2話 鳥と葉と利と
研究所、と聞くとやはり思い浮かべてしまうのは真っ白な壁に囲まれて厳重な警備に固められた建物ではあるが、前もって叔母に話を聞いていた私は、小さなコンクリートの剥き出しになった三階建ての病院に車を停められてもあまり驚きはしなかった。
「びっくりすると思ったんですが」と夏木さんの方が驚いている。
研究所は観測を目的とした拠点であって、直接ロボットを弄る権利を認められてはいない。
ゆえにそこまで大層な施設を作る必要もなく、むしろ観測地への干渉を抑える為に既存の建物を利用したほうが合理的であるのだろう。
駐車場とは名ばかりの子供が軽石で雑に書いたような白線が引かれた建物横の小さなスペースにトラックを押し込み、私はようやく硬いシートと夏木さんの運転から開放された。
荷物を荷台から引き摺り降ろしていると、近くで烏が変な風に鳴いた。
ふと夏木さんの方が気になって運転席を覗くと、いない。手伝ってくれてもいいのにと勝手に独りごちていたが、彼は傍観しているでもなく、いつの間にか姿を消していた。
烏から連想するというのも失礼だったが、イメージは似ていなくもない。言い得て妙だとも思える。
全身黒ずくめで物腰も口調も落ち着いたものなのに、どこか胡散臭い。
駐車場を挟んで建物とは逆側の林のどこかで鳴いていたらしい黒鳥は再び奇妙な鳴き声を上げながら、私の頭上を羽ばたいて2階の窓際に着いた。
そのとき初めて、この建物の病院としての名を『明苑寺外科』と言うのだと私は知った。屋上近くの壁の左上に白字で彫ってあったのだ。
何の根拠も無いがてっきり内科だろうと思っていた。
田舎とは言え唯一の病院として使われていた名残なのか、研究所として使われ始めた故なのか、あまり古めかしい感じはしないな、と感想を抱く。
出口側を車で通った時の記憶と照らし合わせて建物を軽く俯瞰でイメージしてみると、駐車場のある壁を底辺として凸が描かれているような感じのようだ。
正面玄関は上辺の方にあるのを坂を登って来る時に確認している。道路はその前を横切っていて、左手に下ると今通って来た田畑、右手の方に登ると山道に繋がっているようだった。
道路の向こう側は規模の小さな崖があって、下には田圃が広がる景色が見えることだろう。夜景こそ望みはないが、昼間に見ればそれなりに壮観かもしれない。
私はその場に荷物を放置して、駐車場を右手にぐるりと玄関側に回ってみた。
看板らしきものはやはり撤去されているのか見当たらなく、代わりに進入禁止のコーンが一つ、壁に寄せて置いてある。
何気なしに逆側を覗くと、ここにも『明苑寺外科』の名前がある。
伊之里の名が使われていないのは何故だろうかと思ったが、単に個人の建てた病院だからのようだ。普段意識はしていないが街の病院も同様であることが多い。
「トウヤ」
急に名を呼ばれて、びくりと振り向いた。
そこに見知った人の姿を認めて、おばさん、と呟く私に彼女は微かに微笑んだ...かのように見えた。
「サキの葬式以来だね。待っていたよ」
私の叔母ーーー牧カナエ。
6年という歳月は肉親との死別をすっかり記憶の中で風化させるには短い時間だったようで、しかし大人が老けるには充分過ぎるとも思っていたのだが、彼女の方も記憶そっくりそのままだった。
喪服ではなく丈の長い白衣を纏っているのと、髪が幾分か伸びているところぐらいか。ぱっと見て変わり映えしているのは。
叔母にはロシア人と日本人の血を4分の1ずつ、あとの2分の1はどこのものがどの配分なのかも知れない血が母と同様に流れている。私は父が日本人なので強くアジア系の特徴が出ているが、彼女を見た人がまず自分の同種では無いと直感して、どの言語で話し掛けるべきなのか分からないような容貌をしているのだ。まず日本人には見えない。
セミロング程の茶髪に瞼をぱっくり切り開いたような蒼眼。
とにかく美人であることは間違いないのだが、冷徹な眼や整い過ぎた美貌は人形じみていて、皮を被った人でないものと対峙しているような気分になる。
電話口でもそのような印象を受けていたが、実物はなおそんな雰囲気があった。
そもそも出会い頭の挨拶からして無粋にも程があるが恐らく彼女にとっては「実妹の葬式」はそんな程度にしか過ぎなくて、しかしそれが「葬式」であるが故なのか、「実妹の」であっても無変のものなのか、窺い知ろうとすることさえ無意味だと思わざる負えない。
そんな雰囲気。
「遅かったね」
ガソリンを入れていたのである。
一応すみませんと詫びを入れるが、私のせいではないのでいささか不本意でもある。本当にちょびっとだけ、だが。
「こちらこそ私から迎えに行かなくてすまなかったね。夏木にセクハラされなかった?」
「やめてくださいよ...」
かなり見計らったようなタイミングで駐車場の方から白い顔がひょこりと飛び出た。どこに潜んでいたのだろうか、駆け寄って来る彼の頭には細長い茶色の乾いた葉が付いている。
「葉っぱ付いてますよ、髪に」
「ん?ああ、ありがとう」
頭の頂点を指すとぱっぱっと無造作に払われた葉は不規則な動きで舞いながら落ちた。夏木さんはそれに特に何の興味も示すことなく一瞥しただけで終わる。
「ここに来るまではまだシンプルに痴漢になるけれど、来てしまっては罪状がセクハラになるからね」
「何もしていない前提で言いますけど、どっちもさして変わりませんよ」
叔母はスンッと鼻を鳴らした。夏木さんが適当にあしらわれている。
「じゃあ早速だけど案内しようか。荷物は?」
「まだ車ですよね。取ってくるので、その間に案内されたらどうですか」
「そうだね。行くよ、トウヤ」
別に反論があった訳でもないが、私には有無を言う間もなく、叔母はすたすたと玄関に向かい始めた。
同僚、という風に夏木さんには初め聞いていたのではあったが、なんというか、悲しいまでにはっきりした上下関係が窺えた。