~エピソード・オブ・シルフュリア~ プロローグ
空は表情を既に失っている。だが、辺りはうるさいぐらいに自己主張の激しい色が並んでいた。
何カラットか知らないダイヤモンドの装飾、赤いカーペットに金色の鏡。
「まだか・・・?」
無駄に流れていく時間にいら立ちを感じたニコラス・カーヴァーはとにかく無の無い場所を求めて立ち上がった。
と、そのときゆっくりと扉が開き、外からニコラスよりかウサギ一羽ぶん背の高い大男が部屋に入ってきた。
父だ。そしてこの国のKing。意識を失い泡を大量に吹いたかのように真っ白い顎髭を揺らしながら大男は言う。
「もうそろそろだニック。準備しろ。」
やっとの思いで「無」から解放される。ニコラスは小さくうなずいてやたら自己主張の激しい部屋を後にした。
ニコラス・カーヴァーはハートのシルフュリア国のJackであり、実の兄にあたるダグラスの結婚式に来ていた。
相手はスペードのハイキャリバーJackのファリス・スジャータであり、どちらも庶民の憧れの憧れを超えるほどの結婚だが、両者はそれを望まない。庶民にこれが分裂した国と国とを結ぶ政略結婚に過ぎないことは、誰にも知られていない。が、今になってはもうどうにもならないことだった。
式の会場に向かう途中、ニコラスは式場の外の庭から男と女の話声を聞いた。
小さくて聞き取れないがその鶏が叫ぶような、断末魔のような、黒板で爪を研いだような、その音だけで普通の話をしているわけではないことは想像がつく。
地蔵のようにずっと無の中にいたニコラスは、七分の好奇心と三分の焦りを抱えて音のする方向へ足を運ぶ。
「なぜ!? なんであなたはそんなっ・・・!」
聞き覚えのある女の声だということはわかった。と、冷静に分析している暇もなく鶏の叫ぶような断末魔はそれを下回る深い重低音によって本物へと姿を変えた。
「バァン!!」
強く耳を刺激するその音にニコラスの好奇心もまた一瞬にして恐怖心へと姿を変えた。
ニコラスは赤いレッドカーペットを強く蹴りだし、音のした方向へと一目散に走りだした。
心臓の拍がだんだんと上がっていくのが分かった。ただ走っているからというだけではないことも自分自身で分かっていた。
庭に出たときそこに立っていたのは実の兄であるダグラスの姿だった。
そしてその前に倒れている女はハイキャリバーQueenであることを確認した。
やたらと彼女の着ている服は自己主張の激しい色で、その付近の床は室内と同じレッドカーペットの色が広がっていた。
「な・・・なにを・・・?」
ニコラスがやっとの思いで口にした言葉を遮るようにダグラスは目を見開きながら。
「マズイ。おいニック。ここにいたらマズイ!早く!行くぞ・・・!」
ニコラスは兄に腕を強く掴まれてそのまま流されるように走った。
抵抗する力も出なかった。ただ兄と一緒に頭の中を無にしながら走った。
銃声を聞き、たちまち集まってきた親族や警備兵たちがニコラスたちを追ってくる。
しかし、必死に逃げた先にはもう地面というものは存在しなかった。
下は海、崖だ。
追い詰められた二人は肉食動物から逃げる小動物のように小さくなり、身動きも取れずただ震えることしかできなくなっていた。
「動くな!そこを一歩でも動いたら・・・」
そんな追手の警備兵の忠告を遮るようにニコラスはとっさに叫んだ。
「待って!待ってくれ!これは・・・これは誤解なんだっ!」
もう自分の意志で発している言葉ではなかった。今ニコラスを動かしているのは恐怖心と気力だけだった。
そんな言い訳が通じるわけがないと思ったダグラスは決死の行動を提案してきた。
「ニック。いいかよく聞け、もうここから飛び降りるしかない!お前ならわかってくれるだろ!?」
と、焦った表情で言う。
「そんなの無茶だ!降伏しよう。こんなところから落ちたら命の保証は・・・」
「黙れ!どうせここで捕まっても俺たちは殺される!賭けだよ、いつもと同じだ!」
そう言ってダグラスはニコラスの肩を掴んで、道の無い空中へと身を投げ出した。
「待て!」
聞き覚えのある最悪の音とともに警備兵の持っていた銃から何発もの弾丸が二人をめがけて襲い掛かる。
「うわああああああああああ!」
激しい痛みと恐ろしい浮遊感に襲われた二人はそのまま何もない、深い海の底へと姿を消した。
表情のなかった空は、いつのまにか激しい色をしていた。