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Transferoid 1 栄城高等学校図書館の内と外

 冷たい雨が建物を冷やす。渡り廊下から見下ろす図書館は重たく静かだ。嵌め殺しの細い窓に灯った明かりは午後をいよいよ夕方らしく見せ、建物の内側を沈黙に閉じ込める。七舎は渡り廊下の半ばで立ち止まり窓から灰色の建造物を見下ろした。友達を待たせていたが、あとほんの数秒、誰もいないこの場所に佇んでいたかった。孤独で、静かで、冷たく満ち足りた時間を将来自分は惜しむだろうという予感がある。僕は今かけがえのない幸福な時間の中にいる。

 本棟側を走る足音が響いた。誰かの咎める声も聞こえた。充実の時間は去り、七舎も再び歩き出した。外階段を下りた先には雨音と冷たい湿気に満ちる。ガラス越しに薄暗いホールが見えた。古く重たい扉が安らかな静寂と寂しい雨を隔てていた。重たいドアを開けると乾いた生暖かい空気が流れ出る。足元が冷たく濡れた。見下ろすと構内に棲み着いている猫が灰色の毛並みをズボンの裾に擦りつけている。構内にこっそり棲みついている猫だ。いつもは寄ってこないのに、じっと見つめても離れる気配がない。

 スリッパの乾いた足音がした。

「ああ、駄目駄目」

 女司書がドアの隙間を通せんぼする。

「入ってきたらあかんとよ」

 その科白は自分ではなく足元の猫に向けられていた。目の前に立つのが女司書だと分かったからだろうか、猫はそれまで絡みつく紐のようにしつこく両足の間をくぐっていたのに、風の速さで消え去った。

「足元を払ってから入りなさい」

 女司書は人間を相手には標準語を使う。七舎は言われた通り、黒いズボンの裾についた短い灰色の毛を払って図書館に入った。本棟の新校舎もエアコンを完備しているとはいえ、図書館ほど温度湿度を気遣ってはいない。肌寒いのを我慢して授業を受けていた。寒さは濡れた手で足元から這い上がり、骨の髄まで冷たく濡れた心地でここまで来た。湿り凍えた鼻腔に本の香りは乾いて甘い。深呼吸をして肺の奥まで匂いを吸い込む。

「午前の分」

 女司書が本をまとめて手渡す。一応分類順には並んでいる。

 実は、図書委員ではない。しかし図書委員以上に本棚を知っている。覚えている。片端からタイトルを諳んじることもできるだろう。入学以来、時間があれば図書館に入り浸っていた。書架の間を歩いた時間、立ち止まって見つめる背表紙、全てが立体的イメージとなり頭の中にもう一つの図書館を形成している。

 本を書架に返すだけの話。無論、背表紙に貼られたシールの分類通りに並べれば間違うこともないのだが、それでも時々全集の本を普通の棚に押し込む委員がいる。図書委員でさえそうなのだから、普通の学生はもっと頓着しない。手にした本は書架に収められ、また別の本が抜き出される。迷子を元の場所に帰すのもまた七舎の手の仕事だ。

 図書委員ではないのだけれど。

 書架は殆ど天井までの空間を埋めている。何列も、整然と。古い建物の、古い時代から手に取られるのを待つ書物たち。青白い蛍光灯の明かりは晴れも雨も天気など知らない。常に無表情に彼らの待ち合わせ場所を照らす。

 本棚の奥にはモスグリーンの上着に首を埋めるようにして人待ち顔の転校生がいた。転校生は七舎の足音にちらりとその姿を確認し、大きく息を吐き出した。やあ、と声をかけると掌をこちらに見せる挨拶。

「持つ」

 差し出された両手に数冊の本を載せた。900番台はまだ先だ。

 言葉を発する助走のように転校生はくくっと顎を引いた。

「…とうとう話した」

「言えた?」

 会話はお互い書架を見つめながら交わされる。本のタイトルをなぞりながら、視覚は記憶との間違い探しを続けるが無意識だ。意識のほとんどは耳に集中する。

「あのこと話しても平気だった」

「うん。真澄君なら大丈夫。アキヒロと仲良くなる雰囲気あったよ」

「案ずるより、アレだった」

「産むが易し」

「この前は違うこと言った」

「杏より梅が安し」

 こんなくだらない冗談を覚えていたのか。目の前の転校生は本当なら五歳年上だが、こうして油断して見せる顔は幼い。安堵してニヤッと笑った顔なんか可愛い。泣き止んだ子供みたいな笑顔だと思う。子供の泣き顔なんて、もう何年も見ていないけど。

 アキヒロという名の転校生が栄城高校の校門前に現れたのはエイプリルフールの前日、桜が散り切ってしまう前の日だ。七舎は校門の内側から彼の姿を見つけた。痩せた身体をモスグリーンの上着が覆っていた。陽は暖かかったのに寒さに耐えるように首をすくめていた。図書館から借りた本を抱えて、もう帰るだけだったのに、七舎は校門を挟んで立ち止まり心細そうな一人ぼっちの影に声をかけた。

「転校生?」

 相手の目の焦点が合うのが分かった。自分を見た。目が合った瞬間、炭酸の泡のようなものが目元に弾けた気がした。相手も何度も目をしばたいた。見開けば大きな目の真ん丸な黒目の中にパチパチと三月最後の陽が散った。

「そう……」

 転校生は口を開いた。一生懸命、息をするように。

「そう…だと思う」

「職員室、行く?」

 勢いよく首を縦に振る転校生に向かって、七舎は自然と手を差し出していた。握手ではなかった。その手を引いて七舎は校舎に続く道を歩き出した。玄関で手を離して別れた、あの時の景色を覚えている。二年間通い続けた高校の風景が書き換えられた。花の散った桜の瑞々しい若葉の向こう、城址の堀が見えた。石垣を越えて覗く楠の緑。城内から砲術演武の練習の音が空の高く高くどこまでも響いていた。あの瞬間、七舎は自分の見える世界全てと繋がった実感をした。

 本を全て所定の位置に収め、それぞれに好みの本を抱えて二階の学習スペースに向かう。窓辺に寄れば新校舎との間の中庭を見渡すことができるし、反対側に陣取れば吹き抜けになった図書館の一階も見下ろせる。今日は人が少ない。好きな席を選べた。

「どっち?」

 尋ねると、

「なな君の好きな方」

 と俯きがちな返事だ。今日はもう青白い光に当たりすぎた。雨が降っていても図書館という薄暗い直方体の中で窓際は薄灰色の窓が光って見える。こっち、と指さした。

 アキヒロが薄い冊子を開く。見開きの仏像の写真を拝むように見つめている。デアゴスティーニの分冊百科は最初いい顔をされなかったが、リクエストが古寺と仏像だったこと、特進クラスの七舎がリクエストしたことを加味され、全冊書架に並ぶことになった。が、真に仏像の百科が揃うことを望んだのは、目の前で大学ノートにスケッチをしている転校生だ。スケッチブックに描かないのかと尋ねたら、家に帰ったら使うと答えた。

「学校で…スケッチブック持って歩いてたら、じろじろ見られる」

「結構いるよ?」

「全部女子」

 線が重なり影を生み出す。表情が立体感をもって浮かび上がる。表情と呼ぶにはかすか過ぎるような口元の柔らかさ、目の細さ。しかし一目で優しさが伝わってくる。これが慈悲なのかと思う。

 七舎は向かいの席でぶ厚い県史を開いた。江戸時代の防衛費を辿る。表にはなっていない。古文書がそのまま引用されている。何年何月、鉄砲何丁、といった具合に。三月最後の日、お城から響いた大砲の音が何であったのか。何故、城址にはアームストロング砲の復元模型が据えられているのか。アキヒロと出会った日の記憶が七舎の好奇心を自分の生まれた土地の歴史へ導いた。それまで歴史が特に好きだった訳ではない。日本史を選択していたのも偶々だ。だが今は、鉄砲何丁の素っ気ない一文にも興奮する。文化祭での発表や、受験に利するような自由研究…と考えている訳ではなかった。ただ知りたい。過去、この土地を舞台にした戦争や、海を隔てて異国を睨みつけた歴史、その全ての積み重ねがアキヒロと出会った瞬間の光景を作り上げたと思うと、ただ歴史が愛しいと感じる。愛しい全てをもっと知りたい。それだけだ。

 雨音の一定の雑音に乗る、リズム。鉛筆が仏像の姿を浮き上がらせる音。目が文字の上を滑る。睡魔の気配がする。頬杖をつくとそのまま眠ってしまいそうだ。転校生は構っていない。静かに放っておいてくれる。音の重なりは穏やかだ。安らかで、平らかだ。このままどこまでも放課後が引き延ばされないだろうか。終点のないバスのように。走り続けるバスのように。

 叫び声は鼓膜ではなく心臓をつんざいた。

 バチッと目蓋を開くとアキヒロが両耳を覆っている。自分の悲鳴、じゃない。転校生のものでもない。階下じゃない。図書館に反響しない。もっと違う壁に反響して雨を裂いて。

 窓に顔を押しつけた。一階の渡り廊下からもんどり打って中庭に転げ込む物体があった。一つのものに見えた。だが違う。不規則な動き。抗う動き。攻撃する動き。生徒、二人。男。二人とも学生服は脱いでいる。白いシャツがみるみる雨に透ける。一方、黒いズボンは重たい。重量があり、力強い。とうとう二人が離れた。足を踏ん張って中庭の石畳の上に対峙する。一秒、二秒。だが大した間も持たない。すぐに片方が、相対的に見れば小柄な方が頭突きで向かっていった。しかし全体重を載せた前傾姿勢は相手の両腕に止められる。頭は相手の胸に直撃したが、掴む腕は離れない。それから拳がぼかぼかと細い背中を殴る。

 アキヒロは目で覆いを作り、時々こわごわ覗いた。

「凄い」

 七舎は向かいの不安げな表情をちらっと見て呟く。

「こんなの滅多に見ない」

「たまに見るの?」

「一回だけ」

「こわ……」

 殴り合いは続いた。幾らかの人間が渡り廊下に集まっているが、雨の中に出ようとしない。止めるでもなく顔色をなくしてじっと見ている。教師もまだ出て来ない。新校舎の窓やテラスにも見物の人間が増えだした。

 誰か、遠いところから投げられた無責任な野次が急に燃え移った。やれ! とか、いけ! とか、無責任でありきたりな野次。だが殴り合いを見下ろす誰もの胸を掻き立たせた。がむしゃらな拳に高まった熱が突然爆発し、燃え広がった。新校舎から湧き起こる雨音をかき消すほどの野次。交響曲のクライマックスで全ての楽器が指揮者を無視してがなり出したような咆哮。否、指揮者は殴り合う二人だ。パンチが決まるたび、あるいは果敢なタックルによって大柄な身体が尻餅をついてはいっそう沸き立つ。

「野蛮」

 うんざりして呟くアキヒロは、もう窓の外を見てはいない。

「…ああいうの羨ましいって思うのは、普通じゃないと思う?」

 小さな声で尋ねた。アキヒロは口を開いて、閉じ、もう一度開こうとしたが答えを聞くことはできなかった。二人の意識は図書館を飛び出す硬い足音に引き付けられた。乱暴に扉が閉まる。七舎は腰を浮かし窓に貼りついた。

「やめんか貴様ら!」

 怒号の下、熱に浮かされた野次は消滅した。女司書は雨に濡れるのも構わず中庭を突っ切った。中庭の二人はそれでも殴り合うのをやめなかったが、女司書が手にした竹刀に容赦なく打ち据えられ濡れた石畳の上に転がされるに至って、喧噪は余韻もなく嘘のような沈黙に占められた。

「貴様らは生徒指導室へ行け!」

 女司書はふらつく二人を容赦なく竹刀で小突き回して立たせ、殴り始めたのとは反対側の渡り廊下へ追いやった。誰か命知らずが指笛を吹く。

「貴様もだ! 行け!」

 竹刀の先は違わず二年の教室のテラスを指した。生徒の一人が青ざめる。

「後の者は教室へ戻れ、担任が来るまで待機、一切の無駄口を叩くな!」

 七舎の耳の奥、女司書の一喝が木霊する。それが耳鳴りのような音になって和らぎ消えると、雨音が静かに蘇った。初めは小さく。だがだんだん激しく。雨は最初から激しく降っていたのだ。殴り合う二人を竹刀のように容赦なく打ち据えていた。だが、それも熱狂と歓声と、それを一撃で粉砕した女司書の大喝が掻き消していたのだ。

「どうするの」

 面倒そうな顔を隠さずアキヒロが言う。

「いいんだろ、このままで」

「いいの?」

「殴り合いの前からここにいたし、騒いでないし」

「喧嘩」

「ん?」

「あれ、喧嘩じゃないの?」

「ああ」

 殴り合い、と自分は呼んだのだ。無意識にその言葉を選択した。

「殴り合い」

 もう一度繰り返す。

「この言葉を選んだことが、僕が彼等を羨ましいと思った理由だと思う」

「殴り合いたいの?」

 アキヒロは怯えていた。その目を見つめる。殴り合えるだろうか。秘密を打ち明けてくれた友達と、慈悲の微笑をその手から生み出す心根の優しい彼と。

「どうしても命を賭して証明しなければならないものがあれば」

「なに…それ……」

「僕も今は分からない」

 重たく古いドアの開く音がする。乾いたスリッパの足音が近づいて女司書が、ありがとう、と呟く。誰かタオルを手渡したんだろう。アキヒロが身体を硬くする。暴力の余韻。それを打ち据えた権力の余韻。自分にも恐怖が襲ってくるのではないかという不安。

「大丈夫」

 手を伸ばし、鉛筆を手放してしまった掌に自分の掌を重ねて、七舎はじわじわと力を込めた。

「ここにいよう」

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