Chapter 01 - 「実はわたし、サキちゃんじゃないの」
学校の授業はどこか偽善的で、人から押し付けられた「正しい事」は、その後の人生でそれほど役には立たない。
義務教育はそれだけの事を9年間かけて伝える、ある種の宗教である、とアサは考えていた。
中学が終わり高校に入ると、そういった子供じみた価値観から多少脱却し、もう少し具体的で混沌とした考えを持つようになる。ちょっと悪ぶっていた方がカッコいいだとか、今さえ楽しければ30歳前には個としての終焉を迎えてもよいだとか。または逆に、将来の自分を楽しむために、今を犠牲にして受験勉強に励む事が10代の全てだとか。
おおよそどういった価値観を持ち、その場その場でどう日常を過ごしたとしても、それなりに楽しい事もあり、悲しい事もある。まだまだ幼いアサの今は、自分自身が今一番守りたいことを、ただただ守り続けることが全てだった。
11月も後半に入り、空気は冷たい。まだ日が昇り切らないこの時間は、駅から学校へ向かって行く学生達を除けば、人通りはほとんどなかった。
「おはよ! だんだん寒くなってきたね」
さしあたり、アサが今一番守りたい日常のひとつが毎朝のこの瞬間だった。
サキとアサの付き合いは長い。
幼稚園の時の図画の時間に、アサが持ち込んだクレヨンには含まれていない金色を、よくサキが貸してくれた。そのクレヨンをしょっちゅう折ってしまい、サキをよく泣かせていたのは、今となっては良い思い出だ。中学に入ると思春期特有の気恥ずかしさからか、二人は多少疎遠になった。それぞれの同性の友人と過ごす時間が長くなり、クラスも違えば話す機会も少なくなった。
それでも去年の春にサキと同じ高校に入学する事ができたアサは、十年越しの秘めた想いをなんとかサキに告げる事に成功した。終礼が終わった後ほんの少しだけ帰り支度を遅らせ、校舎を出るところで、半分は偶然、半分は意図的にサキを見つけ、少しためらいながら声をかけた。なんとなく帰る方向が同じことを利用し、ほんの10分ほどのあたりさわりのない会話を交わして、それから分かれ道で軽く「じゃあね」と声をかけ、それぞれの自宅に別々に向かう。そんなことを週に1回ぐらい、3カ月ぐらい繰り返したあたりの、少し薄暗い川沿いの道。特に雰囲気が良かったわけでもなく。アサは唐突にその場に立ち止まり、脈絡もなく、声の抑揚もうまく制御できないまま、想いを告げた。その言葉を聞いて一瞬顔を上げ、それから目を伏せ、そして涙を流したサキの顔は一生忘れない。
その笑顔まじりの涙は、まだまだ幼いアサに、これから生涯をかけて彼女を守って行こうと決意させる程の衝撃を与えた。
「こう寒いと、お昼までにお弁当冷え切っちゃうね」
「大丈夫、サキなら三時間目までに食べきってるから」
肩に届くか届かない程度の襟足と、頭につけた黄色いリボンをゆらして、サキはアサの脛を軽く蹴り飛ばす。
「ほら、学校ついちゃったよ、それじゃまた後でね」
サキとは別のクラスだが、今日は後で一緒に昼食を取る約束をしていた。それまでの時間を、またあまり意味のない(とアサは考えている)授業を聞きながら過ごすのだ。
それも悪くない。
サキと一緒にいるうちに、アサは素直にそう思うようになっていた。今の幸せな日常を守ることができるなら、例え無意味と思えるルーティーンもわざわざ壊してしまう必要はない。
ただ、今が変わることなく続いてくれればそれでいい。
サキが蹴り上げた余韻が残る脛を意識しながら、アサは真っ直ぐに、無意味な空間の象徴である2―Bの教室へと向かった。
それにしても、変わらない日常なんてあるのだろうか。
教室から見える窓に視線を向けながら、そんな事をアサはぼんやり考えていた。
例えば通学途中でいつも見かける猫が、今日はたまたまいなかったように。学校をいつもサボっている同じクラスの水島が、なぜか今日に限って登校していたように。今はこうして毎日通っている高校だが、いつかは卒業し、進学するのか就職をするのかといった選択に迫られるように。
そう考えると、ゆっくりとだが確かに一日一日は変化しており、まったく変わらない日常なんてありえないように思えた。
「ここでxを微分すると、接線の傾きが分かるから…それじゃここを水島君」
「先生!いま急におなかが痛くなったので保健室に行ってきてもいいですか!」
それでも、今アサがサキを想い続ける日常は、この先例え若さと言う輝かしい宝物を失ったとしても、色褪せる事なんてないように感じた。自分の周りの他の全てが変わったとしても、その点だけはこの先も変わることはないと言える気がした。何しろそれが変わってしまうことを、本人が望んでいないのだから。
結局変わらない日常があるかないかなんてただの言葉のあやで、捕え方ひとつでどうとでも言える不確かな感覚でしかない。
「痛いですか? 死ぬ程痛いですか?」
「はい! 死ぬほど痛いであります!」
「はい、それじゃあ頑張って我慢してください」
「…」
それでもそういった言い回しがよく聞かれるのは、ある瞬間を切っ掛けにして、それまでの昨日とは何かが劇的に変わってしまう事があるからなんだとアサは後日理解した。
「…それじゃ今日の授業はここまでです」
「きりーつ、れー」
それは良く言えば運命であり、悪く言えば事故である。
変化を望んでいなかったアサにとって、それはまさしく後者だった。だから、突然降りかかってきたそれを、簡単に受け入れる事などできるはずもなかった。
「実は私、サキちゃんじゃないの」
放課後、帰宅途中の中央通りで、サキは笑いながらそう告げた。
いや、目は笑っていなかった。
意味が分からず、つい間抜けな返答をしてしまう。
「そ、それは困ったな」
「冗談で言ってるわけじゃないよ」
サキはちょっと、いやかなり変わった部分がある子ではある。でも今はそう言ったたちの悪い冗談を言っている雰囲気ではなかった。なんだかよく分からない不安に呑まれつつ、アサは「サキ」ではないと名乗った『サキ』の次の言葉を待つ。
「本当の私はもうずっと前に死んじゃったの。今は意識だけサキちゃんの体に乗り移っててね。あ、サキちゃんの了承はちゃんと得てるからね」
腰に手を当て、薄笑いを浮かべながら淡々とそう述べる『サキ』。
「…わるい、ちょっとついていけないんだが」
「別に信じなくたっていいし、嘘だと思ってバカにしてくれてもいいよ。ただ1ヵ月間だけはやることがあるから、その間はサキちゃんの体、借りるね」
きっと今の自分は、これ以上ないくらい間抜けな顔でこのサキを見ていたんだと思う。
訝しげな表情をしながら、この少女はアサの顔をぐいっと覗き込むと、一言。
「頭大丈夫?」
こっちのセリフだ、と思わず喉まで出かかる。が、不思議と腑に落ちた感があった。
長年一緒にいたからだろうか。目の前の人物の正体が何かは分からないが、とにかくあのよく知っている、少し抜けた所の多いサキではないということだけは、頭ではなく感覚が理解した。
その感覚が、サキの無礼な言葉に反論する前に、次の言葉を紡ぐ。真顔になり、警戒するように一歩離れると、アサはサキの真正面に立って言い放った。
「サキを返して欲しい」
「無理。やる事があるって言ったじゃん」
アサの少し怒気を含んだ言葉に、サキは少しも怯まない。
「用事が済めば返してくれるのか?」
「それはもちろん。わたしにとっても、サキちゃんは大事な人だからね。傷つけるようなマネもしないよ」
くるくると指で肩まわりの髪の毛を回し、サキはつまらなそうに言い返した。
「信用できない」
「あなたが信じようが信じまいが、1ヵ月間は体は返せないよ」
「だったら…」
感情の奔流をなんとか理性で抑えつけつつ、アサは言葉を返す。
「とりあえず、詳しく話してほしい。目的はなんなのか、なぜ1ヵ月なのか、そもそもお前は何なのか」
「お前って言わないで。まぁ、そうね」
そう言いながら、サキはもったいぶった仕草で後ろに振り向いた。それから向いの通りにある小さな店を指差して、少し媚びた声を出す。
「ちょっとココアが飲みたいな。あそこでショートケーキと一緒にオゴってくれるなら、洗いざらいぶちまけてあげないこともないわよ。乙女の秘密を。」
どうやら最初から、あの緑の看板に目をつけていたようだ。それだけ言うとサキはアサの返事も待たずに、通り沿いにある少しお洒落なカフェへと吸い込まれて行った。
「そんなバカな」
自分の人生で、まさかこんな言葉をリアルに口に出して言う日が来るとは。
家に帰ると、アサは自室のベットにうつ伏せになり、サキの話を反芻していた。
彼女の話はおおむね次の通りだ。
ある研究施設の実験で、昔死んだ『サキ』の意識は「サキ」の体に乗り移る事に成功した。しかしその際の衝撃で、本来は『サキ』の一部だったものがどこかへ行ってしまったらしい。
1ヵ月というのは『サキ』が「サキ」の体に滞在していられる期間で、その間に『サキ』はどこかへ行ってしまったその自分の一部を探さなければいけないとのこと。
「なんだ、ある研究施設ってのは。ふざけてるのか」
話を聞きながら、アサは急速に冷めゆく表情と、その代わりに芽生え始めた苛立ちを、隠すことなくサキにぶつけた。
「確かにもの凄くチープでバカっぽく聞こえるけど…正直自分で話しててもそう思うけど」
「…サキは大事な人なんだ」
話をしながらマグカップを口元に運び、ココアを一口啜る少女。アサはこれ以上真面目に話を聞くのは無駄と判断し、自分の素直な気持ちを述べる事にした。
「おれにとって重要な事は、昨日までのサキが帰ってくるかどうかだ。今の話が本当かどうかはどうでもいい」
「まぁ、そうね」
「1ヵ月間待たずにお前を追いだす方法は?」
「分からない」
サキは少し悲しそうに言った。
「その探し物が見つかれば、お前は消えるのか?」
「探しものを見つけるのは確かにわたしの目的だけど、それが見つかっても1ヶ月間は実験中だから消えないんじゃないかな。でも逆に言えば、見つかっても見つからなくても、1ヵ月たったら実験が終わるから自動的に消える気がする」
食べ終わったケーキの皿をフォークでカチャカチャつつきながら、面白くも無さそうにそう答える少女。
「つまり俺は待つことしかできないのか」
「待つことも大事よ」
「こんなこと言いたくないが…」
軽口には答えず、アサは一つ息をつく。
「お前が誰であろうと、少なくとも学校では普段通りにしていてほしい。サキを…学校の連中に変な目で見られたくない」
「まぁ、わかったわ」
「あと、なんか悩みとかあったら言えよ」
「…」
それだけ言い放つと、アサはそのまま振り向くことなく家まで帰ってきてしまった。
思考停止というのだろうか。ベットの上でため息をつきながら、アサはサキと話した会話の内容は思い出すが、それに対しての明確な答え…自分がどうするべきなのかまでは頭が回らない。
サキの言葉の信憑性は本当にどうでも良いように思えた。考えても本当かどうかはアサには分からない事だし、サキ自身が本当の事だと思い込んでいる…ある種の病気か何かの可能性もある。ただ、今までの日常が変わってしまったということだけは理解できた。
昨日が過ぎてやってきた今日は、果たして今まで通り守るべき日常なのか。