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Transferoid 2 曖昧な世界から白い保健室へ、白い午後の街へ

 タンスの中の靴下も、全部同じ白なのに、時々どれを選んでいいのか分からなくなる。何が正しいのかが分からない。洗濯をした順に前から詰めたはずだ。だから一番手前のを穿くのがローテーション的にいいだろう。だけど今日は一番白い靴下が穿きたい。白い靴下を穿いていると思われたい。どれも白い靴下だ。単体で見たって見分けがつくもんか。でも一番白い靴下がいいんだ…。

 朝からタンスを目の前にアキヒロは動けなくなった。ハンカチも、どれを持っていけばいい。シャツはどれを着ればいい。上着はモスグリーン。いつもとおなじ色で隠してしまうのに。急に身体の芯からスケールが奪われて、中身が流体になった心地。船酔いみたいだ。気持ちが悪い。それなのに昨日スーパーの特売で買ったアップルパイ、ヤマザキの百円くらいのやつじゃない、パン屋で作っているワンホールの半分を胃に詰め込んで部屋を出た。学校に着いてすぐ吐いた。

 チャイムはとっくに鳴っている。一時限目が始まっている。アキヒロは男子トイレの個室で洋式便座にしがみつき、涎と涙と鼻水にまみれながらそれを聞いた。冷や汗もじっとりと全身を濡らした。手に握り締めた眼鏡に指紋がついていることを思うとまた気持ちが悪くなった。死ぬ苦しみと今の苦しみとどちらが酷いだろう。気分も最低なのは今だから、きっと死の苦しみにも耐えられると思う。だから早く迎えに来い! お前が本当に俺の生を終わらせるだけの説得力があるなら、お前は、死は救済だ! それでも来やしないのだ。意気地なしめ。ふにゃちんの根性なしめ!

 だから生きていかなきゃいけない。肉体が生きるために精神を切り刻んでベビーフードにして与えている。自分の生は脆い。

「大丈夫」

 七舎が声をかける。彼は白く塗られたベニヤのドアの前でずっと待ってくれている。一度教室に戻ると言った。だからクラスにも先生にも連絡してくれたのだ。そんなことはしなくてもいいのだ。別にこの学校を卒業できなくても、高校の卒業証書ならアキヒロはとっくにもらっている。返事をしなかった。酸っぱいにおいが立ち上る便器の洗浄レバーを強く押す。水が白い便器を洗い流す。つややかでなめらかな本来の白い曲線が見えて、そこに透明な水が溜まっていく。どうしてトイレのくせに俺より綺麗なんだ。

 ノックが聞こえた。指の関節で叩いた硬い音じゃない。指の腹で、トントントン。

「開けて」

 嫌だった。しかしアキヒロは震える指で鍵を外した。外開きのドアを開けて、光が斜めに差し込む。七舎の姿は真っ黒な影に見える。眼鏡をかけていないし涙で視界はぼやけているし、世界が全体的にモノクロだ。でも七舎はすぐにアキヒロと同じ目線にしゃがみ込んだ。モノクロの世界はモノクロのままだが、サッと明るくなった。

 腕が伸びてカランカランと軽い音を立てながらトイレットペーパーを巻き取る。それで顔を拭いてくれるのだ。少し顔を背けたけれど、トイレットペーパーの乾いた感触は口元に触った。嘔吐の痕。視線を斜め下にやるとしゃがみ込んだ七舎の足首が見える。靴下の踝のあたりに星のマーク。

「……コンバース?」

「うん?」

 七舎の視線がアキヒロの視線を追う。

「うん」

 頷きと返事。

 トイレットペーパーは濡れると顔にくっついた。七舎はどんどん新しいトイレットペーパーを巻き取ってどんどん便器に捨ててどんどん水を流す。酸っぱい匂いは口の中や鼻腔の奥に残るけど、個室の空気そのものが段々洗われていく。それでもアキヒロは立ち上がらない。

「…抱えようか?」

「汚い」

 嫌だとは言わなかったので七舎は黙ってアキヒロの身体を抱え、洗面台まで連れて行く。勢いよく水が出てくる蛇口に促されて両手のひらを差し出すと、力がなく丸まった掌にも透明な水が溜まり、指の隙間から零れる。零れる水も透明だ。

 透明な水に顔を浸した。冷たい水にじっくりと。でも水は指の隙間から零れる。だからまた手のひらにすくって顔を浸す。それを繰り返すうち、オーバーヒートしていた目蓋も鼻の穴も頬もひんやりと冷たくなる。口を濯いだ。水の匂い。無臭だけど水の匂い。

 ポケットにはハンカチが三枚入ってた。二枚を重ねて顔を拭いて、その場に踞った。いい?と七舎が尋ねた。アキヒロは答えなかったのだが、答えを待つより七舎はアキヒロの身体を抱えてトイレを出た。

 保健室のベッドは白く、アキヒロは横たわるのに気後れがする。しかし七舎は無言でそこに寝かしつけた。養護教諭は、保健室から直接グラウンドに開くドアの短い階段に腰掛けて煙草を吸っている。梅雨の晴れ間の熱い風が吹き込んでカーテンが暴れる。

「閉める?」

 また七舎が尋ねる。アキヒロはまだ答える気になれない。でもカーテンを引こうとする七舎の袖を引っ張って止めた。

「ここにいてよ」

 すると枕元の椅子に座って頭に日陰を作ってくれる。

 でも。

 嫌だ。

「嫌だ」

 嗄れた声がぽろっと零れた。掴んだままの七舎の腕を引き寄せると自分の上に覆い被さってきた。その顔が初めて困った。

 七舎は多分、アキヒロと出会って初めて困っていた。初めて手を握った時も、秘密を打ち明けた時も困らなかった顔が、少し硬くなって目が何度も瞬きをした。考えている。それが静まる。目を閉じて、七舎は自分からキスをする。唇はすぐに離れて、止めていた息が鼻から出る時ふわりとアキヒロの前髪に触った。

 七舎は身体を大きく引いた。目はまだきつく閉じたままだ。それから天井を向いて、息を吐いて、ゆっくり目蓋を開いて、アキヒロを見て、ごめん、と掠れた声で言った。

「悪くないよ」

 嗄れ声だったが、その言葉はすぐにアキヒロの喉から出てきた。当然のことのように。

「君が悪いはずないだろ」

 七舎はまだアキヒロが握り締めていた眼鏡を取り上げて、消毒液と自分のハンカチで拭った。治療用の黒革のベンチに座った後ろ姿は、眼鏡を何度も陽にかざして指紋が残っていないかを確かめた。外があまりに明るいので七舎の後ろ姿はシルエットになる。それでも七舎と分かった。背丈は同じくらい。髪は癖がない。前髪が伸びた?

 こっちを向いていないのに顔が見える。綺麗な額は髪で隠れて、それが風と、眼鏡を陽にかざす仕草で露わになる。つり目なのを細めると、目元だけで少し笑った表情に見える。それが少し横を向いた。鼻の影。

 彼はまた枕元に戻ってきた。今度は座らない。距離がある。アキヒロを見下ろしている。

「嘘とか、いい加減じゃないってことをちゃんと証明しておきたい」

「…本気ってこと」

「俺を突き動かしたのは全部誠実さだったって、嘘みたいに聞こえるかもしれないけど、信じて欲しい」

 七舎はアキヒロの顔を両手で包んで、意を決して、目を瞑り、もう一度、今度は額にキスをする。それは触れただけですぐ離れた。そして緊張で強張った指がアキヒロに眼鏡をかけさせた。

 電池切れだった。七舎は椅子を引き摺って移動させると――その時だけ養護教諭がちらっと振り向いた――ちょうど真ん中付近で座り、ベッドの、アキヒロの腰の近くにボスンと顔を埋めた。

「ごめん。初めてだった」

 それからまた少しして、ごめん、と繰り返した。彼は眠そうだった。アキヒロは梅雨の長雨で気分がじめじめしてた上に今朝の大打撃と嘔吐で相当な消耗をしていたが、同じくらいの消耗を七舎はこのたった数分でしたようだった。吐瀉物の匂いの染みた身体を運ぶのも平気だった。保健室までの階段も苦にならなかった。それなのに。

 キスは大事だ。

「キスは大事」

 アキヒロが呟くと、七舎がもぞり、と痙攣的に動く。綺麗になった手で七舎の頭を撫でながら、もう靴下がどの白でもいいと思った。自分の好きな白でいい。今日穿いた靴下の白は世界に馴染んだ。保健室の白にはほど遠いけれども、自分の選んだ靴下の白でいい。ローテーションはしばらく無視だ。

 風が強くて、日差しは眩しすぎた。でも、それは直接眼球を射貫いた訳ではない。保健室の白い壁や白いシーツに反射して薄められ柔らかくなっていた。ベッドの足元にはモスグリーンの上着がくしゃくしゃに丸まっていた。いつもの七舎なら畳んで置いてくれてたはずだ。アキヒロの手が止まる。七舎は重たそうに首を上げる。アキヒロと同じものを見る。

「慌ててて」

 また、ごめん、と言った。

 慌ててたんだ、実は。

 午前中いっぱい、二人でそこにいた。保健室は思いの外、人の出入りがあり、様々な生徒の逃げ場なのだとアキヒロは知った。あまり気にはならない。疲れていて、ほとんど眠っていたから。

「アキヒロ君」

 昼休みの中庭を横切る。七舎の袖をアキヒロは掴む。

 お互いに肝心なことは言葉にできなかった。けれども心は一緒だった。だから、昇降口で靴を履き替えて、鞄も教室に置き去りにしたまま学校を出た。ずっと黙って歩き続け、学校が見えなくなり、最初の横断歩道で止まった時、急に七舎は振り返ってアキヒロの肩を掴んだ。大きな溜息。泣き出しそうな顔がぐっと我慢する。

「震えそうだ」

「怖い?」

「全然怖くないことが心配なんだ」

 二人は歩く。線路沿いに、いつもと逆の方向に。暑い日差しと陽炎が立ち上るアスファルト。頭が煮え出す。また悪夢の中を歩いているのと似た気持ちになる。そのたびにアキヒロは七舎の手を握り締めて、七舎も強く握り返した。

「こっちだ」

 七舎が言った。毅然として。

「こっちに歩いていい」

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