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 ルージュ・ペダンをご存じでしょうか?


 それはお父様が治めるブラガンド領、その一部の畑でしか獲れない葡萄を使用した最高級赤ワインの名前です。


 かつては高級貴族であってもおいそれと口にできなかった希少品だったのですが、お父様が長年着手していた農地改革に成功し、この数年は不作知らずのルージュ・ペダンと呼ばれておりました。


 そんなルージュ・ペダンが、今年も実家から山のように送られてきました。

 例年、それを楽しみにしているレイザー様もお顔をほころばせた気がします。


「ほう、これは……」

「今年も豊作です。良ければ今宵にでも嗜まれてはいかがでしょうか」

「執務がある。週末は精霊節だし、領内を見回りたい」

「では、明日の夜にでも」

「そうしよう」


 私こと、もと伯爵令嬢ミザリアが辺境伯閣下のご子息であったレイザー様と結婚してはや4年。


 魔法学園卒業後は婚約者である私を伴って領地に帰られ、立派に家督をお継ぎになったレイザー・フォン・シュトラウド辺境伯様は、多忙な日々を送られていました。


 翌夜、邸宅内で自分の仕事を先に終わらせた私は、室内の飾りつけに着手しました。精霊節にはカボチャに人の顔をくり抜いたインテリアが付き物だからです。


 シュトラウド家のメイドの手を借りず、私だけで準備を終えた頃、馬車が乗りつける音がしました。レイザー様がご帰宅になったのです。


「お早かったですね」

「揉めごとを起こした領民が訴えを取り下げたのでな」

「まあ! ということは仲直りを?」

「あるいは主張の不利を気取けどったか……室内が、華やかだな」

「週末は精霊祭なので。カボチャのランタンも用意しているんですよ」


 私が中に蠟燭を入れた人面カボチャと、机の上に置いたルージュ・ペダンの瓶を見せると、レイザー様がフッと笑まれたような気がしました。


「準備は万端か。では、食事をすませたら」

「飲みましょうね、一緒に!」


 レイザー様は静かなお方です。ですがこの日ばかりは少し様子が違っておられました。夕餉を召し上がる速度がものすごく速かったのです。


「それでは、乾杯」

「乾杯」


 夜着への着替えを終え、あとは寝室に帰って寝るだけの段を整えると、私たちは向き合ってグラスを打ち合わせました。


 告白しますと、私はお酒を嗜まれるレイザー様が好きでした。


 かつて魔法学園で『氷の伯爵』と呼ばれた白磁のような肌に徐々に朱が差し、生まれたばかりの赤ん坊の肌さながらになるのを見るのも好きでしたが、私が本当に好きなものはその変化が終わってしばらくたった頃に始まります。


「ふ、ふふ……」


 愉快げな笑い声。

 それは、いつもお静かなレイザー様とは縁がないもの。


 その理由を問いただしたくて、私は早口でこう言ってしまいました。


「楽しいことでも?」

「いや、そういうわけではないよ。ただ……この時間が、しあわせで」


 始まった、と私は内心でグッとガッツポーズをします。


「そうおっしゃっていただけたなら、お父様に代わり私が御礼を申し上げるべきでしょう。今年のルージュ・ペタンも美味だと領内では評判ですから」


 俯いて微笑を浮かべたまま、レイザー様は首を左右に振られました。


「それはそうだ。このような美酒を毎年味わえるなど、これ以上のしあわせはない」

「光栄に存じますわ」


 私が頭を垂れると、レイザー様はさらに首を大きく振られました。


「けれど、違う。今の私がしあわせを感じているのは、君と一緒にいられるからだ」

「私と、ですか?」

「そうだ」


 お顔を上げて、じっとこちらに注がれる熱視線。その中心にある光彩が、とろんとして物憂げなのはきっと気のせいではありませんでした。


「ミザリア、君は美しくやさしい。君のような完璧な淑女は見たことがない」

「まあ、お上手」

「世辞と取られるのは心外だ。私は本気だぞ?」


 じっと私を見つめるレイザー様のお顔は、一流の人形師が造形したかのよう。


 銀の長髪に、緋の瞳。学生時代には、中庭のベンチで物静かに本を読んでおられるそのお姿を見て、数多くの令嬢が胸を焦がしたと聞きます。そんな御方に妻として迎え入れられたのですから、本来ならば私こそがしあわせ者であったことでしょう。


「……信じていないな」


 レイザー様は、はにかむ私の反応を不服と思われたのかもしれません。

 少し不機嫌そうに、むうっと呻ってむつかしい顔をされます。


「どうされました?」

「考えている。どうすれば君に私の気持ちが伝わるのかと」

「そんな、信じておりますわ。私、レイザー様のお心を疑ってなど」


 一応、本気で申し上げたのですが、レイザー様は信用なさらなかったのか至極真剣に(そして頬を紅潮されて)、私にこうおっしゃられました。


「本気なのだ。私は……ミザリア、君と一緒に生きたいと考えている」

「それはどのような意味で?」


 ふうっと一息吐かれ、レイザー様は決心されたようにこうおっしゃりました。



「――私と、結婚してほしい」



 真剣なまなざし。思いつめた声音。もしも数年前にそのお言葉を聞いていれば、ミザリアは胸を熱くし、両の瞳から涙を流して喜んだことでしょう。今まで生きてきた中で、もっともしあわせな瞬間だったと、そう感じたことでしょう。


 ですけど――。


「それはできかねますわ」

「な……ど、どうしてだ!? まさか他に意中の男が……!?」


 眼を剥いて本気で狼狽されるレイザー様を安心させるよう、私は続けて申し上げました。


「いえ、ではなく。私とレイザー様はもう夫婦の関係ですので」

「そう、だったか?」

「はい。4年前、卒業と同時に婚姻を交わしてよりずっと」


 覚えておられます? とばかりに私がレイザー様のお顔を覗き込むと、気づくところがあったのでしょう、レイザー様も納得されたご様子です。


「そうか。そうだったな……私は君に求婚した。そして君はそれを受け入れた」

「はい」

「私は果報者だ。君のような最高の女性と人生をともにできるのだから」


 そんな、とびきりに嬉しいことをおっしゃってくださったレイザー様は、ふとなにかにお気づきになられたようでこう独白されます。


「だが、変だな。君とともに在れるしあわせより至上のものなど存在しない。だのに何故、私はついさっきまでそれを忘れていたのだ……?」


 額に指を当て、怪訝な表情で考え込まれますが、想定内です。

 このケースのあしらい方ならば、私も堂に入っている自信はあります。


「レイザー様はご領主としての執務に追われ、ひどくおつかれになっておられるのではないでしょうか」


 そう申し上げて笑みを浮かべると、レイザー様はハッと気づかれた表情を浮かべられました。


「……なるほど、そうかもしれない。このところ多忙で睡眠も碌にとれていなかったし」

「赤ワインには疲労回復を促進する効果があります。グラスは空けられたご様子ですし、是非もう一杯」

「ああ、頼む」


 2人だけの空間に酌取りはいません。私は手ずから瓶を持ち、レイザー様のグラスへとルージュ・ペダンを注ぎました。


 さて、ここまでの様子でもうおわかりかと思いますが、説明いたしましょう。


 肌の色素が薄い方の御多分に漏れず、レイザー様はとてもお酒に弱いのです。ワインを通じてレイザー様の体内に入った酒精アルコールは、その熱量で明晰な頭脳を蕩かし、過去の出来事も現在の出来事も全部ないまぜに攪拌してしまいます。私との結婚を忘れてしまっていたのは、このためでした。


 それともうひとつ、酒精はレイザー様のお身体にとある効果を及ぼします。

 それは――おっと、どうやらまた始まるみたいですよ?


「……美しいな、君の瞳は」


 2杯目のグラスを空けたレイザー様のご様子は、肌の朱の度合い以外、眼に見えて変わったところはありませんでした。


 ですが私にはわかります。酒精が、その魔法が、身体の奥深くから普段は隠れているレイザー様のお言葉を、ゆっくりと引き出してくれるんです。


「大粒の翠玉ですらこうはいかない。いつまでだって眺めていられる」

「まあ、そんな……お褒めの言葉が過ぎますわ」

「そんなことはない。まったく、何故リチャードのやつに君の魔法が効かなかったのか、私には不思議で仕方がないよ」


 自然な所作でグラスを口に運ぼうとなさったレイザー様の手が、その途中でハッと止まります。


「す、すまない。他の男の話などして、不快だったか?」

「いえ。けれど……そのお名前を聞くのは久方ぶりでしたから」


 驚きはありました。ふだんのレイザー様はとても寡黙な御方。必要最低限のお言葉のみ操られ、無駄なおしゃべりはほとんどなさらないものですから。


 この館でリチャード王子のお名前を聞くのは、私にとって初めてのことだったのです。


「あの事件のことは?」

「覚えてます。というより、きっと一生忘れられません」


 胸裏によぎったあのシーンを、先んじてレイザー様が言葉になさいます。


「前代未聞だからな。公衆の面前で王子が殴られるなど」

「ふふ……それも、早とちりで」

「侮辱を受けるのだと思った。だから私が先んじねばと」

「心得ておりますわ。でもあの場では、私すっごく驚いてましたわね!」


 2人、同時に笑って――時計の針は4年前。


 魔法学園の生徒だった私の身空は、今とは幾分か違ったものでした。婚約者がいたのです。そしてそれは、レイザー様ではなかった……。


 本来ならば、きっと女性として最高の名誉だったのかもしれません。何故なら、私の婚約者はこの国の第一王太子であられるリチャード殿下だったです。


 酒の場での双方の親同士の口約束、それも今後どう転ぶかわからない。そんな暫定的な関係ではあったものの、当の私からすれば、それは決まりきった運命のように思えてなりませんでした。


 きたる日がくれば、私はきっとこのお方の隣に並ぶのだと、そんな乙女心に疑いを挟む余地を持たなかったのです。


 ですが風向きは、急変します。


 お父様の領地が悪天に見舞われ、数年もの長きにわたって続きました。領地収入の多くを地域名産のワインに頼っていた我が領地は、葡萄の不作もあって目に見えて消耗してゆきました。言ってしまえば、没落一歩手前だったのです。


 こうなるとリチャード殿下と私との婚約を、貴賤婚だと申す口さがない声も世の中に響き始めました。酒の場での口約束で、書面も交わしていないのだから、撤回などいつでも可能との見立てが、人々の口を軽くしていたのだと思います。


 ですがそれでも、リチャード殿下と私とは懇意な関係でした。


 幼い頃から互いの故郷を行き来し、その度に2人で遊んでいたのですから、言わば幼馴染みも同然の間柄だったのです。


 そんな昵懇の関係にも、暗雲が立ち込めます。


 男爵令嬢イヴトーチカさんの噂は、学園内をあっという間に一周しました。1学年下にとんでもない美女がいる――元は男子生徒の間でのみ語られていた噂ですが、いつしか女子の巷間にも上るようになったのです。


 何故ならば、そこにはとある変化があったからです。曰く――。


「リチャード殿下が、イヴトーチカ嬢とともにいるのを目撃した」

「殿下はもしや、彼女に懸想されているのでは?」

「2人は仲睦まじい様子で庭園を散歩していたらしいぞ」

「ちょっと待って、私も見た。この眼で実際に見たんだから本当だよ!」

「となると、殿下の婚約者であるミザリア嬢は……」


 教室の扉を開けると、教科書を引き上げて盾とし、クラスメイトが一斉に顔を背ける場面に出くわしました。


 噂が半ば決定的証拠のない事実として語られるようになると、私の周囲の空気も変化し始めます。学園内で2人がされているのとは別の意味で、私もまた注目の的となっていたのです。


 やがて噂には尾ひれが付き始めます。曰く。


「リチャード殿下が、ミザリア嬢との婚約を破棄されるらしい!」


 それは次週の朝礼後、公衆の面前でなされることになっていました。


 今思うに、事実無根の噂だと一蹴してしまえばよかったのかもしれません。


 あろうことか公衆の面前で、暫定とはいえ婚約者である私に婚約の破棄を宣言する――それが世の中にいかほどの混乱をもたらすか、それがわからぬリチャード殿下ではありません。


 それに、私たちの仲は良好なままでした。さすがに幼い頃のように四六時中一緒というわけにはいきませんが、互いを婚約者と認め、折を見てともに過ごす時間を自覚的に設けてすらいたのです。


 それでも、前日の夜は眠れませんでした。万のひとつの可能性であっても、現実に起きてしまったときのことを考えずにはおれなかったのです。


 不運なことに、翌日の朝礼の司会進行役は、クラスの学級長である私が当たっておりました。


 身だしなみに関する諸先生方のお話や、校外で活躍した学園生の各種表彰類を無事に終え、胸を撫で下ろす心地で閉会を宣言した、まさにそのときでした。


「……ミザリア」


 舞台袖から届いた小さな呼び声に、私は思わず身を固くしました。


 反射的に見てしまったのです。そこにリチャード殿下が、他ならぬイヴトーチカさんを伴って身をひそめられているのを。


「……!?」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃が収まると、脳裏によぎるは『破滅』の2文字――もし前途不明瞭な我がブラガンド家が、婚約破棄によって王家との間にかかる梯子を外されてしまえば、それはすべての終わりを意味しかねない。


 ですが、そんな私の恐怖すらも、この一瞬後に起こるとんでもない出来事の前触れでしかなかったのです。


「おい、リチャード」


 それは舞台袖のお2人の、さらに後方の暗がりから発せられた声のようでした。


 次いで、私の位置からリチャード殿下の肩のあたりに、人の手のようなものが置かれたように見えます。それは、正しい所見でした。


 名を呼ばれたリチャード殿下が振り返られた、まさしくその瞬間――。


「ぐあっ!?」


 遠慮容赦のない拳がそのお顔にめり込み、振り抜く動作によってリチャード殿下がお身体ごと壇上のこっち側へと飛んできました。


 そこから先は、言わずもがなの阿鼻叫喚。突如として巻き起こった王子殴打事件に、講堂に詰めかけた生徒たち全員が驚き騒ぎ立てます。


 両手で口元を覆う私を尻目に、舞台袖から現れたイヴトーチカさんが甲斐甲斐しくリチャード殿下の介抱を始めたことも火に油を注いだことでしょう。根も葉もない噂は一転して真実となり、人々の好奇心を刺激せずにおれません。


 ですが人によっては――それも一部の令嬢たちにとっては、このあとの出来事の方がよほど大事件だったのかもしれません。


 舞台袖から歩みでる事件の下手人と思しき人物、それは学園内の女性人気を一手に引き受けている、他ならぬレイザー様だったのです。


「……噂に聞いていたんだ」


 ワイングラスをくゆらせ、赤い水面を見つめてレイザー様はおっしゃいます。


「あの日の朝礼で、リチャードが君に婚約破棄を突きつけると」

「だから、私を守ろうとしてくださったんですね」


 それは質問ではありませんでした。

 だって答えなら、もう知っていましたから。


「リチャードがそんなことをするとは思えなかった。だがもし、ことが起きてしまえばブラガンドの家名にも、君自身の心にも傷が残る。止められる者がいるとすれば、適任者は私を置いて他に存在しない」


 聞くところによると、レイザー様とリチャード殿下は、幼稚舎時代から無二の親友であられたそうです。


 蛮行に手を染めようとなさるリチャード殿下を止めるとすれば、たしかにこれ以上の条件を持った殿方は他にいらっしゃらなかったでしょう。ですが――。


「少々、やり方が荒っぽかったかと」


 軽い冗談のつもりで申したのですが、レイザー様は珍しくやり込められたかのような困った表情をなさいました。


「そう言ってくれるな。悲しむ君の顔を見たくなかった」

「あらまあ」


 私が嬉しさのあまり微笑んでしまったことで、レイザー様が恥ずかし気に早口になられました。


「だ、だいたいイヴトーチカ嬢を伴って現れた時点でリチャードの裏切りは確定的に見えたのだ。私は、君が大切だったからこそ……」


 とここで、また失言に気づかれたようです。


「い、いや、これではまるで私が横恋慕しているようではないか。勘違いしないでくれ。このときの私は君の名誉を守ろうと義憤に駆られただけなのだ」


 ええ、それはわかっております。とぉーってもよくわかっておりますとも。

 だから私は素直にお礼を申し上げることにしました。


「その節は、どうもありがとうございました」

「あ、ああ……結果的には、そうなる」


 気まずそうに語尾を濁されるのには、とある理由があります。

 その一端は、私の口からご説明いたしましょう。


 突如として学園に巻き起こった特大スキャンダル――王子殴打事件のお話は、実のところまだ半ばにすぎなかったのです。


 野太い歓声と、黄色い悲鳴が巻き起こる講堂内。舞台の上に立つレイザー様のお姿は、さながら城内で謀反を起こした元忠臣であるかのよう。


 ここから進んで止めを刺すか、退いてその場を後にするのか――既に舞台の観客と化した学園生たちが固唾を飲んで見守る中、レイザー様のとられた行動は、そのどちらでもありませんでした。


 なんとレイザー様は、頭を不安定にくらつかせたかと思うと、バタンとその場に倒れてしまわれたのです!


 その理由といえば――。


「……酔ってらしたんですよね」


 念を押す私の声に、さらに気まずそうにレイザー様は頷かれます。


「昔より私は、口下手なのだ。本来無関係である君を擁護するのに、どのようにリチャードに言えばいいかまるでわからなかった。酒精が舌を軽やかにしてくれる、その魔法に賭けたのだ……結局カッときて殴ってしまったようだが」


 笑いたくば笑え――ぶっきらぼうにそうおっしゃるレイザー様でしたが、私はとてもそんな気持ちになれませんでした。


 だってこんなに楽しくおしゃべりできているのは、きっと酒精のお蔭でしょうから。


「『氷の伯爵』などと呼ばれても、実態はこんなものだ。苦手だからしゃべらない。そうしたら勝手に周囲が持ち上げ始めた」


 難儀なものだな、と頭を振られるレイザー様は続けて――。


「リチャードにも、悪いことをしてしまった」


 曇り顔になられるレイザー様のお気持ちは、手に取るようにわかりました。

 何故なら、リチャード殿下はまったくの冤罪だったからです。


 今になって事件の全体を俯瞰すれば、それはとてもかわいらしい恋のお話だったのです。


 イヴトーチカさんにリチャード殿下がお声をかけたのは、親切心からでした。始まりはその年の春のこと。入学早々学園内で迷子になったイヴトーチカさんが泣きながら自分の教室を探していたのを、殿下が助けられたのです。


「このお礼は必ず……!」


 別れ際のイヴトーチカさんの言葉は、助け人が誰かを理解してのものではありませんでした。いずれは王たる身として、して当然の善行を行っただけと考えられた殿下は、彼女に名乗ってすらいなかったからです。


 ですが義理堅いイヴトーチカさんは、東奔西走の末、自分を助けた人物がリチャード殿下であることをつきとめます。


 そしてお礼をしようと行動を起こすのですが――当然のことをしたまでと、頑として受け取りを拒否なさる殿下との間にちょっとした一悶着が持ち上がったりもしたようです。


 お礼を受け取る、受け取らないの遣り合いの最中、お2人の距離は急速に縮まってゆきました。やがてリチャード殿下はお悩みになられます。


 ――私は、ひょっとしたらこのイヴトーチカ嬢のことを愛してしまったのではないだろうか。


「なにをバカな! そんなものは裏切りだ! 私にはミザリアがいるんだぞ!」


 すべては後になって知ったことなのですが、ご自分のお心に気づかれたあとのリチャード殿下は大変いじらしくあらせられました。


 なんと、殿下が最初に相談に赴かれたのは、他ならぬイヴトーチカさんだったのです。その内容もまた、なんともはや信じられないものでした。


『正直に告白する。私は君を愛してしまったかもしれない。だがこの思いは君の返答を待たずして不義のものである。何故なら私にはかねてより婚約者がおり、いずれ彼女と結ばれねばならぬからだ。しかしこの思いはどうにも消し難く、私自身ほとほとに困ってしまっている。道案内の返礼がしたいというならば、どうかこの思いの消し方を一緒に探してはくれないか――』


 重ねて驚くべきことに、義理堅いイヴトーチカさんはリチャード殿下のこの要請を快諾したのです。


 それからのお2人の密かな努力は、薄々想像がつくかもしれません。


 人目を忍んで何度も会っておいでだったのは、そうしてイヴトーチカさんに対する免疫を付けようとなさったからですし、ともに庭園を歩いておられたのは、私とデートするときの予行演習だったのです。リチャード殿下がイヴトーチカさんと一緒にいるときに感じるドキドキを、どうにか私でも感じられないものか模索されていたのです。


 そうそう、もうひとつ忘れずにお伝えしなければならないことがありました。

 それは――リチャード殿下が密かに惚れ薬を使っておられたことです。


 誤解がないように申しますと、殿下はそのような得体の知れないものを誰かに飲ませようとしたのではありません。


 周辺諸国から取り寄せた怪しい惚れ薬の数々は、私とのデートの前に必ずご自分でお飲みになっていたのです。


 ですが、そんないじらしい努力が実を結ぶことはありませんでした。リチャード殿下は相も変わらずイヴトーチカさんに懸想されていましたし、彼女と一緒にいるときに感じる幸福を、私との時間で感じることはできなかったのです。


 八方手詰まりとなったお2人は、最終手段に訴えることにしました。

 こうなればミザリアにも事実を打ち明けて、ともに思いの消し方を探ろう――。


 あの日、お2人で講堂の舞台袖に隠れておられたのは、私に大事な相談があることをお知らせになり、のちのちの話し合いの場を設けるためでした。


 私が壇上から退場するタイミングでお2人が声をかけ、ことを秘密裏に進ませようという算段だったのですが、ここにレイザー様という誤算が生じてしまいます。


 結果、リチャード殿下はレイザー様に殴られてしまい、ことは公に露見することになってしまったのです。


 ですが受難はこれで終わりではありませんでした。

 大事件の顛末を、レイザー様は次のようにおっしゃいます。


「あの後のことはよく覚えていない。気づけば私の身は医務室のベッドにあり、周囲を生徒会の面々に囲まれていた」


 鑑みるに、それは現行犯逮捕のようなものでした。


 倒れられたレイザー様の身柄は生徒会預かりとなり、どんな次第であのような事件を引き起こしたのか逐一聞きだされる手筈となっておりました。ですが――。


「生徒会の方々は、さぞやお困りになったでしょうね」

「ああ。なにせ当事者の私が、なにも覚えていなかったのだからな」


 レイザー様は深酒をすることにより、その間の記憶がすべて失われてしまうという体質をお持ちでした。


 ことが大事になると決まったのは、まさにこのタイミングだったと思います。


 尋問の任に当たっていた生徒会の方々は、いくら質問してもわからないの一点張りのレイザー様にほとほと困っておりました。相手は学園内でも有名な貴人で乱暴にも扱えず、その上ご本人に嘘を吐いている素振りもなかったのです。


 結局、ことは学園内で処理しきれず、実家を巻き込む大事となります。


 私たち4人に個別に謹慎処分が下ったのもこの時点でした。それぞれが寮の部屋から出ることを禁じられ、沙汰が決まるまで接触を持たぬよう学園上層部から直々に命じられたのです。


 そして――。


 王家の血筋に連なる方々の昼夜を問わぬ執拗な追及によって、とうとうリチャード殿下が己の恋心を自白されました。


 その結果、私との婚約は正式に解消というかたちとなり、我が家は婚約破棄という名の不名誉なかたちではないにしろ、王家との間の繋がりの一部を断たれてしまったのです。


 私は当時の自分の心境を思い出し、こう口にします。


「あのときは肝が冷える思いでした。故郷は不作続きで、王家のお力添えがなければ立ち行かない状況にありましたから」


 ご領主として思われるところもあるのでしょう、赤ら顔ながらレイザー様は真剣な表情を浮かべられます。


「援助の継続を申し出たのは、実にリチャードらしかった。一連の出来事の責任まで全部抱え込もうとしたのもな」


 そうなのです。リチャード殿下はすべてをご自分の不貞のせいだとご実家に訴えられました。自分をおいて他に、誰にも罪はないと。


 殿下の筋書きでは、イヴトーチカさんに懸想するあまり、邪魔な私をないがしろにしてきたことになっておりました。再三の忠告に関わらず、逢瀬をやめぬ自分を見かねたレイザー様が、怒りのあまり拳を振るったのだと。


 ですがこの自己犠牲がすぎる試みは、幸運なことに(本当に幸運なことに!)上手くはいきませんでした。


 何故ならば、それまで鋼鉄の意思で黙秘を貫いていたイヴトーチカさんが、殿下の告白を受けて真実を自供したからです。


 こうして真実を埋めるピースは、徐々に人々の手元に集まっていきました。


 それらを適切な箇所に配置すると、パズルの最後のピースのかたちがわかるように、レイザー様の記憶の空白についてもつまびらかとなりました。すべては行き違いであり、擦れ違いの産物でしかなかったのだとここに判明したのです。


 こうして、私たち4人の謹慎は解かれ、学園へと無事に復帰を果たしました。

 今までと変わらぬ生活の一方、変わってしまったものも存在します。


 両家による話し合いの結果、私とリチャード殿下の婚約の結び直しは行われぬ運びとなりました。それは王家の意向であり、私の実家の希望でもありました。


『明確に懸想する令嬢のいる王子を、他家の令嬢と結ぶのは、2人にとってあまりに残酷ではないだろうか』


 結ばれたのが酒の場とはいえ、元々が2人の将来のしあわせを願う婚約だったのです。他に思いをよせる女性ができたのに、それを捨ててまで貫徹させるのは両人のためにならぬとの判断でした。


 それに、イヴトーチカさんの口から語られた、リチャード殿下のいじらしい努力も王家の方々の胸を打ちました。殿下もまた私との婚約を不幸なものとしないよう、ご自分のできる範囲で必死になられていたのだと周知されたのです。


 結果として、それが2人の袂をわかつ決め手となってしまったのは、運命のいたずらとしか言えませんが――。


 それから一月は、以前とほとんど変わらぬ日常が待ち受けていました。変わったことといえば、もう自覚的にリチャード殿下と過ごす時間を作らずによくなったということでしょうか。


 正直に申しますと、私は拍子抜けしておりました。あれだけスキャンダラスな大事件に巻き込まれておきながら、周囲の様子は以前とあまりに同じで。


 もちろん気を遣われていたのでしょうし、事件について追及するようなことは質問せぬよう、きつく先生方に言い含められていたのかもしれません。


 ですがそれでも、なにかの兆しのようなものが日常の中にあると、謹慎中ずっと私は考えていたのです。


 やがてそれは、私のまったく思いもよらぬ方向からやってきました。


 レイザー様から私への、書面による結婚申し込みというかたちで――。

ここまでお読みいただきありがとうございます

よろしければ前作



『俺の楽しみにしている花丸プリンをダウナーギャルの義妹が盗み食いしてるようなんだが?』



https://ncode.syosetu.com/n7759hm/



もお読みいただけると嬉しいです(妹溺愛お兄ちゃんとゲーマーで義理の妹、そして彼らの毒親のお話。家族モノです)


7万字ありますけどサクっと読めてハッピーエンドを迎えておりますので何卒

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