条件!
キツネはくるくると出来の悪いメリーゴーランドみたく俺の上を回る。
「なぜって、理由が必要なんですか?」
「それはそうだろ」
「恥ずかしいところ見られたからってごまかさないでくださいよ」
気に障ることしか言わない。そしてそれが当たっているからこそ、余計にムカつくのだ。
俺は腕で防御をするように顔を隠すと呻いた。
「今の恰好、わかってます?ズボン半脱ぎで泣いているんですよ」
「……泣いてない」
「うっそだぁ」
「泣いてないったら泣いてない!」
これ以上言わせんなよ。この年で駄々っ子のように、客観的に見て明らかに矛盾している喚きを行うとは思わなかった。
てっきりキツネがもう一度噛みついてくるかと思ったが、何も反応がなかった。
「おい」
呼びかけてみるが返事がない。
「なんだ、もういなくなったってのかよ」
居ないなら居ないで気になる。それに聞きたいこともあった。
俺は腕をどけて視界を確保する。
目の前にフワフワの何かがあった。
綿毛のように細かく、雪のように純白の何かだ。
「ンギギギぎッ!」
目の前のフワフワがなんか力んでいる。
それから遅れてわかった。これアイツのケツだ。菊の模様がそこにあるもの。
「てめぇ…」
「ハワワッ!」
人様の顔の前でひねりだそうとはいい度胸だ。
マーキングを見咎められたキツネは慌てて俺に向き直るとバツの悪そうな顔をする。
畜生の分際で表情が豊かでよろしい。
「てか、お前出んの?」
「いや、どうかなぁって思いまして」
「どうかなぁって、そんなこと今確かめる必要あるのかよ」
「だって完全に会話を拒否していたでしょう?この姿でいるのも限りがあるんですから、時間は有効に使わないと」
考え方は意識高い系のそれだが、行動の次元があいにくと低すぎだ。
俺のこの感情と目の前の獣の態度があまりにも違いすぎて、ため息がこぼれる。
おかげで冷静になれた。
そうだ。ここでホームシックにかられている場合ではない。
「俺、元の世界に帰れるのか?」
「そうですね。可能性はあります」
「可能性、か。詳しく話を聞かせろ」
含みのある言い方に悪い予感しかしない。
「それは構いませんけど、とりあえずお風呂に入りません?」
は?なんだこいつ。お前がその姿でいられるのは限界があるんだろう。それならそんな暇なんてないぞ。
それこそ、この前のように途中までしか聞こえない、という事態になりかねない。
「いや、ね。あなたの懸念はもっともなんですが、私の声、あなたにしか聞こえないんですよ」
「だから?」
「察しが悪いですね。さっきからベラベラと大声で喋っていますが…外にメイドさんがいるんですよ」
はっとしてドアのほうを見る。
「勇者様、どうかなされたのですか?」
キツネのいう通り、メイドがドア越しに声をかけてくる。
俺はなんでもないと答えて、キツネのほうに視線を戻した。
「色々と質問したいのなら湯船の中が一番ですよ」
「大変ムカつくが、お前の言う通りだ。入るぞ」
なるべく自分の体を見ないように手早く服を脱ぐと勢いよく浴場へのドアを開ける。
中に入るとよりこの浴場がどれだけ広いのかがわかる。天井にはこの世界の神話なのか、青い肌をした裸の男女が石造りの建物に寄りかかって見つめあっている絵が描かれていた。
よくみると女の腹にはナイフのようなものが刺さっている。女の血が足を伝い流れ、それに蛇が寄っているという構図だ。どういう話なんだ。
とりあえず湯船につかる前にシャワーである程度の汚れを落とすことにする。
流石にプラスチックの椅子はなかったが、代わりに滑らかに丸く磨きこまれた石の椅子があったのでそこに座る。
椅子の幅は公園に置かれているようなベンチの半分ほどの大きさでなかなかデカい。
「うわっ…温かい」
トイレの便座のように何かの仕組みによって石の椅子は温かった。
それに驚きながらも、シャワーのお湯を出そうと蛇口をひねろうとする。
操作方法は同じなのか?
そのシャワーには青いぽっちが付いた蛇口と赤いぽっちが付いた蛇口がついている。
試しに赤いほうを捻ってみると、しばらくして温かい水が出てくる。
異世界でも赤は熱いものという認識なのか。社会学者でも何でもないが、少し興味深かった。
両方の蛇口をひねり、水圧と温度を調整すると頭から一気にシャワーをかける。
肌にあたる水の感覚に背中がむずむずとする。
シャワーを持っていない手で頭をわしゃわしゃと掻けば、最初はべたべたで指が通らなかったが、次第に毛束がほぐれる様になってきた。
体がきれいになっていく感覚というのは心地よい。先ほどひっかいた部分がじわじわと痛むが無視できる。というかあの時の感情がぶり返しそうで無視したい。
「キツネ、さっきの続きを」
「え?」
シャワーの下には一つの石鹸とバーテンダーが使うような金属製のタンブラーのようなものがある。
石鹸の匂いを嗅いでみると爽やかな香りがする。
金属の容器の中身はクリーム状の何かであった。こちらはかすかに甘いにおいがする。
「時間がもったいないだろ」
「ええ…まあ、えー、おほん!」
石鹸は手のひらですぐに泡立った。
だが、体全体を洗えるほどではなかったので、髪を泡だて器代わりにして石鹸をガシガシとこすっていく。
「結論から申し上げますと、元の世界に帰る方法はあります」
「で、その方法って」
洗浄力が弱いかと思っていたがそうでもないようだ。少しの泡でも十分に垢が落ちていく。
クリームはおそらくリンス的な何かだろう。髪にぺたぺたと塗り付けて、シャワーで流す。
体を一通り洗い終えたので、俺はどの風呂にまず入ろうかと見回す。
疲労が溜まっているだろうから薬湯にすることにした。
ふわふわと漂いながらキツネがついてくる。
「聞いちゃいます?怒ったりしません?」
「そんなわけないだろ…ああっ、生き返る…フゥー」
全身を包むお湯に疲労が溶けていくのを感じる。心の洗濯とはよく言ったものだ。
呼吸を阻害しない程度に香る薬草も良い感じだ。質の悪いものはドギツイ香水のように鼻を刺激してくるからな。
「さっさと話せよ。怒んないから」
湯船の中で思いっきり体を伸ばすとパキっと子気味よい音がした。
「どうせ、玉を七つ集めたり、王家のベルトに宝石はめたり、そんなもんだろ…。時間はかかるもしれないし、ここから出られない状況なら難しいかもしれないが、ゼロじゃないだけありがたいってもんだ」
「いえ、集める系ではないんですよね。しかもぶっちゃけここから出られずとも達成できる感じで」
「え、マジか!?」
俺は体をお湯の中で器用に回転させると、湯船のふちに浮かんでいたキツネをまじまじと見つめる。
「発動したのか…俺の力が…」
「それは私には感知できませんが…とにかく条件はシンプルです」
喜びたい気持ちの裏に、待て待てと咎める自分がいる。
うかつに喜ぶな、この世界に来てから一度でもお前の思うままに事が運んだか?
…そうだ。ぬか喜びで終わった事例は、前世も今も数知れず。
「読めたぞ、結構制約がある感じだな。100年に一度の皆既日食の日に、みたいなその日を逃すとほぼ一生不可能になる感じの」
「そうでもないです。いつでも可能です。ちなみに挑戦も…おそらく何度だって可能です」
なんだよ、それ。常にチャンスがあるってことか。そいつは重畳。だが、なんとなく違和感がぬぐえない。
「で、結局のところどんな条件なんだ」
大方ろくな条件ではないことは予想できている。
しかし、どんな条件であっても挑んで見せる。俺は帰りたい。あの苦痛だと感じていた世界に。こんなとこで愛玩動物のように飼われて死んでしまうのは絶対に嫌だ。
ふと俺から目線をそらしキツネが口を開く。
「魔王を殺すことです」
その言葉を理解するのに時間はいらなかった。
なんだ…それなら。
「……ふっ!」
「…?鼻で笑って見せるとは余裕ですね」
「ふざけろよッ!!」
無理じゃん。絶対無理じゃん。聞いた話じゃチート級の先代勇者が瞬殺なんだろ?そんな俺みたいな運がいいだけのパンピーに何ができる。しかも唯一の力である運も他者に危害を加えるためには機能しないときた。それなら本当にただの一般人が、剣と魔法の世界のラスボスに挑もうってんだ。無理だよ。無理無理。
「殺すって、俺じゃなくてもいいの?例えば仲間が倒すとか」
「あ、無理です」
即答だった。
「あなたが殺さないと駄目ですね。もっとも、魔王を倒すためにはそもそも勇者の力が必要ですが」
「…勇者の力で止めがさせるのか?なら…」
「歴代の勇者なら、可能だったかもしれませんが、今の勇者様は聖なる力も弱いですし…。同じ酸でも硫酸で人は殺せますが、炭酸じゃ無理でしょう?」
「その例えムカつくな…」
俺の勇者の力は安酒で炭酸か。ハイボールなんぞ作れそうだな。
「くそっ!だが、油断しているときに目にナイフとか刺したら流石に死ぬよな!?てか死んでくれ」
「言いにくいのですが…死にませんよ。もし仮に急所を狙って刺せたとしても吸血鬼の再生能力は凄いですからね。体をバラバラにされても日光にさえ当たらなければすぐに再生しますよ」
「ブウかよ」
「ブウ?」
あの魔王に日光が効かないことはさっき目の当たりにした。
つまり俺がアイツを殺すためには、勇者の力で急所を突くだけでは足りず、まさしくブウのように塵一つ残さず消し飛ばすしかない。
そんなこと俺にできるわけがないだろ。
ん…?ちょっと待て。
「殺す条件が二つあるように聞こえるんだが」
「え、まあ。魔王ですし吸血鬼ですし」
「は?どゆこと」
「もう!わかっているくせに現実から目を背けないでくださいよ!今代の魔王を倒すには魔王を倒す条件と吸血鬼を倒す条件を同時に満たさないといけないってことです」
そんなのってありか。ただでさえ殺せるかどうか怪しいっていう魔王を「特殊条件」を「複数満たして」殺さなければならないって?
「冗談きついぜ」
思考が声に出ていた。こんなセリフ、B級洋画の登場人物ぐらいしか言わないと思っていたのに。
なるほどあの数多の棒読み俳優の演じていた役は皆こんな気持ちだったのか。変に納得している自分がいた。
ただ決定的に違うのはあの洋画の登場人物は面白くもないジョークを飛ばしながらも果敢に敵に立ち向かい、そして勝利し、ヒロインとキスして終わるが俺はそうではないというところだ。
勝てっこない。殺せっこない。ヒロインは…いない。
現実から逃れるように、俺は頭を湯船に沈めた。しかしただ息苦しくなるだけでなんの解決にもならなかった。もういっそこのまま死んでしまったほうが楽なのかもしれない。
だがそれを実際にする気にはなれなかった。
◇
しばらくキツネから情報を仕入れていたが、目を離したら消えていた。
話し相手もいなくなり、元来長湯はしないタイプであるため、とりあえずあがることにする。
少しふらつく体を動かして脱衣所に行くと、誰かがいた。
メイドか?と思ったが少し違う。とりあえず前を隠す。
相手は俺がドアを開ける音で気づいたようでこちらを見ている。
そいつはちょうど脱ぎ掛けのようで、シャツを腕に通して下げたままあっけにとられた顔でこちらを見ていた。
俺もおそらくそいつと同じ顔をしていただろう。
だってそいつはあの蛇女だったからだ。こんなに早くトラウマに会うとは思わなかった。
「あ、あ」
見る見るうちに顔が赤くなっていく。すげー…茹蛸みてぇ。
色気のないベージュのブラジャーに囲まれた双丘も深紅に染まっていた。
そうかこの世界にも一応ブラジャーはあるのか、なんてどうでもいいことを考えていた。
「わり」
なるべく目を合わせないように俺は謝罪だけ済ませる。
だが参った。彼女が服を脱いでいるのは俺の服が置いてある棚なのだ。いくつか棚はあるが、よりにもよってそこを選ぶとは運が無い。
一番下に入れているため彼女も気づいていないだろう。
「俺に構わず、どうぞ」
さっさと服を脱いで風呂に入ってくれないか。
しかしさっきから彼女はモジモジとして一向に服を脱ごうとしない。
どんな理由かは知らないが、このまま待っていても湯冷めするだけだ。
俺はため息をつく。
蛇女がその音に肩を跳ねさせた。
「おっと、今のは気にすんな。ちょっとそこどいてくれないか」
「え!あっ!!」
手でちょいちょいと蛇女をどけるとさっと服をとった。
爬虫類らしく生臭い匂いがするかと思ったが、一瞬我を忘れるほどいい香りがした。…だからなんでそうなんだよ。
落ち着け、相手は蛇だ。
風呂に入った後だからわかったが、手に取った服は酷い匂いがしていた。
顔をしかめつつ、彼女のいる棚から離れる。
流石にこれに着替えようという気にはなれないが、これしかない。
ぐっと息を止めると一息に着替える。
なんとか着替え終わり、はっと呼吸をすると何とも言えない臭気が込み上げてきた。
今更だが魔王はこんな奴と面と向かってよく話せたな。
吸血鬼ゆえに、血の匂いをシャネルの香水のように感じていたとでもいうのだろうか。
なるべく口呼吸をしながら脱衣所の出口へと向かうと、まだ蛇女がいた。
服を着る前から姿勢が一切変わっていない。まるで石になっているかのようだ。
死んだか?
「おい」
「ひゃい!」
あ、生きてた。
「風呂入んないのか」
「入ります!!入ります…けど…」
彼女は口ごもると、脱ぎ掛けの上着で口元を隠す。
「だって…いるじゃないですか…」
声が小さくて聞こえない。
だが特に興味はなかったので、「そうか。風邪ひかないようにな」と当たり障りのないことを言って脱衣所から出た。
後ろで閉まるドアの向こうから、また小声で蛇女が何かを言っているのが聞こえたが、何を言っているのかはやっぱり聞こえなかった。
ドアを出るとメイドがいた。
「風呂は貸し切りだと思っていたんですがね」
少し棘を含ませてメイドに問いかける。
メイドは首を傾げ「はて?貸し切りのはずですが…」という。
「いやいや、女の子が入ってきましたよ」
俺にとって最も忌々しい女がね。
「そんなはずはありません。ずっと私はここに居ましたが、誰かが入ったということはないはずです」
今度は俺が首をひねる番だった。
話がかみ合わない。
単純に考えれば、メイドがサボっていてその隙にあのエトナとかいう女が入り込んだ、というのが事の真相だと思う。
だが、ここのメイドがサボるというのがどうにも想像できない。
しかし、現にここのドアを開ければ半裸の女が…。
「あれ?いない」
論より証拠とドアを開けてみれば蛇女がいない。
脱衣所に足を踏み入れて棚を調べるが、服も置いていない。
念のため浴場も見るが人影はない。
メイドに怪訝な顔をされるが、俺の頭の中ははてなマークで一杯だった。
「お疲れのようですし、一度お部屋に戻られますか?」
「…そう、ですね。あ、その前にやっぱり服いただけません?ヒト用じゃなくていいので」
◇
結果渡されたのは尻尾を通す穴が開いている服だった。
パッと見た感じ問題なさそうに見えるが、ケツに穴が開いているため違和感と羞恥心が計り知れない。
ベッドに腰を下ろす。
俺は元の世界に帰りたい。
帰るためには、吸血鬼で魔王なアイツを自分の手で殺さなければいけない。
殺すためには、吸血鬼の弱点と魔王の弱点を同時に突かなければいけない。
どうしろってんだ…。
コンコンと唐突にノックオンが響く。
「あのっ!…ユウセイ様…いますか?」
誰だよ。俺の名前を呼ぶ奴は。誰かに教えたはずは…。ああ、そういえば教えてたな。
無視をしても良かったが、聞きたいこともあったので尻を押えて立ち上がる。
かすかにドアを開けると大きな瞳と目が合った。
「いるけど?」
「…もしかして、お名前を呼んではいけなかったのでしょうか」
「なんで?」
「不機嫌そうなので…」
まあそりゃお前の顔を見ると不機嫌にはなるが…。
「いや、別に。呼んでもかまわん」
その言葉がよほど嬉しかったのか、顔を輝かせる。
しかしすぐにさっと俺の体に視線を巡らせる。
なんだ、ここに来ていきなり食うのか。
「あれ…服が」
違った。服が変わっているからという至極当然の理由からの視線だったようだ。
「前の服はボロボロで汚かったからな、借りた。ただ、ヒト用じゃないのが欠点だが」
「なるほど、それで不機嫌だったのですか」
違う、が「魔王を殺す算段が付かず落ち込んでました」とは言えなかった。
「そんなところだ」
「なら!」
蛇女がパンといきなり手を合わせた。
あまりにも突然のことで驚いた。
彼女もそれに気が付いて、顔を赤らめるとさっと手を後ろに隠す。
「ご、ごめんなさい!つい…あっでも服のことなら何とかなるかと…」
「なんだ、服でも作ってくれるのか」
「ええ。こう見えて手が器用なんです」
へぇ。この容姿と性格で、裁縫もできるのか。さぞ良いお嫁さんになっただろう。蛇じゃなければ。
「前の服は?」
「ああ…あそこにある」
「貸していただけますか?」
「…臭いぞ?」
「ふふふ。私、鼻が利くんですがユウセイ様が思っているほど臭くはありませんよ」
かがみながら自分の鼻をその細い指でつんつんとしながら彼女が言う。蛇じゃなけりゃあなぁ…。
服を直してくれるのはありがたい。ただ俺はそんなことより聞きたいことがあったのだ。
「ならいいけど…立ち話もなんだ、部屋入るか?ちょうどお前にも聞きたかったことがあるし……どうした」
見るとプルプルと震える彼女がいた。
「そんな、ダメです…殿方のお部屋になんて…」
意外にも教育がしっかりとされているのか蛇女は警戒している。良家のお嬢様だったりするのか?
しかし、今から聞きたいことはあまり他人に聞かれたくはない。
どうするか。
手段の一つはすぐに思いついた。
「友達でも、ダメか?」
「!!!!!!!!」
釣れた。
やはり、というべきか。
友達が今までいなかったのか、どういった理由かは知らないがこの女は「友達」という言葉に敏感だ。
「でも」
その次の言葉を塞ぐように、俺は再び「友達」と口にする。
それだけで彼女の二の句をかき消す。
「少しだけだから。すぐ終わるから」
セリフと女を部屋に入れようとしている状況だけをみると、割ととんでもないことを言っている気がする。
「俺が変なことをすると思うか?」
「思いません…」
俺も思わない。
「少しだけなら…」
「ありがとう」
「…お友達ですし……」
俺の必死の説得によって蛇女が部屋に入ってくる。
女の子を仮とは言え自分の部屋に招くのは初めてだ。魔王は勝手に入ってきたのでノーカンだ。
ただラブコメの波動は感じない。普通に部屋にバケモノが入ってきた。そんな感想しか出てこない。
というか、バケモノが部屋に入った時の普通ってなんだ?
「汚いけど、適当に座ってよ」
「お、おじゃまします」
ズズズっと何かが擦れる音とともに彼女が部屋に入ってくる。
人の胴体ほどある太さのものが地面を這っている様子は改めて見ると圧巻である。
照明は例によってついていなかった。それゆえ彼女の鱗が廊下の光で妖しく照らされる。濡れたような赤色で、美しいとさえ思える。
しかしそれは宝石を見た時に感じる美しさであり、異性に対するそれとは違う。
彼女は俺のベッドに腰を下ろす。
この部屋には椅子もあるにはあるが、彼女のその巨体を支えるにはちと頼りない。
俺は椅子を引き出すと、背もたれの上部に肘を乗せて座る。
「早速本題に入ろう」
「はい」
「浴場のことだ」
「はひ!」
「脱衣しているところを見たのは謝る。…だが、そのことじゃない」
赤面したのが暗がりでもわかったので慌てて軌道修正をする。
話がそれるのは勘弁してほしい。
あれは俺にとってラッキースケベではなかった。彼女にとっては…どうだろうな。おいしそうな餌にでも見えたのだろうか。
「確かに、あの時脱衣所にいたよな」
彼女はその形の良い唇で、何かの言葉を紡ごうとしていたが、言い訳できないと悟ったのか小さい声で「はい」といった。
「だけど俺がもう一度脱衣所に入ったときは居なかった。どこにも。隠れられそうな場所なんてないのに」
彼女は何も語らなかった。膝に乗せた手をソワソワと動かしている。
聞かれたくなさそうだ。
せっついてもいいが、こういうのは時と場合によって相手から語りだすのを待つのが得策である。
気が弱そうだからと言って強引に迫って不興を買うのは避けたい。
俺は無言で見つめる。
俺の予想が正しければきっと彼女は話し出す。
案の定、彼女の瞳が決心したように俺を見る。
だが、すぐに喋ってくれるかと思ったが、まだ何かをためらっているようだった。
「どうした」
「…言いますけど……代わりに」
交換条件か。言いたくないことを言わせるのだから、しょうがないか。
血肉を食わせろ、なんていうのは勘弁だが。
「なんだ、言ってみろ。俺にできることかはわからんが」
「なら…エトナ、と呼んでくれませんか」
おいおい。意外と積極的なのか。
友達、というのを意識させすぎた弊害か。彼女の中で俺という存在が、この短期間の中であまりにも大きい存在になっているのかもしれない。
どんだけ友達に飢えているんだ。ぼっちをこじらせすぎだろう。
名前を呼ぶことは簡単だが、これ以上親しみを覚えられても困る。
しかし、この状況では言うしかないか。
「わかったよ…エトナ」
「っっっ!!!!」
「どうした?」
「いえ…その嬉しくて。変ですよね、名前を呼ばれたぐらいで」
「変といえば、変だが…別にいいんじゃないか。些細なことに幸せを感じられるって、素敵じゃないか」
「…ユウセイ様」
これは、まずったかな。変なフォローを入れてしまった。
前世でなるべく不幸を減らそうと沁みついてしまった処世術が無意識のうちに出てしまったのかもしれない。
「私は落ちこぼれなんです」
ぽつりとエトナがつぶやく。
悲痛な声で。
彼女がぼっちなのはそれが原因なのは確定だろう。
落ちこぼれでいじめられ、蔑まれ…自分に自信が持てず、友達も寄り付かず。
典型的な奴だ。
「落ちこぼれ?でも魔王城にいるってことは、結構優秀じゃないのか?」
その問いかけに彼女は首を振る。そのたびに絹糸のような髪がさらさらと横に触れた。
なんか離れていてもいい匂いがしてくる。
だからなんでそうなんだッ。
「姉がいるんです。姉は凄く優秀で、行き場のない私にこの城の料理人の仕事を紹介してくれたんです」
「ふうん。お姉さんが城勤めなのか…」
そういえば赤髪の奴がもう一人いたな…なんか嫌な予感がするが、俺は知らないっと。
こういうのは未来の俺に任せるに限るのだ。
「前に灯りをつけてほしいって言われたことありましたよね」
「あったな。代わりにランタンを持ってきてくれた時だろ」
「実は私、魔法が一個しか使えないんです。魔力操作も全くできなくて、魔道具の類は動かせないんです」
魔力操作、魔道具。知らない単語だが、なんとなく意味の予想はついた。
なるほど、魔力と呪文のほかに、魔力操作という概念があるのか。魔法を使うにはMPと呪文だけあればいいかと思ってたが、ゲームだとそこら辺のステータスは詳しく描写されていなかったからな。
ただ、ここは残念ながら現実であり、そうすると体を動かすためには筋力や知識だけでなく、感覚も必要であるように、魔法も魔力操作が必要なのかもしれない。
予想外の収穫だ。
「魔法が一個使えるって言ってたけど、それって……!」
消えた。目の前にいたはずのエトナが一瞬にして見えなくなった。
代わりに背後に気配を感じる。
「凄いな、瞬間移動か」
冷や汗を垂らしながら振り向くとエトナがいたのだ。
あの巨体でそよ風一つ立てず移動していた。
ここまでくるとなんでもありだな、魔法って。
「自分と人一人ぐらいしか運べませんし、あまり遠くにも行けないんです。とても凄いなんて…」
「いや、これは凄い。凄いぞ」
俺は思わず立ち上がってエトナの両手を握っていた。
「はわわわ!」
俺は精々、脱衣所に隠し通路があるか、彼女が透明化などの魔法が使えるものかと思っていた。
考えた結果、今の俺は魔王を殺せない。魔王は俺が強くなるのを良しとはしないだろう。
だから俺はこの城を脱出し、魔王を殺せるぐらい強くなるか、また別の方法を探す。それが最善の策だ。
そのために隠し通路か、透明化の能力があればなぁと期待していたが…こいつも予想外だ。
瞬間移動なら、そのまま逃げることも可能だろう。
「なあ、瞬間移動ってどれくらいの距離移動できるんだ?」
「ち、近いです!」
「わりぃわりぃ」
興奮しすぎて距離感を忘れていた。
手をすぐさま放して距離をとるとエトナがかすかに切なそうな顔をする。離れてほしいのか、近づいて欲しいのか分からんな。
「その…距離は、大体100メートルぐらいでしょうか」
100メートルか…。壁が100メートルあるわけないので、まず間違いなく城の外に出られるはずだ。
すぐさま逃げ出したいところだが、この世界の情報が少なすぎる。地理は絶対に必要だし、安全な土地へ行くまでの護身用に魔法の知識も魔王は殺せなくともある程度は必要だ。
それにエトナは今のところ俺に好意的なようだが、城から逃げ出したいなんて言えばどうなるかは予想がつかない。
今日試すのはよそう。
「そうか…やっぱすげぇや」
「そんなこと…」
「いや。俺なんて魔法すら使えないんだぜ。勇者なのにさ」
「噂は本当だったんですね」
何やら不名誉なうわさが広まっているらしい。ま、事実なのでしょうがないが。
俺の渋い表情にエトナが慌てる。
「ごめんなさい…」
「エトナが謝ることじゃないだろ。まあ情けないケド」
「でも、謝らなければいけないんです」
悲痛な面持ち。何かあるのは確定。
はて、彼女が俺に謝ることなどあっただろうか。
…俺の初恋を返せ。
しかし、それを彼女が認識しているとは考えにくい。
「謝る?何を」
「私は、その噂を知ってユウセイ様に会いに来たんです…魔法が使えない方なら、たとえ勇者でもお友達になれるかと思って」
「ふぅん」
「怒らないんですか?」
親に叱られる前の子供のようだった。
あまりにも怯えた様子に彼女がなんであるかを忘れ、俺は後ろにあった椅子に座りながら苦笑する。
「怒るも何も、そんなの普通じゃないか。趣味が合うから話しかける、それと何が違うんだ」
「ユウセイ様…ありがとうございます」
彼女は僅かに微笑んだ。
その微笑みだけで俺はどきっとした。
わざと大きな音を出してせき込んだ。
でないと自分の心音を否が応でも意識せざるをえない気がしたからだ。
「ユウセイ様、大丈夫ですか」
心配そうに彼女が俺の顔を覗き込む。
くりくりとした瞳に俺が映っていた。
その目は俺をだましてやろうだとか、食ってやろうかといった悪意とは無縁のようだった。
自分の直感を信じて、彼女を信頼できれば楽なのだろうか。
洗いざらい自分の苦しみを吐き出して、寄りかかればいいのだろうか。
そんな気持ちが頭をもたげる。
だが、今までの経験が直感を否定する。
気持ちを冷めさせるように、軽く息を吐く。
「ああ、気にすんな。ちょっとむせただけだ」
なんともないと分かって、彼女が離れる。
そういえば、彼女には角がないな。
それゆえに最初に見たときにただの人間だと思ったのだ。
魔王やアークンだけじゃなく、ここの城で見た限りでは彼女以外、角があった。
なんとなく、場をつなぐために「そういえば角がないみたいだけど」とつぶやくと、彼女はさっと頭を手で隠した。
瞬間移動以外の魔法が使えないことと同じく、彼女にとってそれはコンプレックスのようだった。
「角ってなんなんだ?ないと駄目なのか?」
「…私たち魔族にとって、角が才能の証なんです」
「外見で人の良し悪しが決まるのかよ」
「人間の勇者様には分からないでしょうけど、そうなんです。実際に私は一つの魔法しか使えない落ちこぼれなんです」
何かつらいことを思い出すかのように瞳を伏せて彼女がつぶやく。
「ふぅん。やっぱり俺にはわかんないな」
「…ですよね」
「俺からしたら魔王よりよっぽどエトナのほうがいいけどな」
上半身だけならタイプだし、偉そうじゃないし。心は傷つけられたが、積極的に俺に害を及ぼそうとする感じは今のところないし。
目くそ鼻くそだが、わずかにエトナのほうがまし。そんなところ。
そんな何気ない一言だった。
ふと見ると彼女がうつむいていた。
「エトナ?」
「ご、ごめんなさい。私、帰ります!」
そう叫ぶように帰宅宣言をすると彼女はその巨体でどこからというスピードで帰っていった。
つむじ風のようだった。
「ああ…くそッ!しくじったか?」
俺はそんな背中を見送ってからしばらくして頭を抱えた。
魔王を下げるべきではなかったのかもしれない。
彼女も含め魔族にとって魔王とは崇拝する対象であって、絶対不可侵領域なのだ。
民衆の中での絶対の存在を否定することは、戦時中の日本を見ればどれだけ悪手なのかは自明であった。
そんなお国の未来で生まれたというのに、忘れていた。
また一つ、俺が自由になる可能性が消えた。
これは不運ではない。
自分のせいだ。
だからこそ余計に感情が爆発しそうになる。
ベッドへと倒れこむと、枕を口に押し当てて叫ぶ。くぐもった間抜けな音が部屋に響いた。
◇
それから数日が経った。
あれからエトナは来ていない。魔王は相変わらずこっちの都合を考えずに呼び出しては俺をからかう。
そのたびに緊張と恐怖でおかしくなりそうだが、今のところは魔王のお眼鏡にかなう俺でいられている。
俺が今も生きているのがその証拠だ。
自由になる糸口は未だつかめていない。
キツネもなぜか現れていない。
まあもともと毎日来る約束なんかしていなかったのだが、来ないのは困る。
外の世界、この世界のルール、分からないことが多すぎる。エトナの不興を買った今、アイツだけが頼りなのだ。
「これは何人目の勇者だったか…」
「三人目です魔王様」
「おお!そうだった。洗脳という姑息な力を持つ勇者らしく、武器も情けないものだった」
そういって魔王が持ったのは刃が湾曲したナイフだった。
つつつ、と刃に軽く指を滑らせる。
だというのに魔王の指から血が流れることはなかった。
「このおもちゃは僅かな傷さえつければ、そこから猛毒を流し込み相手を死に至らしめる、らしい。まあ、我に傷をつけられればの話だがな」
「……」
「その勇者は洗脳の力によって女を侍らせていた。その女たちは勇者が死んだことで洗脳が解けた、そしたら何が起こったと思う」
「さあ?」
「勇者…」
アークンが怖い顔でにらむ。
「いや、まじでわからん」
「女たちは我の足元によろよろと跪いてこう言った「殺してください」とな」
「?」
「貴様、男であろう?」
なんで今その質問が魔王の口から飛び出してくるのかわからなかった。
「自分より実力の低いものなら問答無用で言いなりにできる…ピンとこないか」
「…ああ、そういうことか」
あまりにも悲惨だが、そういうことか。というか勇者がやることか?ソレ。
そりゃ殺してほしくなる奴もいるだろうな。だが、他人の人生を壊そうともそういう能力があればなぁと考える奴はたくさんいるだろう。
かくいう俺も、そんな能力があれば同じことをしていたかもしれない。
「貴様が望むなら、女をあてがうが?」
「別に望んじゃいないさ。もう」
「もう?」
「ああ……」
エトナと出会って、邪な感情を抱いて、(勝手に)裏切られ。
あまりにも自分が滑稽すぎる。
俺は近くに会った姿見に目をやった。
少し痩せたように見える俺がいた。
死んだ魚のような目をしているよ……。
希望がないってときは人はこんな目をするんだろうか。
「その鏡も勇者一行が持っていたものだ。なんのためかは知らないが――大方、魔法を反射する魔道具だったのだろうよ。使う前に全員死んでしまったがな」
「殺してしまった、の間違いだろ」
「うん?怒っているのか」
魔王が小首をかしげた。
「別に、そうじゃない。なんとなく思っただけだ」
「そうか。今日はどこか上の空のようだな」
「…わかってるよ。魔王と話せて光栄だ。だからそんなに睨まないでくれよ。視線に刺し貫かれそうだ」
「アークン」
「は」
魔王城は「山」の字のような形をしているらしい。
魔王城を正面に見て、右か左かは分からないが、俺たちがいるのは真ん中の塔ではないほうである。
そして、そのてっぺんの部屋である。
両サイドにそびえたつ塔は六角形の形をしており、驚くべきことに屋根はすべてガラス張りだった。
そこから日の光が差し込んでいた。
俺でも目を細めるほどの光量であるというのに、魔王はこともなげに微笑んでいた。
見る人が見れば神々しい姿と見えるのだろう。
俺の元いた世界の住人でも、その姿に熱いものを感じ、情熱に突き動かされ、慣れない筆をとる者もいるだろう。
何せ、銀髪で美少女なのだから。
しかし、枕に「俺の敵で」「俺を殺しかけた」「俺を餌としかみてない」「中身は人外の」と付くことを俺は知っている。
「どれぐらいの勇者を殺したんだ」
「6人だ」
俺は瞑目する。
顔も知らない勇者を思う。異世界に飛ばされて、魔王と戦わされて、そして無残にも死んでいった。
どういう奴らだったのだろうか。どんな気持ちだったのだろうか。
でもさ。あんたらは俺よりまだマシだよ。
人生は短かったかもしれないけど、セミの成虫のようにその分楽しんだだろう?
俺は村人を救うことも、囚われの姫を助けることも、万の敵をなぎ倒すこともない。
延々とこの城で生きることを強いられる。
なあ、冥福を祈ってやるからちょっとぐらい手を貸してくれてよ。
はい、アーメン。と。
俺は形だけの黙祷を捧げる。
「多いな」
「そうだな。だが、これ以上増えることもあるまい。そうだろ?」
「残念ながらな」
「そう言うな。ここにいる限り不便はさせん」
この部屋は勇者の遺品が置いてあるというのに、宝物庫というよりただの物置という感じだ。
扱いが雑であるところを見るに、いかに今の魔族サイドと人間サイドのパワーバランスが崩れているのかがわかる。
魔王は俺が死ななければ次の勇者が現れないといった。
だが、やはりそんな必要はないと思う。
圧倒的力で殺せばいい。
もしかして殺しに疲れた?
馬鹿を言え。仮にも魔王と呼ばれる奴がそんなタマか。
考えられるのは勇者不在による人間側の戦意の低下だろうか。
流石に何十年も勇者が現れないとあれば「我々は神に見放された」と誰だって思う。
希望も無しに長期間戦えるほど人間は強くないはずだ。
そしておそらく俺がこうして管理下に置かれているのは、俺が魔王を殺す確率が限りなくゼロに近いからだ。
もし俺がある程度のステータスがあって、勇者と名乗るにふさわしい実力があれば、魔王殺害の可能性をつぶすために殺すはずだ。
それから弱い勇者が当たるまでガチャをつづける。
だが、幸か不幸か、魔法も使えない、勇者の力も弱い、そんな俺が呼ばれた。
飼うにはちょうどいい奴ってわけだ。
思えば、それも俺の「確率の底上げ」による結果だったのかもしれない。
命は助かって嬉しいが、結果が望ましいものとは言えない。その融通の利かなさが我が能力の厄介なところだ。
「飯は旨いし、好きな時間に寝れる。ただ、ちょっと暇なんだよな。本とかないのか」
俺がそう提案するとアークンが何やら魔王に耳打ちをする。
二言三言話し合うと、わずかに険しい顔をしてアークンが離れる。
「わかった。メイドにいくつか本を運ばせよう」
「自分で選びたいんだが?」
「それが駄目なのはわかっているだろう?」
やっぱりだめか。
本で何か脱出に有用な情報が得られればと思ったが…。
「こんな非力な俺が本を読んで強くなれると?」
「可能性はゼロではない。あらゆる可能性は潰す。それだけよ」
「魔王の癖に小心者なんだな」
たちまち棘のある視線があちこちから飛んできた。
滲む汗を意識しながら、表面では飄々とした態度を演じる。
「抜け目ないやつめ…我がそのような挑発に乗るわけがなかろう。王たるものは国そのものを背負っている。わずかな隙も見せることはない。そしてわずかな隙をつかれることもさせない」
魔王は俺の発言に気を悪くした様子はなく、むしろニヤリと笑って見せた。
発達した犬歯がわずかに顔をのぞかせる。
「そりゃあ、息が詰まりそうだ」
「…そう見えるか?我にとってはそれが普通だ」
「流石です、魔王様」
パチパチとアークンが拍手をする。
「というか今思ったんだが、俺、文字読めんのかな?」
ん?と魔王が片眉を上げる。
「歴代の勇者は文字は読めていたように思えるが…確かに人間の国であらかじめ勉強していた可能性もあるな。だが、言葉も通じているところを見ると識字も問題なくできるのではないか?」
「今までこの城でいくつかの記号を見てきたんだが、意味を理解しているっていうよりも、意味を想像で補っている感じがするんだよなぁ」
トイレに異なる二つの記号があれば、片方は男、片方は女だな、という風にそれぐらいの区別しかできていない。
これが長文になればたちまち読めるようになる、のか?
「ふむ。では、最初は子供が読むような絵本をやろう」
「不本意だが、仕方ないか」
文字が読めないなら読めないで、勉強でもして時間をつぶせるだろう。
前の世界では勉強はそんなに進んでしようとは思っていなかったが、他にやることがないし、早急に読めるようになる必要があるのでやる気はあった。
「さっそく運ばせておいたほうが良いか?」
「できることなら。部屋に帰ったらさっそく読んでみたいし」
「わかった…おい」
魔王が呼びかけると、近くにあった台の影がぐにゃりと揺れる。
「わっ!なんだ!?」
驚いてみていると、どんどんと形が変わっていき、やがて人型になる。
人型といっても頭の部分はやけに縦長い。
「御意」
低くくぐもった声でそう返事をすると、影はまた現実に忠実に台の形に戻った。
「なんでもありだな…もしかして俺ってアレに監視されているのか?」
「ああ、そうだ」
魔王が当然だろうと頷く。
そりゃあそうか…そうなるとエトナとのやり取りものぞかれていたと考えるほうが良いだろう。
もっともエトナのあの様子じゃ誰かに言っているだろう。
俺詰んでね。
あんな影みたいな奴に四六時中監視されているってのかよ。
より脱出の可能性が遠くなったようで、俺はめまいがしてきた。
◇
わからん。
魔王が満足するまで勇者を打倒した自慢話を聞かされた俺は、メイドの案内で部屋に戻っていた。
部屋に着くと絵本が数冊、備え付けの机に積んであった。
メイドは帰り際、何も言わず照明をつけてくれた。
ベッドに仰向けになり試しにパラパラとめくってみたが、全くわからん。
俺は文字が読めないようだ。
絵から話の内容はなんとなくわかる。
勧善懲悪。
ただし、明らかに主人公サイドが魔族で、敵役が勇者っぽい。プロパガンダか。
だがストーリーがわかると言って、全く未知の言語の意味を推察することはできない。
これは講師が必要だな。
今度魔王にあったときにでもお願いしてみるか。人間の講師がいれば有難いんだが…。
駄目だ、意味が分からない文字を眺めていると頭痛がしてきた。
暇っていうのも辛いものだ。思い出に浸ろうと思ったが、そうすればより郷愁の念が強まってしまうことは自明だった。
ドアがノックされる。
「ん?どうぞ」
許可を出すが、ドアの向こうにいる奴は部屋に入ってくるか迷っているのか中々入ってこない。
なんだ?
だが、意を決したのかドアノブがゆっくりと回される。
顔を見せたのはエトナだった。
「エトナ…」
思わぬ来客に立ち上がっていた。
彼女は両の手を体の前でクロスさせモジモジしている。
伏せた顔は心なしか赤い。
「ユウセイ様」
呼びかけられてびくりとする。その声に殺意、敵意はないが、真意が読み取れなかった。
俺は彼女の不興を買ったのでは?
「どうしたんだ」
目的はなんだ?
「あの……これ」
おずおずと差し出されたのは、見慣れた俺の服。
しばし思考が止まったが思い出した。そういえば破れた服を直してくれるって言ってたな。
不快な思いをしたはずなのに約束はきちんと守るのか……蛇じゃなきゃなぁ。
「ういっす。ありがと」
パッと彼女の手から服を奪う。
どれどれ――。
「ズボンはある程度できたのですが、そちらは素材が分からなかったので……」
俺がパーカーを広げているとエトナが申し訳なさそうに報告する。
だが、血のシミは綺麗になくなっている。それにフード部分を調整する紐が新しいものに変えられており、何かの小さな牙のようなものがコードストッパーとして使われていた。
よく見ると袖のほつれなども直されている。
どうやら手先が器用というのは本当らしい。
ズボンも見事なものだ。流石に元通りという訳ではないが、きちんと足の部分が修復されている。
切れ端はあの地下にあるはずなのでこれは一からエトナが作ったということか?
「へぇ。凄いな」
「あ、ありがとうございます」
エトナが俺の言葉にもじもじとしながら照れる。
お?好感度上がったかな?
彼女の瞬間移動能力は正直欲しい。しかしそんな有用な力を持つエトナを魔王が野放しにしているはずはないので、彼女は魔王直属の部下だと考えていいだろう。
蛇に好かれても、と思うが、こちらの仲間になってくれればありがたい。
「どうした」
目的を果たしたはずなのにエトナはまだそこにいた。
おいおい、なんだよ。黙り込むなよ。
もしかして魔王の悪口言ったから、そういうことなのか?
これはてめぇの死に装束だ!ヒャッハー!!ってことなのか??
だが、現実は俺の想像とは異なっていた。
「本を…」
「?」
「本を、読まれていたのですか?」
まったく意味のない質問が返ってきて、肩透かしをくらう。
俺は軽く「ああ」と答え、思い出したように「読めないけどな」と付け加えた。
エトナが無言で近寄ってくる。
顔が伏せられているため何を考えているか分からない。しかしより赤みが増したように思える。
素直に怖い。
思わず後ずさる。
「エトナ…さん?」
パーソナルスペースに彼女が入る。だがそれでも止まらない。
もう目と鼻の先に彼女がいた。
彼女は体の大きさこそ俺の数倍はあるが、背の高さは俺の頭一つ分低い。
よく手入れされた髪の中にあるつむじが見えている。
こんなに接近してもやはり角らしきものはなかった。
まだこっちにくる。
つられて俺も下がる。来る、下がる。部屋に入ってもなおずんずんと来る。怖い。怖いよ。
しまいに俺は部屋の奥に追い詰められてベッドに足がぶつかる。そのままの慣性でベッドに倒れ込んだ。
覗き込むようにエトナがかがみ込む。
下を向いているので顔はわからない。
キスするような体勢にドキドキする。別にピンクな気持ちではない。
だってそうだろ?怒ってるのか分からない化け物が顔を近づけてくるんだぜ?
エトナの肩が動く。
来る!俺は身構えた。
だが、彼女の腕は俺ではなくベッドの上の本をつかみ取る。
「こ、これは昔々、と読みます…」
そして本を俺の目の前で開いて見せ、震える声でいった。
あまりにも本が近すぎて俺には文字がそもそも判別できなかった。
しかし、これは…。
「もしかして教えてくれるのか?」
コクコクと頷く。
「なんで?」
「なんでってそれは…」
彼女は本で顔半分を隠し、恐る恐る言った。
「お友達です…よね?」
思わず笑みが漏れた。
「ああ、そうだな」
俺はまだついてる。