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Salome 2 図書館裏の静かな林でサナギの中身は溶けている

 彼方からだんだん接近する咆哮に耳を傾ける。木々に囲まれて目蓋を閉じれば裏側は滑らかな淡い闇となり、その中央に微かな光点が見える。光点もまた闇の一部である。青と灰色に燃える闇だ。緑の葉に火をつければこんな炎を上げて燃え続けるのではないかという闇だ。

 咆哮が近づく。光点は爆発し目蓋を舐め尽くす炎となって垂戸の頭に襲いかかった。ゴォンと突き抜ける強烈な震動。垂戸の頭はばっくり丸呑みにされた。

 光に包まれる。これが死かと思う。しかし光に包まれたと思った眼球の周囲には炎に焼き尽くされた後の闇が広がっていることが分かる。また闇の中。そして再び中央には光点が生まれる。青と灰色に燃える炎がじわじわと滲む。

 垂戸は目蓋を開いた。鼻に香る濃密な緑の匂いと視界がリンクした。図書館裏の林の中だ。曇天の下では葉の緑も重々しく、実際より鬱蒼と見える。敷地の脇を走る幹線道路から時々トラックの唸りが聞こえた。彼等が寄越すのはその声だけだ。咆哮は木々の間を縫って襲いかかるが、校舎までは届かない。

 またゴォンという音と共に震動が抜けた。垂戸はこめかみから後頭部まで掌を滑らせた。獣の噛みついた最後の牙の痕を探した。無論、夢想に過ぎない。

 天気予報は一日雨だったが、まだもっている。しかし雨雲の腹は重く、梢は今にも灰色の表皮を突き破りそうだ。蒸し暑かった。襟元に汗が浮いていた。耳の側で不愉快な羽音が回転する。この場所は既に虫たちの王国だ。口を開いても目蓋を開いても隙あらば飛び込んでくる。露わになった半袖の腕はもう幾つか赤い斑点があった。我慢だ、と思いながら無意識に引っ掻いていた。

 もう止そう、という呟きが何度目かの諦念を誘う。だが立ち去れない。もう少し待てば、という期待感を垂戸は捨てられなかった。次にトラックが通った時だ。それに合わせて大声を出してみよう。口を大きく開けて、なりふり構うものか、がなり立ててやればいい。それではっきりする。馬鹿野郎と言ってやる。

 しかしトラックよりも早く訪れたのは雨だった。屋根のように頭上を覆う緑の間を縫って、最初の一粒は頬に届いた。垂戸は喉から腹の奥に呻きを収めた。次に大きく吐き出した息は今度こそ諦念の溜息だった。足元の鞄に本とノートを詰め込み、立ち去る決意に肉体を従わせた。

 林という言葉から想像されるほど広くはないが、奥まで行けば密集した木々に遮られ図書館は見えなくなる。冬になると葉は全て落ちて、その向こうに白い建物がだまし絵のように現れる。多く植わった白樺のせいだ。林の終わりで図書館の明かりを目にすると、ホッとする反面、戻ってきたのが惜しいと後ろ髪を引かれる心地になった。テラスの窓から本を読む上級生の姿が見えた。机に覆い被さるように、本を抱くように、何を読んでいるんだろう。あれはきっと善良な人だ…、急にそんな思いが胸を掠めた。

 壁沿いにぐるりと周り、図書館の玄関から来客用のスリッパを履いて上がる。カウンターには三年の図書委員が頬杖をついていた。委員の仕事をしている様子でもないが、女司書から怒られてもいない。女司書は書庫の扉を開けた前で、手にした目録と奥から出してきたらしい本を見比べていた。垂戸はカウンターの内側に入り込み、図書委員の脇にしゃがみ込んだ。

「手伝わなくてもいいんですか」

「この穏やかな時間が一生の宝だと今私が気づいているのは、五十年後の私が教えてくれたからではないかと思えるんですねえ」

「未来との交信ですか、先輩」

「自分に都合のいい空想をしただけですよ。…君、練習は?」

「雨が」

「ああ…降り出しましたか。音もなく」

 図書委員は首を傾け窓を見た。

「憂鬱そうですね」

「物憂さに耽溺しているだけです」

 そこで、ふふ、と笑うので意外に機嫌は悪くないのだと分かった。

「秘密にしておきたいのですが、どうしても誰かに話してしまいたいので、預かってもらえますか?」

「鍵もくれるんだったら」

「あの二人」

 図書委員は垂戸に向かって身体を屈めながら斜めに視線を流した。本を抱くようにして読む姿は林から見えた。善良な心…、またその言葉が浮かんだ。隣にはもう一人座っている。肩が触れている。

「二人きりの時…、時々…、お互いを呼ぶ時にね…、バリエーションが増えたんですよ。アッキーと呼ぶのが聞こえました」

 邪魔をされず、会話が弾んで、心配することがない時、心が弾んだ拍子に聞こえるんですよ、と図書委員は囁いた。

「他人の幸福であるのに、どうしてこんなに愛らしいのか」

「…覗き見た秘密じゃないですか」

「だから誰かに教えたくなる秘密なんです」

 カウンターに隠れるように二人を見た。善良さとは壊れやすさだ、という言葉が脳内で自動的にタイプされる。肩は互いを支えている。

 さあ君は何も聞かなかった、と図書委員は垂戸の両耳を手で塞ぎ唇の動きだけで何かを囁いた。聞こえなかったし、読み取れなかった。が、元から意味などないものなのかもしれない。足止めして悪かったね、とカウンターに伏せていた本に図書委員の顔が隠れ、垂戸は立ち上がる。

 女司書の足元には本を運ぶための大きなプラスチックのボックスが二、三あり、それが目の前まで行くのを邪魔していた。小声ではない声を出すのは気後れするが、一息吸って口にした。

「先生、手伝います」

 女司書は顔を上げ待っていたと言わんばかりだが、すぐ垂戸の爪が掻いているものに目を留めた。

「今日も咬まれたな」

 一箱は書庫から再び戻すもの、他の箱は閉架となる図書だった。垂戸は女司書から手渡されたリストに添って本を分類順に並べ直した。女司書はほとんどそれを終わらせていた。後は書庫に収めるだけだ。

 明かり取りか、それとも排煙口用の窓なのか、天井近くに細長い窓が四つ並んでいる。重たい灰色の長方形が四つ。女司書がスイッチを入れるとぬくもりのない青白い光が降ってきた。移動書架の円いハンドルを回し、音もなく横に滑らせる。その隙間から覗く本の背表紙の圧倒的な質量。女司書はその隙間に入り込んで、垂戸が手渡す本を一冊一冊己の定めた場所に収める。それまでも本がぎっちり詰まって見えたのに、女司書の手にかかると次元の隙間でもあるかのように新しい閉架図書は居場所を得る。これからはこの場所で誰かが欲してくれるのを待つ。いつか誰かが読みたいと、その名を呼んでくれる時まで。

「先生」

 と呼んだ声がひどく濁っていた。垂戸は唇を噛んだ。女司書は振り向き、その様子をじっと見つめた。

 声変わりが始まって一ヶ月。自分の声に慣れない。声を出すたび、自分の中から何かが失われ違うものに浸食されるようなあるいは既に取り替えられたのではないかという、刺すような不安。

「…座れ」

 書架の隙間から女司書が出てきて、押されるように後ずさる。女司書の視線を追うと小さな脚立があった。垂戸はそこに腰掛けた。女司書は書架の側面にもたれかかり、一度入り口に目を遣った。書庫の入り口からはあまり人の座っていない閲覧席が見えた。

「サロメはどうだ」

 どんな答えが期待されているのだろう。やはり難しい、とか、一人では無理だ、とか。あるいは、難しいですが一人でも頑張ります、といった前向きな姿勢だろうか。しかし女司書はそれ以上促さなかった。沈黙の中で垂戸は己の心を探した。

「どうしてサロメなのか…」

 わだかまった感情の端緒を探りながら、声を抑えて口にする。

「何故サロメをやらなければならないのかを考えています」

「やらなければならない、か」

「何故サロメなのかと先生に尋ねられた時、ボクが答えたのはボクの正直な気持ちで、あれが中心でした。あれが全てでした。サロメをやるのは…絶対だったんです。まずサロメをやるという原点があって、自分の成長のこととか、今しかできないことがあるっていう考えがあって…。あれが本音なんです。でも…」

 声が、とまさしくその声を詰まらせた。

「出なくなって、どうしてサロメなのか…、サロメに固執する理由をボクはずっと考えていて…違う…すみません、先生」

 息が切れ、大きく呼吸した。埃と一緒に古本の甘い香りを吸い込む。咳が出た。低く落ちた声が、ここがオレの指定席だと声帯に居座っているような心地の悪さ。違う、今はサロメの話だ。そうだ。サロメ。

 垂戸は顔を上げた。

「サロメのことを考えているんです」

「…ユダヤの王女」

「エロディアスの娘」

 頭の奥で、青白い光が音を立てて灯った。

 王女サロメは預言者ヨカナーンに恋をする。しかしヨカナーンは不吉と死の影をサロメに見出し、彼女を拒絶する。拒絶されて尚、ヨカナーンを指さし口づけすると言い放ったサロメ。最後はヨカナーンの生首を手に入れたサロメ。

「主人公のサロメ…。ボクも最初はサロメの科白に夢中になったんです。銀の大皿からヨカナーンの首を取り上げて…、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。これが言いたくて、これの為に他の全部があって、でも」

 声が出なくなり、ただただ同じ一冊の本を繰り返し読み続けて、

「他の台詞、よく読んでみるとひどいんですよ。みんなバラバラのことを喋ってるし、王は義理の娘を明らかに性的な目で見ている、母親のはずの王妃も好きになれない、ヨカナーンは預言者っぽい科白ですけど他の人間を否定してばっかりだ。でもサロメの台詞も落ち着いて読んでみたらひどいんです。ヨカナーンのことを褒めて、ヨカナーンに罵られたら、掌を返す。たった今褒めたところをぼろくそに貶すんです。読んでる内に全部気持ち悪くなって…」

「気持ちが悪いのか」

「ボクの知ってる嫌な人間ばっかり登場してるみたいで」

 わだかまっていた感情は解けはしたが、溢れ出たものに垂戸の喉は再びつかえた。こんなことを言うつもりだったのだろうか。蝮の這った泥の壁、泥や埃にまみれた黒い蛇…。サロメの台詞が蘇る。

「嫌になったか?」

 女司書が尋ねた。

 林の中で目を閉じて生まれる茫漠とした闇。断続的に襲い来る咆哮。その中で声を上げずじっと佇んでいた。林は虫の気配に満ちていた。蚊が腕に噛みついた。足の裏を這うもののザラザラした振動を感じた。サロメ。その中に朗々と響く台詞を思い描いた。お前の口に口づけしたよ。

 美しい。この台詞を朗々と口にする瞬間は何度想像しても美しかった。

「先生」

 垂戸は握り締めた拳を我知らず胸に押しつけた。

「サロメが、今でも演じられて愛されているのはどうしてか…。美しいからだと思います。ボクもその美しさに惹かれたんです。でもそれは外見じゃない。王が向けた好色な視線じゃない。美しさは彼女が口づけを求めたところにあります。最後まで自分を拒絶した男の口づけを求めて、その為にヨカナーンの首を斬らせるのが…美しいんです。どれだけ拒絶されても、口づけしたらそれが真実になるんです。口づけは絶対的な真実です。口づけでサロメの恋は成就した。すごく官能的です。サロメは美しい。そして官能的です。それが忘れられないんです。サロメが口づけしたよという台詞を吐く瞬間の為に、全ての言葉は舞台を研ぎ続けるんです。汚らわしい視線も汚い欲望も傷つける言葉も、全てがあの台詞を吐くサロメを輝かせます。先生、ボクは思うんです。絶対に誰も傷つけない芸術は存在しない。ボクはサロメを演じることで観客を傷つけたい」

 ふ、と女司書の唇の端が持ち上がった。

「過激だな」

「言葉が攻撃的すぎました、すみません。でも本音です。ボクの演じるサロメで観客の全員がその官能に取り憑かれて眠れなくなればいいのに…! 先生、ボクの言いたいことが…」

 分かるはずがない。

 頭の後ろで細い声が囁いた。かつての自分の声が。

 自分でも何を言っているのか分かっているのか?

 分かってる。ボクはサロメを演りたいんだ!

 女司書の目はじっと垂戸を見据えていた。垂戸が語る間中、視線が垂戸の目に注がれていた。女司書は訴え続ける垂戸の目を見つめ、じっと耳を傾けていた。

 ああ、部長の野郎、あいつがこんな風に、最後までボクの話を聞いていてくれたら…! だがこの言葉も、今ようやく垂戸の中で成就したばかりなのだ。

 声帯に糸くずでも詰まったように喉がくすぐったくなり、咳が出た。連発した。

「まずは発声だな」

 書架から離れ、女司書が言った。

 再び本を詰め直す作業が始まった。書庫から出ると見える光景はほとんど変わっていなかった。閲覧席にいるのは三年生。本を抱くようにして呼んでいるのが秘密の名前で呼ばれる方。隣の生徒はノートを開いているがペンが進んでいない。カウンターでは相変わらず図書委員が頬杖をついている。雨だけが強くなった。

 時計が五時五十分を指し、閉館を知らせるオルゴールが流れる。閲覧席の二人は立ち上がり、肩を並べて出て行った。片方が相手の袖を掴んでいる。他にも書架に隠れていた人影がぞろぞろと出て行き、急に館内の温度が下がった。図書委員は立ち上がると階段を上り、上階から鍵をかけ始めた。

 一階はしんと静かになった。それまでも静かだったが、それでも人の気配が音にならない音となって満ちていたのだ。今は冷たくしんとしている。

「先生」

 鞄を拾いカウンターの外に出て、これから口に出すことが恥ずかしくて堪らなかったが、しかし女司書の冷たい眼差しに洗われると唇の震えも消えた。

「相手に否定されても、恋をし続けることが本当にあると思いますか」

 その問いに女司書は笑わなかった。

「あった」

 その言葉にヒヤリとした。

「先人が繰り返してきた悲劇だ。誰にも笑われるものではない」

「悲劇…」

 サロメの舞台は死で終わる。恋の成就したサロメは王の命令で殺される。兵士たちの盾に押し潰されて、美しい王女は死ぬ。

 悲劇。

 悲劇によって完結する恋。

「先生」

 階段から声が降る。

「上の施錠は終わりました」

 図書委員は聞いていたのだろうか。女司書は、出島、と図書委員の名前を呼びかけて口を噤んだ。それは躊躇だった。何を躊躇したのか。女司書はもう垂戸を見なかった。

 最後のスイッチを下ろすと書架の並ぶ空間は影に落ちる。沈黙、盲目、そんな言葉が垂戸の頭をよぎる。女司書は準備室から手を振って図書委員と垂戸を追い払った。仕事の邪魔をするなと言う訳だ。

「本格的に降り出しましたね。あの二人は傘を持っていなかったが、大丈夫かな」

 図書委員は空を見上げて、しかし口ほど心配そうでもなくまた、ふふ、と笑った。

「今日は秘密を持っておける日ではないから君にも正直に申し上げる。少し聞いたけど、サロメ、難航しているのか」

「協力者がいません」

「ふん」

 そういう話だったかな、と黒目がちな眸が瞬いたが執着はしない。

「退部した噂は聞かないけど」

「籍は置いてますけど、部室には行きません。講堂にも」

「演劇部の奴ら、もう講堂で練習を始めているのか。君が本気にさせたね」

 パンチが効いたのだな、と図書委員は拳で空中をノックした。

 雨の中、揺れる傘だけ鮮やかだ。自転車通学は学校指定のレインコートを羽織って校門から飛び出してゆく。昇降口を出た垂戸は足元を見つめながら、悲劇、と繰り返した。

 あの雨の日、拳に滲んだ血は自分のものだった。関節の骨のとがった部分が擦り剥けて。でもあの時の血、シャツについた血の幾ばくかに相手の血がついていただろうか。

 否定をされても、どうしても叶えたかったこと。

 歩道は雨音とおしゃべりに満ちる。だが自分に掛けられる声はない。あの日、一緒に蹶起するはずだった六人とは顔も合わせていない。垂戸は孤立している。自由なのだ、構わない、と思っていた。しかし代償は大きい。時々大声で叫び出したくなる。

 背後から轟音が近づいた。反射的に振り向いた。立ち向かいたくなった。強襲。一瞬の恐怖は、しかし襲い来る咆哮に触れた途端、反発する凶暴さに変わる。蛮勇が全身に漲り、垂戸は歯を剥き出しにして拳を振り上げる。

 相手を打ちのめす?

 屈服させる?

 支配する?

 絶対的な成就!

 クラクションが弾けた。垂戸は歩道の内側に寄った。トラックが泥水を跳ね上げ、咆哮を上げながら走り去っていった。

 呆然とそれを見送った。蛮勇は傘をすり抜ける雨音に全身から洗い流された。ぼんやりと足元を見た。ズボンに泥水が跳ねている。

 垂戸はぐっと奥歯を噛み締め、足を大きく蹴り上げた。背後から気まずそうにそれを眺めているクラスメート数人には、まだ気づいていない。

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