かなしいゆめを みたの
夜中に、目を覚ました。
隣には布団を蹴飛ばして眠る子供の姿。いつも通りで、笑みが零れる。
布団をかけなおしてやって、さぁ自分ももう一度寝ようと思ってぎょっとする。
夫が、そこに、寝ていたから。
すぅすぅと寝息を立てている夫は、穏やかな表情だ。
そして私が横にいないと気づいたらしく、寝ぼけ眼で両腕を広げ「おいで」と掠れた声で、優しく呼んでくれた。
呼ばれるままに、そろりと寄った。
抱き留められて、温かくて、涙がジワリと滲むのを感じる。ああ、夫だ。間違えるはずがない。私の、最愛の人。
私を宥めるように背中をぽんぽんと一定のリズムで優しく叩くその大きな手も、よれよれのパジャマも、私を抱きしめるそのぬくもりも、なにもかも夫だ。
いなくなってしまった。
いなくなってしまった。
それが例えようもなく苦しくて悲しくてたまらないのに、こうして現れてしまうだなんて。これは幻のはずなのに、確かなぬくもりと質感を伴って、私を抱きしめてくれるなんて。
それでも涙が止まらない、これは喜びの涙なんかじゃない。
悲しくて悲しくて、たまらなかった。
悲しくて、切なくて、苦しいのだ。
「おかあさん?」
はっとする。
私が目を開けると、夫の胸の中じゃなかった。天井が見える。
「おかあさん?」
最初に呼び掛けてきたのは子供だった。小さな子供特有の甘ったるい呼び声は、甘えてくる子供のそれだ。
次に呼び掛けてきたのは、『夫』だった。はっとする。
「どうした?」
低い声が、心配するように問いかける。
ああ、本物だ。
私の前に本物の夫がいる。
すりよって甘えてくる、寝ぼけた子供を抱きしめたまま、私は声をかみ殺して泣くのだ。
そうするとどうしたんだと慌てる夫が、私の頭を撫でてくる。
大きな手が、優しく撫でてきてそれが温かくて安心してしまって、余計に涙が出てくる。
零れる涙を拭うことができず、声をあげることもできず、ただ体を震わせて唐突に泣き始めた私を持て余すかのように夫がただただ私の頭を撫でる。
(ああ、わたしは)
体の弱い夫を、それでも良いと夫婦になった。
いつかはこの人を私が看取る、その覚悟だった。人より早い別れになるかもしれないと先に告げられてもいた。それでもいいと言ったのは、私だ。
子供を共に望み、儲け、育てる。普通の夫婦と同じように。
だけれど、私と夫とでは時間の進みが違うのかもしれない。
あくまでそれは、可能性だけれど。
でもその現実を思い出したから、こんなに苦しいわけじゃない。
私が苦しいのは、私が苦しいのは。
この人が、いなくなってしまうことを受け入れている私だ。
受け入れて、当たり前の生活が来ることを受け入れている自分だ。
きっと苦しくなるだろう、子供がいれば自暴自棄になることもないだろう、この人の血筋を残していきたい、色々なことを考えた若い頃は否めない。
それでも、私が愛した人。
愛した人がいなくなる。
そうならないように日々を努力しているはずなのに、それを受け入れている自分がいたことに、衝撃を覚え、そして目が覚めた瞬間、それが夢ではなく現実であるかの如く錯覚した己が驚くほどに憎かったのだ。
これは夢なのか、現実なのか。
苦しくて、たまらない。
忘れたくなんかないし、忘れる気はないし、そもそも夫には長生きをしてもらうつもりで日々を努力しているけれど。
そこまで病状が悪化しているわけでもない、安定しているから大丈夫。
そう常々安心していたはずだというのに、なぜこんな幻を見てしまうのか。
夢だなんて思いたくもない。あんなものは、幻で十分だ。
いなくなってなんかいない。
手を伸ばせばそこにいる。
子を抱きしめる手とは反対の手を、夫に伸ばす。
私の頭を撫でている手が、一瞬止まって、そして何も言わずにまた撫で始める。そんな不器用なところが、愛しい。
伸ばした手が夫の頬を撫でる。無精ひげが、ちくりと痛い。だけど、それが現実だなぁと思って、また泣けた。
「本当に、どうしたんだよ」
「こわいゆめを、みたのよ」
「どんな?」
「言いたくもない、そんな夢」
「そうか」
「そうよ」
「そうかぁ」
「うん」
涙交じりに時々鼻を啜る。
きっと今の私はきっととんでもなく不細工で、安心しきっているに違いない。目が痛い、鼻の奥も痛い、泣きすぎて頭も痛い。ああ、それでも腕の中の子供のぬくもりが、温かい。
撫でてくれる夫の手も、温かい。
「起きてココアでも飲もうか。あったかいのがいいね」
「うん……じゃあ、淹れてくる」
「いいよ、おれが淹れてくる。お前はそのままその子を寝かしつけてやんな」
「……ありがと」
そうだ、夫はそこにいる。
子供も、ちゃんとここに。
あれは、ただの夢。ただの幻。
……だけど。
これは、これも、誰かの夢なんだろうか?
目が覚めた時の、現実と夢の境界線のなさがものすごく、怖かった。
だとして、じゃあ私はどこにいるのだろう?
思わず立ち上がろうとする夫のパジャマの裾を掴んだ。
不思議そうな顔をして「どうした?」と問われても、答えられなかった。
「いなくならないで」
「何言ってるんだよ、ちゃんといるだろう?」