死に対する無知
そういったわけで、聖書の黙示録の手前、「へブル人への手紙」「ヤコブの手紙」「ペテロの手紙」「ヨハネの手紙」「ユダの手紙」あたりになると、不品行の戒め、「世の終わり」の近づき、イエス・キリストの再臨、神の愛の確認などの記述が多くなる。
ドミティアヌス帝の迫害が強化され、終末の日が近づいていることを使徒たちは感知していたので、終末の裁きに向けての心構えという形で、滅びのイメージが明確になってくるのである。
聖書、特に旧約聖書は悲惨で血なまぐさい。
やたら沢山の人が死んでいくし、ハンセン病をはじめとする病気、戦争、破壊が繰り返し描かれる。
そして滅びというテーマも非常に重要で、現に北イスラエル王国はアッシリアに、南ユダ王国はバビロニアに滅ぼされる。
南ユダ王国のそれがバビロン捕囚につながる。
その痛切な嘆きはエレミヤの「哀歌」でうたわれている通りである。
私は、旧約聖書の白眉として名高い「詩編」同様、「哀歌」も並々ならぬ高度な文学性を誇っていると感じている。
預言書の文学性の高さを評価する知の巨人としてマックス・ウェーバーが居り、『古代ユダヤ教』でそれを熱烈な口調で強調しているが、全く私も首肯するところである。
これほどに力強く嘆きをうたい上げる詩を私は知らない。
冒頭に挙げた枯れた水仙を活けて鑑賞する趣向といい、悲惨な歴史・事実を透徹したリアリズムで描き、嘆き、怒る聖書といい、古人は老いや病い、死、滅びというものを受け入れ、それを憶えておくという点ではるかに優れた感性を持っていたといえよう。
それに対し、現代に生きる我々はこの点について劣っていて、あまりにも無知なのではあるまいか。