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Transferoid 3 梅雨の晴れ間の逃避行の終焉の少し前まで

 真っ白に灼かれた街の谷間に切り出された御影石の林。金泥塗りの文字が太陽の光に輝く。名前、名前、名前の林。黒い御影石の林に、いつか一つの源流へと繋がるDNAが存在した文化的証拠を残す。人間達。祖先達。計算された絶対的な直角、絶対的な平面に灼かれた街の白い灰が閃く。轟音を立ててすぐ側を電車が通り過ぎた。追い抜いていく。二人が進むよりずっと彼方へ、一途なスピードで。銀色の残像を残して。強く目蓋を閉じると残像は淡い緑となって発光する。上下に広がる新緑色の海。

 なな君、と呼ぶ声が心臓を強く掴んだ。

「大丈夫?」

 足を止めて振り返ると、アキヒロがこめかみから汗を滴らせている。

「うん」

 不安にさせたくない。出来るだけ力強く、だけど気負って見えないよう、短く返事をする。繋いだ手はとっくに汗にまみれていた。アキヒロはモスグリーンの上着を腕に引っかけてそれでも暑そうだ。それでも七舎は上着を脱がない。いつ、アキヒロが袖を掴むか。その瞬間の為に上着は必要だった。春からずっとだ。いつも、アキヒロは七舎の上着の袖を掴んだ。春という季節が育てた二人の距離。だが手を繋ぎ、自分でも想像をしなかった未来が急に来た。

 唇を唇に触れさせた。自分がそれをするとは思わなかった。キスを誰かにする日は来ないと七舎は思っていた。いつからか身体の内側に棲み着いた青白い影。どうして手を繋がないの、と尋ねる声。七舎は黙って手を洗った。キス。ビアズリーの挿絵は平気なのに。キスだと。触れ合った粘膜から体液ごとどろどろに溶かされる。それなのに今、汗まみれの手を繋いでいる。手を洗いたいとは思わない。あれからずっとだ。四月の土砂降りの日、図書館の二階で手を握り締めた時から七舎はこの体温を手放したくない。一秒だって。一瞬だって。溶ければいい。溶ければ、キスだって遠慮することはないだろう。自分の一部なのだから。

 御影石の林は終わらない。どこまでもだらだら広がっている。街中に、線路脇にこんな場所があったのか。影がない。建物の影が見えない。これら全て、今まで命を繋いでくれた尊敬すべき先人達の眠る場所。

「今、俺たちは」

 喋りながら気づく。息が切れている。唾を飲み込み、袖で額の汗を拭った。

「神聖な場所を歩いている」

 拭った拍子に左目に流れ込む汗が酷くしみた。目が開けられない。更に流れ込んだ汗か、反発する涙か、視界が滲む。

「ただのお墓だ」

 アキヒロが言う。

「ただのお墓。そこが重要だ。当たり前のように先祖は命を繋いできたと俺たちは思ってる。どうして。つがいを作って子供を産んで、それを二十年も育てることが当たり前だと? 大した事だよ。大事業と言っていい。当然という言葉で積み重ねられた石垣の上に俺たちはいる。強固な礎があってこそ、石垣の上の桜で花見も出来るんだよ。ああ、もう季節じゃないな」

 喉の奥まで乾く。声が嗄れる。口を閉じると耳元も静かになった。

 鼓膜の中央からじわじわと震え出す。振動を掴めるかのような、確かな感触。

「蝉」

 本当に蝉の声か?

 まだ梅雨の真っ最中だ。だがその響きは、両手を耳に押し当てた時に聞こえる低い振動と同じように骨の髄に馴染む。――俺はこの世に生まれ落ちた瞬間からその声を聞いていた。

「蝉だな」

 ようやく目蓋が開いた。

 墓地の終わりは寺の裏手で、もう線路との間に細い路は延びていない。土壁に沿って街中へ方向を変える。蝉は寺の敷地内で鳴いている。黒雲のように大きな屋根が、壁を越えて覆い被さる。

「なな君」

 指がほどける。アキヒロの手が離れる。そのまま支えを失った身体は、肩から土壁にぶつかる。

 七舎はアキヒロが尋常ではないほどの汗をかいていることに気づいていなかった。しかし結局は自分が先に倒れたことで、アキヒロは倒れずに済んだ。

 それでも朝からあれだけ吐いたのだ。全く力の入らない七舎の身体を引き摺って山門まで移動するのは難儀だった。アキヒロが喉を鳴らず荒い呼吸が身体の内側から響いた。その時、七舎の息は限りなく止まっていた。アキヒロの吸気で酸素を摂取し、アキヒロの呼気で二酸化炭素を吐き出していた。汗に濡れたシャツが触れ合う。身体は一つだ。

 山門の石の上に横になって、今までの自分の思考が本当に酸素を失いかけた頭が最後に振り絞った夢だと知る。アキヒロは手水鉢で濡らしたハンカチを額に載せてくれた。七舎はそれをぎゅっと握り締め、冷たい水を頭に滴らせる。

「ハンカチの柄、さっきと違う?」

「今日、三枚持ってる」

「備えあれば憂いなしだ」

 深い緑色のハンカチを目蓋の上に載せる。山門の影の下の濡れたハンカチの影の下に広がる目蓋の闇。今は何の残像も見えない。いつもは見える模様も判別できない。頭が石に沈み込む。でも足はちゃんと地上に出ている。アキヒロが足首を叩き続けている。指先が踝を叩く。コンバースの星。天地が逆さまになり、足元に果てしなく広がる星空の中心にアキヒロが鼓動を刻む。鼓動は石の奥底にも届く。言葉となってそれは届く。羊歯。霧。がお。犬。犬。心音が見える。明日。今日。シンクロ。波長は長く。友達。保健室。旅人。サボタージュ。喉が渇いた。リプトン。アイスココア。俺はただ水が欲しい。透明な水が欲しい。

「ダブリュー・ティー・エフ?」

 異質な声が天地を再び逆転させる。頭がぐらんと揺れる。倒れる。落ちる…、と思った。アキヒロの手が強く肩を掴んでいた。

 ハンカチが落ちてひやりとする目蓋を、覚悟をもって開く。白く飽和した視界に影が滲む。影が形を成すのに伴い、音が耳に蘇った。スクーターの排気音はリズムよく鼓膜を叩く。弁当屋のロゴが入ったヘルメットのカバーを持ち上げた下に、学校ではよく見かける顔。

「WTF?」

「うっぷ。すまん」

 ごめんな排ガス臭いな、とスクーターを停めアルバイトの達人が笑った。

「浅井君? どうして? こんな、ところに」

「いやいやいや、それは俺の科白ね。どうしたんだよ。熱中症?」

 飲みかけだけど死ぬよりマシだよな、と浅井はレモン味の炭酸ペットボトルを差し出した。

「ちょっと待ってろよ、配達してくっから」

 スクーターはいつも浅井が登下校に使っている、いつも駐輪場で見かけるものではない。アルバイト先の、弁当屋のスクーターなのだ。後ろのボックスからプラスチックの重箱を抱えだして、浅井は山門をくぐる。

「セミだよ。マジあっちい」

 こんにちはの挨拶と屋号を叫ぶと、賑やかな声が上がる。

「坊守さんか…?」

「ボーモリ」

「奥さんっぽい」

「ああ…。うん」

「怒られるかな」

 斜めに見上げるとアキヒロは首を横に振った。浅井は坊守と一緒に庫裏へ引っ込んで、また出てくる。手にはビニール袋。それが額にザラザラと音を立てて載る。頭の奥までツンと冷える。氷だ。

「休んでていいってさ。本堂に上がっていいってよ?」

「ここで大丈夫」

「真っ白だな。紙みたいな顔色ってこれか」

 ちょっと連絡するな、と言って浅井は離れた。携帯電話でどこかに発信している。ずるりと滑り落ちそうになるビニール袋をアキヒロが掴んで目蓋の上に載せる。

「冷たい」

「やっと笑った」

 そう言うアキヒロの声が笑っていた。

 電話を終えた浅井は二人の横に座り込み、現実世界で何が起きたかを説明する。養護教諭はアキヒロたちを早退させたと担任に説明して、信頼のおける生徒にこっそり探させた。浅井は別に頼まれた訳ではなかったが、人づて――七舎たちと同じクラスの砥用――に話を聞いてはいたという。

「俺が見つけるとは思わなかったけどな」

「結構、面倒なことに…」

「なるぞー。っていうか、なったけど、どうせ大したこっちゃねえよ」

 挨拶してから帰ってくれな、と就労中のバイトの達人はスクーターで走り去り、排気ガスの匂いが懐かしく漂った。人の住む世界の匂いだ。

 七舎と浅井が話している間、アキヒロはずっと俯いていた。浅井にはまだ人見知りするのか。

 違う。

 シャープペンシルの芯が生徒手帳の狭いメモ欄を滑る音。

「…描いてたんだ」

 アキヒロは頷き、でも、と言った。

「帰ったら描き直す」

「見せて」

「やだ」

「見せてよ」

 ねだってみた。心から、誠意だけで額に触れた時と同じく、ただ溢れ注ぐ心だけで。

 アキヒロが見せてくれた小さな紙片の中には別の天地があり抱き合う像がある。

「ガネーシャ? インドだっけ…」

「ガネーシャはヒンズー教。近い。仏様だよ。歓喜天」

「かんぎてん…」

「歓喜の歌の歓喜、かんぎ、濁る。天地の天。聖天ってきいたことある?」

「しょうでん…」

「聖徳太子のしょう、天はやっぱり濁る。でん。幾つか名前がある」

「知らなかった」

「ガネーシャは知ってた」

 その時、手指が生徒手帳の端を抓んで躊躇いもなく引きちぎった。捨てるのか? 勿体ない、と口にしたはずが言葉は霞になって消えた。アキヒロが抓んでいたはずの絵も消えていた。生徒手帳にページを破った跡はない。

「今…」

「俺、転校生だから」

 何を言っているのか、と。横顔をまじまじ見つめるとアキヒロは生徒手帳をぺらぺら捲った。駅前のスピード写真で撮った写真の残り――一枚は生徒手帳に使った。向日葵の色をしたカードは五年後の定期券。それから見たことのない絵。

 アキヒロは時々、五年後の友達の絵を見ている。ホームシックだろうかと思い、そういう時はそっと一人にする。でも絵はちらりと見た。

 あの時はモノクロの絵を見ていたはずだ。暖炉の前に座るウサギ。線が入り組み、重厚な暖炉の火のない静けさが見えた。今見ているのは苺のような夜空の絵。白い三日月の下で建物は夢の入り口を示すが如く夜空より複雑な色に塗られている。知らない絵だ。見たことがなかったのか。いや、そんなに何枚も絵を挟んでいるような厚さではないのだ。ぺらぺらの生徒手帳。

「五年後と同期してる」

 じっと眺めていた紙片は二枚あった。もう一枚は夜景の写真だったはずだ。けれど今は曇りガラスのような瞳をした少年が…それとも少女か…躊躇いと憂いの表情を見せている。

「さっき言ったやつ」

「さっき…? 言った…?」

「聞いただろ。これは心音のトレースと一緒。五年後の今の、俺の…」

 その先の言葉をアキヒロは濁した。しかし消えていった語尾の先に広がるイメージを七舎は見た。確かに七舎は聞いていたのだ。石の中に頭を沈めながら。シンクロする。波長は長く、五年の距離なら波はちょうど山と山、同期は完璧だ。

 アキヒロの親友は二人。イヌ君、元気そうだ。夜景の絵は淡い鴇色の絵に変化していた。苺の色をした空は? あれは今日じゃない。キョン君と呼んでいた。親しげに、目の前にいるように。歓喜天を描きながらアキヒロは線の一本一本にメッセージを込めた。今朝から今までの出来事。七舎を友達と呼んだ。自分たち二人を旅人と呼んだ。保健室の出来事を全て喋ったのか?

「あれは」

 拳が唇に押し当てられる。

「秘密だから」

「うん……」

 七舎には初めての出来事だったが…。その先を考えるのはよした。相手は五年後から来た。五年は長い。自分は何歳になるだろう。

 二十三歳の自分の心音は聞こえない。

 溶けた氷を門の外に捨て、濡れてくしゃくしゃになったビニールをもって庫裏へ挨拶に行く。坊守は柔和なおばさんで、まるで小学生の男子のように短い髪にバンダナを巻いていた。

「気をつけてねえ。本当に暑いから」

 お供え物か、饅頭を一つずつくれる。

 もらった饅頭を食べながら何となく中心部を目指して歩く。アキヒロが、喉渇いた、と呟く。あれは自分が言った言葉ではなかったのか。コンビニで紙パックのリプトンを買うと、アキヒロは驚いた。

「どうして分かった」

「言ってたよ」

「そうか…?」

 駅が近づく。現実が触れ得る形を持って周囲に構築されてゆく。もうすぐ帰る。旅人の旅は終わった。高校生が二人、家に帰るだけだ。すっかり帰宅ラッシュの時間だった。ホームへの階段を下りる間にアキヒロと引き離されそうになる。モスグリーンの腕を強く掴んだ。

「こっちだ」

 毅然と、言った。

 駅のホームは奇妙な場所だ。人がたくさんいるのに騒がしくはない。皆が皆、他人の顔をしながらラインに沿って律儀な整列をする。

「おやおや」

 ベンチから手を振る同じ制服。仕事をしない図書委員。

「噂に聞いた二人連れを目撃するとは」

「悪い…。出島君は二番手だ」

 すると出島は、あらあら、と笑う。

「もう帰るんですか?」

「うん」

「そうですか。勿体ない気がしますね」

 黒目がちな双眸がじっと見つめたが継がれる言葉はない。七舎は耐えきれずに目を逸らしたが、タイミングよくベルが鳴ってくれた。近づく電車に列が半歩ずつ圧縮される。だがベンチに座る図書委員は動かない。

「出島君は…」

「混んでいるので次の電車で」

「しばらく混むよ」

 微笑が二人を見送った。ドアが高い音を立てて閉じ電車がホームを離れると、微笑も置き去りにされる。過ぎてしまった季節の余韻がもうないように、満員電車の中は暑い。それでも七舎はアキヒロの手を離さない。さっきまでリプトンの紙パックを掴んでいた手のひらの濡れた冷たさが、汗と溶けて、また一つになる。

 走り出したバスや電車に乗ると、七舎はいつも、この時間が永遠に続きますようにと思う。終点などなしにどこまでも走ってくれと。ただ、今はひどく現実的に、一駅飛ばしてくれ、と思った。いつもより一駅長く一緒にいたい。しかしこの手を離さなければ、七舎は泣けないのだ。

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