夢か現実か!
先程までの秋晴れとは打って変わって雨雲に覆われた東京競馬場。
最後に16番ミヤコノジョーが入って、ゲートイン完了。
スタートしました!
各馬一斉に綺麗なスタートですが、2番ワンパンチ大きく出遅れて最後方から。
さてまず何が行きますか・・・
最終レースの実況アナウンスが響き渡る中、すっかり人気が散漫になったパドックには、馬糞の清掃をする作業員さんや、競馬場を本日のデート場所に選んだ男女。お気に入りのカメラを手に談笑を交わす女性たちの姿なんかがちらほら。
そんなパドックをグルッと取り囲むように吊り下げられた個性豊かな横断幕の数々。今日も、天皇賞を始め朝から各レースに出走している推し騎手や競走馬、さらには厩舎を応援しようと、熱狂的なファンや関係者たちが楽し気に話をしながらご自慢の横断幕を引き上げ始めていた。
『逃亡者 サイレンスブライアン』
『絶対王者 サイレンスブライアン』
『金色の彗星 神谷夕貴』
『夕貴専用 サイレンスブライアン』
この数だけを見ても、人馬共にカリスマ的人気者であることが分かる。
『俺の尻だけ見てればいい サイレンスブライアン』
『オイ! チョットマテ!』
この配列は、計算なのか偶然なのか。競走馬の状態を確認するだけではなく、パドックにはこんな楽しみ方もある。
「なんか一気に暗くなってきたね」
「こりゃザバーッと来るねぇ・・・」
「濡れる前に引き揚げちゃお」
「うおぉ、ポツポツきたよーーー」
ワアアアアアッ!!!
「なんだろ?」
「なんか、実況やばくない?」
突然、馬場の方が騒がしくなった・・・
人でごった返した賑やかなイベント会場の様相はそのままに、本日最後のファンファーレは鳴り響き、スムーズにゲート入りが進められていた。
発走時刻ギリギリまで天皇賞の余韻が抜けず、ざわつきが収まらない東京競馬場。
混み合う前にと足早に帰路に着く人々もいれば、味方してくれているツキに任せてもう一勝負と息巻く人。対照的に、大きく散財してしまった負け分を何とか取り戻したいと食い入るように競馬新聞を凝視する人。最後の最後までお目当ての騎手や競走馬にカメラを向ける人々もいれば、反省会と称して天皇賞について各々の分析を討論し合っている熱い人々。そして、頑張り続けているマスコット。
笑われながら叩かれ殴られ「あ、首が見える」と言ってはいけないことを口にする無邪気な子供たち。今日は、「少し見ててもらえます?」と子供を預けられ、何故か子守をするはめになったマスコット。託児所代わりに使って馬券を買いに走るだなんて何事だと憤慨した競馬場の人気者。マスコットも大変だ。いつもお疲れ様です。
府中の空からポツポツと小さな雨粒が降り出した。夏でもないのに押し寄せた曇天がゴロゴロと機嫌を損ねていく中、最終レースは何の問題もなくスタートが切られ、場内には流暢な実況アナウンスが響き渡っていた。
さぁ先手を取ったのは11番カザミゴールド。
後続に2馬身3馬身とリードを広げて向こう正面に入っていきました。
2番手に3番ニュージーランド。外から16番ミヤコノジョー。
その後ろは2馬身半開いて8番のモモッチスペシャル。
外5番手13番カレンダーガール、間から9番フィアット。
内4番、掛かり気味にヨツバノトウチャン並んでいきます。
中団、15番のアキサンブレーブはこの位置、単勝1番人気。
残り1200を切っていきます。
半馬身内に7番バルス。
直後に5番ソラノスカイハイ、並んで外12番アシヤマダム追走。
1馬身半開いて後方内1番のカザミダイナマイト。
外目14番のワンナイトフラワーがいて、半馬身差並んで6番モフクチョウ。
残り1000メーター。
あとは4馬身、10番のコダマイットウセイ。
最後方2番ワンパンチといった体型で、各馬第3コーナーのカーブへ向かいます。
逃げる11番カザミゴールド、後続に3馬身のリードをつけて・・・
――おかしい・・・
大牙怜央は、レースに集中しながらも考え事で頭が一杯になっていた。
大歓声に押されるように降りて行った地下馬道。不思議なことに、照明が落ちているようで辺りは真っ暗だった。いや闇と言ったほうがしっくりくるだろうか。
異変に真っ先に気付いたのはオクターヴだった。暗がりには強いはずのサラブレッドだが、両耳を後方へピンッと絞り、怖いほどに嘶き出す。背中越しに怯えているのが伝わってくる。
ふと気が付いた。先程までの大歓声はどこへ行ったのか。ハッと振り向いた先には、今しがた降りてきたはずの入り口の光さえも見当たらなかった。
無音。暗闇。その中でパッカパカパッカパカと不規則に鳴り響く蹄の音。じわじわと襲い来る恐怖に耐え切れなくなり立ち上がるオクターヴ。未だ目は慣れておらず、愛馬のシルエットさえ確認できていなかった。その太い首筋が僕の顔面を強打する。
「オクターヴ!」
ツンッとする鼻の痛みに耐え声を掛けるが、何度も立ち上がり、さらには後肢が空を切る。暗闇の中、必死に上下前後の動きにバランスを保ち続けていたものの、とうとう鐙から右足が抜けた。フッとお尻の下から愛馬がいなくなるのを感じ、体はフワッと空中に投げ出され、次の瞬間、激しい痛みを左手と臀部に感じることとなった。
左手首とお尻に激痛が走る。振り落とされ、おそらく側壁に頭を強く打っていた。どう着地したのかも分からない。咄嗟に左手首を押さえこんだが、意識が段々と遠のいていくのを感じる。体を丸めて、オクターヴが駆けて行く蹄の音を聞いていた。あの響き具合は間違いなく地下馬道のはず・・・
「おい、怜央!」
「怜央!」
意識が戻った時には数名が僕を覗き込んでいた。
ぼんやりとする意識と視界。誰が誰だか分からない。気持ちが悪い。吐き気がする。落ち着きを取り戻し、体を起こすまでにどれくらいの時間を要したのだろうか。未だぼーっとする意識の中、見渡したそこは見慣れた場所。東京競馬場のパドックだった。
「今、何レース目ですか?」
訳も分からず、回転しない頭でただただ質問をした。
「最終だよ。おい大丈夫か?」
記憶が正しければ、さっきまで天皇賞を走り終えたばかりの地下馬道にいたはずで、騎乗していたのは間違いなくオクターヴだった。暗闇で振り落とされそのまま意識を失い、目を覚ました僕は今、最終レースのパドックにいるらしい。
・・・・・・落ちたのか。
この顔は見覚えがある。厩務員の西さんだ。恩師の山下先生に・・・
スカイハイ・・・ソラノスカイハイ。こいつから落ちたのか・・・
――落馬した衝撃で記憶が飛んだのか?
「いけるか、おい」
酷い落馬で、意識を消失してる時間が長かったのなら、とっくに医務室へ運ばれてるはずだ。振り落とされるなんて経験は何度だってある。とにかく乗り替わりだけは、ごめんだ。
何度も大丈夫かと聞かれ心配される中を、押し通してそのまま騎乗したものの、まだ回路は正常じゃない。頭の中に歯車があるなら、それらが噛み合ってないようななんかそんな感じがする。それに飛び乗る時に走った左手首の激痛・・・
地下馬道で意識を失ったはずの僕が、なぜ目を覚ましたらパドックにいるんだ。視線を落とし、左拳を握る度に痛みが走った。あんな不思議な体験は始めてだ。
今日は一体、何日なんだ。西さんは最終と言っていたが、このソラノスカイハイは、天皇賞当日の最終レースで騎乗を予定していたはず。落馬した衝撃で、一時的な記憶障害が起こっているのかもしれない。この線が一番妥当だと考えた。
――いや、あんな不思議なことが現実に起こるのだろうか。
だとしたらなんだ。あれは、ここで落馬して意識を失っている間に見た夢なのか。天皇賞でのあの走りも、気持ちが良いほどの大歓声も、そしてあの、暗闇での出来事も・・・
完全にパニックに陥ったが意識はハッキリしてきていた。
パドックを周回しながら考え込んでいると、視界に入って来る様々な横断幕のお陰で、間違いなく今日ここで天皇賞があったに違いないと確信が持てた。だとすると、今日は最終レースを含めて全部で8レースの騎乗依頼があった。あのオイチョットマテには見覚えがある。それにあれも、これも、朝から何度も目にしていた。間違いない。
だが腑に落ちないことがあった・・・
このパドック。横断幕。何かが欠けてないか?
一気に不安で胸が一杯になり、恐ろしいほどの想像が頭をよぎった。
待ってくれ、地下馬道での出来事だけが夢であってくれたらいいんだ。記憶がぶっ飛んだんじゃないのか。ここで落馬している間にあんな夢を見た、それでいいじゃないか。いや、そんな・・・ない・・・・ない・・・・・ない、ない、ない、ない!
これは夢だ。夢であって欲しい。僕はまだ、あの地下馬道で意識を失っているんだ。そうだろ。今はそのままこんな夢を見ているんだ。落ち着け・・・落ち着くんだ・・・・・・
深く深呼吸をしていると、引馬をしてくれている西さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいるのが見えた。
西さん・・・西さんなら知ってる。
「西さん」
「ん?」
「どう・・・でしたか・・・天皇賞」
「いやぁ本当に強かったな。あんな化け物、見たことないよ」
うん、きっとオクターヴのことだ。
「ですよね。僕も届け届けって必死でした」
「いや普通は届かんて。最後も持ったままや。あれで壊れないんだもんなぁ。それより怜央、届け届けって、お前やっぱ夕貴が嫌いなんか」
末尾を少し小声にして楽しそうに笑う西さんとは対照的に、僕は一気に血の気が引いていくのを感じた。そう普通は届かない。オクターヴだから差せたんだ。オクターヴだから。だが、昨年のクラシック初戦以降、持ったままゴール板を通過したことなんて一度たりともなかった。常に激戦。今日も、あいつとひとつになってギリギリまで必死に追った。あの走りは夢じゃない。この体がしっかりと覚えている・・・
「まじ、あの上がりで逃げ切られたら差せないよなぁ」
!!!
「あんなキラキラした栗毛じゃ手入れも大変だしなぁ。羨ましいけど精神やられちゃうよ。担当なんてしたくないな」
決定的だった。動揺。混乱。頭の中は真っ白になり、手綱を握っている両拳は、ボーリングの球が乗っかっているんじゃないかと思うほどに重かった。
「・・・勝ったのって」
「は?」
「いや、勝ったのって・・・」
「サイレンスブライアンの話してたんちゃうんか?」
西さんが、今にも「テキー(調教師のこと)」と叫び出しそうになったので、あわあわとすぐに平静を装ったが、頭の中は何がなんだかもう真っ白というよりは、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃしていた。自分の両拳がいつもの10倍くらいに膨れ上がっているような幻覚すら見えてくる。
「オクターヴ・・・オクターヴ何着でしたっけ?」
「なんやそんな馬知らんぞ。お前やっぱ頭打ったろ?」
オクターヴを知らない???
いや、ちょっと待ってくれ。
「え、いやでも僕、乗って」
「お前、乗ってんかったやんけ」
どうなってんだ!!!
「テキーーー!!!」