Hotcake monster 1 優等生とバイトの達人とホットケーキ
薄暗い。雨の匂い。地学教室の窓は校舎脇に植えられた椿木の蔭になり、どの教室よりも暗い。後部のロッカーに陳列された化石の沈んだ色。廊下沿いの壁に掲示された、地震後のひび割れた道路や断層の航空写真。古代から現代まで、沈黙してしまった記憶の重たい静けさの中に雨音と雨の匂いは滑り込む。砥用はページの隙間に横たわるようにテーブルに俯せている。耳まで覆う長い髪が顔を半分隠している。
「ドーモ、ドーモー?」
教卓側の戸が横開きに開いた。ぬっと突き出された首は大仰に左右を見渡す。砥用はその様子を気配から感じ取って、喉の奥で笑った。
「あれ、モチ君寝とるん?」
「どうも」
顔を上げてやると、相手はニカッと笑った。濃いキリリとした眉の下で目尻が優しく垂れる。
「ドーモ」
「どうもどうも」
「いや先日はドーモ」
「こちらこそどうもどうも」
「もう何がドーモなんだか分かんねえな」
自分から始めたくせに肩を落とす。お邪魔します、と地学教室に踏み込むのは上背のある身体だ。学校指定のシャツの肩と背中が窮屈そうに張っている。そこへ重そうなスポーツバックをずっしりと引っ掛けた、しかし見た目とは反対に彼の周囲には甘い香りが漂っている。
隣の席にスポーツバッグと尻を下ろされ、砥用は肘枕で尻より上を見上げた。
浅井一眞は砥用にとって一番ウマの合う友人だった。親友と言っていい。ただし一度も同じクラスになったことはない。部活動も違う。浅井はクラブに所属していないのだ。放課後のチャイムが鳴るとすぐスクーターに跨ってアルバイトに出る。思い返せば一年の一学期から既にそうだったので、顔を合わせる機会が多かったとは思えない。いつの間に言葉を交わすようになったのか、既に砥用は思い出せないが気にはしていなかった。ウマが合うことに理由を求めても詮無いことだ。ましてそれを共有する時間の長さによって測ろうとするのも馬鹿馬鹿しい。砥用は目の前に浅井がいれば楽しい。そして腹が満たせる。
「今日、雨だな」
砥用は視線を背後に流す。
「んだなぁ」
「今日もバイト行くの」
「どうしよっかなぁ」
理科教室特有の広い机の上にガバッとスポーツバッグの中身を広げ、中身を取り出す浅井の横顔はやや憂い。しかし漂う匂いは甘ったるく脳に優しい。取り出されたのはタッパーだった。数は一つ二つではない。
「多すぎる」
と笑うと、
「これ昼飯食った後だわ。ごめんな、食いしん坊の胃袋を満たせなくてな」
と悲しそうな顔でのってくる。
本命は一番大きなタッパー。丸い。これがほしくて姉にタッパーウェアに入会してもらったという(「いいんだよ、どうせ他にもマルチやってんだから」との言)。中身を覗くため、砥用もとうとう身体を起こした。見る前から分かっている。だけど、蓋を開けた瞬間が見たい。ホットケーキの丸い表面。こんがりとなめらかで、今日の力作が成功したことが十分伝わってくる。
「すっかりマスター級だね」
砥用は目を伏せて溢れる香りを吸い込んだ。
「俺はホットケーキに魅入られたただの男子高校生ですよ」
「じゃ、いただこうか」
「俺を?」
「ホットケーキ」
「いただきましょーか」
こっちに座って、と砥用は隣の椅子を叩いた。
「でないと君のお尻も食べちゃうからね」
等分された断面にしっとりと蜂蜜を染みこませた自信作を頬張りつつ、浅井の視線は白いスクリーンの下ろされた教室の正面をちらっと見た
「映画研究会、やってるのか」
「まあね」
「部員一人でよくやるぜ」
「先生たっての望みだし、放課後この教室は自由に使えるし?」
「映画観てねーじゃん」
「今日こそ観るよ」
「何」
「クレしん」
「ヤバいだろ」
「過激じゃないよ」
「アニメだからだよ。いやクレしんはかなり過激だろ」
「泣けるよ?」
「いや、先生に見つかったらヤバいだろ」
「先生が俺に部員になってくれって頼んだんだよ」
「でも違うだろ、先生が観たかったのは…何? サウンド・オブ・ミュージックとかそういう名作だろ」
「浅井くんの中ではサウンド・オブ・ミュージック、名作なんだ」
「ああ? やるか? 戦争しちゃうか?」
「ううん、俺も好きだよ」
「じゃあ何で観ねーのよ。サウンド・オブ・ミュージックなら俺バイトサボって付き合うのに」
「俺は今しかできないことがあるって知ってる。君もそうだろ」
「格好いいな、おい。でもクレしんはいつでも見れるから」
「君だって知ってるだろ、今しか流せない涙があること…」
「やめて、もち君。やたら格好よくなるのやめて。抱かれたくなる」
「いつでも歓迎するのにさ」
お互いのセクシャリティに踏み込んでいるような冗談で誤魔化たような会話は地学教室には降り積もらず、ホットケーキを食べる為におしゃべりをやめると最初から静寂しかなかったかのように雨音が全ての音を、己自身の降る音さえもかき消す。浅井がわざと大口を開けて噛みついた。ホットケーキを含んで丸々膨らんだ頬を見上げ、砥用も一口一口味わう。
午後の授業で失った糖分と精神的充足のためガツガツ食べられたホットケーキはあっという間に跡形もない。
「今日、休みなの?」
教室の端に並んだ水道で砥用は空っぽのタッパーを洗う。浅井は机の上にごろんと横になった。もう注意しても聞かないだろう。目はぼんやりと天井を眺めていた。満腹で喋りたくない様子だった。
「休みじゃあ…ねーかなー」
「じゃあ行かなきゃ」
「行かなきゃだよなー」
「行きたくないんだ」
「いや、行く」
俺は行くぞ! と声を上げて起き上がる。
「今日みたいに雨降るとさぁ、配達に回されるんだよなぁ」
浅井君が去年から継続しているのは弁当屋のバイトだった。他にも土日に単発のバイトを入れている。学内の大多数が時々大型スーパーの食品コーナーやキャンペーンで立っている浅井と顔を合わせる時があった。砥用も何度か魚肉ソーセージを買わされた。
「別に働くのが好きって訳じゃあねーんだよ」
雨と同じ暗い調子の声に振り向く。浅井は砥用を見ていなかった。理科教室特有の広い机に胡坐をかいて、ロッカーに並ぶアンモナイトの化石よりも遠い場所を見ていた。砥用はタッパーの水気を切りながら「嫌いなの?」と尋ねる。
「嫌いとも言い切れねえよ。嫌いなことに時間費やしたくねーじゃん」
「じゃあ、どうして働くの?」
低い声で呻く。考えているのだ。それでもこの天気だ。しと降る雨。雨の中スクーターで走り回らなければならない数時間を思うと、動きたくない様子だ。元気になりたい、と項垂れている。
「お金溜めて、舞台を見に行くんでしょ?」
項垂れた背中がぷるぷると震え、うう……、という呻き声の後、そうです、という言葉が絞り出された。
「俺、ほんとーに舞台が見たくってさあ、役者さんの息づかいを生で感じたくってさあ…!」
「元気になった?」
「どーして今は夏休みじゃねーんだー!」
まだ春だからだね、と答えた。春なんて嫌いだ!と心にもないことを叫ぶ浅井の背中に背中からぶつかる。重量のある身体だ。砥用がぶつかってもびくともしない。砥用は首を反らせて後頭部をごちんとぶつけた。
「偉いよ、君は。自分で稼いだお金で好きな人に会いに行って、出待ちして、ハイタッチしてもらうって。明確な目的意識だけじゃない、君には意志が伴っている」
「偉いかぁ…?」
「俺にはできない」
「そんなことないだろ」
「できないよ。俺はいろんなことができない。成績落ちるのが怖くてバイトができない。先生の心象を良くしておきたくて頼みを断れない。この前、中庭で殴り合いがあったじゃない?」
「ああ。演劇部が仲間割れしたやつな」
「自分の信念を貫き通すために人を殴るなんて、できない」
「もち君にできないこと、なぁ」
浅井はのろのろと動き出した。広げたタッパーをスポーツバッグに詰め直す。砥用は背中越しにそれを覗き込んだ。
「今日はいつもよりタッパー多いね」
「いやさぁ、朝から腹減って腹減ってしょーがねぇのよ」
今日は早弁もお昼御飯もおやつもホットケーキも食べました! と親指を立てる。ウィンクのできていない両目の細められた表情は気分を変えようという浅井の精一杯のおちゃめさで、砥用はとびきりの笑顔を返す。
旧校舎の廊下はあまりワックスがきいておらず、響く足音は砂っぽい。渡り廊下から曲がってくる足音があった。先生来た、と言うと、行くわ、と浅井は机から下りた。しかし、肩が落ちてる。背中が曲がってる。これからスクーターに乗って雨の中を走るのにこれでは危険だ。しょうがないなあ、と背後に近づく。短い髪は少し癖があるのが、雨の湿気でくるんとうねる。そこから飛び出した耳に思いきり顔を近づけ、思いきり低い声で囁いた。
「俺の彼氏は、夜明けに布団を捲ると股間が光ってるよ」
ギュンッと音を立てたかのようだ。真剣そのものの顔が振り向く。
「え? 下宿のお兄さん?」
「長男」
「彼氏?」
「ばんばん祝って」
「え? ヤッたの?」
「それはまたゆっくり」
「え? ヤベエ。それヤベエ話じゃ」
「ほら、レッツゴー」
「光ってんの?」
「光ってます」
サムズアップ。浅井は両手の拳を握り締め押し殺した声で、ありがとうございます! と叫んだ。
「前屈みだけど俺は行く」
「カッコいいよ」
その時、化学の先生が目の前を通り過ぎて、二人で黙ってお辞儀をした。
地学教室の入り口にもたれかかって見送ると、渡り廊下の手前で浅井が振り向いた。
「さっきの話さ。今日は面倒くさいけどよ、俺、働くのが嫌ってんじゃなくてね」
あー、なんつったらいーかなー、と手が後頭部を掻く。
「純粋に働きたいんだよ。純粋に働いて、金を稼いで、それで愛するものに金をつぎこむんだ。自分の人生だからよ、目の前の時間だって、金だって、使い道は自分で選ばなきゃだろ」
「尊いね」
「それだよ、それ!」
浅井は思い切り砥用を指さした。
「尊いものの為に働くから、俺、働くのが嫌じゃねえんだよ! 時々楽しいし、笑う! それはさ、俺が働いてることが俺の尊いものに繋がってるから、俺が働いてることさえ尊いの。分かる?」
「分かるよ」
微笑み、砥用は付け足した。
「分かるし、浅井くんは偉い」
「本当は授業の時間も全部働きたい。でも勉強しなきゃな、職場も選べねえもんな。親父と兄貴見てたら分かるわ」
手を振る。手を振り返す影が渡り廊下の方へ消える。地学教室は室内も、教室の前の廊下も薄暗い。旧校舎の一階の一番影にある。その薄暗い教室に戻って、今まで友達が寝転んでいた机に尻を載せる。今日も顧問は来ないだろう。アニメのパッケージを開いて、勿体ないなあ、と呟く。今日こそ、浅井君がバイトをサボればこの中身を――AVを観ようと思ってた。毎回準備してるけど、毎回彼はちゃんとバイトに行く。一度も再生できたためしがない。本当に観ようと思ったらこの部屋じゃあ無理だけどな。表面に書かれたあらすじを読む。
「名門レスリング部の副部長はその日コーチに牙を剥いた。足腰立たないようにしてやるよ…」
パッケージを閉じて鞄に仕舞いながら密かに笑う。こういうところを浅井に見られると、「それで特進とか詐欺だろ…」と肩を落とされるが、砥用は別に聖人ではないのだ。方便と言いながら嘘をつく。自分にさえついた嘘だった。
下宿屋の長男は彼氏ではない。砥用の一方的な感情があるだけだ。分かっているのに、彼氏と口にした瞬間体温が上がった。急に何でもできるような気になった。
「嘘も方便だってさ」
鞄を抱えて薄暗い教室を出た。何でもできる気分はまだ続いている。砥用は走り出す。
今すぐ会いたい。




