秘密の花園
王宮と各公大十二家にある書庫には膨大な書物が並んでおり、それは大抵王国の一般書店に出回ることは無い。
それゆえ、たとえ雑然と積まれているだけだとしても公大十二家にある本の山は、ある一部の者たちにとっては宝の山だった。
特に獅子導家には、地上で製本される「陰陽術」「魔術」「錬金術」などと言った、地上でも手に入りにくい書物がたくさん置いてある事から、希少価値までもが付いている。
ただそれが公に知られていないのは、書庫を利用するものが少ないため。
つまり獅子導の書庫がある意味宝物庫だということを知っているのは、書庫をよく利用する綺萌や煌也、ベルタなどを筆頭とした、ごく一部の者たちだけだった。
××××
「……まずった」
布製のショルダーバックを左肩にかけながら一冊の本に目を通していたベルタは、頻繁に利用しているはずの書庫からの帰り道で案の定、迷子になっていた。
「卒業試験直前とは言っても、部屋に戻ってからにするべきだったか……」
どこか疲れたような溜息を一つ吐くと、目を通していた本をショルダーバックに仕舞ってから辺りを見回した。
「ここってどの辺だったかな……?」
頭の中で獅子導の屋敷の見取り図を思い浮かべては見るものの、ベルタが見知っている区画とはまったく違うらしい。見覚えのあるものなど一つとして存在していなかった。
「むぅ……もしかしなくても使われてない部屋とか物置庫のあるほうに迷い込んだのかなぁ」
まだお昼を少し過ぎただけの時間にも関わらず、物音一つしないことからそう結論付けると、ベルタは窓の外に視線を向けた。
「こっちが物置庫なら左が下宿舎で、右手が本館かな。じゃあ庭を突っ切ったほうが居住区に近いか……」
大雑把に現在位置を何とか把握すると、これ以上の迷子防止策とここが一階だということも手伝い、窓に足をかけて庭に降り立った。
さくさく
枯葉を踏みしめる音を鳴らしながら、ベルタは本館―居住区があるはずの方向に向かいながら辺りを見回し、溜息を吐いた。
「……それにしても相変わらず、地上で言う巨大都市のような屋敷だよね……まぁ公大十二家の一つだし、そんなものなのかもしれないけど」
他の公大家どころか獅子導の敷地内から出る必要がなかったため、ベルタは王国内でも以前住んでいた貧乏街と獅子導家くらいしか詳しくはなかった。
無事試験に合格し符術士としての資格を拝命することになれば、確実に王宮仕官として務めることになるだろうベルタには、これまで自分を取り巻いてきた環境があまりにも狭すぎることに嘆息した。
「休日はほとんど綺萌か煌也と勉強するか、読書に勤しむとかしかしてなかったから、街に出ることもあまりなかったのよね……いまさら後悔することになるなんて思っても見なかった」
嘆息しつつも過ぎてしまったことはしょうがないとばかりに視線を上げたベルタは、そこで思わず足を止めた。
「……どこ?」
顔を上げたベルタの視界に飛び込んできたのは、今まで見たことも迷い込んだことも無い庭の温室だった。
「というか、この庭に温室なんてあったんだ……」
温室があることさえ知らなかったベルタは、呆れるくらい無い自分の方向感覚に深い溜息を吐くと、好奇心をくすぐられて温室に足を向けた。
「でもこの温室、誰が管理してるんだろ? 煌也も綺萌も何も言ってなかったよね?」
誰に問いかけるでもなく呟くと、ベルタは温室に入り込んだ。
「……きれい」
思わず、というように囁くように零した言葉にも気づけないくらい、ベルタは温室に咲く花々に視線を奪われていた。
「これ全部バラ、だよね……?」
温室にある花は、地上にある花の中でも栽培が難しいといわれている「薔薇」と呼ばれる花だった。
「すごい……きれい……」
王国内で地上の―しかも栽培が最も難しいといわれている植物を目にすることができるなど考えてもいなかったベルタは、誘われるように温室の奥へと足を進めていった。
「……っ」
温室の奥、入り口からはちょうど影になっている場所には、木製のベンチとベルタを絶句させるほどの一際美しい薔薇が咲いていた。
「青の、バラ……でもこれって、咲かせることのできない色じゃ……」
未だ地上でも咲かせることができていない、紫がかっていない純粋の青い薔薇。
「すごい……“可能性”の色」
感嘆の溜息を漏らしたベルタは、青い薔薇を真正面から見ることのできるベンチに自然と腰掛けた。
「本当、誰が育てたんだろう……でも、すごい……」
温室の花の効果か、ここ数日は仮眠程度しかとっていなかったベルタは、自然と眠りに誘われていった。
××××
「……仕方ない……」
頭の上で誰かの声を聞いた気がして、夢現の中ベルタは微かに目を開いた。
「ぃ……也?」
ぼんやりとしたベルタの視界に入ったのは、いつもより困惑したような表情で微笑を浮かべた煌也だった。
「卒業試験前なのにこんな場所で寝たら風邪、引くぞ」
どこか呆れたような、それでも優しさの混じったその声を聞きながら、ベルタはいまだに呆然とした意識の中で呟いた。
「いつも……そうやって笑ってると……いいのに……」
それでも相手が煌也であるという安心からなのか、ベルタはゆっくりと睡魔に身を委ねていった。
『……あまり無理はしないように……いい夢を』
呆れたような優しい声音とともに、ベルタは頬の辺りに柔らかなものが触れる感触を感じた。
××××
「んっ……」
自分で発した声にゆっくりと覚醒を促されたベルタは一瞬、自分がいる場所がわからなくて混乱した。
「あれ? ……部屋?」
視界に入ったのは見慣れた自分に割り当てられた部屋。辺りを見回すと、書庫に行ったときに借りたと思しき本と書庫に行くときに持っていく鞄がソファーの前のテーブルに置かれているのに気が付いた。
「……ゆ……め?」
―どこからが?
書庫からの帰り道、道に迷って庭の温室を見つけたところまでは覚えている。
その温室で栽培の難しいといわれている青い薔薇を見たことも。そこから先の記憶が無い。
「それとも、温室に行ったこと自体が夢だったの……?」
困惑しながらもベルタは時計を視界に入れ、自分が思いのほか眠っていたことにようやく気が付いた。
「大変! 試験対策!」
困惑していた意識が試験に向いたベルタは、慌てながら借りてきた本に目を通しながら机の上のノートをまとめ始めた。
―まるで“アリスの国”にでも迷い込んでしまっていたみたい
先ほどまで見ていた夢に思考が流されていることに気が付いたベルタは、苦笑しながら今度こそ試験のノートに集中した。
それでもベルタは自分でも気づかないうちに微笑を浮べていた。
あの時、煌也に触れられたはずの頬だけは心地よい熱を孕んでいるような、そんな気がしていた。




