大切なものを失った朝
寝ているうちに何か大切なものをなくしてしまった。
目を覚ました瞬間、そんなわけのわからない確信に襲われた。何をなくしたのかは見当もつかなかった。あたりを見回してみても、目に映るのはいつもの見慣れた部屋の景色。体調にもおかしなところはない。それなのに、泣きたくなるような切なさはいっこうにおさまらない。
落ち着かない気持ちを持てあまして布団の上にすわりこむこと数分、スマートフォンの着信音によってようやくわれに返った。
「おはよう、聡子さん。今朝は気持ちよく起きられましたか」
男にしてはやや高めのその声は、佐々木克仁という知り合いのもの。いつも何かと付きまとったりちょっかいをかけたりしてくる嫌なやつなのに、今朝は奇妙に頼もしく思えた。つい今の落ち着かない気持ちを打ち明けてしまったのは、そのせいかもしれない。
「あまりよくはないね。なにかこう、ふわふわして心もとないと言ったらいいか。何かなくしものをしたみたいな気もする。もっとも、単なる錯覚かもしれない」
そんなとりとめのない訴えを聞き終えると、佐々木は提案してきた。
「そのことについて、私は詳しく知っています。直接会って話しましょう。あなたのよく行く、駅の近くのあの喫茶店に来てもらえませんか」
「わかった。行くよ」
いつもならそんな誘いに乗りはしないのに、このときは一も二もなく了承して、支度もそこそこに家を後にした。喪失感はいまやはっきりと不安に変わり、ますます大きくなりつつある。この不安をなんとかするには佐々木に頼るしかないと思われた。
その喫茶店のことはよく知っていた。駅前の通りから細い道に入って少し歩いたところにある、古くてきたない建物。客の入りも悪くて、延々と居すわるのに適している。店の見た目とは裏腹にコーヒーはわりとおいしいし、軽食や菓子の種類も豊富なため、ちょくちょく来ては他愛のない会話の花を咲かせていた。
佐々木は先に来て、店のすみの二人用の席にすわっていた。
「やあ、聡子さん。来てもらってすみません」
「下の名前を言うのをやめてくれないかな。なれなれしい」
「失礼しました。これからは気をつけます、高橋さん」
こいつとはこういうやりとりを過去に何回もしている。毎回いちおう謝って、何日かは下の名前を言わなくなるものの、忘れたころにまたやるという繰り返し。
「ともかくお掛けなさい。高橋さんのお気に入りの席をとっておきました」
佐々木の言うとおり、この店に来たときはいつもこの席を使っている。しかし、こいつと一緒に来たことは一回もないのに、そんなことを知られているのは腑に落ちない。やはりこいつのことは気に食わない。
「それにしても、今日もお美しい。あなたみたいな女の人とお付き合いする幸運な男を、私はうらやみますよ」
「きみのハンサムさと面の皮の厚さも、いつもと変わりないね。少しヤスリをかけてハンサムさと皮の厚さを減らしたら、もっと見られる顔になると思うよ」
反射的に切り返しはしたものの、歯の浮くような佐々木のセリフには辟易させられる。とはいえ、気に入らないからといってさようならをしても何の解決にもならない。今のところはおとなしく席につくことにした。
「そうそう、朝食はもう済ませましたか。もし何か注文するなら、支払いは持ちますよ」
にこやかに言って、メニューの表をよこしてくる。たしかに、今朝は朝食をとるのをすっかり忘れていた。何か腹に入れようと思ってメニューに目を落とす。そして困惑した。
「おかしいな。なんか、あちこち靄を通したみたいになってて、何て書いてあるのか読み取れない。目の調子は特に悪くないのに」
大まかに言って、メニューに書いてある料理や飲み物のうち六割か七割は読めなかった。向かいの席の佐々木は何か知っているらしく、含み笑いをしている。ますます気に入らない。
何はともあれ佐々木の支払いになるのなら遠慮はいらない。読み取れた料理の中から適当に見つくろって店員に注文した。
「カレーライスとフレンチトーストと野菜スティック、それからショートケーキとアイスコーヒー」
「そんなにたくさん? それも朝から?」
佐々木は顔をひきつらせた。支払いを持つと言ったのを後悔したらしい。恨むならおのれの軽率さを恨め。
「あ、アイスクリームも追加しようかな」
「もうそのへんにしてもらえませんか。私はミルクティーのお代わりを」
情けない顔をして佐々木は飲み物を頼み、こちらに向き直った。
「何もそんなにヤケみたいに注文しなくても……」
「うるさいな。尻の穴の小さい男は嫌われるよ」
もっとも、この男のことはとっくのむかしに嫌いになっているから、いまさらかもしれない。
「そんなことより、さっさと話を聞かせてほしいね。ここに来たのはそのため。飯を食うために来たと思ってもらっては困る」
「あんなに注文しておいて、そういうことを言いますか。まあ、仰せのとおり話に入りましょう」
佐々木は椅子の下に置いてあったリュックサックを開けて、何かの機械を手に取った。アンテナのついた見た目は、無線通信の装置を思わせる。装置の上にともっている赤いライトを見るに、いまこのときもスイッチを入れてあるらしい。
「なにこれ」
「何と言いましょうか。名前をつけるとしたら、点々抹殺装置といったところになると思います」
何の装置なのかまったくわからなかった。しかし、抹殺というところから不穏な印象を受けないわけにはいかない。沈黙していると、佐々木は目をきらきらさせて語った。
「そもそも私はあの点々や丸のことを嫌っていました。あなたは忘れているかもしれませんね。かなを書くときにその斜め上あたりに点々や丸を書き足して、汚い発音にするという風習を」
佐々木に言われて、かきくけこ、さしすせそ、たちつてと、はひふへほの発音を変えるために書き加えるあの点々のことにようやく思い至った。あれをつけると、汚いといえるかはともかくとして、いかにもこもったような音になる。それから、丸というのは、はひふへほにつけるやつのことか。
いつも当たりまえに使っていたこの点々と丸。思い返してみると今朝はまったく使っていない。言い回しを工夫して使用を避け、しかもそのことを意識すらしていなかった。
気のせいか、この点々はとても大切な何かと深くかかわっていたようにも思う。その何かこそ、今朝の喪失感の正体にほかならなかった。佐々木は満悦そうに話を進めた。
「私はなんとかしてあの点々と丸を世の中から消し去りたいと思って、昔からいろいろ研究してきました。そしてついにきのうの夜、この装置の完成に至りました。この装置はある種の波を発生させ、その波は人の脳に作用して例の点々と丸を一切使えないようにします。名前に点々や丸の含まれているものは、装置の影響を受けた人から認識されなくなり、それを言うことや書くことはもちろん、それについて思考することすら不可能になります。装置から発生した波の到達する範囲は、日本国内をくまなく覆っています」
説明を聞きつつスマートフォンを操作して、連絡先の一覧をスクロールした。こちらも喫茶店のメニューと似たりよったりのありさまとなっていた。登録されている名前の多くは、いくら目をこらしても曖昧模糊として読み取れない。佐々木は屈託なく笑った。
「あなたの付き合っているあの男なら、もう見つかりませんよ。五つの音のうち四つに点々のついている、聞くからに汚らしい名前のあの男。たしか、姓は馬を走らせる所、下の名前は源を治めるとか、そんなような意味をもっていましたっけ。あなたのような美しい女の人にはあの男はふさわしくないと、私はいつも思っていました」
人をけなしている真っ最中なのに、佐々木はいたって澄みきった目をしていた。この男、まったく何の悪意もなく、天使のような清らかさを保ったまま、人のことをクソミソにこき下ろせるらしい。こういう感覚は生理的に受け付けない。
「まさか、名前に点々の入っている人はみんな亡くなってしまったのか? それとも、消えてしまったとか?」
とにかく、最も気になっていることを聞いた。
「亡くなっても消えてもいません。とはいえ、当人もまわりもその人を認識することは不可能になりますから、社会的な見地からいうと死人と異ならないと思います」
その答えに、ほんの少し気持ちを落ち着かせる。最悪よりは多少マシといったところか。
「もしかして、そのためにきみはその装置を作ったのかい。嫌いなやつを見えなくして、ほかの人との関係を絶たせて、世の中からのけものにしたかったから?」
「そう理解してもらってもかまいません。あの男にあなたの近くをうろついてほしくないと思ったからこそ、点々を抹殺する研究にいっそう熱中したという側面もあります」
そんなことのために大切なものを失わされ、そのうえ失ったことを忘れさせられていたなんて。こんなむちゃくちゃな話はない。
佐々木は何かを期待するようにこちらを見つめていた。まさか、よくやったと言ってほめてほしいのか。こっちは、いっそこいつを殺してしまいたいとすら思っているというのに。
深呼吸をひとつして、気持ちを切り換える。ここは冷静にふるまわなくてはならない。ほめてほしいならほめてやろう。気をゆるめさせて、気持ちよく話をさせて、世の中を元のとおりにする方法か、すくなくともそのためのヒントを漏らさせる。それしかない。その目的を果たすためなら、お寒いお追従を口にするのも厭うまい。
「きみは天才かもしれないね。そんな装置を作るのは相当大変なことと推察するよ」
「いやあ、そんなにほめたたえられると照れますね」
ちょろい。さてはこいつ、ほめられることに慣れていないな。
「百年に一人の才能と言っていいと思うよ」
「本当のところ、私も薄々そう思っていました」
「いよっ、令和の発明王!」
「えへへへへ」
やつの顔はもうゆるゆるに緩みきっていた。頃合い良しと見て、こちらの要求を通しにかかる。
「その装置、よく見せてもらってもいいかい」
「ええ」
無警戒に渡してきた。片手におさまる大きさ。アンテナと何かのスイッチとライトのほかに、特に目につくところはない。造りは粗く、持つとカタカタ鳴る。製作者の工作のつたなさを露呈しているといえよう。こんなチャチなしろものに振り回されて苦しむはめになっているとは、悪い夢としか思えない。
「これ、もし故障したら大変なことにならないかな。何か備えはあるの」
「私もその点は不安に思っています。しかし本当のところこの一機も、いろいろ試しているうちにたまたまうまくいったもの。詳しい仕組みはよくわからない点も多くて、もう一機作れる見込みはありません」
いいことを聞いた。つまり今あるこれさえ壊したら、さしあたり恐れることはなくなる。さっそく壊すとしよう。しかし、いくらチャチな造りをしているといっても、単に床にたたきつけて壊せるかはわからない。もっとうまい方法はないか。
「失礼します。お料理とお飲み物をお持ちしました」
迷っているところへやってきたのは、トレーを持った店員。さっき注文した大量の品を置いて去っていった。アイスコーヒーを手もとに引き寄せ、ひと口ふた口飲む。そして、いい手を思いついた。一切の躊躇なく、アイスコーヒーの器に例の装置を放り込む。浮いている氷をかきわけて装置を器の底に押し込み、すっかりコーヒーに浸からせてやった。
「えっ?」
佐々木はきょとんとしていた。目の前の光景を理解しそこなったらしい。装置から漏れてはコーヒーの表面に浮いてくるいくつもの大きな泡を、手をつかねて見つめている。装置の赤い光はつかのま点灯していたものの、ついにまたたいて消えた。
「ギャーッ」
佐々木が悲鳴を上げた。濁点つきの! 何はさておきスマートフォンを操作して、連絡先の一覧を表示。あった。さっき見たときは見つけられなかった「馬場源治」という名前が。すぐさま電話をかける。
「馬場、大丈夫かい。何か具合の悪いところはないか?」
聞き慣れただみ声で返事があった。毎日のように耳にしているのに、たまらなく懐かしく感じる。
「ああ、何か頭がぼんやりしていて、朝起きてからのことが思い出せないが、気分は悪くない。後ろが騒がしいが、高橋は大丈夫か」
「うん、ぼくのほうは大丈夫。いつもの喫茶店にいるんだけど、来られるかい。そうしたら説明するよ、何があったのか」
半狂乱になってアイスコーヒーのタンブラーにつかみかかる佐々木を横目で見ながら、ぼくはすべてを取り戻した喜びに満たされていた。