雨宮栞の秘密
ずんずんと足を踏み鳴らしながら廊下を往く。
目的地はもちろん職員室だ。横開きのドアを力いっぱいに開け放つ。
職員室には、放課後も夕方を過ぎたというのにまだ仕事をしている教師がそこそこいた。ざっと室内を見渡してみると、件の教師はすぐ見つかった。
駆け寄る。
「あれはどういうことですか、日比野先生!」
「ん?」
その人物はペットボトルをラッパ飲みした態勢のままこちらを振り向いた。
我らが担任、日比野珠子教諭だ。スーツの上に白衣という奇妙な着合わせのその姿は、職員室の中でかなり目立っていた。
「誰かと思ったら伏屋くんじゃない。飲む?」
そう言って、先までラッパ飲みしていたペットボトルの口を俺に向ける。
「いりませんよ。コーラなんて」
「コーラじゃないわよ。いい? これはドクペ、ドクターペッパー。この杏仁豆腐に似た化学香料の味が最高にそそるわ」
そう言って日比野先生は、喉に無理やり流し込むようにして、ぐびぐびと黒い液体をあおる。
「ん、ん、ん……ぷはあ~」
やっぱりこの人、中二病だ。いい歳した大人なのに……。
生暖かい気持ちが胸を満たした。
「って、じゃなくて! 転校生ですよ、転校生!」
「ああ、そうだった。忘れてたわ」
日比野先生はピンと指でペットボトルをはじくと、
「それでどう? 栞ちゃんとはちゃんとお友達になれた?」
これだ。
この言い方から、何から何まで理解できようというものだ。
てか栞ちゃん? あの女のことをこいつは栞ちゃんと呼んだのか?
俺は彼女に半眼でもって、
「やっぱり先生の策略だったってわけですね。俺に転校生のことを訊ねたのも、辞書の山を押し付けたのも、すべては図書室で転校生に会わせるためのものだった、と」
「ええ、そのつもりだったんだけど……」
日比野先生は戸惑ったように俺を見つめると、おずおずと訊ねてきた。
「えっと、どうして伏屋くんは先生を睨んでいるの?」
「わかりませんか」
「だ、だって、気になっていた転校生の女の子とお友達になれて伏屋くんは幸せなんじゃ? 先生、感謝されこそすれ、怒られるとは思ってなかったんだけどなあ……?」
「友達? あれが友達であってたまるか!」
叫んだ。魂の慟哭だった。
「でもでも、伏屋くんラノベ読むよね? 朝読書でニヤニヤしまくって周りにドン引きされてるの知ってるし。だったら栞ちゃんとも趣味が合うと思ったんだけど」
「いや……」
どこをとって趣味が合うと思ったのか。
あいつはラノベがきらいだわ、俺の大好きなシリーズをこき下ろすわ。お互いを否定し合う仲を友達だというのなら俺は友達なんていらない。
あとドン引きされてるっての初耳なんですけど泣いていいですか……?
「とにかく、俺はあいつと友達になる気なんてさらさらないですから!」
「うーん……」
日比野先生は白衣のポケットに両手を突っ込むと、そのまま、むむむと考え込んで、
「でもさ、伏屋くんと栞ちゃんの間に何があったのか先生は知らないけど、それだけ栞ちゃんのことを嫌えるんだもん。きっと深い仲になれるよ」
「いや、お互いに嫌ってたら離れていくだけでしょ」
何を言ってるんだろうかこの中二病は。
「そりゃあ、このまま二人が関わろうとしなければそのままだよ。だけどそうじゃなくて、一方が猛アタックし続ければ、きっとツンからデレに変わる時が来る」
「そんな、ラノベじゃあるまいし」
「別にラノベに限った話じゃない。出会いの印象が最悪な二人が次第に距離を縮めていくなんてテンプレ、アニメでも少女漫画でも、ハリウッド映画でもよくみるわ」
「だから、そういう話でもなくてですね」
そもそもこれは現実なんだ。
そんなフィクションでしか成り立たないような、理想的な筋書きは起こりえない。
だというのに、
「……先生は失望しました」
「今度は俺の良心に訴える作戦ですか」
「ううん、そういうんじゃなくて」
ここで「はあ」とあからさまなため息をひとつ。
「友達も作らないで、いっつも教室の隅でニヤニヤとラノベを読む伏屋くんを見て、先生ちょっとは期待してたんだ。昔の先生と同じだ、って」
「勝手に俺に昔の自分を重ねられても困ります」
「他には、このクラスだと星ヶ丘さんもそうね。もちろん、栞ちゃんも同じ」
「話を聞いてくださいよ……」
日比野先生は目を閉じて、そらんじるように語りかける。その姿はまるで昔の自分を思い出しているかのようだった。
「クソったれな現実からキミたちは逃げているの。普通の人だったら妥協して、自分の中で折り合いをつけながら生きていくのに、キミたちはいつまでも理想を追い求め続けているの」
「……」
「ある者はラノベというフィクションにマジになって、ある者は自分で考えた設定にマジになって。それってなかなかできるもんじゃない、普通の人はもっと賢いから」
「……バカにしてるんですか」
「これでも褒めてるのよ?」
いや、どう考えても貶してるようにしか思えないけれど。
それでも日比野先生は晴れ渡るような笑みを浮かべていた。もう夕暮れも過ぎて、外は暗くなっているというのに。
そして、こう言ったのだ。
「栞ちゃんを救えるのは、キミたちみたいな人だよ」
「救うって」
その大仰な物言いに小馬鹿にしたような笑みがこぼれる。あいつはそんなこと必要としてない、そう思った。けれど、
「……彼女ね、図書室登校なの」
言葉が詰まった。聞き慣れない単語を聞いて、頭の中に「?」が浮かぶ。
「図書室登校……?」
なんだそれは。
俺は日比野先生の顔をまじまじと見つめてしまった。そんな俺の間抜け顔を見て、
「保健室登校ってあるでしょ?」
「えっと、学校には登校するけど教室には行かないで、一日を保健室で過ごすっていうあれですか」
「そう、あれ。ようはそれの図書室バージョンね」
保健室登校、それは聞いたことのある単語だった。
いろいろな問題で教室から足が遠ざかってしまった生徒が、教室の代わりに保健室に登校すること。この認識があってるかは分からないが、俺にはその程度の認識でしかなかった。
ただ、保健室登校という言葉の響きに、あまりいい印象はない。
それの図書室バージョンということは……、
「あの転校生が……? まさか……」
でもたしかに雨宮栞が転校してから、彼女は一回も教室に顔を出したことはなかった。その彼女が図書室にいたということは、つまりはそういうことなのだろうか。
「別に教室に引っ張ってでも連れてこいなんて言わない。ただやっぱり、お友達になってほしいなって、思う」
「……」
どうして俺が、とはもう思わなかった。
そもそも俺は、ラノベがきらいと言ったあいつに、ぎゃふん、と言わせると心に決めたんだ。
明日もう一度図書室に行こう、とにもかくにも、話はそれからだった。