Salome 1 書庫は秘密を持っている、ガラスのコップがそれを共有する
雨が上がった。もう一ヶ月も降り続いたように思えた。実際に降り続いたのは五日間でその前日はピカピカの太陽が校舎を照らしていたのだが、一秒を濃密に生きる学生達にとって五日前の太陽など彼方に過ぎ去った出来事だった。五日の間に様々な出来事があった。例えば、それまで短い会話しか交わさなかった者同士が帰り道を同じくし、仕事と人生について語る者もいれば、何も語らずただ手を握り合う者達もあった。だが何より大きな事件は中庭の乱闘を置いてなかった。
乱闘と呼ぶには人数が少なすぎる。二人だ。だが喧嘩という言葉では誰も肯かず、決闘という言葉が似合うほど高潔でもなかった。ギャラリーとなった生徒達は、口に出すことはなかったが背徳感を持ってこう思っていた。自分もまた中庭の乱闘の参加者だったと。それが故に日が暮れても教室に詰められ説教、それ以上の重苦しい沈黙に耐えなければならなかったとしても。あの殴り合いは炎だった。爆発だった。その衝撃のあまり、誰もが一週間も前の太陽など忘れてしまった。
再びの日差しは慈雨を得て生き生きと伸びる若葉を輝かしく照らし、急に気温が上がる。寒暖差に風邪を引く者がちらほらあった。インフルエンザが終息していないと購買前やトイレの前を重点的に保健委員からポスターが貼られた。図書館はそれを入り口に貼ったが、当のポスターを目の前にして野良猫を撫で回した手が平気で入ってくる。
出島はカウンターの中でくしゃみをした。鼻がまた猫の気配を感じ取ったのだ。彼の鼻はアレルギー気味で猫にも花粉にも、書架に積んだ埃にもくしゃみをする。図書委員としてそれは致命的だが、どれも撫でることをやめない。花が飾られれば一番にそれに触れる。猫を撫でるのは日課である。そして本は人生の一部。
椅子の背を傾けると、ガラスに貼られたポスターの隙間から佇む人影が見えた。細い足。細い腕。両開きのドアの前に佇んだまま、動かない。出島は立ち上がり、相手の姿を認める。ドアを引いてやる。わずかに軋る音。
「…おやおや、まあまあ」
笑みに乗ってソフトな声が漏れた。
「英雄の凱旋だね。ようやく出所できましたか」
「誰も牢屋には入っていません」
「家族という監獄で息詰まる思いをしたんじゃないかい」
すると目の前の少年は俯いた。首も細い。まだどこもかしこも細い、入学したての一年かとも思われるが、たった一つ下なだけだ。
「先生、いらっしゃいますか」
声もまた、細い。瞳は張り詰めている。だが片目だけだった。左目が開くのをたんこぶが邪魔していた。まず顔全体が腫れていた。所々が赤黒く、また暗い紫色に沈んでいた。だが殴打の痕跡を痛々しく残しても尚、繊細さが垣間見られた。視線に。緊張した眼差しに。それから、震えるのを耐える唇。
出島が道を空けると少年は一歩、踏み込んだが、ドアを閉めて完全に中に入ろうとはしない。出島は図書準備室に顔を突っ込み、垂戸くんのご帰還です、と言った。
女司書はスリッパの乾いた足音を立てて垂戸少年の前に立つ。少年はピシリと音を立てるように背筋を伸ばし、それを直角に折り曲げた。
「先日は止めてくださって、ありがとうございました」
出島はその言葉に奇妙な心地がした。女司書は何も言わなかった。垂戸は顔を上げ、先生、と言った。
「入れ」
準備室に爪先を向ける女司書に垂戸はもう一度、先生、と呼びかけた。
「先生にだけ聞いてほしいんです」
その言葉に女司書が怒るのではないかと出島は思った。しかし女司書の表情は変わらなかった。無表情。あらゆる感情も言葉も肌の下に隠した静かな表情。
準備室の壁にかかった鍵を取り、女司書は垂戸を伴ってカウンターの最奥にある巨大な鉄の扉を開けた。その向こうが書庫だった。
古い紙の匂いは本の眠りの匂いだ。それが束の間の覚醒に光の世界へ視線を送る。扉が閉じても残る古書の香りは図書委員をうっとりさせたが、ここで彼が馬鹿正直に扉を護る番兵でなかったことは、物静かで数少ない目撃者達にも意外だったことである。出島は準備室に忍び入り、コップを片手に戻ってきた。そしてスリッパを脱ぎ、足音を立てぬように扉の前に立って、コップと耳を押し当てたのである。
「出島君、それ意味あるの?」
今日も図書委員ではないのに図書委員より仕事をしている七舎が言う。隣では転校生のアキヒロが彼の袖を引っ張って、あれ何してるの、と小声で尋ねる。仕事をしない図書委員は人差し指を唇に当てて微笑した。
「意外と聞こえるものです」
以下、図書委員の再現によると事件のあらましはこうである。
そも中庭の乱闘はほぼ全校生徒に加えて教職員も目撃者でありながら、周囲の一番知りたい真相が隠されていた。それは教師らが故意に隠蔽したものではなかった。死闘を演じた二人も、二人の所属する演劇部の部員達も頑として口を割らなかった。それでも完全な黙秘とはいかなかった。黙秘で事を済ますには身体中の青痣や出血の量は多すぎた。外れた顎を嵌め直し、レントゲンを撮り、どちらも入院せずに済んだことは僥倖とこそ言え。
意見の決裂。
示し合わせたのかもしれない。当人ら、演劇部室内の目撃者、誰に訊ねても似たような言葉しか出て来なかった。新入部員が入ったことで、文化祭に行われる定期公演について話し合われた。最初はお菓子さえ出される和やかな会議だった。しかし二年と三年の意見が対立し、殴り合いに発展した。
真相報道に飢えた生徒らが得た情報はその程度で、実際のところ教師達の得た証言と何ら変わるところはなかった。脅そうが、なだめすかそうが、それ以上の新しい事実は引き出されなかった。どちらが最初に殴ったのか、ということさえ。
「部長です」
非難する調子でなく、憎悪を滾らせるでなく、淡々と事実を述べる声が聞こえたと図書委員は言った。
「でも誰もそうは言わなかったでしょう。部を潰すわけにはいかないから」
だが挑戦を仕掛けたのは二年生だった。本来は団結して訴える予定だった。しかし垂戸一人の反旗となった。
元からそのつもりだったと垂戸は言った。
「ボクはサロメを、一人芝居のサロメをやりたいと言いました」
最初は部長も苦笑いしただけだった。垂戸が本気であり、引き下がらないので段々顔を赤黒く染めた。
「生意気を言ったな」
女司書。
「はい」
潔い返事。
「そうじゃなきゃ本気だって伝わらない」
「だが、効果的なやり方じゃあなかったな」
「結果的にそうなりましたが悔いはありません」
「まだ興奮が残っているんだろう。冷静になれ」
「冷静になんかなれません。ボクは今しかできないことを、今、やり遂げたいんです。その為に全力を尽くすのがいけませんか」
「何故、サロメだ。あれは高校演劇でやるは難易度が高いぞ。まして一人芝居に仕立て上げるのか」
「ボクは声変わりがまだだ。身体も細い。ボクは今の自分が自覚できています。今のボクの声は人生で一番綺麗なんです。部内でも一番です。女子にだって負けません。この声とこの肉体なら、今なら出来ます。今しか出来ないんです。いつか、もうすぐボクの声も低くなる、体つきだって変わる。すね毛だって…」
コップに耳を押し当てた図書委員があわや吹き出しそうになったワンシーンは、おそらくこのくだりだったのだろう。だが垂戸の訴えは真剣だった。彼は最初からひたすら真剣に訴え続けた。
「演技力の未熟さも素体がカバーしてくれます。一生で一度、本当に今だけだと思った。だって先生も毎年観ているでしょう。文化祭の舞台。思春期の自意識が膨張したみたいな、その年の三年生好みの創作台本でやったって…」
「そこで、殴られたな」
「はい」
「正直さは残酷だな。人は本当のことを言われると怒るぞ。己のこととして肝に銘じておけ」
「はい」
そこで女司書は溜息をついたようだった。
出島はコップを元の場所に戻し、再びカウンターの定位置についた。そして何事もなかったように読みさしの本を読み始めてしまったので、好奇心を持ち合わせていない訳ではない七舎とアキヒロは近づいてひそひそと尋ねたのだ。
「みだりがわしい展開は望めないようでしたよ」
「何を期待してるんだ…」
「女教師と生徒と書庫なんて定石じゃないですか」
「何の」
転校生はぼそりと、エロ、と呟いた。
「アキヒロ君、えっちな言葉使っちゃダメ」
注意されるとアキヒロはニヤッと笑う。しかし不意に斜め横を見下ろして、サロメ、と呟いた。
「個人的な感情だけでものを言えば、演らせてあげたいです」
出島は立ち上がり、岩波文庫の並ぶ棚に向かった。
「借りていきますか?」
アキヒロは手を出さず、じっと表紙を見つめる。そこには小さな文字であらすじが書かれている。
「真面目に読んだことないけど、ビアズリーの挿絵は好きだな」
アキヒロの代わりに文庫を手に取ったのはずっと袖を掴まれている七舎で、ぱらぱらと後ろからページを捲った。ヨカナーンの首に接吻せんとするサロメの絵。
「借りる」
アキヒロが言った。
垂戸も女司書も一時間は出て来なかった。図書委員はその全てを聞く必要はあらずということか、それとも能わずか、盗み聞きを止めてからはのんきに本を読んでいる。貸出や返却の業務をしているのは何故か七舎で、アキヒロはそばの閲覧テーブルに覆い被さるようにビアズリーの挿絵を見つめ、時々、図書委員でもないのに図書委員の仕事をしている彼の友達を眺めた。
垂戸少年が綺麗なお辞儀をして去っていくのを見送り、出島はくしゃみをする。
「猫?」
ゆっくりと閉じる扉を見遣り、七舎が尋ねる。
出島は扉を見つめたまま鼻の下に指をあて、ふふ、と笑った。
「えっちなことを考えている時ってくしゃみが出ませんか?」
七舎は答えなかった。
閲覧席から大きなくしゃみが聞こえた。アキヒロだった。




