Hotcake monster 2 都会を騒がす殺人事件と高校生の一途な哀しみについて
教室がざわめいている。職員室のテレビに映っていた速報がこんなところにまで広がったのだ。また死体だって! 死体、切断された一部、生首。ピンク色の唇から血腥い言葉が発射される。出島は逆光の中で目を細める。浅井の姿を探した。
若い舞台俳優の失踪が続いている。それが殺人事件と断定されたのは生首が登場したからで、にわかに世間は沸き立った。それまでテレビドラマの主役ばかり向けられていたスポットライトは舞台の上に向けられ、それまで名前の知られていなかった若い役者達がテレビ画面に頻繁に登場するようになった。惜しいかな、その半分は失踪、残り半分は死んでいる。
生首以外にも他の殺人を証拠づける品が次々と明らかになった。家族宅に送られた指、アクセサリー。透明のゴミ袋に詰められ捨てられた血まみれの服。いかがわしい写真も週刊誌やネットの上に出回り、果たしてどの情報が真実なのか。しかしおおよその人々はスリルと恐怖をエンターテイメントとして消費し、事件の真相はより面白く作られる。虚構のような真実。真実のレッテルを堂々と見せびらかす虚構。それらは十代後半の多感な少年少女らにも影響し、休み時間にこの話題が聞かれない教室はない。
もう一度教室を見渡した。浅井がいない。今日もスクーターで登校し、駐輪場から昇降口までをとぼとぼと歩く後ろ姿を見た。数人が軽い挨拶をしても、気のない返事しか返さない。教室では項垂れ、時々泣きそうな顔で溜息をついた。一番端から教室を見渡す出島にはその姿が見えた。席を立ち、ひっそりと教室を出た。
渡り廊下は梅雨明けの光が満ち白く発光していた。廊下の果ての図書館の入り口さえも霞んで見えた。出島は白光の中で足を止め、黒目がちな瞳を細めた。蹲る浅井の姿がくっきりと濃い影となり目に映った。白い壁を背にしゃがみ込む身体は大きく背中を丸め、石の塊のように沈黙している。浅井は心の底から舞台俳優達を偲んでいるのだ。その死に打ちのめされている。明るい色の癖毛も心なしかしんなりとしている。
舞台に行けば、会える。浅井が何度も繰り返す言葉だった。この思いは希望というより、本来裏切られるはずのない約束だった。観客席から見上げれば、そこには活き活きとした姿がある。魂を絞り尽くすような熱気で圧倒し、俺の人生を変えてくれる。
ぶつかる圧倒的な熱量。人生の転換。浅井はそれを実体験として持っていた。中学三年の修学旅行でミュージカルを観て以来――見始めるまでは渋々だったのに!――目の前に広がる世界の色が変わった。自分の行動の全てに意味が生じた。使う金一円、使う時間の一秒に重い価値がついた。自分はまだ生き物として未熟だ。自分は人間の形をしているがまだ人間ではない。本物の人間の姿を舞台の上に見た。人生を二時間に凝縮し、魂を焼き尽くす姿こそ、ならなければならない人間の姿だ。
一度では足りない。もっと観たい。ここは東京や大阪に比ぶべくもない田圃の広がる田舎だ。だから、アルバイトだった。封筒の金を握り締め深夜バスに乗って夜明けの街に到着する。まだ眠りから完全に目覚めない街を、劇場へ向かって歩く。あの充実した一歩一歩。その先に彼等がいた。
今は、もう、いない彼等。
死んだのだ。もう観ることができないのだ。魂も肉体も完全燃焼されないままモノとして廃棄された。
開かれた窓から、初夏の熱い風が中庭へ吹き抜ける。中庭には風が渦巻き、金管楽器の重低音に似た呻きが木霊した。だが憂鬱な音ではない。すっかり夏だ。梅雨の晴れ間の蒸し暑さを、すっきり熱い風が吹き飛ばす。今日から本格的に始まる夏。憂鬱な雨の降り続く春から、浅井のずっと待ちかねていた夏休みが目の前にある。昼間のニュースで浅井の中から幾つの予定が消えたのだろう。空虚な四十日。彼等はいない。もう二度とその足は舞台を踏まない。その声は響かない。
浅井が白い壁に背中を押しつけるように立ち上がった。目尻が下がり気味の瞳が伏せられ、風のただ中で海藻のように揺れている。窓に向かって大きく仰け反る。背が窓から飛び出る。
「浅井くん!」
「………うん?」
浅井の手は手摺りを掴んでいた。窓の外に飛び出した首がゆっくりと元に戻り、こちらに向けて傾げられる。
「吃驚した」
と言いながら近づくと、
「嘘だろ」
とだるそうに頬杖を突きながら開いた目が見上げる。
「いいえ、吃驚しましたよ。窓から飛び降りるのかと」
「あのなあ、この狭い窓から俺の身体が出るか? 自殺するにしても方法選ぶわ」
「自殺を考えましたか」
「考えてねえよ馬鹿じゃないの」
「馬鹿で仕合わせという言葉がありましてね」
確かに幸せかもな…、と暗い声が呟き浅井は再び座り込む。出島は隣で窓の下を覗き込んだ。乾いた石畳が白く光っている。日の照っている下でも、乾いたもの、まだ湿って黒く沈んでいるもの、石畳は一枚一枚が違い、チェス盤というよりは碁の局面のような絵になる不規則な模様を描いた。そこへ広がる赤い血溜まり。だが浅井は飛び降りたのではない。殺されたのだ。肉厚のナイフを持った人影が見える。きっと、彼が愛する俳優達も屠ったナイフが。
「死んだ人の話をしましょう」
「それな…」
浅井は両手でがしがしと髪を掻く。光の中に埃が舞う。そのふわふわした光に目を向けて、壁の影に座り込む浅井の目は急に光を取り戻す。
「舞台の話するか。俺覚えてるし、熱く語れるけどな。ンンン……。違うなーって思うんだよなー! それってワイドショーと同じじゃね? あっ、絶対アレの話とかアレな話とかしねーからな。濁るっつうか、荒む…。それこそ週刊誌とか掲示板とかと一緒だろ」
オエッ、と彼は吐く真似をした。
「掲示板、見ちゃったんですか」
「見たよ。追悼でもう何本もスレッド立ってる。最初は良かったんだけどな…」
視線が僅かに上を向く。眉間に皺が寄って、口がへの字に曲がる。
「死んだ人って言ったお前、正直ムカついたわ」
「ごめんなさい」
「謝んな。事実だからな」
「どっちですか」
「ムカつくけど謝んなよ。事実は……事実だから受けとめなきゃなんねーんだよ」
「今すぐではなくてもいいのでは?」
「今すぐじゃねえと、俺が死にそう」
「……飛び下りないでくださいね」
「飛び下りねえよ」
「心安らぐ第二の趣味を持つ、とか」
「もう持ってる」
「何ですか?」
「ハーブ育て始めたわ」
「ハーブですか。法の目をかいくぐるような?」
「違います。ミントです」
「多肉植物派だと思っていましたが」
「増えすぎて半分くらい人にやった」
「多肉仲間が?」
「…すげえ語感だな」
「多肉関係」
出島は調子に乗ったが、浅井の心はそれ以上浮上しなかった。また目を伏せて、吐き出された息が掃除前の廊下の埃を巻き上げた。ハーブのことはそれ以上聞きそびれる。手首の内側を見て、出島は声をかける。
「もうすぐチャイムですよ」
「なあ、それ腕時計してねーよな。それ、何?」
「サボりますか?」
「おい、これ」
浅井は手首の内側を指でトントンと叩いてみせるが出島はただ笑い返した。
「サボるなら共犯者になります」
「どうせできねーと思ってるだろ」
「いえいえ、私が落ち込んでいる人にできることといったらこれくらいですから」
「……友情の証として」
ぽつりと呟いた声はそれまでの浅井のものと違っていた。浅井は自分の口をレコードのように、記憶の中からそれを再生させた。出島はまったく違うものが目の前に立ち上がるのを見た。出島の見たことのない舞台、出島の知らない俳優が、いつかどこかでその言葉と共に浅井の心を掴み、今また彼の口を借りて蘇った。
一瞬だけ、出島はその俳優を幻視した。それは浅井の姿をしていたが、浅井ではないものの姿、こんな喩えをできると言うなら、きっと五年後の浅井はこんな瞳でこんな科白を吐くだろうという姿だった。一瞬は百も千にも引き延ばされた。その中で浅井は経験を積み成長を遂げ、死んだ俳優達の齢も追い越す。彼は街の入り口に夜佇む。もう夜行バスは使わない。時間が惜しいのだ。彼は飛行機で街に到着した。そしてきらびやかな表通りから幅の狭い路地に入る。劇場の裏手には若い女性達が俳優の登場を待っている。その最後尾に彼は並ぶ。俳優が写真やサインに応える一番最後、浅井は固い握手を交わす。その時、腰には肉厚のナイフがこっそり隠されている。
空砲のような風が渡り廊下を揺らした。出島の身体も揺れて窓枠に押しつけられた。
「戻るわ」
浅井が立ち上がる。
「内申下げられたくないし」
「…結構現実的ですね」
「好きな仕事できるくらいにはいい大学入りてーよ」
私はサボりますね、という言葉が喉まで出かけたのを飲み込んで、まだ猫背気味の後ろ姿を見送る。彼が廊下の角を曲がる時にチャイムが鳴り、後ろから来た教師が追い越し様に軽く浅井の後頭部を叩いた。足を速めた浅井の姿はすぐに見えなくなった。
思い出したように強く叩きつける風は熱い。ドンと鳴り響くごとに空が光るような気さえする。影のせいで涼しい旧校舎に入り、一階まで降りると図書館の壁伝いに裏側へ回った。そこには待ち合わせをしていた二年の演劇部員がいる。出島は空を見遣り、考える。浅井が授業をサボると言えば、自分は目の前の少年との約束を破ったのだろうか。あまり、考えていなかった。目の前の憂愁に引き摺られるのは性分だ。これはもう持病で治りはしない。浅井は悲しみに暮れながらも、日常を生きる彼の良識で出島を救ってくれたらしい。
「こんにちは」
かすかな緊張を漲らせた少年に向かい、出島は薄い文庫本を振った。
「今日もよろしくお願いします」
頭を下げる、その背筋から首筋まで美しい一直線。垂戸は変わった。みるみる変わる。顔の腫れが引くと、青痣もまだ残る内から稽古を始めた。バレエ教室、発声練習、何もかもを最初から。もう素体には頼らない。頼れない。垂戸の声は掠れている。変声期が始まってしまったのだ。
「さあ、今日も始めましょう」
最初から、一語一語丁寧に。掠れ声のサロメの科白は建物裏の林に吸い込まれる。熱い風が梢を鳴らす。こんな晴れ空の下では死も想像できないが、同じ空の下で今も人が死に、垂戸の読む物語は死を終点に突き進む。出島自身もいつか死ぬだろうと台本を発声する裏側の脳が考えた。哲学者の言葉を借りれば死は経験されない。しかし死の間際の瞬間、こんな光景を思い出していいはずだ。光る蒼天を見上げると、図書館二階のテラスから見下ろす人影を見つけた。
「……ねえ垂戸くん、あれは君の同志では?」
「知りませんよ」
「そうですね。待っているだけだなんて。タマがついているところを見せてこそ男です」
「…………」
「どうしました」
「…先輩はそういう言葉を使わない人だと思っていました」
「魔羅の方が上品でしたか?」
「変わらないでしょ、それ、先輩」
「魔羅は仏教用語ですよ」
一睨みするとテラスの人影が引っ込む。背後から階段を駆け下りる音と女司書の怒鳴る声がした。




