プロローグ、あるいは少年Mの証言
高校三年の春、ぼくらの学校には転校生がやって来て、卒業と同時に消えてしまった。あの時、高校生を一つの縁にして紡がれた物語の、ぼくは主人公じゃない。でもぼくの話から始めたいと思う。全部笑って話せるのは、多分ぼくだけだから。周りの誰もまだ唐突な結末が生んだ悲しみや虚脱感の中にいるから、きっとぼくがちょうどいい。ぼくにとっては彼が消えてしまったことさえ、春一番が吹いたような心地よい別れだった。でも別れの話はあとだ。最後でいい。これはプロローグなんだから、出会いの話をしよう。
転校生は五年後からやって来た。
どうしてそれをぼくに教えてくれたのかは分からない。知り合って一週間とちょっと。ぼくらは図書館の掃除当番で、本棟と図書館を結ぶ渡り廊下で短い言葉を交わす程度の関係だった。この学校どう? とか。何読むの? とか。ありきたりな質問に相手が、そうだなぁ、って悩んでいる間に渡り廊下は終わってしまう。おしゃべり成立さえしない。
渡り廊下のつきあたり、転校生は左に行く。ぼくは右の教室。
「ばいばい」
ぼくは言う。転校生はぎこちなく会釈して静かな特進クラスの教室に歩いていく。右側の廊下はうるさい。高校三年。今年は受験。だけど未来はあやふやすぎて、話題は昨日のテレビの話くらいしかない。ぼくにはあまり関係のないおしゃべりだ。静けさの中に吸い込まれていく転校生の気配に後ろ髪を引かれながら、ぼくはうるさい教室で何も聞こえないふりをする。
で、一週間とちょっとが経った木曜日、廊下がもうちょっと長かったらね、とぼくは口にした。どうして、という目が控えめにぼくを見た。
「いつもあんまり喋れんけんね」
「れんけん」
「喋られん? しゃべられない? あれ? 違う?」
当たり前のように使っている方言が急に翻訳できなくなって、キャン・ノット・カンバセーション? と片言の英語を使うと、俺ガイジンじゃないよ、と転校生は微妙な顔をした。笑いを堪えているみたいな、笑うことが不謹慎だと思って無理やり無表情を作っているみたいな、どっちつかずの顔。
「おうっ」
ぼくがやたら勢いのいい返事をしたのは、その顔がおかしいのと、これは笑うところじゃなくて真面目なシチュエーションなんじゃないかなっていう躊躇いが空元気になったからだ。自分でも大声の返事が恥ずかしくて両手で顔を引っ張る。
「変ない」
「なにそれ、方言?」
「多分違う。いつも親から言葉遣い悪いって言われる」
渡り廊下が終わる。窓からは物凄い風が吹き荒れる校庭が見える。外周に植えられた桜の木からまだ生えたばっかりの青い葉っぱも枝までも飛ばされて、台風来たのかって錯覚する。でも寒い。校舎から隙間風の音がビュウビュウうるさい。それなのに渡り廊下の窓はしっかり閉じていて、ガラス一枚隔てて向こうは嵐なのに物凄く静かだ。喋るのが気後れするくらい。
「俺ね」
転校生が足を止める。
「うん」
ぼくも立ち止まる。
「五年後から来たんだよ」
ギャグなのかと反射的に考えたのは単に、騙されたくない、舐められたくない、っていう自衛の意識が働いただけでちっとも本気じゃなかった。それどころか五年後っていうキーワードがすごくしっくりいって――確かに転校生は背が高くて、でも体格そんなによくない、でも大人っぽい、どうしてだ、疲れてんだ、国語便覧に載ってる作家の顔とかに似てるんだ――信じる。身体中に信じるっていう言葉が満ち満ちるくらい信じてる。すごい、転校生は誰にも言わない秘密をぼくにだけ教えてくれた!
顔が真っ赤になった。完全に有頂天だ。返事をしそびれて、渡り廊下は終わる、でも転校生は左に曲がらない。立ち止まってる。ぼくは中途半端に手を振って
「びゃい」
びゃいって何だ。せめてびゃいびゃいって言ってたら、ばいばいを噛んだんだなあって分かるのに。びゃいって。そういえば江戸時代の犬ってびゃあとかびょうとか鳴くんじゃなかったっけ古典の先生が言ってた、ってぼくは恥ずかしさから目を逸らそうとする。
「ばいばい」
転校生が言った。
一晩考えて嘘か本当かぼくには判断できなかった。判断材料がないとか根拠がないとか論理的にこうとか格好いいことを言いたいんだけどそういうのは全然なくて、ただ背の低いぼくを見下ろす視線が対等で真面目で、全身疲れてる雰囲気だけど充血もないきれいな目だったのが忘れられない。すごくきれな目だ。これもぼくしか知らない!
一週間とちょっとの間図書館と渡り廊下をメインに交わした数少ない会話の中、掃除とかいう共同作業中、他人の目があって無意識に隠してきた好奇心が今日の昼休みの終わりで限界に達した。見つめ合った瞬間爆発した炎が消えない。何かもうとにかく何でもいいから転校生のことを知りたいし、五年後からやってきたっていう言葉がどうか本当でありますようにと願っている。それは未来とかタイムスリップとか心が躍るフューチャーなサイエンスがどうこうっていうより、転校生がぼくに本当のことを打ち明けてくれたんだって真実を信じたい。寝る前は、この秘密を知ってるのはぼくだけだという興奮で身体がぽかぽか火照った。
そんで翌日の金曜日、掃除の時間は図書館で、転校生はコンクリートのテラスに散らばる桜の葉っぱを黙って箒で掃いている。周りの目があるけど、今から話しかけたくてたまらなくてじっと見ていてたら「何ばぼけっとしよっか」と女司書が分厚い日報綴りで頭を叩く。こっちは髪が短いから角は地肌に直撃。本当に痛くて声を上げたら、うるさいと女司書は怒る。
渡り廊下の手前で転校生は待っていて、ドキドキしながらぼくは隣に並んだ。
「ねえ、昨日の」
「うん」
「本当の話?」
「うん」
「本当に」
「………」
念を押すと黙り込んでしまった。嘘だからじゃない。こっちが疑ってると思ったんだ。
「ちが…」
ぼくは足を止める。時間よ、何秒か戻れ。でも無理だ。
「あの、昨夜もずっと考えてたんだけど、本当のことだったら、嬉しい」
転校生の目はじっとぼくを見る。少し苦しそうな顔をしている。でも頑張って見てる。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー、好き」
ぼくは宣言した。
「あれ最高の映画。だから信じる」
違う、君の言葉だから信じるって言いたかったんだ。どうして、こう、違うこと言っちゃうかなあ!
転校生は「そう」と言った。外した。こんなことになるくらいなら、当たり障りのない会話未満のまま渡り廊下だけの関係でよかったのに。
「いちと、にと、さん、どれが好き」
「……?」
映画の話だ。バック・トゥ・ザ・フューチャー。
「…いち」
「よん」
「よん?」
「パート4があるんだよ」
「マジ」
「海外ドラマだよ」
「それ、五年後?」
転校生は笑う。
渡り廊下の終わりから賑やかな笑い声が流れてくる。今日の窓の外は青空だ。でもすごく寒い。桜の花も散ったのに。二人で窓によりかかって、尋ねる。
「どうしてぼくにだけ教えてくれたの」
「ううん」
転校生は鼻の頭を掻いて、ごめん、と言った。
「何人か知ってる」
その瞬間また顔が赤くなった。自惚れだったんだ。ぼくだけ、だなんて。ひとり相撲もいいところだな、とぼくの中の意地悪な悪魔が囁く。確かにそのとおりだけど今は黙ってろ。自己嫌悪に陥るのは渡り廊下が終わってからでいい。
「クラスの人?」
転校生は人差し指を立てて、肯く。一人ってこと。
「他には?」
「駅員さん」
「何で?」
「定期が使えなかったから」
「五年後の定期?」
「うん。通らなかった」
転校生は五年後の定期を生徒手帳の中に入れていて、見せてくれた。手帳のメモ欄には何故か阿修羅が描いてある。
「阿修羅」
指さす。
転校生の肩が近づいた。珍しく勢い込んで転校生は尋ねた。
「知ってる?」
「うん」
「見たことある?」
「んにゃ、社会の資料集でだけ」
「俺が初めて見たの美術の本だった」
嬉しそうな顔をした転校生は、本物を見に行った、と続けた。
「本物って、どこ?」
「奈良」
いつもなら教室についてぼやってしてるところで鳴るチャイムが聞こえる。二人同時にパッと窓から離れる。渡り廊下の端に向かってすたすた歩きながら、喋りたいのを我慢する。転校生も我慢してるはずだ。沈黙のテンションが張ってる。ビリビリする。廊下の終わりで顔を合わせた。
明日はもう少し喋れるだろうか。帰り、どっちに帰るんだろう。駅までなら通学路が一緒だ。放課後は。
「ばいばい」
ぼくは手を振る。
「ばいばい」
転校生が掌を見せる。
「またね」
転校生は手をくしゃっと握って、また掌を見せる。
「…うん」
もうちょっと勉強しとけばよかったな。特進クラスなら教室も一緒だったのに。
明日は何を話そう。阿修羅の話。奈良の話。聞いてもいい。急に頭に蘇ってくる、びゃい。あのさ、江戸時代の犬の鳴き声て今と違ってさ…。ぼくがこの恥ずかしい思い出から逃れるために、犬の話。
プロローグはここまでだ。
今から呟く幾つかのことは、ぼくの独り言。これから始まる物語には関係ない、ぼくだけの個人的な思い出だ。そう、犬の話。ぼくは転校生に犬の話をしたのかな。すっかり忘れているんだ。それに…誰にも言えないけれど…君の名前のこと。笑って話せる思い出はたくさんあるのに、ぼくは君の名前が思い出せない。渡り廊下で何度も呼んだ君の名前を、ぼくはどうしても思い出せない。




