泣虫!
知ってるよ。知ってたさ。
魔王城に普通の女の子がいるわけないんだ。
俺にラブコメ展開が起こるわけがないんだ。
「あ、ごめん。くしゃみがでちゃってさ」
「そ、そうなんですね。私てっきり怒られたのかと…」
気弱そうな印象だが、その体は紛れもない化け物。
魔王からは俺に危害を加えるなと、あの時お達しがあったわけだが、目の前の少女がそれを知っているかどうかはわからない。
機嫌を損ねれば、何をされるかわからない。
俺は急いで思わず口に出してしまった暴言を誤魔化す。
そして、繋いだ手をすっと引っ込める。
「あ」
くそぅ。外見はドストライクなんだが、そのせいで尚のこと残念でならない。
こんなんばっかりかよ、この世界。というか俺の人生。
「じゃ、俺寝るから」
バイバイと、手を振って俺は近づいてきた時と同じでゆっくりと後ろに下がる。
決して背中は見せない。
野生動物にあった時はそうしたほうがいいと、どこかで見たことがある。
「……」
エトナとかいう蛇女が、泣きそうな顔でこちらを見てくる。
餌を逃しそうで残念といった顔に見えなくもない。
「また、会えますか」
「ああ、もちろん」
消え入りそうな、縋り付くような声に俺は満面の笑みで返してやる。
エトナはそれだけで花が開くように顔を輝かせる。
「お友達…ですものね」
もじもじと「お友達」と彼女は言う。
その言葉に彼女にとってどんな思い入れがあるのか知らないが、やたらと強調してくる。
お友達、それは僕の認識している意味と同じですか?
「そうだ、友達だ」
とりあえず、機械的に俺は頷く。
同調すれば会話はとりあえずうまくいく。流される会話術。流された先に何があるのかは知らないが、流されている間は少なくとも生きている。
「だから、また明日」
友達っぽい別れの言葉をつぶやくと、彼女は「はい」と言う。
はい、と言ったならドアの前から居なくなってほしいのだが、彼女はそこにいる。
じっとこちらを見ている。視線が合うと、ひゃっと引っ込む。そのまま引っ込んでくれていると嬉しいが、マイマイのようにそっと顔を出してくる。
その仕草がどうしようもなく俺のライフポイントを削ってくる。
可愛いのだ、可愛いが、蛇だ。
しかもB級映画にでも出てきそうなぐらい馬鹿でかい蛇だ。
食虫植物は甘い匂いを出して獲物を誘き寄せる。
アンコウは発光器官によって餌を捕獲する。
目の前のこの愛くるしいガワも仕草も、俺という獲物を誘き寄せる罠なのかもしれない。
俺はここに来てから一番の嫌悪感を感じた。
上げられた分だけ下げられた時の落差が大きいからかもしれない。
「見られていると眠れないんだが…」
「あ、ごめんなさい!」
彼女は、いやそもそも疑似餌が女の形をしているからといって本体が女とは限らないが。
エトナという蛇は慌ててドアを閉めて立ち去ろうとする。
「ちょっと待ってくれ。ドアを閉める前に教えて欲しいんだが、ここの電気ってどうつけるんだ」
もう光が欲しいからとドアを開けるような不用心な真似はしないが、暗闇は怖かった。
最初に部屋に来た時は明かりがあったのだから、スイッチがあるはずだと思ったのだ。
「どうって、そこの魔石に魔力を流すだけです」
細い指が壁に埋め込まれた結晶を指差す。
最初に部屋に入った時装飾かと思っていたが、これがスイッチなのか。
しかし。
「魔力ってどう流すんだ?」
「えっ…とそれは…」
エトナの顔が曇る。
その顔から多くは読み取れないが、彼女にとって好ましくない状況であることはわかる。
「ま、いいや。魔力の流し方わからないし、アンタが…」
「あのっ!私何か明かりを持ってきますね」
俺の言葉を遮ると、そう言ってエトナは去っていた。
足音はしなかった。蛇だし、当たり前か。
そっとドアに近づき、廊下に顔を出す。真っ直ぐで長い廊下の向こうを、赤い何かが進んでいた。
エトナだ。さっき見た時はわからなかったが、彼女の蛇要素は目測で二メートルはありそうだ。
結構速い。
俺は手をかざす。そして丁度彼女の下半身だけ隠れるようにする。
「あーくだらね」
そのむなしい行動をすぐに止める。
持ってくるといったからには戻ってくるのだろう。
それまで待つしかないか。
廊下に出していた頭を引っ込めると部屋に戻る。ものは試しと壁に埋め込まれた宝石のようなスイッチ、確か魔石と言ったか、それに手を伸ばす。
触れてみたが何もなし。押してもだめ、擦ってもだめ。
魔力も今の所無しというわけだ。
魔力が魔法とどう関係するかはわからないが、無関係ではないだろう。
魔力があれば魔法が使えるのか、魔力を使えれば魔法が使えるのか。
しばらく待っていると、エトナが現れた。
手にはランタンを持っている。急いできたのか肩で息をしている。汗で前髪が額に張り付いていた。
「はぁはぁ…お待たせしました」
「いや、全然待ってねぇよ」
「これ、明かりです」
「サンキュ。そこに置いといて」
ランタンを差し出されたが、近づきたくなかったので置くように指示をする。
彼女は俺の意図がわからないようだったが、尋ねるようなことはせずにランタンを足下に置いてくれた。
「で、ではまた明日きますね」
「暇な時でいいよ」
「いえ!絶対きます!」
絶対来るのか。
不吉な言葉を残してエトナは去っていった。
俺はランタンを持ち上げるとドアを閉める。廊下の光はそれで完全に遮られる。
だが、ランタンの暖かな光が暗闇にはさせなかった。
ランタンを頭の上まで持ち上げて、ベッドを照らす。
暗闇の中、そこだけがこの世界での俺の居場所のような気がした。
こんな狂った世界で、夢に溺れることができる場所。
眠気はもはや無かった。空腹感は限界に近い。それでも寝なければならなかった。
◇
短い眠りと覚醒を繰り返していた俺を、完全に目覚めさせたのはノック音だった。
不気味なほど規則正しく鳴らされるその音に、人工的な恐ろしさを感じて仕方なく起き上がる。
かけていた毛布が、左足の素肌に触れる。切断されたことによって半ズボン状態になっているからだ。
その事実が逃れようのないクソッタレを見せつけてくる。
勇者、魔王、赤髪、痛み、餌、蛇。
俺は決して肌寒さだけではない理由から震えると、ドアに向かう。
ノブに手をかけるが、はたと止まる。
「何の御用でしょうか」
「勇者様、朝食の用意ができております」
無機質な冷たい声が聞こえる。
朝食かぁ。ということは朝なのだろうが、窓のないこの部屋では暖かい朝日を浴びることはできない。
ベーコンエッグがふと浮かび、腹が鳴る。が、十中八九そんなものは出ないに決まってる。
「魔王様がお待ちです」
「そうですか」
なんで待ってるんだよ。
魔王ってのは暇なのか。
ともかく待たせているのはマズイ。ちょっと迷ってから、目やにを軽く擦ってドアを開けた。
一つ目か。
呼びにきたメイドは一つ目の奴だった。
起き抜けになんてものを見せるんだ。これだからドアを開けるのが嫌だったんだ。
大きなテカテカとした瞳には俺がばっちし映り込んでいる。
そんなに大きいなら砂嵐とか地獄なのでは。よくぞ進化の過程で淘汰されなかったな。
「先に行ってもらえませんか、後からついて行くので」
「かしこまりました」
お手本のようなお辞儀をして、メイドはスタスタと歩いていく。
あの大きな目の視線が無くなって俺はホッとする。
風呂に入っていないのでゴワゴワとする髪を掻きむしると、その後ろを追っていく。
今思ったが、風呂に入っておらず血の染み込んだダメージジーンズ(意味深)を着た俺が魔王に会っていいものか。
しかしメイドは道中それについては何も言わなかった。というかもそも結構長い間歩いているが会話は一切なかった。
俺を丁重にもてなしてくれてはいるが、決してなれ合おうとはしない。親しげに話しかけられても困るだけだが、なんだか接し方に違和感を覚える。
しっかし、なんだこの迷路のような城は。メイドの案内がなければ秒で迷う自信がある。
外からの侵入を守るため、あるいはその逆か。
だが逃げられる気もしないので、道順を覚える気はない。
メイドが止まったのは昨日とは違う場所のようだった。
はっきりとは覚えていないが、こんな扉だったか?壁にかけてある絵もなんとなく違う気がする。
そもそも行く道中で階段を結構上ったが、そんな記憶はない。
俺が首をひねっているとメイドがドアを開ける。
「勇者様がいらっしゃいました」
俺の頬を撫でたのは湿り気を含んだ風だった。
甘いミルクのような香りが漂っている。おそらく食べ物の匂いではないだろうが、俺のお腹は節操なく反応した。
なぜ風が吹いたのかといえば、その部屋自体が巨大なバルコニーだったからだ。
半円状のそこは一面が白だった。磨き上げられた白い床は、どうやら一枚の岩からできているようだった。継ぎ目らしい継ぎ目が見当たらない。
これほど巨大な岩を切り出し、設置するというのがどれだけ難しいのか俺でもわかる。それにたとえ一枚岩でなかったとしても、継ぎ目が全く見当たらないような建築技術はそれはそれで凄まじい。
ここは城の側面から突き出すような形で建てられている。そのため、この世界に来てから初の空がそこにあった。
俺は空を見上げてほっとする。青い空だ。そしてたった一つの太陽。
体にあたる日の光がこれほどまでに心地よいものだとは知らなかった。
なによりこの青空。別の世界の空だというのに、まるで元の世界と変わらぬ姿であり、もしかしたらこの空の下には元の世界が広がっているんじゃないかと思うほどだった。
自分がここまでセンチメンタルだとは思わなかった。
空を見て泣きそうになるなんて情緒不安定な奴だけだと思っていた。違うそうじゃない。今の俺はそうなりかけてるんだ。
「来たか…待たされるのは久しぶりだな」
俺はその声に急に現実に戻された。
自然な空と対照的にバルコニーの中央にある不自然なオブジェクト。南米のピラミッドのような階段状になっているが、床と同じで継ぎ目がわからない。
その階段には血のように赤いカーペットが引かれ、そのサイドにメイドが並んでいた。
声の主はその奥。ピラミッドのてっぺんに居た。そしてあの赤髪も。
白く長い髪は結いあげられており、うなじから肩までの白磁のような肌はこれだけ白に囲まれながらもなお白く眩かった。
太陽の光をその肌をなぞる水滴が反射する。
「魔王…」
彼女は俺に背を向け、「日光浴」をしているようだった。右手にはシャンパングラスのようなものが握られている。
吸血鬼が日光浴だって?
それだったら弱点らしい弱点がないじゃないか。この世界でも十字架は有効だろうか。
さらに驚いたことに、彼女が空のシャンパングラスを掲げるとその腕から水が滴り落ちる。
そばに仕えていたメイドがさっとグラスに琥珀色の液体を注いだ。
湿った風の謎が解けた。
どうやらこの広いスペースは彼女の浴室らしい。そしてあのピラミッドが浴槽というわけだ。
さすが一国の王。スケールが違う。
「フフ…貴様が今考えていることを当ててやろうか」
「またお得意の奴か」
「貴様はこう考えている、我がこうして日の光を浴びて問題ないのかと」
…当たりだ。ただこれは俺が逆の立場でもわかるかもしれない。
「問題がないわけではないが、長時間浴びなければ無視できる程度のものだ」
「まじかよ…バケモノめ」
俺は思わずつぶやいて、はっと口を押える。
化け物に化け物と言って何が悪いのかとは思う。
だがアークンの機嫌を損ねてしまうとマズイ。俺に危害を加えることは禁止になっているが、それが厳密にどういうルールか分からない。
例えば手足を切り飛ばしても魔法でくっつけることができるのなら「危害なし」と認定されるならたまったものではない。
少なくともアイツはそれが一人で実行可能なのだ。
恐る恐るアークンを盗み見る。
だが、俺にガンつけている以外は動こうとしない。
なぜだ?
「アークンには貴様が我にどんな言葉を使おうが手を出さないよう言っている」
背中にも心が読める目がついているとでもいうのだろうか。
魔王ならあり得る気がする。
「臭うな…」
この距離で臭いがわかるとは。鼻がいいのか、俺がえげつない歩く公害になっているのか。
「そりゃそうだろうさ。こちとらこっちに来てから体を洗ってないんだ」
「そうか…なら…」
「ま、魔王様!?」
ざぱぁっと音を立てて立ち上がった魔王がこちらを向く。
案の定裸だ。そして背中に目なんてなかった。どうやら頭に角が生えている以外はまともみたいだった。
朝日を遮るように立つ姿は小柄ながら威圧的だった。胸はおとなしめのようだが。
「一緒に入るか?」
こちらに手を差し出し悪ガキのように魔王は笑う。
アークンは隣であたふたしていた。無表情なメイド達も流石に絶句していた。
ムカつくぜ。
大方、あたふたしている俺を見てからかいたいのだろう。
しかし、驚くことにマイサンはいまだスリープモードであった。存在が嫌いでも裸の一つや二つみれば反応するかと思ったが、自分の体だというのに知らないこともあるものだ。
「いや、結構だ。風呂は一人で入りたい」
俺は目をそらさずその裸体を真正面に受け止めながら言い放つ。
俺のその言葉に魔王はハトが豆鉄砲を食らったようになる。
「お、おぉそうか…」
あまりにもドライな俺の反応に気がそがれたのか、魔王はメイドに飲みかけのグラスを渡すと静かに湯舟につかりなおした。
そして一言。
「貴様、不能か?」
「違うわ」
即答する。
失礼な、多分普通に思い出だけで起動することはできる。
ただ対象がてめぇの時点でセキュリティにはじかれんだよ。あとこんな人目のある環境では無理だ。
「アークンよ、今日の我はおかしいか?」
「い、いえ!いつものように強く気高く美しいです!」
「そうか。ふむ…」
アークンの賞賛の言葉に魔王の形の良い眉が顰められた。
その様子を敏感に察知したアークンは自分の言葉が何か間違っていたのかとオロオロしだした。
そんな周囲の様子などお構いなしに俺の腹は限界だった。
きっと血が足りないせいだ。体が血を作り出そうと栄養を欲しているのだ。しまいにはぐぅと情けない音を立てる。
「なんだ、腹が空いていたのか。それなら早く言え」
謎が解けたとばかりに魔王は微笑む。その姿にアークンや周りのメイドが見とれている。
「早く言えばくれるのか?」
空腹でイラついていたせいで思わず言ってしまった。
魔王に向けていた視線とは真逆の視線が俺に向けられる。端的に言えば殺意がのせられた視線だ。
感覚がイカれてしまっているのか、それほど脅威には感じない。
彼女たちがどれだけ俺に殺意を向けようと、実際に行動に移すことはないからだろう。彼女たちは魔王に絶対の忠誠を誓っている。なら気を払うべきは魔王ただ一人である。
「ああ、もともとそのために呼んだのだしな…」
魔王は器用にも濡れた指で高らかに音を鳴らして見せる。
するとメイドの数名がカラカラとワゴンを運んでくる。テレビでしか見たことのない銀のふたが皿にかぶせてあった。
遅れて四人のメイドがテーブルと椅子を運んできた。椅子が二個あるように見えるが気のせいだろう。
魔王が湯船から上がり、その裸体を惜しげなぐさらす。
その横からからメイドがさっと布を肩にかける。隠せてないんですが、それは。
はずがしがる、というより体が冷えるのを防ぐかのように魔王は胸の前に布を手繰り寄せる。
その間に俺の視界の端でてきぱきと働くメイド達によって朝食の準備が整えられていく。
やはり椅子が二つあるようだが気のせいだろう。
魔王がゆっくりと階段を下りてくる。
一段下りるとさっき布をかけたメイドが今度は魔王の髪に手をかざす。
すると魔王の髪が風に吹かれたかのように動く。
もう一段下りると両端からメイドが現れ、体を柔らかそうなタオルで拭き上げていく。
数段下りる頃には髪も体も乾いていた。
そのタイミングで、肩にかけられていたマントも交換される。
次に黒い布切れを持ったメイドが現れた。
俺はすでに魔王の動向よりもメイドがテーブルに並べ始めた皿に注意が向きかけていた。
だが、体が乾いているというのに布をどう使うかすこし気になった。
魔王が妙な動きをする。普通よりも高く足を上げて下りようとするのだ。すると、素早く例の布を持ったメイドが動く。
魔王の足の動きに合わせるように、その動きを阻害しないように。
まさしくプロの動き、効率を突き詰めた動きはこの場のどのメイドよりも洗練されていた。
髪や体を乾かしたメイド達が羨望の眼差しで見ているところをみると、きっと重要な役職に違いない。
あらゆる匠の動作がそうであるように普通に見とれるほどの動きなので、メイドの手が四本でなければ握手を求めていたことだろう。
さて彼女の仕事は結局何だったのだろうか。メイドの背中で隠れていて分からなかった。
魔王の様子に変わったところは見られないが…。
「なんだ?じろじろと見て。今更欲情でもしたのか?」
「勇者!貴様という奴はっ」
視線を下に動かすと違和感に気が付く。
……そういうことか。それなら例え腕が二本あったとしても握手はごめんだ。
魔王が階段を下り終える。
そしてごく自然に用意された朝食の席に優雅に足を組んで着席する。
魔王がそこなら俺の朝食はどこだろうと探してみるがそれらしいものはない。
なるほど立食タイプか。
「おい」
となるとサンドウィッチとかだろうか。俺はBLTが一番好みだが、この際タマゴサンドでもいい、というかなんでもいいから食べたい。
具はおろか白パンがあるかどうか怪しいものだが、この際ビジュアルは無視だ。
「おい」
美味しければいいんだ。こんなことならあのフライを無理にでも腹に詰め込んどくべきだった。
…俺の分はまだか?
「貴様、その顔の横についているのは飾りか?おい、アークンよ、どうやら勇者様にゴミがついているらしい。綺麗にしてやってくれ」
「…は」
「まてまて。聞こえてる。今聞こえた。すごい耳垢が詰まってた」
魔王が組んだ腕の上で指をトントンとやりだす。あからさまな「私、不機嫌ですよ」アピールだ。
理由はわかるし、解決方法もわかる。でも答えがわかるからと言って正解の行動をするとは限らない。夏休みの宿題をやらなければいけないことはわかっているが、普通に嫌だ。そんな感じだ。
だが、宿題をやらなければ怒られるように、ここではある程度いう事を聞かなければ物理的お仕置きが待っている。
この状況だと抵抗しても普通に魔王を怒らせるだけだ。
ここは素直に従うか。
俺は仕方なく魔王と同じテーブルに着く。
「なあ…俺、臭いだろ?別々に食べたほうがよくないか」
「構わぬ」
「そうですか…」
メイドが横から皿の上にかぶせてあった蓋に手をかける。
とりあえず飯だ。
何が出るか…虫かバケモノか。蛇とか。
ぱっとメイドが蓋を開けた瞬間俺は目を閉じた。しかし、一瞬見えた情報が俺にすぐ目を開けさせた。
「パンだ…それも普通の…」
「当たり前だろう。パンに普通もそうじゃないもあるものか」
厚めにスライスされたトーストと、バター。普通だ。
ほかの皿もそうだ。コーンスープ、ウィンナー、豆をペースト状にしたもの。
おかしな点が一つもない。昨日のアレはただの嫌がらせだったのだろうか。
「今では豊かになったものの、ここは作物も碌に育たない土地だった。その時の苦しみを忘れないように必ず一食は当時のものを食べるのだ」
「そういうことか、なら昼もこんな感じか?」
相変わらず心を読んでいるかのようだが、それよりも飯事情が気になった。
「日にもよるが、おおむねそうだ。ティータイムは?」
「おやつかぁ…とりあえずもらうか」
「わかった用意させよう。それはともかく食べたらどうだ?確か、いただきます、だったか」
「ああ、じゃあいただきます」
手を合わせて俺はパンをつかむ。パンは焼き立てなのか温かかった。
まずは匂いを嗅ぐ。鼻腔に小麦の香ばしい香りが突き抜ける。この匂いだけで飯が食える。自分で言っておきながら訳がわからないが、そうとしか言えない。
見た目と裏腹に味は最悪、というパターンではないようだ。
バターをつける手間も惜しい。
俺はさっそくパンにかぶりつく。より強くなる匂い。
咀嚼する。デンプンの甘さが舌を包み込む。胃が早く寄越せと腹が鳴く。わかったよ。味わっていたい気持ちもあるが、咀嚼もそこそこに飲み込む。
ぐんという喉を食物が通っていく感覚と多幸感を感じる。
食事で使うのは味覚だけだと思っていたが、そうではないようだ。
ただのパンだというのに旨かった。
俺はそれから貪るように腹に入れていく。
魔王は前と同じように食事には手を付けず、興味深そうに俺の様子を眺めているだけだった。
餌が食事をする様をみて何が面白いのか。
やがて腹がくちくなって、俺は手を止める。
「ごちそうさま」
「なんだ、それは」
「飯を食い終わったあとのまじないだ」
「ほぉ…貴様の世界のまじないは面白いな」
面白い、面白いとつぶやいて魔王は笑う。
新しい単語を覚えた赤子のように、無邪気に喜んでいた。
「ほかにないのか?」
「そう言われてもな。ぱっとは出てこない」
「つまらんな」
空気が凍ったのを感じた。
俺の心臓がきゅっと縮み上がる。
つまらない?それってつまり…どういうことだ。
考えたくない。
吐き気がする。
俺は真正面を向いていられなくて、顔を伏せる。
さっきまで心地よかった日光が床に反射し目に突き刺さる。
状況を打破しようと頭の中を検索する。だが、探そうとすればするほど、俺はこの場で何を言えばいいのかがわからなくなる。
あーでもない、こーでもないと考えているうちに、時間は無情にも俺と魔王の間を流れていく。
ごくりと唾を飲み込んだ。
「ふん…まあ、いい」
俺はぱっと顔を上げる。
魔王は足を組み替えて、剃刀のような笑みを浮かべた。
「どうした?勝手に救われたかのような顔をして」
「ああ…いや」
「いいか。我が貴様に望むのは、貴様であることだ。媚びることではない」
媚びるな、だって?そうせざるを得ない状況を作ったのはお前じゃないか。
「そんなの無理だ。俺は人間だ、命は惜しい。痛いのはいやだ。飼い主に尻尾を振るのは自然だろ」
「それだ!それでよい」
何がいいのかわからないが魔王は突然手を叩いて、それから俺を指さす。
その指は俺の目には鋭いナイフのように見えた。逃れようとするが、魔王はそのまま身を乗り出して腕を伸ばしてくる。
指が俺の額に触れる。本当にナイフが触れたかのように冷たい。
目の前に魔王の顔があった。
こんなに近くにあるというのに毛穴の一つも見えない。そしてこんなに近くあるというのに生き物の温かみを感じなかった。
「我は死だ。そう思え。いつ起こるのかわからない。それに媚びても来ることは変わらない。そういうものと知れ」
一言一言区切るように、俺の脳に刷り込むように魔王は語る。
指を俺の額から輪郭をなぞるように真下に下ろしていく。まるで俺が真っ二つに切られているかのようだった。
そして、喉元でぴたりと止まった。
「この指をほんの少し押し込むだけで貴様は死を迎える」
この世界に来るまでは、「何を馬鹿なことを」と鼻で笑えたはずなのに。
俺のそれよりよっぽど細い指が、前世で俺を殺した車よりも死を微笑ませていた。
「貴様の命はそんなものだ。我の指先一つで消し飛ぶようなか細く粗末な命。大切に抱えようとも、己より大きな力の前では既に奪われているのと同じことだ」
だから命乞いをするだけ無駄といいたいのか。でもそれは寒さで震えているやつに、そんなことしても無駄だ止めろ。って言っているのと一緒だぞ。
それに何度も言うがそいつから服を取り上げてガタガタと震えさせているのはオメェだ。
逆らうことで従順であれ。そんな矛盾したことを魔王は言っている。
やがて魔王の指が離れていく。
緊張が解けた俺はムカつきを飲み込むために勢いよくコップの水をあおる。
口の端からこぼれた水は袖で拭う。
「わかった。ような気がする」
「そうか」
本当は全くわかってない。
魔王が望む「俺であること」ってなんだ。近くにあればあるほどそれが何か分からなくなるように、自分という存在がどんなものか正確に理解できる奴はいない。
俺が俺のことで知っていること言えば、運が悪い、それだけだ。
「なあ…」
「なんだ」
思いのほか早く反応が返ってきて虚を突かれた。
「どうした、言ってみろ」
「俺はそんなに面白いか」
「ああ、面白いぞ」
「どこが」
「そういうところだ」
答えになっていない回答を残して魔王は席を立った。マントの前がはだけるが、特に隠すようなことはしなかった。
俺を男として見ていないのだろう。
でも、俺も目の前の人型を女としては見ていない。
「俺は今からどうすれば」
「用があったら呼ぶ。それまで好きにするといい。それこそ風呂にでも入ればよいではないか」
あの残り湯に?
「そう嫌な顔をするな。外が嫌なら、ここ以外にも浴場はある」
確かにこんな開放的なところで風呂に入るのも嫌ではあるが、一番の理由はそうではない。
「ならそうさせてもらう」
しかし訂正する必要はないので、俺はありがたく提案を受け入れる。
別に何もかもに噛みつくことはない。そんなことをすれば、それは面白いではなく、ただのヤバいやつだ。
「あとはメイドに聞け」
魔王は結局、また食事に手を付けずに去っていった。
俺はおもむろに魔王が残した食事に手を伸ばす。あれだけ食べたというのに、腹が空いていた。
手つかずとはいえ魔王の分である。メイドが止めに入るかと思ったが、そんなことはなかった。
パンに蜂蜜をたっぷりつけて一口食べる。
「…旨いんだよなぁ」
◇
それから俺はメイドに案内してもらい、別の部屋で風呂に入ることにする。ついでに新しい服を頼んでみたが、生憎、人間用は置いていないという。
文明度合いからしてどんなものかと思ったが、そこは言ってしまえばスーパー銭湯のようなところだった。それがむしろ異様だった。俺が眠ったあの部屋といい、明らかに俺の知っている中世のレベルとは異なる。ちなみに途中で寄ったトイレも水洗であった。
人工的な、均一に整えられた四角いタイルで大小さまざまな浴槽が作られていた。真ん中には少し小さめのプールのようなデカい湯船がある。ほかにはそのプールを囲むようにして、泡の出るジャグジーバスや、薬湯、サウナらしきものもあった。シャワーはそれぞれの浴槽に2から3個ほど備え付けられていた。ただ、シャワーの間隔がえらく広い。
科学技術が発展していないというより魔法があるから科学は発展しなかった、ということかもしれない。
ほかに人影は見えない。貸し切りのようだ。
中を覗き込んだ後、服を脱いで入ろうとするが、ここまで案内してきたメイドが当然のように脱衣所に残っていた。
例え女性として意識していなくても、そんな無表情でじっと監視されていたら誰だって嫌だろう。
出て行ってくれないかとお願いすると、すんなりと受け入れてくれた。話が早くて助かる。
ズボンを脱ぐとばらばらと鉛筆の削りカスのように固まった血が落ちていく。
先ほどのトイレは小だったので気が付かなかった。
改めて自分が足を切られたんだということを思い出す。
――それはまさしく衝動であった。
「クソッ!!クソクソクソ!!」
俺は爪を立ててこびりついた血をはがす。そのせいで新たに傷ができるが、痛みを感じなかった。
涙があふれてきた。
頭を掻きむしり床にうずくまる。
どうしてこんな目に合わなければいけないのか。そんな当然の憤怒を今になって思い出した。その突き上げる衝動と同じくらい、いやそれ以上に恐怖があった。
魔王が怖い?そうじゃない。
赤髪が怖い?違う。
蛇女が恐ろしい?それも違う。
死にたくねぇ
こんなところで死にたくねぇ。
死が怖いのではない。
顔はそれほど、勉強も運動もまぁまぁ。そして運が無い。俺は自分が何かを成せる人物だとは思っちゃいない。それでもあの世界では僅かでも俺がいたという証はあるはずなんだ。
親友とは言えないまでも友達はいた。顔見知りがいる。俺の親もいる。祖父母もいる。
でもここでは俺は勇者という記号でしかない。俺がホントはどんなやつで、どんなゲームが好きで、どんなタイプが苦手か。そんなことを知っている奴はいない。
俺はただ、俺よりも強い勇者が現れることを阻止するための装置でしかない。
そうやってただの道具として、時に主人に従い、噛みつき、人外に囲まれて一生を過ごす。
そしていつか死ぬ。
死体を見つけるのが「人」でないのならば、それは。
ニュースで聞き流していた孤独死という単語が、脳内でカチりとはまり急に輪郭を持って目の前に現れた。
それからそれがどれ程に残酷な死かということも理解できた。他人に死を認知されず、見つけられた時にはそれは俺だとは認識できないほどの何かに成り果てている。
そもそも俺が死んでも見つけてもらえるのか。
それを想像するとたまらなくなる。
今すぐあの小さいながらも心地よく、見慣れた家に飛び込んで、ただいまと柄にもなく叫びたい。
もしそのために俺の命が必要だとしても惜しくない。親に一生分の愛の言葉をかけて血反吐をはいて倒れられれば本望だ。
「父さん…母さん…」
自分でもびっくりするぐらい情けない声が出た。
「会いたいですか?」
「当たり前だろ…何をしたっていい。会いたいよ」
「はあ、これがマザコン、いやペアコンですかね」
「ああ、そうだよ。笑えよ」
「じゃあ、笑わせてもらいますね!!ハハハハハ!」
気に障る笑い声が響く。しかしその笑い声を聞いていると、次第に頭が冷えてきた。
「だからなんでここにいる?」
「ハハハ…へ?」
白いキツネがそこにいた。