての計画に狂いを生んでしまったのです。周囲からご領主としてのひとり立ちを願われるレイザー様には、自由になる時間などほとんどありませんでした。


 それは辺境伯夫人である私にしても同様で――私は、レイザー様がご不在の日々を、自らの責務を務めあげながら過ごすこととなったのです。


「レイザー様……」

「どうした?」

「いえ、お名前をお呼びしたかっただけで」

「君に名を呼ばれる、その響きすら心地良い」


 上機嫌にワインを嗜まれる、そのお姿を愛おしく見つめます。


 本当は泣きたくなるほど訊ねたかった。


 今度はいつ帰ってきてくださるのか。

 どれだけの間滞在してくださるのか。


 この数日間、館におられたのは偶然の計らいに過ぎません。

 今日の日が過ぎれば、レイザー様はまた領内に旅立たれてしまう……。


 知っています。そんな感傷は甘えでしかない。辺境伯夫人という立場は、そのようなものを抱えたまま務まるほど甘くなんてないのです。


 だから悟られてはなりませんでした。

 レイザー様に、私のこの心の内側を。


 狂おしいくらいに、その存在に恋い焦がれてしまっていることを。


「……深酒が過ぎたな」


 それは合図の一言でした。

 私はハッと頭を上げて、酒精で揺らぐ思考に鞭打って告げます。


「ルージュ・ペダンならまだ残っておりますわ」

「わかっている。だが、これ以上の飲酒は明日に障るのでな」

「そう、ですか……」


 酒精の魔法が解けてしまった――今宵もまた、そんな残念な気持ちを抱えて私は後片付けにかかろうとした、そのときでした。


「それで、そろそろ説明してくれないか」


 2つのグラスを手に水場へと赴こうとした私の背に、レイザー様のお声が降りかかりました。


「えっ?」


 不意を衝かれた声とともに振り返る私の正面にあったのは、つい先程までのおやさしいレイザー様の表情ではなく、かつて見た氷の伯爵様のそれでした。


「このようなことをして、いったいなにが狙いだ」

「あの、おっしゃる意味が……?」


 ドクドクと自分の心臓が脈打つ音を聞いて、私の口先は半ば反射で誤魔化しにかかります。ですが――。



「今年のルージュ・ペダンは不作のはずだ」



 その一言が、私の立場を一気に危険な場所へと追いやったのです。


 まるで背筋に氷を這わされたような感覚――ですが、ここで沈黙するわけには参りません。私は素早く二の句を継ぎました。


「まだ酔われていらっしゃるのですね? お父様の農地改革が功を奏して、この数年のルージュ・ペダンは不作知らずです。私はなにも――」


 隠してなどいない、とまでは言えませんでした。

 レイザー様の緋色の瞳が、きつく眇められているのを見てしまったのです。


「隠しごとはしなくていいと言った」

「そんなこと……て、天候だってこのところはずっと良くて……!!」

「問題はそこではない」


 そのように断じられたレイザー様のお顔は、既に有能なご領主のものでした。


「前に領外に出たとき、行商に話を聞いた。世に出回るルージュ・ペダンの量が減っていると。だから個人的に探りを入れた。ルージュ・ペダンの元となる葡萄は、限られた畑からしか収穫できない。天候に問題はなく、土壌も至って肥沃だ。だがひとつ問題があった。今年の初めに魔物の襲撃に遭っていたんだ」


 いちどきに突きつけられた鋭い指摘を受けて、まるで背筋に氷を這わされたような冷えが、急速に拡大してゆくのがわかりました。


 密やかな楽しみでした。こうして、レイザー様とともにお酒を嗜むのが。

 私のことを褒めてくださるそのお声を耳にすることが。


 私にとってルージュ・ペダンはただの嗜好品などではなかった。

 それは魔法だったのです。私に、明日を生きる力をもたらすための――。


 お願いの手紙を送ったとき、当初お父様から色よいお声は聞けませんでした。

 今年だけは勘弁してほしいと、その理由も込みで手紙のお返事がありました。


 それでも私はほしかったのです。ルージュ・ペダンが。その酒精がもたらしてくれる、レイザー様のおやさしいお言葉が。


 だから私は、ここに嫁いでから初めてお父様にわがままを申しました。どうあっても私にはルージュ・ペダンが必要だと、どうにかして送ってもらいたいと――。


「…………」


 無言で立ち尽くす私を、レイザー様はどう思われたのでしょう。


 首を捻り、まだ山のようにあるルージュ・ペダンの瓶が納められた木箱を一瞥されました。


「答えてくれ。君は、私のことを安く見積もったのか」

「なに、を……」


 言葉を失う私に、レイザー様はグラスを見せつけるよう掲げられます。


「これはたしかに無二の好物だ。だからどうあっても占有したいと、私がそう願っていると君が思ったのか問うている」

「それは……」


 いったん口を噤んで、少しの時間を置いて。


「そのようなこと、決して思ってなどおりません」


 こわい。レイザー様の眼が、見られない。

 私は俯いて、ただ思ったことを声にするのが精一杯でした。


「そもそもが、ルージュ・ペダンは国賓にも供される貴重な酒だ。数がとれぬなら、配当や扱いにも慎重にならざるを得ない。不作であれば、君のお父上、ブラガンド伯だって気を揉まれることだろう。それを知らぬ君ではあるまい」


 口頭で確認される事実は、私から確実に逃げ場を奪います。


「ならば何故、ここにこれほどの量が存在する」

「それ、は――」


 ほんの一瞬、私の脳裏によぎった邪な考えを、レイザー様は立ちどころに看破されました。


「私相手に、嘘やお為ごかしが通用すると思わないでくれ」


 語調こそいまだ穏やか。けれど、その奥にあるものは決然とした私への詰問。

 その圧迫感に、身体が強張り、寒気がさらにいや増します。


 私は知らず、スカートをきゅっと握りしめておりました。

 酔いと緊張で手汗がじんわりと滲み、不快な感覚を覚えます。


 それは後ろめたい気持ちが身体反応として表に現れたものでした。自分のとった行動が褒められたものではないという自覚が、私自身を責め苛んでいたのです。


 正直にすべてを打ち明けることは、できませんでした。

 何故なら、これは私が選んだ道だったからです。


 お父君を亡くされ、新たに辺境伯の座に就かれたレイザー様をご助力するため、私はこの地にいるはずでした。その一念とともに、辺境伯夫人として今日まで生きてきたはずでした。


 辺境伯夫人の役目は、生半な覚悟で務まるものではありません。

 それは、私がこれまで実際にこなしてきた仕事によっても証明されています。


 人の上に立つ身として、弱さを見せることは厳禁でした。それが弱みになることを骨身に染みて知ったからです。私の知らぬ場所、私を知らぬ領民と上手く折り合ってゆくには、常に虚勢を張っている必要があったのです。


 だから、私のしていることは、思っていることはきっと正しくないのです。


「…………」


 唇を噛むほどに引き結び、押し黙る私に業を煮やされたのでしょう。

 レイザー様はテーブルの上で掌を組まれ、語りかけるように申されました。


「怒っているのではない。理由なくそのようなことをするほど、君が浅はかな女性でないと承知している。私はただ知りたいのだ。不作であるにも関わらず、実家に無理を言ってまでルージュ・ペダンを揃えたのには、きっと大きな意味がある。だからそれを君の口から聞きたいと感じているだけなのだ」


 言えば、幻滅される。

 辺境伯夫人として、不適格の烙印を押される。


 それがわかっていてなお、このとき私は胸の内を打ち明けたい衝動に駆られていました。何故ならそれはずっと心の奥底にわだかまっていたものだからです。私がこの地に身を寄せてからずっと――。


 スカートの前で手を合わせ、まるで先生に叱られる子どものように俯いていた私に、唐突に脱力したかのようなレイザー様のお声がかかりました。


「……どうせ、覚えてはいない」

「え?」


 はっと顔を上げると、レイザー様は困りきったご様子でした。

 私の反応を確認され、赤ら顔のままこう切りだされます。


「言葉通りの意味だ。この場が楽しいあまり、私はかなりの深酒をしてしまった。今君の口から真実を聞きだしたところで、寝て起きたらすべてを綺麗さっぱり忘れてしまっているだろう」


 情けないことにな――と自嘲されるように呟かれ、レイザー様は再び私へと眼を向けられました。


「だから、気にしなくていい。君の答えがどのようなもので、私がどう思おうと、それはどうせ失われてしまうものだ。ただ必要ならば覚えておいてほしい。私が君になにを言ったかを。それだけ約束してくれれば、私は君になにもしないと誓おう」


 そのお言葉は、とてもおやさしい。


 けれどレイザー様の緋の瞳が秘める輝きに、私はこれがどれほど深刻な事態であるかを、改めて噛みしめる思いでした。


 背筋を這う寒気も大きくなり、恐怖に身体が震えそうになる。

 自分の浅はかな行為が招いた罪の大きさも実感せずにはおれない。


 だけどもし、ここで口を噤んだら、誤魔化してしまったら。

 私きっともう、レイザー様の瞳を一生見れなくなる。


 世界で一番愛する人のお顔を、見れなくなってしまう。


 だから――。


「……寂しかったのです」


 真正面から緋の瞳を見つめ、私は正直な気持ちを吐露しました。


「どういう、意味だ?」


 私の纏う雰囲気の違いを気取られたのか、レイザー様は佇まいをお直しになってそのように問い返されます。もう一度、口を開いて答えます。


「ミザリアは、レイザー様がおられなくて寂しかった。これがすべての答えです」

「待て。答えになっていない」

「でもこれが答えなのです。私は、もっとあなた様に私のことを見てもらいたかった――」


 一度口に出してしまえば、もう後には引けません。

 私は、私の密かな策略と楽しみを口に出すしかありませんでした。


「酒精に酔われたレイザー様は、いつも私にやさしいお言葉をかけてくださいます。私はそれが嬉しくて、癒しで……これらは、そのためのルージュ・ぺダンなのです」


 レイザー様は、私を見てハッと眼を瞠られておりました。

 ええ、きっと驚かれたのです。次のお言葉は、私の思う通りのものでしたから。


「そのような理由で、これほどのルージュ・ペダンを揃えたというのか」


 常識的に考えれば、それは妥当な感想だったのでしょうけれど。


「本当はずっと心細かった。異郷の地で、辺境伯夫人という大役を任されて。だから私、レイザー様のお言葉が、どうしてもほしかった……」


 そう口にして、胸によぎるのは4年前の私自身です。


 最初から、レイザー様がご多忙になることは存じ上げておりました。そのために犠牲にしたものがありました。


 私たちにはハネムーンもなかった。新婚生活もなかった。夫婦として一緒に睦み合う時間すらも、なかった。


 学園を卒業したばかりの未熟な2人には、このシュトラウド家を引き継ぐための力が不足しておりました。そのために馬車でこの地に乗りつけて早々、シュトラウド家の忠実な家臣たちによって引き離され、それぞれに教育を施されることとなったのです。


 私は約1年もの月日を、辺境伯夫人としての勉強に費やしました。


 そうしてやっと、家臣の人たちに認められ、この館にレイザー様とともに住まうことを許されることとなったのです。


 しかしそんな憩いも、一時のことにすぎませんでした。


 ご領主として独り立ちされたと見なされたレイザー様には、前ご領主が半ばまで進められた事業のすべてを引き継がれる責務があったからです。


 ほどなく近隣諸国との外交や領内の内情視察に駆り出され始めたレイザー様は、めったにこの館に帰ってこられることがなくなったのです。


「君は、立派に辺境伯夫人の務めを果たしている」


 レイザー様の、きっと本心からのお言葉でしょう。

 諭すようなその響き、いつもの私なら恭しく頂戴していたものと思います。


 ですが今、本心を晒した私にとっては、なんとも空寒いものでした。


「……本当に、そのように」

「ああ。君の力添えがなければ、この地は立ちゆかない」

「痩せ我慢をしただけです。本当は、私にそんな器は」

「ミザリア、君が優秀なことはこの私が一番よく知っている。君は賢く、そして――」

「私は強くなんてありませんよ」


 先んじた私の言葉に驚かれたのは、きっとそのものであったからでしょう。


 王妃としての教育を、受けたことがありました。かつてリチャード殿下の婚約者であったとき、幾度か王都から教育係が寄越されたのです。まだ幼く、なにも知らぬ私は、正しき礼儀作法を覚えれば、きっとリチャード殿下も喜ばれるものと心から信じておりました。


 ですがこのシュトラウドの地では、勝手が違いました。幼い頃に学んだ王妃としての作法に加え、シュトラウド辺境伯夫人は代々、所領に隣接する諸外国の作法にも精通せねばならなかったからです。


 教育係の人たちが厳しく接したのは焦りと、きっと期待もあったのだと思います。前ご領主の一粒種であるレイザー様が見初めたのだから、器量なぞあって当然という前提で、私の犯す間違いを手厳しく修正していきました。


「……レイザー様」


 つらい日々の折、私はいつかのようにレイザー様のお顔を思い浮かべました。


 今度はいつお会いできるのだろう。

 明日にでも、私を迎えにきてはくれないか――。


 ですが代わり映えのない日々が長く続くと、私の心にも変化が訪れました。


『私はどうして、こんな場所にいるのだろう』


 それは後悔の念。もしレイザー様の結婚申し込みを受けず――いいえ、それでなくともレイザー様に付いてこの場所にさえこなければ、私はきっとこんな目に遭わずに済んだはずだと。


 ここにさえこなければ、私は魔法学園の大学部に進み、リチャード殿下や他のみなさんと一緒に学びの機会を得たのではないか。それはとても楽しくて、ここですごすよりずっと充実した日々だったのではないか。


 そのような考えが自らの弱さから発した裏切りだと気づいたのは、ご領主としての学びを終えられたレイザー様が私を迎えにこられた、まさにそのときのことでした――。


「ミザリアは、とても弱い女なのです」


 初めて実家からルージュ・ペダンが送られてきたとき、レイザー様はとても喜んでくださいました。それをお飲みになったとき、ふだんは聞くことのない私への愛の言葉を囁いてくださいました。


 ……そのとき、気づいたのです。

 私に足りなかったものはこれなのだと。


 レイザー様のくださる愛のお言葉さえあれば、どれだけ寂しくったって、ミザリアは明日もがんばっていけるのだと――。


「……だが、わかりきっていることのはずだ」


 しばしの間お考えになったレイザー様が歯噛みされ、そう口にされます。


「私が君をどう思っているかなど。伝わっていないわけではあるまい」

「ですが、ふだんは口にしてくださいませんでした」

「婚儀のとき誓った。『君と永遠にある』と」

「覚えています。今だって信じております」

「ならば何故……やはり時が経って、私の心が疑わしくなったからではないのか」


 私はふるふると首を振って、こうお答えしました。


「そうではないんです。わかっていても、言ってもらいたかった」


 眼を伏せて思い返すのは、学生時代の謹慎生活のこと。

 先行きがわからないまま、私はレイザー様に恋をしました。


 レイザー様のお顔を思い浮かべるだけで、自分の境遇もこれからの未来だって忘れて、あのときの私はしあわせな気持ちになれたのです。


 きっと、それと同じだったのです。レイザー様のくださったお言葉を何度も思い返して、私は寂しい日々をずっと紛らわせていたのですから。


「…………」


 口を閉じてお返事を待つ間、身体の寒さはいや増すばかりでした。

 それは死刑宣告を待つ受刑者の心持ちにも等しかったでしょう。


 何故ならば、私の答えはレイザー様の望んだものではない。


 私がレイザー様とともにこのシュトラウドの地へ赴きたいと申したとき、そのお瞳には隠しきれない期待の色がありました。未だ年若く未熟であるにしろ、いずれ広大な辺境伯領を治めるレイザー様のお力になれるような、完璧な伴侶を求められているのだと、私はそう思ったのです。


 だから私は、弱音を吐いてはなりませんでした。どんなにつらくとも、レイザー様のお傍では笑顔を作り、完璧な辺境伯夫人であろうと努めてきました。


 そうでなければ、私はこの愛しい人のお心を繋ぎとめてはいけないと、そう思っていたから――。


「そうか」


 納得のお言葉を受けて顔を上げると、そこには氷の伯爵様がおられます。

 厳しいお顔で私を直視され、とうとうこう申されたのです。



「君は、そのような女性だったのだな」

「――あ」



 脳裏に思い浮かぶのは、無数の言い訳の言葉たち。


 これは違う、誤解がある――けれど、それらはすぐに雲散霧消してしまいます。

 何故ならば、それらを失くすために言葉を尽くしてきたのですから。


 もし今レイザー様が私の存在を見切られたのだとしたら、それは正しい選択でしかありません。


 なにもできず立ち尽くしていると、椅子から立ち上がったレイザー様が歩んでこられました。


「すまない。君も酔っているのに、立たせたままで」

「……いえ」


 それは、足が震えそうになるのを押し留めての返答でした。

 鋭いレイザー様は、目聡く私の変化を見つけてくださいます。


「寒いようなら上着を取ってこよう」

「いえ、大丈夫なので……それより、お話の続きは?」


 焦ってそう申し上げると、レイザー様は私を一瞥して――。


「これ以上、君に話すようなことはなにもない」


 はっきりとした拒絶は、私からそれ以上の言葉を奪い去るのに充分でした。


「遅くなったな。今日はもう寝床に入るとしよう」


 話を切り上げ、促す言葉に、私は先に部屋を出るレイザー様の背に付き従うことしかできませんでした。

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